11「全てを失う」
夕日の中、美月の瞳が一瞬輝いた瞬間、ユウトは全力で駆け出した。
田村たちが反応する前に、ユウトは校舎の裏手へと走り抜けた。背後から怒号が響く。
「逃がすな!」
冷川の鋭い声が校庭に響いた。
ユウトは息を切らしながら、裏門から学校を脱出した。振り返ると、数人のエージェントが追いかけてくるのが見えた。だが、学校の構造を知り尽くしているユウトの方が一歩早い。
住宅街の路地を縫うように走り、ようやく追っ手を振り切った。
「今夜は帰れない」
ユウトは近くの公園のベンチで夜を明かした。家に帰れば、すぐに捕まってしまうだろう。
次の日の夜、意を決してアパートに向かった。もしかすると、母親に何かあったかもしれない。その不安が、危険を承知で帰宅させた。
しかし、アパートに近づくにつれて、嫌な予感が胸の奥で渦巻いていた。
一階に到着したとき、その予感は現実となった。
自宅のドアが、半開きになっている。
「母さん?」
ユウトは恐る恐る声をかけながら中に入った。電気は点いているのに、返事がない。玄関には母親の靴がきちんと揃えられているのに、人の気配がなかった。
リビングに足を踏み入れた瞬間、ユウトは息を呑んだ。
部屋が荒らされている。テーブルは横倒しになり、本棚の本は床に散乱していた。テレビは画面が割れ、ソファのクッションは引きちぎられている。まるで格闘でもあったかのような惨状だった。
「母さん! 母さん!」
ユウトは必死に叫びながら、各部屋を駆け回った。寝室、キッチン、浴室——どこにも母親の姿はない。
母親の寝室のベッドの上に、一枚の写真が置かれていた。母親が椅子に縛られ、目隠しをされた状態で写っている写真だった。
写真の裏には、几帳面な文字でメッセージが書かれていた。
『投降と能力の軍事利用への同意を求める。72時間以内に指定施設へ出頭せよ。さもなくば母親の安全は保証しない。』
その下に住所と、政府の公印が押されていた。
ユウトの膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。手に持った写真が震える。愛する母親が、自分のせいで危険に晒されている。
「くそ……くそっ!」
ユウトは拳で床を叩いた。自分の能力さえなければ、こんなことにはならなかった。母親は平穏に暮らしていられたはずだった。
絶望の中で、ユウトは一人だった。
部屋の惨状を見回しながら、母親との思い出が蘇った。病気の母親のために必死に働いた日々。「ユウト、ありがとう」と言ってくれた時の笑顔。「お母さんはユウトの味方だから」と言ってくれた優しい声。
すべてを、自分の手で壊してしまった。
夜が更けても、ユウトは床に座り込んだまま動けなかった。72時間という時間が、砂時計の砂のように流れていく。
翌朝、目を覚ますとソファで寝落ちしていた。首筋のマインド・シンクチップが異常を検知して警告音を鳴らしていた。過度のストレスによる精神状態の悪化を示すアラートだった。
ユウトは写真をもう一度見つめた。母親の苦痛に歪んだ顔が、胸に突き刺さる。
「僕が行くしかない」
呟いた声は、もう迷いがなかった。
その日の深夜、ユウトの携帯に暗号化されたメッセージが届いた。送信者は不明だったが、美月からだと直感で分かった。
『公園で待ってる。来て』
ユウトは躊躇した。もう美月を信じることはできない。彼女の愛情も、すべて演技だったのだから。
だが、母親を救うための情報が得られるかもしれない。その一縷の希望に賭けて、ユウトは夜の公園へ向かった。
ブランコに座った美月の背中が見えた。月光の下で、彼女は小さく震えているようだった。
「来てくれたのね」
美月は振り返らずに言った。その声は、学校で聞いた機械的な声ではなく、以前の温かい声だった。
「母さんはどこにいる?」
ユウトは直接的に尋ねた。もう無駄な会話をしている時間はない。
「政府の地下施設。厳重に警備されてる」
美月がゆっくりと振り返った。その頬に涙の跡があった。
「なぜ泣いてる? 演技じゃないのか?」
ユウトの声は冷たかった。
「お母さんのこと……ごめんなさい」
美月は立ち上がり、ユウトに向き直った。
「阻止しようとしたの。でも父の命令は絶対で……」
「今さら何を言っても……」
「私の気持ちは本物だった」
美月が一歩近づいた。
「あなたを愛してる。それだけは嘘じゃない」
ユウトは美月の感情を読み取ろうとした。すると、昨日の学校では見えなかった色彩が見えた。深い愛情のピンクと、激しい罪悪感の紫が複雑に絡み合っている。
「でも君は選択したじゃないか」
ユウトは拳を握りしめた。
「家族を取ったんだ。僕より、任務を選んだ」
「そうよ」
美月は素直に認めた。
「私は弱かった。父に逆らえなかった」
彼女の感情が、より深い絶望の黒に変わった。
「でも今は違う。あなたと一緒に戦いたい」
「もう遅い」
ユウトは背を向けた。
「君がどう思おうと、もう僕には関係ない」
「ユウト……」
「僕は一人で母さんを救い出す」
ユウトは歩き始めた。
「そして君たちのシステムを破壊する」
「待って! 一人じゃ無理よ」
美月が後を追った。
「父はユウトを利用するつもり。投降しても母親を解放するとは限らない」
ユウトは立ち止まった。
「じゃあどうしろっていうんだ?」
「一緒に戦いましょう。私も父を裏切る」
「信じられない」
ユウトは首を振った。
「君は一度僕を裏切った。二度目がないとは言えない」
美月の表情が崩れた。愛する人から完全に信頼を失った絶望が、彼女を覆った。
「分かった」
美月は小さく頷いた。
「でも、これだけは覚えてて。私はあなたを愛してる」
ユウトは振り返らずに答えた。
「でも僕は君を恨まない。君も被害者だ」
それが二人の最後の会話だった。
日曜日、ユウトは学校に向かった。緊急登校日が設定されており、全生徒の出席が義務づけられていた。
教室に入った瞬間、異様な雰囲気を感じた。
クラスメイト全員の目が、一斉にユウトに向けられた。だが、その視線に温かさはない。まるでユウトを「異物」として認識しているような、冷たい観察の目だった。
「おはよう、ユウト」
田島が声をかけてきたが、その口調は機械的だった。以前のような親しみやすさは微塵もない。
「あ、おはよう……」
ユウトが答えると、田島はすぐに視線を逸らした。まるでユウトと関わることを避けているかのように。
昼休み、ユウトがいつものように屋上に向かうと、そこには誰もいなかった。普段なら数人の生徒が昼食を取っている場所なのに、今日は完全に空っぽだった。
一人で弁当を食べていると、階下から生徒たちの笑い声が聞こえてきた。みんな、ユウトがいない場所で楽しそうに過ごしている。
放課後も同様だった。
「柏木くん」
担任の田中が職員室に呼び出した。
「最近の君の行動は、他の生徒に悪い影響を与えているようだね」
田中の目も、他の生徒たちと同じように冷たかった。
「問題生徒としてマークされている。気をつけたまえ」
ユウトは学校から帰る道すがら、完全な孤独を実感した。クラスメイト、教師、恋人、そして母親まで——すべてを失ってしまった。
この世界に、もう自分の居場所はない。
アパートに戻ると、荒らされた部屋がユウトを迎えた。片付ける気力もなく、彼は床に座り込んだ。
明日の夜が、72時間の期限だった。
「僕には誰もいない」
その言葉が、静寂の中に響いた。




