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感情ハッカーの僕が世界を変える理由  作者: 雨音トキ


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11/15

11「全てを失う」

夕日の中、美月の瞳が一瞬輝いた瞬間、ユウトは全力で駆け出した。

田村たちが反応する前に、ユウトは校舎の裏手へと走り抜けた。背後から怒号が響く。

「逃がすな!」

冷川の鋭い声が校庭に響いた。

ユウトは息を切らしながら、裏門から学校を脱出した。振り返ると、数人のエージェントが追いかけてくるのが見えた。だが、学校の構造を知り尽くしているユウトの方が一歩早い。

住宅街の路地を縫うように走り、ようやく追っ手を振り切った。

「今夜は帰れない」

ユウトは近くの公園のベンチで夜を明かした。家に帰れば、すぐに捕まってしまうだろう。

次の日の夜、意を決してアパートに向かった。もしかすると、母親に何かあったかもしれない。その不安が、危険を承知で帰宅させた。

しかし、アパートに近づくにつれて、嫌な予感が胸の奥で渦巻いていた。

一階に到着したとき、その予感は現実となった。

自宅のドアが、半開きになっている。

「母さん?」

ユウトは恐る恐る声をかけながら中に入った。電気は点いているのに、返事がない。玄関には母親の靴がきちんと揃えられているのに、人の気配がなかった。

リビングに足を踏み入れた瞬間、ユウトは息を呑んだ。

部屋が荒らされている。テーブルは横倒しになり、本棚の本は床に散乱していた。テレビは画面が割れ、ソファのクッションは引きちぎられている。まるで格闘でもあったかのような惨状だった。

「母さん! 母さん!」

ユウトは必死に叫びながら、各部屋を駆け回った。寝室、キッチン、浴室——どこにも母親の姿はない。

母親の寝室のベッドの上に、一枚の写真が置かれていた。母親が椅子に縛られ、目隠しをされた状態で写っている写真だった。

写真の裏には、几帳面な文字でメッセージが書かれていた。

『投降と能力の軍事利用への同意を求める。72時間以内に指定施設へ出頭せよ。さもなくば母親の安全は保証しない。』

その下に住所と、政府の公印が押されていた。

ユウトの膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。手に持った写真が震える。愛する母親が、自分のせいで危険に晒されている。

「くそ……くそっ!」

ユウトは拳で床を叩いた。自分の能力さえなければ、こんなことにはならなかった。母親は平穏に暮らしていられたはずだった。

絶望の中で、ユウトは一人だった。

部屋の惨状を見回しながら、母親との思い出が蘇った。病気の母親のために必死に働いた日々。「ユウト、ありがとう」と言ってくれた時の笑顔。「お母さんはユウトの味方だから」と言ってくれた優しい声。

すべてを、自分の手で壊してしまった。

夜が更けても、ユウトは床に座り込んだまま動けなかった。72時間という時間が、砂時計の砂のように流れていく。

翌朝、目を覚ますとソファで寝落ちしていた。首筋のマインド・シンクチップが異常を検知して警告音を鳴らしていた。過度のストレスによる精神状態の悪化を示すアラートだった。

ユウトは写真をもう一度見つめた。母親の苦痛に歪んだ顔が、胸に突き刺さる。

「僕が行くしかない」

呟いた声は、もう迷いがなかった。

その日の深夜、ユウトの携帯に暗号化されたメッセージが届いた。送信者は不明だったが、美月からだと直感で分かった。

『公園で待ってる。来て』

ユウトは躊躇した。もう美月を信じることはできない。彼女の愛情も、すべて演技だったのだから。

だが、母親を救うための情報が得られるかもしれない。その一縷の希望に賭けて、ユウトは夜の公園へ向かった。

ブランコに座った美月の背中が見えた。月光の下で、彼女は小さく震えているようだった。

「来てくれたのね」

美月は振り返らずに言った。その声は、学校で聞いた機械的な声ではなく、以前の温かい声だった。

「母さんはどこにいる?」

ユウトは直接的に尋ねた。もう無駄な会話をしている時間はない。

「政府の地下施設。厳重に警備されてる」

美月がゆっくりと振り返った。その頬に涙の跡があった。

「なぜ泣いてる? 演技じゃないのか?」

ユウトの声は冷たかった。

「お母さんのこと……ごめんなさい」

美月は立ち上がり、ユウトに向き直った。

「阻止しようとしたの。でも父の命令は絶対で……」

「今さら何を言っても……」

「私の気持ちは本物だった」

美月が一歩近づいた。

「あなたを愛してる。それだけは嘘じゃない」

ユウトは美月の感情を読み取ろうとした。すると、昨日の学校では見えなかった色彩が見えた。深い愛情のピンクと、激しい罪悪感の紫が複雑に絡み合っている。

「でも君は選択したじゃないか」

ユウトは拳を握りしめた。

「家族を取ったんだ。僕より、任務を選んだ」

「そうよ」

美月は素直に認めた。

「私は弱かった。父に逆らえなかった」

彼女の感情が、より深い絶望の黒に変わった。

「でも今は違う。あなたと一緒に戦いたい」

「もう遅い」

ユウトは背を向けた。

「君がどう思おうと、もう僕には関係ない」

「ユウト……」

「僕は一人で母さんを救い出す」

ユウトは歩き始めた。

「そして君たちのシステムを破壊する」

「待って! 一人じゃ無理よ」

美月が後を追った。

「父はユウトを利用するつもり。投降しても母親を解放するとは限らない」

ユウトは立ち止まった。

「じゃあどうしろっていうんだ?」

「一緒に戦いましょう。私も父を裏切る」

「信じられない」

ユウトは首を振った。

「君は一度僕を裏切った。二度目がないとは言えない」

美月の表情が崩れた。愛する人から完全に信頼を失った絶望が、彼女を覆った。

「分かった」

美月は小さく頷いた。

「でも、これだけは覚えてて。私はあなたを愛してる」

ユウトは振り返らずに答えた。

「でも僕は君を恨まない。君も被害者だ」

それが二人の最後の会話だった。

日曜日、ユウトは学校に向かった。緊急登校日が設定されており、全生徒の出席が義務づけられていた。

教室に入った瞬間、異様な雰囲気を感じた。

クラスメイト全員の目が、一斉にユウトに向けられた。だが、その視線に温かさはない。まるでユウトを「異物」として認識しているような、冷たい観察の目だった。

「おはよう、ユウト」

田島が声をかけてきたが、その口調は機械的だった。以前のような親しみやすさは微塵もない。

「あ、おはよう……」

ユウトが答えると、田島はすぐに視線を逸らした。まるでユウトと関わることを避けているかのように。

昼休み、ユウトがいつものように屋上に向かうと、そこには誰もいなかった。普段なら数人の生徒が昼食を取っている場所なのに、今日は完全に空っぽだった。

一人で弁当を食べていると、階下から生徒たちの笑い声が聞こえてきた。みんな、ユウトがいない場所で楽しそうに過ごしている。

放課後も同様だった。

「柏木くん」

担任の田中が職員室に呼び出した。

「最近の君の行動は、他の生徒に悪い影響を与えているようだね」

田中の目も、他の生徒たちと同じように冷たかった。

「問題生徒としてマークされている。気をつけたまえ」

ユウトは学校から帰る道すがら、完全な孤独を実感した。クラスメイト、教師、恋人、そして母親まで——すべてを失ってしまった。

この世界に、もう自分の居場所はない。

アパートに戻ると、荒らされた部屋がユウトを迎えた。片付ける気力もなく、彼は床に座り込んだ。

明日の夜が、72時間の期限だった。

「僕には誰もいない」

その言葉が、静寂の中に響いた。


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