第85話 Naked chitchat.
視点:向井
渋谷のスクランブル交差点。歩行者信号が青になった瞬間に、俺は駆け出していた。
そんな俺に気が付いた悠陽は驚きながらも満面の笑みでこちらに駆け出して来た。
交差点のど真ん中に来たところで、俺と悠陽は人目も憚らずに勢いのままに抱き締め合った。少し小さく暖かなぬくもり、顎下に位置する頭部からはいつものシャンプーの香り。こうして直接触れ合うのは半年ぶりだろうか。
真夏の炎天下、人混みの摩天楼。俺たちは人目も憚らずに抱擁を交わし続ける。
やがて青だった信号は点滅を始める。
ああ、急いで歩道まで行かないと。抱き締めていた悠陽をゆっくりと優しく引き離す。
彼女は俺の顔を見上げ、俺に潤んだ瞳を向けて来る。その顔の遠く後ろでは、歩行者信号が点滅し続けている。
俺は彼女の手を掴み、スクランブル交差点のど真ん中から歩道のほうへと歩き出す。
だが掴んでいた悠陽の手は頑なに動かず、俺の手の中らからするりと抜けて行き、勢い余ってたたらを踏んだ。
何事かと咄嗟に振り返る。彼女は俺に背を向けてその場に立ち尽くしていた。
そして悠陽の後ろ姿越しに歩行者信号が赤になるのが見えた。
まずい、すぐに車が動き出す。
たたらを踏んで、数歩分の距離があったため、俺は悠陽に駆け寄っていく。
すると悠陽が振り返った。
そんな彼女の顔は青白く、口元は血塗れであった。
顔と同じように青白い手が俺に向かって伸びて来る。俺は驚いて足を止めるが、その距離はどんどん縮まっていく。
悠陽の生気のない顔が目の前までやって来る。目からは光が失われており、俺のことを見ていなかった。
俺はそこでようやく自分の腕を突き出し、抵抗しようとした。
だがそんな伸ばした腕に、血塗れの口が近付いて行き、今までに見たこともないほど大きく開かれる悠陽の口。
左手首に鋭く鈍い痛みが走った。
「アァ…ハッ…ハッ…ハァッ…ハァ…」
夢、か。左手を見ると、しっかりと噛まれた跡が残っていた。ああ、この傷は夢じゃなかったな。
「向井さん…大丈夫ですか?すごい、うなされてました」
俺の隣のベッドに腰掛けた状態の村雨さんが、心配そうな表情で俺を見ていた。
まだ部屋の中は薄暗い、明け方のようだ。
「すみません…起こしてしまいましたか…?」
「いいえ、ちょうど起きようとしていたところでしたので…」
と言う村雨さんだが、彼女はだいぶ眠そうに見える。
「ちょっと、いや、かなり嫌な夢でした…」
「お聞きしても?」
俺は一瞬迷ったが、夢の内容を村雨さんに話す。
「それは…酷い夢でしたね」
まあ月並みな反応だな。俺も村雨さんが同じような夢の内容を語ったのなら、同じように返していただろう。
「向井さん、汗を流しに行きませんか?」
「え?」
確かに、悪夢を見ていたこともあってか、俺の身体は少し湿っぽい。もしかして、一晩中汗臭かったのだろうか…
というか、なし崩し的に同じ部屋で寝てしまっていた。今更だが…
「昨夜、悠希さんがいらっしゃって、温泉の用意ができていると伝えに来たのですが、向井さんはぐっすり眠ってしまっていたので。起きたら温泉の場所を教えてあげてくれ、と」
ああ、なるほど。俺が汗臭いからという理由ではないようだ。よな?
村雨さんはベッドから立ち上がって、テーブルの上に置かれていた衣類を手に取って、俺に手渡した。
長袖のシャツとカーゴパンツ、下着、靴下。なるほど着替えか。
それを俺に手渡した後、村雨さんも丁寧に畳まれている一塊の衣類を手に取って袋にまとめて入れた。
ん?
「では、行きましょう。夜が明けますよ」
「あ、はい」
俺はすぐにベッドから立ち上がって、村雨さんの後を追ってホテルの客室から出た。
村雨さんは扉の鍵を閉め、廊下を歩いて行く。支配人や悠希さんと出会ったエントランスホールを抜け、ホテルの外へと出た。
そこから3分ほど歩いて、隣接する入浴施設へ。
中に入ると1人の中年女性がおり、村雨さんが声を掛ける。
「あの…」
「ああ、やっと来たね。さっさと入っちゃいなさい、今は貸し切りだから。あ、お湯は男湯のほうしか張ってないからぁ」
と愛想よく捲し立てるように言いながら、どこかへと行ってしまった。
恐らく電気が停まっているため、温泉の汲み上げ装置が動いておらず湯量が少ない。だから1つ分の湯舟しか張れないんだろう。
「じゃあ、俺はここで待ってるんで、村雨さんお先にどうぞ」
事情を察した俺は間髪入れずに村雨さんを優先した。しかし。
「いえ、悠希さんは向井さんに入ってくれと伝えたんであって、私はついでで…」
と村雨さんは遠慮している。
結局、譲り合いは3分ほど続いて、村雨さんが折れて脱衣所へと入って行った。
俺は怪我してるから、湯を汚す可能性があるからな…。流石に俺が後に入る方が合理的だ。
30分ほどすると、村雨さんが脱衣所から暖簾を潜って出て来た。服装は戦闘服ではなくラフなTシャツ姿で、ショートカットの髪が濡れていた。初めて見る姿に少々驚きながらも、村雨さんとすれ違うように脱衣所に入って行く。
服を脱いで籠にぶち込み、浴場へと入る。浴槽がいくつかあったが、湯が張られているのは1つの浴槽だけ。ちょっと寂しいなと思いつつも、浴槽の近くに置いてあった桶で掛け湯をする。
ぬるい。ぬるいが許容範囲だった。
ボディーソープを2プッシュして身体を洗う。前回シャワーを浴びたのが1週間ほど前だったため、しっかりとゴシゴシと汚れを落とす。
シャンプーも2プッシュして髪を洗う。頭皮はまだまだ健在なので、気にせず力を込めてゴシゴシと洗う。大丈夫、まだまだ禿げないさ。
桶で湯を掬って、体や頭に付いた泡をしっかりと洗い流し、もう一度掛け湯をしてから湯舟へと入った。
ぬるい。加温装置が動いていないから、源泉そのままの温度なのだろう。ただ、今まで水のシャワーくらいしか浴びていなかった俺からすれば、これだけでも十二分に贅沢だ。それにぬるいおかげか、傷に痛みが出るようなこともないしな。
5分ほど湯船に浸かっていると、浴場と脱衣所を隔てる扉が開いた。
え?っと思ってそちらを見ると、ミキオとユウタが素っ裸で浴場に入って来たところだった。
「あ、向井さん、おはようございます」
「すいません、お邪魔します」
ユウタとミキオがそれぞれ俺に軽く頭を下げながら言う。声を掛けるんだったら扉を開ける前に一言欲しかったが、まあ元々は公衆浴場なのだから文句も言うまい。
「ああ、おはよう…おい、ちょっと待て」
俺はさっそくとばかりに湯船に足を突っ込んだ2人を止めた。
「身体を洗ってから入れよ…?」
俺がそう言うと、2人はさっと足を戻し、桶を取って湯を掬って身体に掛け始めた。
「お前ら2人が来たってことは、サユリちゃんも来てんだろ?この後入るんじゃないのか?」
そう言うと2人は口々に謝罪の言葉を述べて丁寧に身体を洗い始めた。
「ちっとぬるいですね」
「俺はちょうどいいかな…」
俺が見てる中でしっかり身体を洗った2人は湯船に浸かってそう呟いた。ミキオはぬるめが好きらしい。
ああ、ぬるいから長く浸かってられるなぁ…。暇だし、2人と話すか。
「ところで、サユリちゃんはどっちの彼女なんだ」
何気なしに言葉が出た。気付いた時にはもう言い切ってた。
「…」
「…」
2人は非難するような目で俺を見る。
だが俺はそんな2人に目を合わさずに話を続ける。
「2人とも、あの子のこと好きなんだろう?見てりゃわかる」
ふん、大人を舐めるな。俺は今、湯船に浸かってリラックスしているノンデリカシーおじさんなのだ。
2人は顔を見合わせ、少ししてからミキオが話し始める。
「まだ、ちゃんと付き合ってるってわけじゃないんですけど、サユリと俺がそういう関係ですね…」
と少し言い難そうに話すミキオ。
「ユウタは、それでいいのか」
ノンデリカシーおじさんはユウタに話を振る。
「まあ…ミキオがサユリのこと好きだってのは小学生の頃から知ってたから、それで良いと思ってる。俺も、好意はあるけど、それは友達として、かな…」
なるほど、ミキオがサユリのことを好きだとユウタは知っているのか…。ユウタはそれに早い段階で気が付いて身を引いてるって感じか、な。
「でも、ミキオは、ちょっとそっちの方面は奥手っていうか、ヘタレっていうか…」
「そうなの?」
「はい。2人は確実に両想いなのに、一向に付き合わないっていうか…」
おじさん(俺)とユウタはミキオに視線を向ける。
「え、いや、ああ、ハハ、そこまで言われると、ちょっと困ったなぁ…」
ああ。ヘタレだ。
「こんな世の中になっちまったんだ。後悔しないようにな」
俺がそう言うと、2人は昨日の俺の話を思い出したのか表情が暗くなった。
ああ、やべえ、何かフォローしないと。と考え始めたところで、脱衣所と浴場を隔てるドアがドンドンと軽めに叩かれる。
「あのぉ、時間がないので、早く上がってください…」
扉の向こうからサユリの声がした。
「「「はーい」」」
裸の3人はそろって返事をした。




