Episode8、迷宮攻略本【トックメィ】。
「……よっと」
クイは扉に手を掛け、ゆっくりと押し開いた。
カラン、カラン。
頭上で小さな鐘が鳴る。
店内には古紙とインクの匂いが漂い、壁際には背の高い本棚が所狭しと並んでいた。
棚には分厚い書物から薄い冊子まで、大小様々な本が詰め込まれている。
そんな本の山に囲まれたカウンターの奥に、1人の老人が座っていた。
頭には黒いバンダナを巻き、鼻先には年季の入った眼鏡。
くたびれた服を身に纏い、いかにも気怠そうな様子で椅子に腰掛けている。
老人は扉の音に気付くと、眼鏡の隙間から上目遣いにクイを覗いた。
「おー、クイじゃねぇか」
「……どうも」
老人は口元を緩めると、机の上に広げていた本を閉じた。
「どうだ? いいネタが上がったか?」
「まぁ……一応」
クイはそう答えながら、腰に提げた鞄へと手を伸ばして、手帳を渡す。
「ほぉ……統一された迷宮とは、珍しいじゃねぇか」
ブゴーはクイから受け取った手帳を開き、興味深そうにページをめくった。
眼鏡の奥にある瞳が、細かな文字を追っていく。
「8つほど巡りましたが、そのうち6つが統一されてました」
「……6つもか?」
「ええ。魔物の種類に偏りがありましたね」
「ふむ……こりゃ、なかなか面白ぇ」
ブゴーは顎をさすりながら、しばらく手帳を眺めていた。
やがて納得したように頷くと、カウンターの下から真っさらな書物を取り出す。
「……分かった。とりあえず、移すから待ってな」
「お願いします」
この老人の名は、ブゴー。
裏通りの小さな書店、BUGO&BUGOを営む店主である。
くたびれた風貌からは想像しにくいが、彼は生まれながらに珍しい固有スキルを有していた。
その名も、瞬間模写。
触れた書物の内容を、別の書物へ瞬時に書き写すことができる能力だ。
しかも、ただ文字を複製するだけではない。
保有者が頭の中で思い描いた文章へと、内容を変換することも可能なのである。
例えば、乱雑に書き殴られた調査記録であっても、ブゴーが内容を理解し、読みやすい文章を思い描けば、そのとおりに書き写すことができる。
まさに、書物に愛された老人。
そんな言葉が相応しい、類まれなる能力の持ち主だった。
「……よし、これでいいだろう」
ブゴーは書き写した書物を軽く叩き、満足げに頷いた。
先ほどまで真っさらだったページには、クイが調査した迷宮の情報が余すことなく記されている。
「後はこっちで編集して、明日の朝には店頭に並べておくぜ」
「……お願いします」
「おう、任せとけ」
そう言って、ブゴーはカウンターの下へと手を伸ばした。
ジャラリ。
硬貨の擦れ合う音が響く。
取り出したのは、ずっしりと膨らんだ小袋だった。
「それと、ほら。こいつは先月分の印税だ」
「……いつも助かります」
クイは差し出された小袋を受け取った。
掌に伝わる確かな重み。
どうやら、今月もそれなりの売り上げがあったらしい。
「はっ! 助かってんのは、こっちの方だっての」
ブゴーは愉快そうに笑った。
そして、何かを思い出したように身を乗り出す。
「なぁ、クイよぉ」
「……はい?」
「おめぇさん、そろそろ運搬者なんざ辞めて、うちで働かねぇか?」
「…………」
突然の申し出に、クイは目を瞬かせた。
だが、決して悪い話ではない。
むしろ、今のクイにとっては、願ってもないほどありがたい誘いだった。
依頼人が現れず、酒場で無為に時間を過ごす日々。
身に覚えのない悪評は増えるばかりで、仕事にありつける機会も年々減っている。
そんな現状を考えれば、安定した仕事を得られるというのは、十分すぎるほど魅力的だった。
「おめぇさんの攻略情報は、とにかく精度が高ぇ。魔物の特徴から迷宮の構造まで、そこらの冒険者が書いたもんとは比べ物にならねぇよ」
ブゴーは棚に並べられた書物へと目を向けた。
「それに、迷宮攻略本『トックメィ』だって売り上げは右肩上がりだ。お陰で、店を畳まずに済んでるんだからよ」
老人は照れくさそうに鼻を鳴らした。
「だから、遠慮するこたぁねぇ。おめぇさんが来てくれるなら、こっちとしても大助かりなんだよ」
クイは手元の小袋へと視線を落とした。
酒場では、誰も自分を必要としてくれない。
だが、この小さな書店には、自分を必要としてくれる人がいる。
その事実が、今のクイには何よりありがたかった。
「それによぉ、クイ。昔みてぇに、強さだけがものを言う時代は終わったんだ。魔王だって討伐されちまったしな」
ブゴーは椅子の背もたれに身体を預け、腕を組んだ。
「おめぇさんが専属になってくれりゃ、もっと大々的に売り出せるんだぜ? その攻略本をよ。ギナーどころか、世界中にな」
決して大袈裟な話ではなかった。
クイが持ち込む迷宮情報は、それほどまでに価値がある。
現役の運搬者として培ってきた知識と経験。そして、世界屈指の実力があるからこそ可能な調査。
その全てが、攻略本『トックメィ』の信頼性を支えていた。
「……前にも言いましたけど」
クイは静かに口を開いた。
「俺は、まだ夢を諦めきれないんです」
「はぁ……またそれかよ」
ブゴーは困ったように頭を掻いた。
「別に冒険者じゃなくたっていいだろうが。友人でも仲間でも、何なら嫁探しだってよ。おめぇさん、実家に戻りゃ――」
「…………」
「……うぉっ!?」
ブゴーが思わず身を仰け反らせた。
先ほどまで穏やかだったクイの表情が、一瞬にして凍りついていた。
鋭い眼光。
眉間には深い皺が刻まれ、口元は不自然なほど固く結ばれている。
まるで、目の前に親の仇でも現れたかのような形相だった。
その変貌ぶりに、ブゴーは眼鏡をずり落としかける。
「お、おいおい……」
「…………」
「……その顔、人前ですんなよ? ただでさえ怖ぇんだからよ」
クイは何も答えなかった。
ブゴーは小さく咳払いをすると、話を切り上げるように手を振った。
「ま、考えといてくれや。いつでも待ってるからよ」
「……はい。それじゃ」
クイは軽く頭を下げると、書店を後にした。
カラン、カラン。
扉の鐘が鳴り、店内に再び静けさが戻る。
「……ったく、相変わらずだなぁ」
ブゴーが苦笑していると、店の奥から声が聞こえてきた。
「おじいちゃん、また勧誘失敗?」
姿を現したのは、緑色の髪を持つ少女だった。
彼女の名はマル。
ブゴーの孫娘である。
マルはカウンターに肘をつき、呆れたように祖父を見つめた。
「アイツも頑固だからなぁ。何度誘っても首を縦に振りゃしねぇ」
「そりゃ、そうでしょ。あの人、ずっと冒険者やってるんだし」
マルは肩をすくめた。
「まぁ、優良物件なのは分かるけどさ。他にも候補はいるじゃない?」
「……そりゃ、いるにはいるがな」
「だったら、別にクイさんじゃなくてもよくない?」
「いや、そういうわけにもいかねぇんだよ」
ブゴーは机の上に置かれた攻略本へと視線を落とした。
「『トックメィ』は、アイツじゃなきゃ駄目なんだ」
「……どして?」
マルは不思議そうに首を傾げた。
ブゴーはすぐには答えなかった。
代わりに、眼鏡の位置を直しながら、古い記憶を辿るように目を細める。
クイと初めて出会った日のことを、思い出していた。
「……どうしたもこうしたもじゃねぇよ」
「えぇ? 何それ、全然答えになってないじゃん」
マルは呆れたようにため息をついた。
「おじいちゃんも、十分頑固者だよね」
「……うるせぇやい」
ブゴーは鼻を鳴らし、再び攻略本へと視線を戻した。




