Episode5、俺は優しい方だから。
――そして、現在。
(……結局、今日も誰も来なかったか)
目の前に置かれた酒杯を、ぼんやりと眺める。
気付けば、すっかり酒に手をつけてしまっていた。
普段なら、仕事があるかもしれないと思って控えているのだが、今日ばかりはどうにも我慢できなかった。
とにかく飲みたい。
飲んで、嫌なことを全部忘れてしまいたい。
そう思っていた、その時だった。
「しっかし、【転生勇者】様ってのはすげぇよなぁ。魔王を倒して世界が平和になったってのに、今でも身を粉にして働いてるらしいぜ」
「ははっ! 俺だったら絶対無理だね。魔王を倒した時点で、一生遊んで暮らすわ!」
「違いねぇ!」
少し離れた席から、陽気な笑い声が聞こえてきた。
何とも楽しそうな馬鹿話だ。
(……また勇者の話かよ)
俺は酒杯を傾け、残っていた酒を一気に喉へ流し込んだ。
喉が焼けるように熱い。
(何が【転生勇者】だ。馬鹿馬鹿しい……)
魔王を討伐した英雄。
世界を救った救世主。
どこへ行っても、耳にするのはそんな話ばかりだ。
(……ちーと、だっけ?)
確か、異世界から来た奴らが持っている、規格外の能力のことをそう呼ぶらしい。
(そんなもんがあるなら、魔王ぐらい倒せて当然だろ……)
いや、分かっている。
魔王を倒したことが、とんでもない偉業だということぐらい。
それでも、どうしても素直に称賛する気にはなれなかった。
(……くそ)
酒杯を握る手に、思わず力が入る。
(俺だって……)
俺だって、強い。
死ぬほど努力して、ここまで来た。
何度も死にかけて、それでも生き延びて、レベル95まで上り詰めたんだ。
それなのに。
(……何なんだよ、この扱いの差は)
片や、誰もが憧れる世界の英雄。
片や、酒場の隅で誰からも相手にされない嫌われ者。
……まったく。
世の中、不公平にもほどがある。
(……けっ)
もう一杯、酒でも頼もうか。
そう思っていた矢先だった。
「おいおい、【運搬者】様が聞いて呆れるぜ」
「…………」
頭上から、聞き覚えのない声が降ってきた。
顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。
こちらを見下ろしながら、随分と偉そうに笑っている。
(……何だ、こいつ)
「せっかく依頼してやろうってのによぉ。昼間っから酒なんざ飲んでるとは、いいご身分じゃねぇか」
男はわざとらしく肩をすくめた。
俺は小さく息を吐き、相手に意識を向ける。
(【探知】)
視界に、男の能力値が浮かび上がった。
――――――――――
【レベル】85
【ステータス】
力 80
魔 20
知 40
俊敏 30
堅固 100
――――――――――
(……へぇ。意外と高いな)
特に堅固の数値が際立っている。
少なくとも、そこらの冒険者とは一線を画す実力者らしい。
「……今日は依頼を受けていない」
俺はそれだけ告げ、酒杯へと視線を戻した。
すると、周囲からざわめきが起こる。
「おい……あれって……」
「ああ、バルゴだ」
「巷で噂の実力者じゃねぇか……!」
どうやら、それなりに名の知れた冒険者らしい。
バルゴと呼ばれた男は、周囲の反応に気を良くしたのか、得意げに鼻を鳴らした。
「ふん……オレも有名になったもんだぜ。ま、当然だな。この腕っ節だけで、ここまで強くなったんだからよ」
(……そうかい)
俺は酒杯を置いた。
「……だったら、わざわざ運搬者に依頼する必要もないだろ」
「あぁ?」
「レベル85もあるんだ。自分で迷宮に行けばいい」
バルゴの眉がぴくりと動いた。
だが、すぐに口元を歪める。
「へっ。そう言うなって。お前、運搬者のくせに格安で依頼を受けてるらしいじゃねぇか」
「…………」
「だったら、ちょうどいい。オレの依頼も受けてくれよ」
男が一歩近付く。
その手には、酒の入った杯が握られていた。
「それとよぉ……」
にやりと笑う。
「ついでに、これはオレからの奢りだ」
バシャッ!!
「…………」
頭から、冷たい酒が降り注いだ。
ボサボサの黒髪が濡れ、額を伝った雫が頬を滑り落ちる。
酒は鎧の隙間にも入り込み、床へと滴り落ちていった。
一瞬、周囲の会話が途切れた。
何人かの冒険者がこちらを見ている。
だが、誰も口を挟もうとはしない。
(……あーあ)
俺は濡れた前髪を指で掻き上げた。
せっかく、静かに飲んでいたというのに。
「……はぁ」
深いため息が漏れる。
すると、バルゴは待っていたとばかりに笑みを深めた。
「おっ、何だ? やる気か?」
「…………」
「いいぜぇ? 相手になってやるよ」
男は両腕を広げ、挑発するように顎を突き出した。
「悪評ばっかりの運搬者様よぉ。どうせ実力だって、大したことねぇんだろ?」
周囲が静まり返る。
俺は、目の前の男を見上げた。
(……面倒くせぇな、こいつ)
「……おいおい、こりゃ見ものだぜ」
周囲の冒険者たちが、にわかに騒がしくなり始めた。
「クイの悪行も、とうとうここまでだな」
「何でだよ? あいつ、腐ってもレベル90超えの運搬者だろ?」
「馬鹿、お前知らねぇのか? バルゴってのは、とんでもねぇ防御力を持ってるんだよ」
「防御力?」
「ああ。並の攻撃じゃ、傷一つつけられねぇらしい。それどころか、レベル90くらいの魔物なら、素手で殴り殺せるって話だぜ」
「マジかよ……!」
驚きの声が上がる。
周囲の視線は、すっかりバルゴへと集まっていた。
「そりゃ、クイも終わりだな……」
「ま、今まで散々好き勝手やってきた報いってやつだろ」
好き勝手、ねぇ。
(……俺が何したってんだよ)
思わず、心の中でぼやいた。
それにしても、レベル90の魔物を素手で殴り殺す、か。
確かに、あの堅固の数値なら、相手によっては不可能な話でもないだろう。
(……だから何だってんだ)
俺は濡れた前髪を掻き上げ、目の前の男を見据えた。
バルゴは相変わらず、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
「……俺は酒を飲んでるんだ」
クイは椅子に深く腰掛けたまま、頬杖をついた。
「好きに掛かってこいよ」
「……あぁ?」
バルゴのこめかみに、青筋が浮かぶ。
「てめぇ……舐めてんのかッ!!」
怒号と同時に、巨体が踏み込んだ。
次の瞬間、拳がクイの顔面へと叩き込まれる。
鈍い衝撃音が、酒場に響き渡った。
「おおっ!!」
「すげぇ連撃だ!!」
バルゴの拳が、休む間もなく繰り出される。
右、左、右。
さらに踏み込み、拳を振り抜く。
重厚な鎧を打ち据えるたび、凄まじい打撃音が響き、周囲の冒険者たちは思わず息を呑んだ。
「こりゃ、ひとたまりもねぇぞ!!」
「流石はバルゴだ!!」
拳が止まらない。
連打。
連打。
ひたすら連打。
(……芸がねぇな)
俺は内心でため息をついた。
確かに、一撃一撃は重い。
並大抵の冒険者なら、最初の数発で意識を失っているだろう。
だが、それだけだ。
攻撃の軌道は単調。
力任せに殴り続けるだけで、こちらの反応を確かめる余裕すらない。
(……まあ、普通の相手ならこれで十分なんだろうけどな)
そして――。
数分後。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!!」
バルゴの拳が、ようやく止まった。
肩を大きく上下させ、額から滝のような汗を流している。
一方、俺はというと。
「……それで、終わりか?」
卓上の皿から豆を一粒摘まみ、口へ放り込んだ。
ぽりっ。
「…………」
酒場が静まり返る。
「ば……ば、馬鹿な……!!」
バルゴが目を見開いた。
「何で……何で倒れねぇんだよッ!?」
「……お前の攻撃じゃ、俺は倒せない」
「ふ、ふざけんな!! 俺の実力は……レベル90に匹敵するんだぞ!!」
「……そんな間抜け、いやしないよ」
「なっ……何だと!?」
俺は豆をもう一粒口に放り込んだ。
「だったら、確かめてみろよ」
「あぁ!?」
「【探知】。掛けてみろ」
「……っ!」
バルゴの目が、ぎらりと光った。
どうやら、本当に使うつもりらしい。
(……いや、まさかな)
次の瞬間。
「――ぐわああああああッ!?」
突然、バルゴが絶叫した。
両目から血が噴き出し、その場に膝から崩れ落ちる。
「め、目がッ!! 俺の目があああッ!!」
床を転げ回り、苦痛に悶えるバルゴ。
周囲の冒険者たちは、何が起きたのか理解できず、呆然と立ち尽くしていた。
「…………」
俺はその光景を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「……ほんとに【探知】するなよ」
どうやら、俺の【探知妨害】が発動したらしい。
これは、俺に対して探知を行った相手に、ランダムで妨害効果を与えるスキルだ。
もっとも、その効果は一定ではない。
軽い妨害で済むこともあれば、今回のように、とんでもない結果を引き起こすこともある。
(……いや、流石に強すぎるだろ)
俺は目の前で転げ回るバルゴを見下ろした。
……どうすんだよ、これ。
「……はぁ」
床を転げ回るバルゴを見下ろし、俺は小さくため息をついた。
流石に、このまま放っておくわけにもいかない。
「【全回復】」
手をかざすと、淡い光がバルゴの身体を包み込んだ。
傷ついた両目が瞬く間に修復され、流れていた血も消えていく。
「……っ!?」
バルゴが勢いよく顔を上げた。
「はぁ……はぁ……っ! な、何をしたんだ……!?」
「何って……回復させただけだが」
「か、回復……?」
バルゴの顔が、みるみる青ざめていく。
「ま、まさか……俺をまたぶちのめす気か……!?」
「……は?」
何を言ってるんだ、こいつ。
すると、周囲の冒険者たちまでざわめき始めた。
「おい……まさか……」
「回復させて、もう一度……?」
「…………」
いや、待て。
何でそんな話になる。
「……いや、しねぇよ」
「う、嘘つけッ!!」
バルゴが後ずさった。
「そうやって回復させては、何度も痛めつける奴がいるって知ってんだぞ!?」
「…………」
知ってるのかよ。
(……馬鹿なのか、こいつは)
そんな連中がいると知っていながら、どうしてレベル90級の相手に喧嘩を売ろうと思ったんだ。
いや、そもそも酒を頭からぶっかける時点で、まともな判断力なんて期待できないか。
「……だったら、運がいいぜ」
「ひっ……!?」
バルゴの肩が跳ねた。
「俺は――」
「ひぃぃぃぃぃぃッ!!」
「……優しい方、だから……な……」
最後まで言い終えるよりも早く、バルゴは踵を返した。
椅子を蹴飛ばし、近くの冒険者を押しのけ、転がるように酒場の出口へと駆け出していく。
バタンッ!!
勢いよく扉が閉まった。
「……え?ま、待て! 俺は……!」
残されたのは、呆然とする冒険者たちと、酒まみれの俺だけだった。
「…………」
おい。
最後まで聞けよ。
「はぁ…」




