Episode2、想定外。
――6年前。
「す、すげぇ……! おい、聞いたか!? あのクイって奴、レベル90を超えたらしいぞ!」
「マジかよ……! これでギナーじゃ4人目だぞ!」
「間違いねぇ……! あいつなら、【転生勇者】に次ぐ実力者になれるかもしれねぇ!」
当時、クイの名を知らぬ冒険者は、ギナーにはほとんどいなかった。
街を歩けば、その実力を称える声が聞こえてくる。
酒場に顔を出せば、羨望の眼差しが向けられる。
若くしてレベル90の大台に到達した冒険者。
その実力と実績は、多くの冒険者たちの期待を集めていた。
クイが運搬者として活動を始めて、一年目の出来事である。
そして、その名声が高まりつつあった頃。
世界では、魔王討伐に向けた準備が大詰めを迎えていた。
決戦まで、残すところ1週間。
そんな中、クイは依頼人を連れ、とある迷宮の攻略に挑んでいた。
普段であれば、何の問題もない仕事だったはずだ。
しかし――。
「くっ……! 何なんだよ、こいつは……!!」
迷宮の最奥部。
そこには、これまで確認されたことのない異形の魔物が立ちはだかっていた。
全長2メートルを優に超える長身。
全身を覆う、光すら吸い込んでしまいそうな漆黒の肌。
そして何より異様なのが、その顔だった。
口元が不自然なほど大きく吊り上がり、まるで笑顔を貼り付けたかのように歪んでいる。
人の姿に似ていながら、決定的に何かが違う。
見ているだけで背筋が粟立つ、不気味な存在だった。
「な、何だよ……こんな魔物、聞いたことねぇぞ……!」
冒険者たちの間に動揺が広がる。
だが、クイにとって、未知の魔物との遭遇自体は珍しいことではない。
迷宮では想定外の事態など日常茶飯事だ。
問題は、そこではなかった。
「……効いてない?」
クイの表情が強張る。
これまで幾度となく窮地を切り抜けてきた【スキル】。
そのほとんどが、目の前の魔物には通用しなかった。
攻撃を加えても、手応えがない。
防御を固めても、相手の動きを捉えきれない。
何より、その魔物には一定の動作というものが存在しなかった。
右へ跳ねたかと思えば、次の瞬間には左へ。
関節の構造を無視するように身体を捻り、不規則な軌道で迫ってくる。
「お、おい!! 運搬者なんだろ!? 何とかしてくれよ!!」
背後から、冒険者の悲鳴にも似た声が飛んだ。
振り返れば、腰を抜かした依頼人が、必死の形相でこちらを見つめている。
無理もない。
あの魔物の攻撃を一撃でも受ければ、彼らの命はないだろう。
そして、クイは瞬時に判断した。
このまま戦闘を続ければ、依頼人を守りきれない。
「俺が相手をする!」
「えっ……!?」
「お前たちは逃げろ! 早く!!」
叫ぶと同時に、クイは依頼人の前へ躍り出た。
その瞬間。
黒い魔物の姿が、視界から掻き消えた。
「――ッ!!」
反射的に盾を構える。
直後、凄まじい衝撃が全身を貫いた。
ガァンッ!!
「ぐっ……!!」
重い。
あまりにも重すぎる。
盾越しに伝わる衝撃は、腕の骨が軋むほどだった。
踏ん張った両足が地面を削り、身体が後方へ押し込まれる。
もし、この一撃を新米冒険者が受けていたなら。
間違いなく、原形すら留めぬ肉片と化していただろう。
「……っ、早く……!」
歯を食いしばり、盾を押し返す。
目の前の黒い魔物は、相変わらず不気味な笑みを浮かべていた。
まるで、こちらの抵抗を楽しんでいるかのように。
「早く……行けッ!!」
クイの怒号が、迷宮の最奥部に響き渡った。
「……やってやる」
クイは剣を握り直し、目の前の異形を睨み据えた。
全身が痛む。
盾を握る腕は痺れ、呼吸をするたびに胸の奥が軋んだ。
これほどの実力差を感じたのは、いつ以来だろうか。
レベル90を超えた。
世界屈指の実力者だと、誰もが口を揃えて称賛してくれた。
だというのに。
たった一体の魔物を前に、依頼人を逃がすことしかできなかった。
その不甲斐なさが、どうしようもなく腹立たしい。
「……上等じゃないか」
異形の魔物が、ぐにゃりと首を傾げる。
張り付いた笑顔は、相変わらず崩れない。
クイは血の滲む唇を吊り上げた。
「やってやるぞ……! とことんだッ!!」
地面を蹴る。
直後、黒い異形とクイの身体が激突した。
轟音。
砕け散る岩壁。
幾度となく剣を振るい、幾度となく盾で攻撃を受け止める。
傷を負っても、膝をついても、クイは立ち上がった。
目の前の化け物を倒さなければ、ここから生きて帰ることはできない。
それだけは、嫌というほど理解していた。
そして――。
長い、長い死闘の末。
ついに、異形の魔物は動かなくなった。
「はぁ……はぁ……っ」
荒い呼吸が、静まり返った迷宮に響く。
クイは剣を支えに、辛うじて立っていた。
全身は傷だらけ。
鎧はひしゃげ、盾も原形を留めていない。
それでも。
「……勝った、ぞ……」
絞り出すように呟く。
やがて、緊張の糸が切れたように、その場へ膝をついた。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
満身創痍のクイが、ようやく迷宮の外へと辿り着いた頃。
世界は、歓喜に包まれていた。
街には人々の歓声が響き渡り、至るところで祝杯が交わされている。
誰もが笑い、誰もが喜びを分かち合っていた。
「……なんだ?」
状況が飲み込めず、クイは呆然と立ち尽くした。
すると、近くを駆け抜けた冒険者が声を張り上げた。
「魔王が討伐されたぞ!!」
「【転生勇者】様がやってくれたんだ!!」
「これで世界は平和になる!!」
「…………え?」
クイは思わず間の抜けた声を漏らした。
魔王討伐戦。
本来ならば、自分も向かうはずだった戦い。
その決戦が――。
知らぬ間に、終わっていたのである。




