修羅の目覚め③
少女は軽い足取りで、伏せる魔族たちの間を抜けて、こちらへ駆けてきた。神とは思えない、ただの浮かれた若者の動きだった。
「アタシ、こんな音初めて聴いた! ねえ、もっと聴かせてよ! もう一回!」
「いや、あの……」
「ねえってば! ケチんないでさ! アタシ、何百年ぶりかに目ぇ覚ましたんだよ? 起きて早々こんな面白い音に出くわすとか、ツイてるじゃん。ねえ、やってよ!」
伝説の魔神が、目をキラキラさせて、ライブのアンコールをねだる客とまったく同じ顔をしている。
「あの、ちょっと待ってくれ。気持ちは嬉しいんだが、今はそれどころじゃないんだ」
「えー、なんで?」
「見ろよ、これ」
俺は戦場を指し示した。白い軍勢と、魔族の軍。一触即発の、戦の真っ最中だ。
「戦争中なんだよ。悠長にアンコールなんて、やってる場合じゃない」
「せんそー?」
少女は心底どうでもよさそうに戦場を眺めた。数万の兵が睨み合う光景を、そのへんの石ころでも見るような目で。
「ふーん。で?」
で、と言われても困る。
「で、じゃない。放っておいたら、大勢死ぬんだよ。俺たちは、それを止めたくて……いや、止めるっていうか、せめて魔族が一方的にやられないように、こうして音を鳴らしてるんだ」
「ふーん」
少女は、しばらく爪をいじっていた。だが、ふと、何かを思いついたように顔を上げた。
「ねえ。じゃあさ。この戦、アタシが終わらせたら、もっと音楽聴かせてくれる?」
俺は固まった。
「……終わらせる?」
「うん。だってアタシ、そういうの得意だもん」
少女は胸を張った。
「何を隠そう、魔神の中でもアタシの担当は戦だからね! 争いごとなんて、アタシの庭だよ。こんなの、終わらせようと思えば一瞬!」
その言葉に、嘘の匂いはなかった。浮かれたギャルの顔をしているくせに、その一言だけは底が知れなかった。さっきから俺の体を強張らせていたものの正体は、これだったらしい。
できるのか、と訊くまでもなかった。こいつにはできる。だが。
「ただし、条件がある」
俺がそう言うと、少女は不満げに口を尖らせた。
「えー、なに。注文多くない?」
「殺しは、なしだ」
少女の動きが止まった。
「この戦を終わらせてくれるのはありがたい。でも、殺すのはなしだ。人間も魔族も、一人もだ」
「なんで? 戦争なんでしょ。殺し合うもんじゃん」
「あそこに、俺たちの仲間がいる」
俺はステージの脇のエレンとミラを指した。二人ともこの状況に呑まれながら、じっとこちらを見ている。
「あいつらは人間だ。それに俺たちだって、元は人間だった。人間を皆殺しにされたら寝覚めが悪い。それに魔族のほうも、無駄に殺せば恨みが残る。恨みが残れば、また戦になる。そういうのは、もうたくさんなんだ」
少女はしばらく俺をじっと見ていた。それから、ふっと笑った。今度は寝ぼけた顔でも、はしゃいだ顔でもない。もっと底の知れない、古い笑みだった。
「アンタ、変なこと言うね」
くるりと背を向ける。
「いいよ、殺しなし。そういう縛りのほうが、たまには燃えるっしょ。退屈しのぎには、ちょうどいい」
少女が戦場のほうへ一歩踏み出した。
その瞬間、昼だったはずのあたりが、すっと暗くなった。
太陽が翳ったのではない。空の色はそのままに、光だけが世界から抜き取られたようだった。魔族も人間も、ステージの上の俺たちも、突然の薄闇の中でぽつんと立ち尽くしている。
何が起きたのか分からなかった。
分からなかったが、次の瞬間、正面の白い軍勢のほうから悲鳴が上がりはじめた。
一人ではない。何十人、何百人。やがて三万の軍勢のあちこちから、堰を切ったように絶叫が湧き上がってきた。
「うわああああっ!」
「い、いやだ、来るな……来るなあっ!」
「死にたくない……死にたくない!」
人間の兵たちが、次々と得物を取り落として頭を抱えていく。剣を杖にしてかろうじて立っている者も、顔面は蒼白で、目の焦点が合っていない。まるで、そこにいない何かを見て怯えているようだった。
「……何をしてる?」
俺が問うと、少女は振り返らずにけだるげに答えた。
「見せてやってんの。アタシと戦ったら、どうなるかを」
「見せてる?」
「そ。あいつら一人一人にね、この先をちょっとだけ。アタシに逆らったら、自分がどんなふうに終わるのか。剣を抜いた瞬間からどうなるのか。ぜーんぶ、先に見せてあげてんの」
背筋が冷えた。
殴るでも焼くでもない。ただ、勝てない未来を頭の中に直接流し込む。実際には、まだ指一本触れていない。触れていないのに、兵たちは自分の行く末を、これ以上ないほど鮮明に見せられている。
「これでもう、誰もアタシとやろうなんて思わない。ほら」
少女が指を鳴らす。
光が戻ってきた。
昼があたりに帰ってくる。だが、戦場の景色は一変していた。
白い軍勢は、もう軍勢の体をなしていなかった。武器を投げ捨て、我先にと背を向けて逃げ出していく。押し合いへし合い、転がるように丘の向こうへ。あれほど整然と並んでいた三万が、統率も何もない、ただの怯えた群れになって散り散りに潰走していく。
指揮官らしき声が、必死に制止をかけていた。だが、もう誰の耳にも届いていない。
誰も死んでいなかった。
血の一滴も流れていない。だが、聖王国の大軍は、完膚なきまでに敗走していた。
少女は、その光景をつまらなそうに眺めていた。
「はー。やっぱ、こういうの好きじゃないんだよね」
伸びをしながら、ぼやく。
「アタシ、戦の魔神だよ? 本当はさ、正面からドンパチやって、力ずくでねじ伏せるのが専門なわけ。斬った張ったの真っ向勝負。そういうのが、いちばん燃えるんだって」
少女は、逃げ散る人間たちを心底物足りなさそうに見送った。
「なのに、殺すなって言うからさあ。仕方なく、こういう地味なやつで済ませたわけ。戦う前から心折って、追い返すだけ。ぜんっぜん面白くない。アタシの趣味じゃないの、こういうの」
趣味じゃない、と言いながら、三万を一人残らず指一本触れずに追い返している。
これが「地味なやつ」で「済ませた」結果なら、こいつが本気で暴れたら、どうなるのか。
考えたくもなかった。




