コーヒー
「コーヒーを飲んでもいい?」
海凪にそう訊かれて幸は小さく頷いた。
海凪は、静かに部屋を出ていこうとする、と。
カラカラカラカラッ。
軽い音と共にソレは入ってきた。
皺一つないタキシード、一ミリも曲がらない背筋、気持ちよく伸びた手足、ドリッパー、ボット、コーヒーの粉を詰めた瓶を載せた大きな車輪の付いた丸みのある品の良いカート。
それだけを見れば大きな屋敷に釣り合った教育の行き届いた完璧な執事の所作。
しかし……。
「オジョ……サマ」
それは口ではない口で言葉を述べる。
「コ……ヒ……おも……まし……た」
ソレは腐りかけたアンモナイトの頭部であった。
今にも崩れ取れそうな無機質の丸い目がギョロッっと動き、無数の触手がケロイドのような膜を張ってテカり、砕けた鎧のような甲殻からは悪臭が煙のように漂っている。
「ありがとう」
海凪は、和かな笑みを浮かべてソレに礼を言う。
ソレは、表情のない顔で頭を下げる。
ギョロッっとした目が海凪を、幸を捕らえる。
「オジョ……サ……マ……」
「大丈夫。彼はお友達だから」
海凪は、安心させるように優しく微笑む。
「持ち場に戻って」
「ハ……イ……」
ソレは、もう一度頭を下げると扉へと戻っていく。
扉の向こうにはソレと同じくタキシードやメイド服を着た魚や甲殻類、貝、そしてイルカやオルカのような海獣類の頭を持った腐りかけたソレらがこちらを見ていた。
ソレらの群れにアンモナイトのソレが合流すると、海凪の方を向いて糸で引かれたように一斉に頭を下げ、そのまま去っていく。
海凪は、ソレらが去っていくのを見届けてからコーヒーのセットを載せたカートに向き合う。
「あの人たちね……私が生まれる前からこの屋敷に仕えてるの」
そう言いながら白い陶器のドリッパーにフィルターを載せる。
「深煎りだけど平気?」
「よく分からないから大丈夫」
幸は、ヘラっと笑って答える。
海凪は、苦笑してコーヒー粉の瓶の蓋を開ける。
深く甘いコーヒーの香りが生臭さの残る部屋の中をほのかに漂う。
「コーヒー好きなんだ」
「知らなかった。学校でコーヒーを飲んでるイメージはなかったから」
進学校にも自販機はあるのでコーヒーが売ってるが彼女が買ってるイメージはなかった。
「微糖だからダメとか?ブラック派?」
「そう聞くのって日本人だけみたいだよ?味というより香りかな?」
そう言って苦笑し、コーヒーの粉をスプーンで掬ってフィルターに落とす。
「ここってさ……臭いでしょ?」
「ああっ」
幸は、ヘラっと笑いながら納得する。
そして思い至る。
「魚……魚介類を食べれないのもそれが理由?」
「そうだね。知り合いの姿をしたものを食べるのは厳しいかな」
海凪は、ははっと笑ってコーヒー粉の瓶に蓋をする。
「それにお母さんがああなってから生臭さに死の香り?みたいのも加わってとてもじゃないけど耐えられない」
「それじゃあ今も辛いんじゃない?」
「うんっ鼻に栓を詰めて毒マスクを被りたい衝動に駆られる」
海凪は、ポットを手に取る。
「せっかくの美少女が台無しになるね。可愛いのにもったいない」
幸は、冗談めかしにヘラっと笑う。
しかし……。
海凪の頬がポッと赤くなる。
「美……少女?」
海凪の持ったポットがカタカタと震え、注ぎ口からお湯がこぼれ落ちる。
「大丈夫?皆月さん?」
幸は、怪訝そうに顎に皺を寄せて海凪に声をかける。
「う……うんっ大丈夫」
海凪は、何とか手の震えを止め、ちらりっと幸を見る。
「船頭くんって……意外とあざといの?」
「あざとい?」
幸は、首を傾げる。
「他の女の子にも言ってるの?その……美少女とか……可愛いとか……?」
海凪は、口をもにゅもにゅと動かしながら言う。
「いや、そんなことないよ」
幸は、きっぱりと答える。
「皆月さんが初めてじゃないかな?」
その瞬間、海凪の顔がぼんっと赤くなる。
「そ……そそそそそれって……それって……」
「だって僕に友達がいないこと知ってるでしょ?そんなこと言う相手なんていないよ」
幸は、ヘラっと笑って答える。
海凪の顔が赤から素に、そして再び真っ赤に頬染めて膨らませる。
「そうだね……君ってそういう奴だよね」
何故か怒ったように言ってそっぽ向く。
幸は、訳が分からず首を傾げる。
「ま……まあ、そんな訳で彼らは気を使って私に匂いの強い嗜好品とかポプリとかを勧めてくれるの」
海凪は、何かを誤魔化すように頬を赤く染めたまま早口で言う。
「自分たちの臭いで迷惑かけないように……って」
「あの執事さんたちが?」
「そうよ……あの人達……元々人間だから」
海凪は、小さな声で呟き、フィルターに少しだけお湯を落とす。
花が開くようにコーヒーの香りが部屋の中に広がる。
「お母さんが治める海で亡くなった人をベースに創ったんだって言ってたわ。どういう方法か分からないけど。身の回りのことや……子育てをさせるために」
海凪は、コーヒー粉が程よく蒸れたことを確認し、再びお湯を落とす。
「私ね。あの人達に育てられたの」
ゆっくりとポットを動かし、のの字を書く。
甘い香りがゆっくりと広がっていく。
「身の回りのこととか、勉強とか、良家の娘に必要な礼儀作法とか……全て……」
海凪は、動かなくなった母を見る。
「あの人の後継になるために」
幸は、何も言わずに前髪に隠れた目を海凪に向ける。
「私ね。あの人の八百人目の子どもなんだって」
ポットの注ぎ口を上げる。
雫が一滴こぼれ落ち、コーヒー粉の中に落ちていく。
「八百比丘尼って知ってる?人魚の肉を食べて不老長寿になった尼さんのこと?」
「ラノベとかではよく出るね。古い名作漫画にもちょこちょこ」
「母はね。自分がソレだったんじゃないかって言うの?先代のことなんて知りもしないけど、自分が今の存在として認識してちょうど八百年くらいだしお前も八百人目の子だからちょうど良いのかもなと笑ってた」
「ひょっとして皆月さんが選ばれたのって?」
「そう。八百人目の子どもだから。自分で私のこと失敗作って言ってるのにおかしいでしょ?」
海凪は、悲しそうに苦笑する。
「つまり七百九十九人目だったら選ばれなかったってことよ」
幸は、何も言わずに前髪に隠れた目で海凪を見る。
「お母さんはね。いろんなところからたくさんの男の人の精子を買って自分に宿して生んだの。それこそ八百人。一年に一人の計算ね。会ったことはないけどたくさんの姉妹が私にはいたってあの人達は教えてくれたわ」
そして誰一人としてアクエリアスのお眼鏡には敵わず精子の提供先に返されるか里子に出されたらしい。
信じられない額の金銭と要求を叶えて。
「ひょっとしたらこの街にも私の知らない姉妹達が普通に生活してるのかもしれないわ」
海凪は、ドリッパーのコーヒーが落ちたのを確認して再びドリッパーにお湯をのの字に注いでいく。
「この屋敷を出された子達はあの人達の手によって立派な教育を受けている。きっと一般社会に出ても普通に生活出来てるはず」
「皆月さんみたいに?」
「そうね。全部無駄になるけど」
海凪は、皮肉っぽく笑う。
「私が母になったらそんなもの必要ないものね」
海凪は、お湯が落ち、螺旋を描かれるコーヒー粉をじっと見る。
「やっぱり……神化したくない?」
「しないと世界は滅びるんでしょ?」
「アクエリアスは水と海を司るもの。不在になった時の影響は計り知れない。それにあれだけの力が奈落のものになることは避けないといけない……らしい」
「らしいって……」
海凪は、思わず小さく笑う。
「分かってないの?」
「雇い主の受け売りだからね。勉強した訳じゃない」
幸は、ヘラっと笑う。
「特待生なのに」
「君もね。それに前も言ったけど君より出来が悪い」
そう言って二人は笑い合う。
「正直ね……世界なんてどうでもいいの」
海凪は、ポットを置く。
ドリッパーからコーヒーが落ち、ガラスの器に溜まっていく。
「ただ、あの人達に消えて欲しくないの」
幸の脳裏に魚介類の執事達の姿が浮かぶ。
「あの人達は……私の大事な家族だから」
海凪は、そっとポットを置く。
「……あの人達が腐りかけてるのは君のお母さんが死にかけてるからだ」
「知ってる」
「君がアクエリアスを継げば彼らも復活する」
「知ってる」
「そして君が継いだ瞬間、君からも彼らからも思い出は消える」
「……」
「新たなアクエリアスとしてリセットされる」
「……知ってる」
海凪は、カップを二つ、自分の前に寄せる。
「コーヒーの淹れ方……あの人達から教わったの」
ガラスの器を手に取る。
「初めてちゃんと淹れられた時、とっても喜んでくれた。褒めてくれた」
海凪は、そっとコーヒーをカップに注いでいく。
華やいだ香りが広がっていく。
「テストで百点取った時も、一人で寝られるようになった時も、お化粧を上手に出来るようになった時もあの人達がたくさん褒めてくれた。面倒を見てくれた」
コーヒーがカップを満たす。
「お母さんより……ずっと私にとっては親だった」
海凪は、もう一つのカップにコーヒーを注ぐ。
「私は……あの人達に消えて欲しくない。例えお互いが全てを忘れたとしてもずっと一緒にいて欲しい。だから……私はアクエリアスを継ぐ」
カップにコーヒーが満たされる。
ガラスの器を置く。
海凪は、コーヒーの注がれたカップをそっと持ち上げて幸に渡す。
「貴方も……私のことを忘れるのかな?」
「うんっ」
幸は、カップを受け取る。
「死前湯灌を終えた瞬間、古いアクエリアスの歴史は全て新しいアクエリアスに引き継がれる。そこに……思い出が入る余地はない」
「……そう」
海凪は、小さく笑う。
「せっかく友達になれたのに残念ね」
海凪は、自分もカップを手を取る。
幸は、ヘラっと笑った口を丸くする。
「僕たち……友達だったんだ?」
「違ったの?」
海凪は、可愛らしく頬を膨らませる。
「私は、ずっと友達だと思ってたよ」
幸は、丸くした口を閉じ、背筋をぎゅっと伸ばす。
そして嬉しそうにヘラっと笑った。
「ありがとう。皆月さん」
「なんのお礼をそれ?」
海凪も可笑しくなって笑った。
「私が私で淹れる最後のコーヒーよ。忘れちゃうだろうけど存分に味わって」
海凪は、そっと幸のカップに自分のカップを付ける。
カンっと小気味の良い音が鳴り響く。
「私がいなくなっても友達ちゃんと作ってね」
「……そりゃ難しいなぁっ」
幸は、ヘラっと笑う。
そして海凪の淹れたコーヒーをゆっくりと味わった。




