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アクエリアス

 アクエリアスと呼ばれた女性は妖艶に口の端を釣り上げる。

「日本風に"濡れ女"って呼んでもらっても構わないよ」

「人魚じゃないんですね」

「その呼び方はありきたり過ぎてつまらないわ」

 そう言って尾鰭を床に打ち付ける。

 雫と共に銀と青の鱗が剥がれ落ち、床を汚し、紫色の液を垂らして腐臭が破裂するように広がる。

 海凪は、鼻と口を押さえ、表情を歪ませる。

「見えるかい?」

「はいっ……うじゃうじゃと」

 幸とアクエリアスの会話に海凪は口を押さえながら目を震わせ、彼女を見る。

 しかし、海凪の目には無惨に腐敗するアクエリアスの姿しか映らない。

 しかし、幸は違った。

 前髪に隠れた幸の目がアクエリアスの美しくも腐敗した身体を、その身体に絡みつき、しがみ付き、貪り食う無数のそれら(・・・)をじっと捉える。

 アクエリアスの身体にまとわり付いた黒く、小さく、醜い人のような形をした何かを……。

 それらはアクエリアスの柔肌をヤスリのような舌で舐めて肉をこすり落とし、醜く歪んだ爪で鱗と肉を剥がし、身体に反比例した巨大な顎で肢体を食い千切る。食いちぎられた箇所から青色の液体が飛び散り、紫色の唾液が染み込み、腐臭を上げて腐らせる。

 それらはアクエリアスの身体を楽しそうに貪りながら大きな顎の真上に縦に見開かれた赤い単眼を一斉に幸に向け、どす黒く睨みつける。

聖人(お前)が来たことに気付いたようだ」

 アクエリアスは、自らの身体を貪り、蹂躙していくそれらの反応を面白そうに見る。

「このままでは私は後一刻もしない間に食われ、魂ごと奈落(タルタロス)へと堕とされることだろう」

「ですね」

 幸は、ヘラっと笑って言う。

「余裕だな」

 アクエリアスは、笑みを深める。

「仕事ですから」

 幸は、ヘラっと笑みを深める。

「報酬分はきっちりこなさせて頂きますのでご安心を」

「地獄の沙汰も金次第か。日本人はうまいことを言う」

「海外にもあるでしょ?目の上に銀貨を置いて……」

「三途の川の渡し代。この国なら六文銭というのだったか?」

 アクエリアスは、面白ものでも読んだように楽しそうに笑う。

「君に相応しいな。船頭くん」

 アクエリアスの言葉に幸はヘラッと笑う。

「それじゃあ始めてもらおうか」

 アクエリアスは、きつく目を細める。

死前湯灌(アスクレピオス)を」


 (ゆき)は、白い喪服の内ポケットに手を入れ、ゆっくりと抜き出すとそこに握られていたのは複雑な紋様の描かれた銀色のスキットルだった。

「景気づけに一杯やるつもりかい?」

 アクエリアスは、面白そうに笑って尾鰭を床に打ち付ける。鱗が弾け飛び、腐り溶け、腐臭を漂わせる。

「まだ、高校生ですよ僕は。娘さんと同じ」

 幸は、ヘラっと笑う。

 海凪(まな)は、口元を押さえたまま眉を顰めて幸とアクエリアスを見る。

 幸は、親指で弾いてスキットルの蓋を開ける。

 小指程度の小さな穴から星空がこぽりっと溢れ出る。

 とろりっとした銀色の星屑を散りばめた闇の空は幸の手を汚し、粘着質なスライムのようにぽとりっポトリっと床に落ち、その身体を広げていく。

時の神(クロノス)か……」

 アクエリアスは、興味深げな青色の目を回す。

「聖人は奇なものを持っている」

「ほんの血の一滴ですけどね」

 幸は、ヘラっと笑う。

 クロノスと呼ばれた闇の空は次々と溢れては床に落ちて広がりながらアクエリアスの尾下を埋め尽くしていく。そしてさらに面積を増やしていきながらその身を宙へと持ち上げ、アクエリアスの身体を風呂敷のように覆っていく。

「私を時の中に封じる気か?」

 アクエリアスは、青色の目をきつく細めて笑う。

「意味はないぞ」

「ですね」

 幸は、ヘラっと笑う。

「準備が整いましたら、また」

「あまり待たせるな……と言うのも変か」

 アクエリアスは、楽しそうに笑う。

「では、また一瞬後」

 クロノスが完全にアクエリアスを包み込む。

 腐臭が消える。

 空気が清浄に戻る。

 景気が美しく輝き出す。

 海凪は、黒真珠のような目を大きく見開いて口元を覆っていた手を離す。

「……母は?」

「少しの間、時の理から離れてもらった」

 幸は、空になったスキレットを足元に置く。白い喪服の内ポケットに手を突っ込み、取り出したのは虹色のチョークだった。

 虹色のチョークの表面は雨に降られたように濡れており、表面の虹は陽炎のように揺らめている。

 幸は、チョークの先端を空に向けるとゆっくりと動かす。すると、チョークの跡を虹が水に溶けた絵の具のように虚空に描かれていく。

 幸は、子どもが地面に落書きするようにチョークを縦に引き、横に引き、そして円を描き、複雑な紋様を描いていく。

 そして完成したのは俗に魔法陣と呼ばれる異形の印。

 幸は、虹色のチョークを内ポケットにしまうと虹色の魔法陣に両手を添え、思い切り突っ込む。

 幸の両腕は魔法陣の中に消え去り、海凪はその光景に目を丸くする。

 そんな海凪の驚愕など気にも止めず幸はプールの水面に手を突っ込んだようにばちゃばちゃと動かし、その度に魔法陣の表面が激しく揺れる。

 そして何かを見つけたようにヘラっと笑って引っ張り出したのは……。

「卵?」

 幸が取り出したもの。

 それはたっぷりの水が入った美しい装飾の施された瓶。

 色褪せた木で作られた小さな(ゴブレット)

 薄汚い布の上に乗った銀色に輝く塩のようなもの。

 そして目が痛くような真紅に金の筋が入った卵だった。

「ゆで卵でも作るの?」

死前湯灌(アスクレピオス)の準備だよ」

 幸は、ヘラっと笑って答える。

「君のお母さんを弔うための……ね」

 海凪は、黒真珠のような目を大きく見開き、皮肉っぽく笑う。

「貴方……本当に聖人だったのね?」

「ここまで来て信じてなかったの?」

 幸は、困ったようにヘラっと笑う。

「だって……私には何も見えないんだもの(・・・・・・・・・)

 そう、海凪には見えていなかった。

 幸が何をしているのか?が。

 海凪の目には腐敗した異形の母親が幸が銀色のスキットルの蓋を開けたら、笑みを浮かべたまま突然微動だにしなくなり、白いチョークを空に無造作に動かしたと思ったら

唐突に伸ばした手が手品のように見えなくなり、気が付いたら四つのものが現れた……そうとしか見えなかった。

「やっぱり私は失敗作なのね」

 海凪は、自虐的に笑う。

「どうしてそう思うの?」

「だって……この人()にずっとそう言われてきたんだもの」

 海凪は、笑みを讃えたまま動かない(アクエリアス)を見る。

「お前は、失敗作だ。でも他の失敗作よりは些か出来がいい。だから仕方なくお前に譲渡するって」

 海凪は、きゅっと右手で左手の袖を握る。

「譲渡の意味は?」

 幸は、ヘラっとした笑みを浮かべたまま訊く。

「知ってるよ」

 海凪は、暗い表情で頷く。

聖人(あなた)が母を弔う。そして母の持つ神性を私が受け継ぐ……つまり」

 海凪は、自虐的に笑う。

「私がこの人になる……っていうこと」


 幸は、内ポケットから何かを取り出す。

 それは黄金に輝くあまりにも鋭利な細身のナイフであった。

「皆月さんのお母さんのような存在に決まった名前はない」

 (ゆき)は、ヘラっと笑いながら黄金の刃の腹を指でなぞる。

「存在する土地によって神と呼ばれたり、妖怪と呼ばれたり、最近だとUMAとかSCPとか呼ばれたりもしてる」

「知ってる。お母さんから聞いた」

 海凪(まな)は、きゅっと黒真珠のような目を細め、静止した時の中にいる(アクエリアス)を見る。

「君のお母さんもいろんな呼ばれ方をしてる。この国(日本)なら"濡れ女"とか"人魚"、海外なら龍女、セイレーン、ウンディーネ、そして水の女王(アクエリアス)

 幸は、銀色の粉の前に立ち、金の刃の先端を自分の指先に当てる。

 先端が指先に食い込み、赤い血が刃を伝って滴り、銀色の粉の上に落ちる。

 赤い血が銀色の粉に染み込み、小さな穴を開ける。

 刹那。

 その穴から青い泡が泉のように湧き上がっていく。

 海凪は、黒真珠のような目を大きく見開く。

「呼び方は違い、崇め方も畏れ方も違えど、彼らの伝説と伝承は各地に存在している」

 幸は、銀色の粉が青い泡になることを見届けることなく水の入った瓶に向かう。

「神性は統一されておらず、似たような存在も確認されてない。唯一種といってもいい。それでも彼らには共通する点が二つある」

 幸は、瓶の真上に黄金のナイフと空の手を持っていく。

「それは世界に一柱しか存在せず、世界の摂理に大きな影響を与えているということ。そしてその命が尽きるとその神性は奈落(タルタロス)に帰属し、存在自体が現世から消え去る。つまり……」

 刃の先端が再び幸の指先に触れ、食い込む。

「最初からこの世界にいなかったことになる」

 幸の血が瓶の中に落ちる。

「存在を記した文献も、語り継がれた伝説も全て、ネットの足跡も全て無かったことになる。そして……一緒に生きてきた者の思い出からも……ね」

 瓶中の水が澄んだ青色に変化する。

 海凪は、きゅっと唇を噛み締める。

「そして……」

 海凪は、ぽそりっと呟く。

「そうなる前に聖人が現れて、その思い出を全て洗い流し、神性(ちから)を次の者に受け継がせる……」

 海凪は、キッと黒真珠のような目を幸に向ける。

「その為に貴方は来た」

「その通りだよ」

 幸は、ヘラっと笑って血で濡れた指にハンカチを当てる。

「何もせずに放置したらアクエリアスという存在は消え、その力を奈落(タルタロス)に奪われてしまう」

 ハンカチに赤い血が染み込んでいく。

彼ら(アクエリアス達の)の力はとてつもない。世界の根幹とも言ってもいい。もしそんな力が奈落(タルタロス)に堕ちたら現世の破滅に繋がる。それを阻止し、弔い、神性を次の者に引き継がせる。それが聖人の役目」

 幸はヘラっと笑う。

「そして……次の者は前の存在のことを忘れ、ただ最初からそこにいたかのようにこの世界に存在していく……」

 海凪は、ぎゅっと右手で左の手首を握る。

「そう……人としてこの世界に存在していたことも忘れ去られて」

 幸は、海凪の方を見る。

「だから君に聞きたい」

 海凪は、弾かれるように顔を上げて黒真珠のような目を幸に向ける。

「思い出を全て捨てて生きる覚悟はあるのか……と」

 幸は、前髪に隠れた目でじっと海凪を見た。

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