西洋館
幸は、足を止める。
彼の目の前に広がるのは色褪せた白地の西洋館だ。
日本でも有数の港町である市には開国以来、様々な外国人官僚や商人が住み、西洋館と呼ばれる西洋様式の建物が建てられた。
ちなみに関西の方の港町では幕末から明治期に建てられたものを異人館、大正期から戦前昭和期まで建てられたものを洋館と呼ぶらしい。
建物に詳しくなく、これからも関わろうと思っていない幸には目の前の建物が異人館と呼ばれる年代に建てられたのか?それとも洋館と呼ばれる年代に建てられたものなのかなんて分かるはずもない。
しかし、この西洋館が他の西洋館と比べて異質だということは分かった。
それを象徴するのが……。
「人魚」
幸は、ぽそりっと呟く。
逢魔時の日に焼けた色褪せたとんがり屋根、その前に付いているのは"風に向かって雄々しく立つ"と言う軍事国家らしい意味合いを持った風見鶏ではなく、軸となる芯が歪み、今にも崩れ落ちそうに歪んだ真鍮製の水瓶を掲げた人魚だった。
「インターフォンは……ないか」
アンティークを通り越して朽ちかけた門扉とそれを支える石の支柱には文明の利器とも言えるインターフォンは見当たらない。
そっと鉄格子の門に触れると、それだけで錆びついた大きな音を立てて開いた。
「インターフォン代わりかな?」
幸は、皮肉っぽくヘラっと笑いながら敷地の中に入る。
生臭い。
腐乱した魚の死体が戦場の如く大量に投げ捨てられているのではないかと錯覚するようなえげつない臭いが敷地の中を充満している。
しかし、辺りを見回しても魚の肉片一つ落ちてない。
かつて丁寧に刈られ、青々とした芝生だったと思われる伸び切った雑草の海と乱獲された珊瑚のように朽ち果てた木々、そして深海に沈んだモニュメントのように崩れた枯れ果てた噴水と彫像が転がっているだけだ。
「時間がないな」
幸は、ヘラっと笑って呟きながらひび割れ、隙間から雑草の生えた石畳を歩き、屋敷へと足を進める。
白地の屋敷の前に立ち、屋根を見上げると崩れかけた真鍮の人魚と目が合う。
人魚は、雨風で錆びつき、枯れた涙を流したような無機質な目でじっと幸を睨みつけている。
まるで別の世界から襲いきた外敵を視線で滅さんように。
幸は、人魚から目を逸らし、屋敷に入るための門に目を向ける。
庭と屋根同様に色褪せ、朽ちかけた分厚い木の扉。その表面には屋根と同様に真鍮の板で鮮やかに彫られた水瓶を持った二体の人魚のモニュメントが左右の扉に阿吽の像のように飾らせ、無機質な視線で幸を睨みつけてくる。
「さて……どう呼び出そう?」
幸は、ヘラっと笑いながら困ったように呟く。
外側の門扉と同様にインターフォンのようなものは見当たらないし、古い西洋館の扉には付き物のドアノックハンドルも付いてない。
だからと言って大声を上げて呼ぶのは……。
「失礼ですよ……ね?」
幸は、自分を睨みつけてくる二対の人魚のモニュメントにヘラっと笑いかける。
その時だ。
扉が建て付けの悪い音を立ててゆっくりと開く。
薄く開いた扉から現れたのは……。
「船頭……くん?」
少女の驚く声が幸の耳に入る。
「皆月……さん?」
幸も同じように驚きの声を上げる。
扉の奥から姿を現したのは幸の通う進学校の生徒会長、皆月海凪であった。
いつもの制服ではなくレトロな黒のスカート長いアンティークドレスに身を包んだ海凪は黒い髪と黒真珠のような目と相まってまるで暗黒の地から抜け出た姫君のような暗く、妖しい美しさを醸し出していた。
「なんで……貴方がここに?」
そう言って驚く海凪は、学校の彼女と変わらなかった。
「皆月さんこそ」
幸は、ヘラっとした笑みに驚きの声を乗せる。
「ここ……私の家だもの」
「家……?」
幸は、眉を顰めるように顎に皺を寄せる。
「それじゃあ君は……」
「私のことはいいの」
海凪は、黒真珠のような目をギュッと細める。
「ひょっとして……貴方が聖人なの?」
疑うように幸をじっと見る。
「あの人が言ってた……田中葬儀社の?」
「はいっ」
幸は、小さく頷く。
「僕が聖人だよ」
海凪の黒真珠のような目が大きく見開く。
そして幸の身体を隅から隅まで舐め回すように見る。
「……そう」
海凪は、小さく呟くとゆっくりと建て付けの悪い扉を開く。
「どうぞ入って」
海凪は、扉の取手をもったまま半歩下がる。
「お邪魔します」
幸は、小さく会釈して屋敷の中に入った。
生臭い。
屋敷の壁から、絨毯から、窓から、飾られた絵から、調度品から、ありとあらゆるものから大量のシュールストレミングの缶詰が破裂したような臭いが押し潰さんと建物を押し潰さんと充満している。
常人なら入った瞬間に嘔吐反射して逃げ出してしまうレベルの悪臭、しかし、幸も、海凪も平然とした表情で屋敷の中を歩いていく。
庭や門扉と違い、屋敷の中はとても整然としていた。
掃除が行き届き、窓はダイヤのように輝き、窓枠には埃ひとつない。絵も一ミリも歪むことなく真っ直ぐ飾られ、調度品も購入したばかりのように輝いている。
「庭とは偉い違いだと思ったでしょ?」
幸の前を歩く海凪が小さな声で言う。
「そうだね。驚いたよ」
幸は、言葉を濁すことなくヘラっと笑って言う。
振り返って幸の顔を見た海凪は、黒真珠のような目を一瞬大きく見開き、クスッと笑う。
「本当に船頭くんなんだね」
海凪の言葉に幸は小さく首を傾げる。
「どう言う意味?」
「そのままの意味よ」
海凪は、クスッと笑う。
「普通、同級生の……しかも隣の席の男の子が聖人だとか思う?思わないでしょ?」
「……まあ、確かにそうだね」
幸は、ヘラっと笑う。
「普通は思わないね」
「でしょう?」
海凪も楽しそうに笑う。
その顔は幸の知る同級生の海凪そのものだ。
しかし、その笑みは直ぐに消える。
「貴方も驚いたでしょ?」
廊下の先を真っ直ぐ見つめながらぼそりっと言う。
「私がいて」
「そりゃね」
幸は、ヘラっと笑う。
「そんな気配……まったくしなかったから」
「でしょうね。私は……失敗作だから」
海凪は、視線を床に落とし、小さく呟く。
幸は、ヘラっとした笑みをやめて力ない海凪に顔を向ける。
「それにしても来るのが遅かったんじゃない?もう少し早く来る予定だったけど」
幸が来るのは夕暮れになる前だったはずだ。
「ごめんね。社長についさっき言われたからさ。夕飯の準備をしてなかったんだ」
幸は、ヘラっと笑って謝る。
「夕飯って……妹さん?」
海凪は、綺麗な眉を顰めて言う。
「そうっ。あいつ家事が苦手だからさ。準備しとかないと適当にカップ麺齧って終わりにするから」
「カップ麺を齧る?」
「そう、封を開けてそのままバリバリ齧るんだ」
幸は、即席の固い麺をハンバーガーのように齧る真似をする。
「それはまたワイルドね」
海凪は、目を丸くする。
「一人で大丈夫なの?」
「まあ、準備すればね。温めるのは出来ないから冷めたままになっちゃうのが可哀想だけど」
そう言って切なそうにヘラッと笑う。
そこまでの話しを聞いてひょっとして妹には少し障害のようなものがあるのではないかと海凪は察した。
そうでなければいくら妹が可愛いからと言って幼子でもない限り幸がここまで世話を焼こうとする説明が付かない気がする。
「それじゃあ尚のこと呼び出して申し訳なかったわね」
「そんなことないよ。これも仕事だし給料に色もつけてもらえるから」
幸は、ヘラっと笑う。
「それに……君達にだってこれは大変なことだから……ね」
幸の言葉に海凪の黒真珠のような目が小さく震える。
「そうね……大変なことなんだと……思うわ」
そう言って海凪は前を向く。
その後は、二人とも話すとこともなく黙々と廊下を歩き続ける。
そして一番奥の大きな扉の前で歩みを止める。
「ここよ」
「だよね」
幸は、ヘラっと笑って大きな扉を見る。
「分かるの?」
「ここの臭いが一番強いから」
海凪は、鼻の頭に皺を寄せる。
そしてじっと扉を見る。
「今日で……終わりなんだよね?」
「だから、僕が来た」
幸は、ヘラっと笑う。
「覚悟は……出来てない?」
「何の覚悟?」
海凪は、不快げに幸を見る。
「神化することに」
幸は、小さく呟く。
「そして永久の別れに」
「分からないわ」
海凪は、悲しげに目を細める。
「私は……失敗作だから」
海凪は、そっと扉に手を添える。
「お母様。聖人が参りました」
扉に添えた手に力を込める。
「入ります」
海凪は、ゆっくりと扉を開いた。
凝縮された悪臭が水瓶から溢れ出るように空気と共に放たれ、幸と海凪の身体を叩きつける。
流石の海凪もあまりにも酷い臭いに頬を叩かれたように顔を反らすが幸は平然とぽっかりと開いた扉の奥に身体を向ける。
ピシャンッ。
しっとりと濡れた何かが固いものを叩く音が聞こえる。
「ほうっ。私の腐臭を受けても何も感じぬか?」
部屋の奥から背筋を震わせるような艶かしい女性の声が届いてくる。
「どうやら本当に聖人らしいね」
喉仏を転がすように笑う。
「入っといで」
女性の言葉を受け、幸は海凪の顔を見る。
海凪は、血の気のない顔で弱々しく頷く。
幸は、部屋の中に入る。
臭いが幸の身体を叩きつける。
海凪は、噛み締めるように足を一本踏み出して幸の後ろに続く。
「案内役が後ろから付いていきてどうするんだい?」
女性の言葉に海凪の身体が小さく震える。
「本当に失敗作だよ。あんたは」
女性は、呆れるように言う。
海凪は、俯き、小さな子どものように身体を震わせる。
幸は、それに気付きながらも声をかけず、前を、目の前にいる存在に目をやる。
そこにいたのはあまりにも異形な光景だった。
海藻のように縮れ、べっちょりと濡れ、雫を垂らし続ける黒髪。
一糸纏わぬ凍えるような白い肌に豊満な胸を晒し出した赤黒い肉芽を剥き出し青い液体をを垂らし続ける上半身。
そして海獣に食いちぎらられ、骨と肉を晒し出したような燻んだ銀と青の混じった鱗に覆われた大きな尾鰭を蠢かす魚のような下半身。
その姿はまるで人魚の屍体のようであった。
しかし、その顔は……。
「どうかしたかい?」
女性は、愉快そうに笑い、海凪そっくりな自分の顔に触れる。
「その子の霰のない姿でも想像して勃起したかい?」
女性は、喉を転がすように笑い、青玉のような青い目を向ける。
「お母さん!」
海凪は、声を荒げようとするも臭いを食らってしまい、思わず咽こみ、吐きそうになる。
その様子を女性は侮蔑の目で見る。
「情けない。本当に失敗作だね。あんたは」
女性は、吐き捨てるように言う。
「こんなのに譲渡しないといけないなんて……」
女性は、幸を見る。
「あんたどう思う?」
しかし、幸は女性に問われても何も答えない。
「余計なことは言わないか。聖人らしい」
女性は、ふっと笑う。
「あんた名前は?」
「船頭幸と申します。娘さんとは同級生です」
「私が何だか分かってるよのね?」
「はいっ存じてます。水の女王」
幸は、ヘラっと笑って答える。




