田中
「幸くんお疲れ様ぁ!」
休憩室にやってきた幸の顔がとんでもなく柔らかいものに押し潰される。
甘い匂いと二つの質量の暴力が幸の顔を挟みこみ、陸にいながら溺れそうになる。
幸は、両手を振り回してもがもがモガモガ呻きながら抜け出そうとするが、脳の酸素が欠乏し、暗い視界が黒くなり……。
「あーっごめんっ幸くん」
唐突に圧迫から解放され、視界が広がり、身体中に酸素が取り込まれる。
幸は、ハアハアと口呼吸しながら幸は前髪を整える。
「ごめんねえ。あまりにも幸くんが可愛くてついっ」
幸を窒息死させようとした犯人はまったく悪びれもなく笑い、可愛く舌を出す。
そこにいたのは黒いベストにタイトスカートを履いた幸と同じ年か少し下に見える女性だった。
ふんわりとしたショートヘアの黒髪、人目を引く中性的で美しい顔立ち、背は高く、線も細いがその胸はとんでもなく暴力的に膨らんでいる。
しかし。最も特徴的なのは目だ。
三白眼と呼ばれる不思議な形の目。
その目が宝石を嵌め込まれた指輪のように彼女の美しさを際立たせていた。
「桃さん」
幸は、前髪を指先で梳かしながらヘラっと笑う。
「いきなり抱きつくのは本当やめてください。いつか死にます」
幸が溺れた原因。
それは桃による強烈なハグ……と言うよりもハグによって起きた二つの巨大な質量による圧迫だった。
桃には少し変わった性癖があり、可愛いと思ったものに本能的に抱きついてしまうのだ。
「危うく僕が納棺されてしまうところでした」
「それは理想的な昇天死だね」
桃は、悪びれもなくにっこり笑う。
「その時は、私が可愛く洗ってあげるね」
「……遠慮しておきます」
幸は、ヘラっとした笑みを引き攣らせる。
「無事……納棺は終わったようね」
「はいっ先生の教えが良かったので」
幸は、ヘラっと笑う。
桃は、この葬儀社で唯一の納棺師で幸に仕事を教えた先輩でもあった。
「違うわ。幸くんの覚えがいいからよ」
桃は、嬉しそうに笑う。
「そして貴方の心が綺麗だからよ。だからご遺族にも、故人にもその事が伝わるの」
桃は、優しく三白眼を細める。
幸は、少し嬉しそうにヘラっと笑う。
「今、お茶淹れるから座ってて」
「いや、桃さんもお仕事終えたばかりですからいいですよ」
桃は、もう一つの祭壇で湯灌の儀を終えて戻ってきたばかりだった。
「それにもう帰って夕飯作らないと……」
「お茶くらいは飲めるでしょ?それに……」
桃は、可愛らしくにこっと微笑む。
「お母さんに逆らうの?」
そう言われ、幸はヘラっとした笑みを浮かべたまま喉を鳴らす。
同じ年……下手をすると年下に見える桃だが実は幸の二倍の年齢でしかも高校一年生の息子のいるシングルマザーなのだ。
しかも息子は幸と同じ進学校に通っている。学年が違うので会ったことはないが……。
その為か、幸をやたらと息子扱いするのだ。
そして幸も「お母さん」と言われると逆らえなくなってしまう。
幸は、困ったようにヘラっと笑いながらテーブルに座る。
桃は、満足げに微笑み、部屋の隅にある流し場に置かれた古い急須に茶葉を入れ、ポットのお湯で少し蒸らしてから再度注ぎ、二人分の湯呑みに緑茶を淹れる。そして冷蔵庫から小さなタッパーを取り出して湯呑みと一緒にお盆に乗せて幸の元に運ぶ。
「お茶請けに」
桃は、緑茶の入った湯呑みを置いてからタッパーを置く。
「卵焼き?」
幸は、ヘラっと笑って呟く。
タッパーには色鮮やかな卵焼きがぎっしりと入っていた。
「美味しそうでしょ?」
桃は、にっこりと微笑んで幸の隣り座る。
何故、向かい側でなく隣なんだろうと疑問が浮かぶが口にしない。するだけ無駄な気がした。
桃は、爪楊枝を幸に渡す。
「食べてみて」
「そんな沢庵感覚で」
幸は、ヘラっと笑って突っ込みながら爪楊枝を受け取り、卵焼きに刺して口に運ぶ。
「どおっ?」
「甘くて美味しいです」
本当に美味しい。
程よい砂糖の甘みに出汁から出る僅かな塩味。そして雲を噛んでるような柔らかな食感。
この一切れで白米一杯は軽くいける美味しさだ。
「本当、良かったぁ!」
桃は、両手を広げてぎゅぅっとゆきを抱きしめる。
「唐突に抱きしめないでください。思春期と死期が同時に襲ってきます」
幸は、ヘラっとした笑みを固めて割と本気で言う。
「だってぇ。嬉しかったんだもん」
桃は、両手を軽く握って口元に持っていってウルウル目で言う。
その姿は年上にはまったく見えず、むしろ頭を撫でたくなるくらい可愛い。
「でも、なんで急に卵焼きを?」
幸は、疑問を口から出し、それで出来た隙間を埋めるように卵焼きを口に入れる。
「義理の娘ちゃんの得意料理なの」
「はいっ?」
義理の……娘?
幸が疑問に思ったことに気づき、桃は説明する。
なんでも息子ちゃんに友達以上恋人未満の仲の良い年上の女の子(幸と同じ進学校の二年生で文句のつけようのない清楚な美少女らしい)が出来て、その娘が料理上手で息子ちゃんにお昼休みにお弁当を作ってきて振る舞うのだそうだ。
息子ちゃんは彼女の作るおかずの中でも甘過ぎる卵焼きが大好物らしく、家に持って帰ってきてまで食べているらしい。
「私ね。この仕事をしだしてからロクにご飯を作ってあげられてなくてさ……」
いつも明るい桃の表情に憂いが浮かぶ。
「いっつも出来合いのものばっかりで。あの子も気を遣ってかお昼はボランティアでもらったシウマイ弁当とか夕食はファーストフードのハンバーガーで済ませてくるの。それが申し訳なくてさ」
桃は、申し訳なさそうに俯き、下唇を噛む。
「だからあの子に手作りのご飯を作ってくれる娘が出来てとっても嬉しいの」
桃は、寂しそうに、しかし嬉しそうに小さく笑う。
幸も思わずヘラっとした笑みを深める。
「でも、やっぱり後ろめたさは消えなくてね。久々に作ってみたんだけど……」
息子ちゃんが大好きな卵焼きを。
「美味しいか自信がなくって……」
桃は、指をモジモジさせながら上目遣いに幸を見る。
本当に年上に見えない。
「僕に毒味をさせた訳ですか?」
「ごめんねぇ」
桃は、申し訳なさそうに言う。
「構いませんよ。別に」
幸は、もう一切れ口に放り込む。
「あの子……食べてくれるかな?」
「食べますよ。きっと」
「でも、ずっと作ってなかったから……私のご飯の味なんて忘れちゃってと思う」
桃は、自信なげに俯く。
「覚えてますよ」
「えっ?」
桃は、はっと顔を上げる。
「桃さんが心を込めて作ったご飯です。記憶を無くしてたって絶対に有り得ません」
桃の三白眼が大きく見開く。
「きっと大丈夫です……桃さんとの思い出は……きっと色濃く残ってますよ。だって……」
幸は、ヘラっと、優しく笑う。
「大好きなお母さんの料理ですからね」
桃の三白眼に涙の膜が浮かぶ。
顔を反らして両手で覆い、肩を震わせて小さく嗚咽する。
「……そうかな……?」
桃は、声を震わせて言う。
「喜んで……くれるかな?」
「はいっ」
幸は、ヘラっと笑ってはっきりと言う。
「もし、食べなかったら僕が食べるので安心してください」
そう言って卵焼きを口に運ぶ。
「美味しい」
ずっと音を立ててお茶を飲んだ。
桃は、息を整え、ハンカチで顔を拭い、にこっと笑顔を浮かべて幸を見る。
「ありがとう……幸くん」
幸は、何も言わずにヘラっと笑った。
「ところで幸くんさ」
桃は、冷めたお茶を淹れ直して幸の前に置く。
卵焼きは、全て幸の胃袋に収まった。
「桃さん、僕そろそろ帰らないと……」
幸は、ヘラっと笑って困ったように言う。
「まあまあ、もう少し付き合ってよ」
「でも……」
「お母さんの言うことが聞けないの?」
桃は、頬を膨らませて三白眼で睨む。
その可愛らしくもえも言わさぬ迫力に幸は、ヘラっとした笑みを固める。
「じゃあ、あと一杯だけ……」
幸は、湯呑みを持って音を立てた啜る。
桃は、満足そうに見て自分のお茶を飲む。
「幸くんってさ。特待生なんだよね?」
「まあ一応。学費免除なのでありがたいです」
「いや、それはあくまでおまけでしょ?」
おまけとは酷い。
低所得家庭にとって学費免除がどれだけの至宝だと思っているのか?
「大学には……本当に行かないの?」
「いきません」
幸は、きっぱりと答える。
「とても学費が払えないので」
「幸くんなら大学でも特待生になって奨学金も受けれるんじゃない?」
「いや。それだと後々大変だって言ったじゃ……」
幸は、言いかけた言葉を飲み込む。
思わず既視感に飲まれて口にしたが、この話しをしたのは桃ではなかった。
案の定、桃は頭の上に?を浮かべて可愛らしく首を傾げる。
「それじゃあ幸くんは生活が大変だから大学には進学しないって言うのね?」
「はいっ特に大学行ってやりたいことがある訳でもないですし。それならお金を貯めて妹の将来に使いたいです」
そう言ってヘラっと笑う。
「妹……」
桃は、眉を顰める。
「どうかしました?」
幸が怪訝そうに言うと桃は、はっと顔を上げ、誤魔化すようにはははっと笑う。
「ごめん、ごめん!なんか幸くんって一人っ子のような気がしちゃってさ。妹って聞くとびっくりするんだよね」
「そうですか?」
「そうそう。ごめんね」
桃は、両手を合わせて謝る。
幸は、それ以上は何も言わずお茶を啜る。
桃は、視線を湯呑みに落とす。
「じゃあ、幸くんは、将来は葬儀社に就職したいの?妹さんのために?」
「そう考えてます。ここは給料もいいですし、桃さんもいますし」
いつもならその瞬間に「幸くん可愛いい!」と叫んで抱きついてきそうなものだが、桃は湯呑みを見つめたままだ。
「やめた方がいいわ」
桃の言葉に幸は、ヘラっとした笑みを固める。
「生活のことを言われたら私は何も言えない。助けるだけの財力もないしね。でも、ここの就職はやめなさい」
「桃さん?」
「死前湯灌」
桃は、ぽそりっと呟く。
幸の口からヘラっとした笑みが消える。
「桃さん……なんで」
「貴方と社長がこそこそ話してるのを聞いたの」
桃は、顔を上げて幸の顔を見る。
「それが何なのかは私みたいな馬鹿には分からないけど……何か恐ろしいことなんじゃないかっていうのはなんとなく察したわ」
桃の三白眼が幸の顔を映す。
「世界の理に触れてしまうような……」
「桃さん……」
幸の前髪に隠れた目が桃を見る。
「幸くん……」
桃は、そっと幸の手を握る。
「幸くんは、ここを早くやめた方がいい。妹さんの為にも。自分のためにも」
桃は、ぎゅっと幸の手を握り、彼の顔を見る。
「桃さん……」
幸は、ぼそっと呟く。
「僕は……」
その時だ。
「ヤーサス!諸君」
二人の背後から軽やかな声が流れてくる。
幸と桃が振り返るとそこに立っていたのは上品な作りの白いハットに白い喪服で身を包んだ美丈夫だった。
波を打つような黒髪、彫像のような深い掘りの美しい顔立ち、猛禽類のような鋭い目、背は高く、スーツ越しにも筋肉質であることが分かる。
男は、ハットの鍔を親指と人差し指でつまんで堀の深い顔立ちに笑みを浮かべて二人を見下ろしている。
「田中社長」
桃は、綺麗な顔に皺を寄せて田中と呼んだ男を見上げる。
彼の名は田中。
桃の言葉通り田中葬儀社の代表取締役であり、幸と桃の雇用主である。
「やあ、桃くん。今日も美しいね」
田中は、そう言ってにこっと微笑む。
「ありがとう……ございます」
桃は、鼻に皺を寄せたまま礼を言う。
誰に対しても愛想が良く、可愛いものを見たら抱きしめずにいられない桃にはあり得ないことだ。
「どうして……ここに?」
「社長が人足を労いにきてはいけないかね?」
田中は、形の良い眉を顰めて言う。
「人足って……」
桃は、明らかに不快げに顔を顰める。
田中は、何故、桃が不快げなのか分からないと言った様子で首を傾げてから「ああっ」と右手をグーにして左手の平を打つ。
「この国では従業員というのだったな。失敬、失敬」
田中は、ギリシャ人とのハーフらしくよく日本語の使い方を間違える。さっきの挨拶もギリシャ語だ。
「人足も日本語ですけどね」
「細かいことを気にするとその分美しさを損なってしまうぞ」
そう言って田中は豪快に笑う。
桃は、三白眼をきつく細めて睨む。
「それで……どうされたんですか?社長」
「ああっそうだったね」
田中は、本気で忘れてたと言わんばかりににっと笑う。
「終業前で申し訳ないが桃くんにもう一仕事頼みたいんだ」
「また、どなたか運ばれてくるんですか?」
葬儀社にどなたかが運ばれてくる。
つまりどこかで誰かが亡くなったことを意味する。
「ああっすぐそこの病院でな。交通事故で亡くなったとかで補修されたが相当に汚いらしい」
田中は、口の端を釣り上げて言う。
桃は、顔の皺を不快に顰める。
「桃くんなら綺麗に出来るだろう?精一杯売り込んでくれ」
「私は、エンバーマーではありません」
「資格なら取っていいといったろう?設備も揃える。それに……」
田中は、桃の細い肩に手を置く。
「君の技術は高く評価してるよ。生人してね」
そう言って田中はにっと笑う。
「ボーナスは弾むからね。よろしく頼むよ」
桃は、三白眼で田中を一瞥し、肩に置かれた手を払い除けてゆっくりと立ち上がる。
「幸くん。気を付けて帰るのよ。変なことを頼まれる前に……ね」
桃は、いつもの可愛らしい笑みを浮かべて言うと田中の横を通り過ぎて出入り口に向かう。
「桃くん」
ドアノブに触れた桃の背に田中が声をかける。
「なんでしょう?」
桃は、振り返らずに言う。
「君こそ変なことを言ってはいけないよ」
田中は、そっと桃の背中に近づき、にっと笑みを浮かべた唇を彼女の耳元に近づけ、囁く。
「君は生人なのだから……ね」
桃は、何も言わず、力強くドアを開けて出て行った。
「まったく……」
田中は、肩を竦める。
「我が社のアソスは気難しい」
「貴方の前でだけですよ。社長」
幸は、呆れたように言って椅子から立ち上がる。
「桃さんは、とっても素敵な女性です」
田中と向き合い、ヘラっと笑みを浮かべる。
「その通りだ。彼女は素敵な女性だ。私のキューピッドにしたいくらいだよ。君のようにね……」
田中は、薄く目を細めてにっと笑う。
「もし……そんなことしてみろ……」
幸の気配が変わる。
ヘラっとした笑みが消え、握り潰されるような圧が身体から溢れ、田中を打ち付ける。
「湯灌なしにあの世に還してやる」
前髪に隠れた目が田中を射抜く。
その凍てつくような迫力を受けても田中はにっとした笑みを崩さず、逆に面白いものを読んだような悦を感じる。
「やはり……君を選んだ私の目に間違いなかったようだ。聖人」
そう言って笑う田中の目が一瞬だけ血のように赤く染まった。
「で……」
幸の身体から圧が消える。
「何しにきたんですか?社長?」
幸は、ヘラっと笑って訊く。
「分かってるだろう?」
田中は、にっと笑う。
「特別ボーナスだよ」
日が沈む。
俗にいう逢魔時と呼ばれる時間。
冷たく紅い日が空を焼き、地面を染め、地獄の門を開くようにありとあらゆる物体の影を大きく伸ばす。
白い喪服に身を包んだ幸は、逢魔時の冷たい日を背中に背負い、目的の場所に向かって歩いていく。
真っ直ぐに伸びた彼の影は地面を埋め尽くすほどに大きく伸びる。
それは……まるで異界の死神のようであった。




