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湯灌

 七年ぶりに会った兄は窶れた顔をしながらも失意に沈んでいた時の哀れな表情はしておらず、どこか晴れやかな表情をしていた。

 兄の娘と言う四歳の女の子は怯え、今にも泣きそうな顔をしながらも父親に縋ろうとはせず、お預けをくらった犬のようにじっと正座をしていた。

 兄も娘に気にも止めずに晴れやかな顔のまま話し出す。

「全てが終わったんだ」

 そう呟く兄の声は軽やかだった。

「復讐は……終わった」

「復讐?」

 その言葉に淑女は、ピンッと感じるものがあった。

「ひょっとして……兄さんの会社が倒産したっていうあのニュースのこと?」

「元会社な」

 兄は、苦笑する。

 兄が設立し、乗っ取られた会社が偽計業務罪や横領、そして元請け企業との癒着が公になり倒産になったと言うのはつい最近の話しで普段はネットばかりでニュースを見ない淑女も食い入るようにテレビを見た。

 そしてこのニュースを兄がどこかで見てるのではないかと思いを馳せていた。

「あれは……兄さんがやったの?」

 淑女は、恐る恐る訊く。

 兄は、小さく首を横に振る。

「お願いはした。でもやったのは俺じゃない」

 そう言って兄は隣にビクビクして座る娘を見る。

 その目は……驚くほど冷たかった。

「やったのは……この子の母親だよ」

 妹は、意味が分からず眉を顰める。

「彼女が言ったんだ。君の精子が欲しいって」

 妹の目が大きく見開く。

「落ちぶれたとは言え君は優秀だ。君の精子で構成された子は私の立派な後継になるはず。提供してくれるなら君の望みとやり直すだけの金をあげよう、と」

 もはや落ちるところまで落ちていた兄は自暴自棄に彼女の要望を受け入れ、対価として精子を提供した、と。

 四歳の子どもに聞かせるような話しではなかったので淑女は兄に話しを止めるよう言ったが兄は止まらず、仕方なく両親に娘を別室に移してもらった。

 兄は、娘がいなくなったことにも気づかず話しを続けた。

「そこからは本当に望んだ通りだった」

 兄の元には会社を起こしていた時にも手に入ることが出来なかったような大金が振り込まれていた。

 ずっと兄を悩ませ、堕としていた誹謗中傷が消えていた。

 そしてつい先日どれだけ恨んでも足りなかった裏切り者達の会社が倒産した。

 全てが自分の思い通りになった。

「俺……小さなIT系の会社を立ち上げたんだ。と、言っても従業員は俺一人でフリーランスみたいなもんだけど。誰も信用なんてできないから」

 そう言って被虐的に笑う。

「仕事は順調で、とても穏やかな日々を送ってる。今までが嘘のような……な」

 そんな時だ。

 精子を提供したあの女の使者と名乗るものが現れた。

 そいつは顔をカルト教団のような覆面で顔を隠していたが佇まいに品があり、口調もとても丁寧だった。

 しかし、微かな生臭い臭いが鼻についたと言う。

 そいつは女の子を連れていた。

 あの女と自分の精子との間に生まれた子だと。

「この子は失敗作だったから返すと言われた」

 失敗作。

 その言葉に淑女は怒りを覚えた。

「そう言われた時、てっきり金を返せとか、ようやく築いた会社と静かな幸せを奪われるのかとビクビクしたけど、使者が言うにはこの子がたまたま失敗しただけ。君の精子はまだある。だから対価を返せとは言わない」

 それを聞いて兄は胸を撫で下ろしたと言う。

 淑女は、そんな兄の態度と心境にさらに怒りを覚えた。

「使者は子どもを置いて去った。それが一年前のことだ。安堵から我に帰った俺はすぐさま使者を追いかけたがどこにもいなかった」

 どうしたものかと兄は悩み、行政に相談に行ったら何故か戸籍にはもう娘の名前が登録されており、事実上の親子になっている。経済的にも社会的にも問題がないなら兄が育てる義務があると言われたそうだ。

 しかし、兄は……。

「俺には子どもは育てられない」

 そうはっきりと言った。

「愛憎とかじゃない。むしろ無関心と言ってもいい。あの子に何の感情も持てない。持ってやれないんだ」

 兄は、力なく笑う。

 淑女の怒りはさらに沸いた。

「俺は、もう誰とも暮らしたくない。一緒にいたくないんだ。だから頼む。あの子を引き取って欲しい」

 兄は、札束の入った封筒を淑女の前に差し出す。

「どうかこれで引き受けてくれないか?必要な養育費も毎月振り込ませてもらう。いやなら施設に預けてもらってもいい。だから……頼む」

 そう言って兄は土下座した。

 淑女の怒りは頂点に達した。

 そしてあまりの情けない兄の姿に涙すら出てきた。

 淑女は、札束を兄に投げつけ「二度と顔を出すな!」追い出した。

 そして別の部屋でどう接したら良いか戸惑う両親の間で一人塞ぎ込む娘を抱きしめこう言った。

「今日からあんたは私の娘だ!」


 柄杓の水が兄の胸に落ちる。

「あの子は……ちゃんと育ったわよ」

 空になった柄杓から水滴が落ちる。

「失敗作なんかじゃないわ」

 淑女は、空になった柄杓を両手で持って丁寧に(ゆき)に返す。

 幸は、小さく首を垂れて柄杓を受け取る。

「変な話しを聞かせてごめんね」

 淑女は、苦笑を浮かべて言う。

「いえ」

 幸は、真顔で短く返す。

「もう話すことはありませんか?」

「ええっ。元々もう会うことはないだろうと思ってたし……」

 淑女は、椅子に座る娘に目をやる。

「見せたいものを見せることは出来たわ」

 そう言って小さく笑う。

「ホスピスから連絡が会った時は本当に驚いたわ。まさか私を喪主に選ぶなんてね」

 淑女は、眉を顰めて兄を見る。

「この人を看取ってくれたボランティアの子がね。こう言ったのよ。亡くなる直前、譫言のように"海香……"海香……"って何度もあの子の名前を読んでたって言うの」

 淑女の言葉に娘……海香は、顔を上げ、再び反らす。

「だからね。本当は断ろうと思ってた喪主を引き受けたの。あの子のために……ね」

 そう言うと淑女は、ゆっくりと海香の方へ歩いていく。

「ほら、何してんの?立ちなさい」

 淑女は、両手を腰に当てて娘を見下ろす。

「これが……お父さんとの最後の会話になるのよ。恨み言でも泣き言でもいいからさっさと話してきなさい」

 海香は、目を震わせて母を見上げ、ゆっくりと立ち上がると彼女の前を通り過ぎ、幸の前に立つ。

 幸は、柄杓の先を桶に浸して清水を掬うと両手で持って海香に渡す。

 海香は、丁寧に柄杓を受け取り、横たわる父と向かい合う。

 そして足元に柄杓を向ける。

「……くそ野郎」

 ピシャァ。

 海香は、刀で切るように柄杓を振る。

 清水が打ち付けるように兄の身体を濡らす。

 淑女は、目を瞠る。

 幸は、その様子を微動だにせず海香に首を向ける。

「勝手に私の名前を呼ぶな。迷惑だ」

 海香は、冷たい目で男を……父を見下ろす。

「自分が死にそうになって私を捨てたこと後悔したの?介護してくれる人がいなくて困った。残念。因果応報だね」

 海香は、せせら笑う。

 性格の悪い笑み。あまりにも酷い言葉遣い。

 しかし、淑女は注意しようとしない。

 幸は、黙ったまま何もしない。

 これは彼女と父の最後の別れの言葉なのだ。

 口を挟むことなんて誰にも出来はしない。

「私は、あんたのことを知らない」

 海香は、冷たい声で言う。

「あんたも私のこと知らないだろう?せっかくだから教えてやるよ。あんたの知らない私を」

 海香は、語る。

 淑女に引き取られてからの自分の人生を。

 淑女が他人と変わらない自分を優しく抱きしめてくれたこと。

 人の肌が初めて温かいと思ったこと。

 生臭くない火の通ったご飯が美味しかったこと。

 幼稚園に中々馴染めなかったこと。

 小学校で初めて友達が出来たこと。

 百点を取って褒められたこと。

 高校の陸上で市大会でベスト4に選ばれたこと。

 現在は歯科の短大を卒業して歯科衛生士として働いていること。

 淑女のことを本当のお母さんだと思ってること。

「全部、母さんのおかげ」

 淑女の目が大きく開く。

「あんたでも……顔を覚えてないあの女でもない。今の私があるのは全部母さんのおかげだ」

 海香の声が微かに震える。

「今日で私はあんたのことを忘れる。忘却の彼方に放り投げて母さんの娘として、一人の女として生きてく」

 海香は、柄杓を投げるように幸に差し出す。

 幸は、それをそっと受け取る。

「さよなら」

 海香は、踵を返すと態とらしく足音を立てて淑女の隣に座る。

「もういいの?」

「いい」

 海香は、短く答えてふて寝するように目を閉じる。

 淑女は、困ったように目を細め、幸に目配せする。

 幸は、小さく頷き、柄杓を桶に戻す。

「それでは洗体を行います」

 幸は、父に向かって小さく頭を下げる。

 ゴム手袋をはめ、シャワーのノックを緩めてゆっくりと男に掛けていく。

 (ぬる)いお湯が父の身体を濡らしていく。

 シャワーベッドを浴槽の中に沈め、葬儀社の用意したシャンプーで殆ど髪のない頭部を撫でるように洗う。

「……この人は……」

 唐突に幸は、話し出す。

「この人は……本当に貴方のことを捨てたんでしょうか?」


 その言葉に海香の目がかっと開き、幸を睨む。

「……あんたみたいなガキになにが分かるのよ?」

 海香は、憎々しげに唇を歪めて言う。

「小遣い稼ぎに死体を洗うあんたに」

 怒気を超えた憎悪の込められた視線と声。

 しかし、幸は、平然とした氷上で男の頭の中シャンプーを洗い流す。

「この傷……」

 幸は、そっと男の後頭部の傷をなぞる。

「相当な手術を乗り越えられたんだと思います」

 幸は、優しく優しく男にシャワーを掛けながら、大切に傷口を触る。

「病院に行ってなかったそうよ」

 淑女は、淡々と答える。

「もっと早く通院なりなんなりしてれば助かった可能性もあったらしいわ」

「これだけの傷が残る手術を一人で乗り越えた。相当なご苦労だったと思います」

「それはこの人が選んだことよ」

 淑女は、不快げに表情を歪める。

「私たちのせいではないわ」

「はいっ」

 幸は、肯定も否定もせずに小さく返す。

 シャンプーを綺麗に洗い流すと今度は洗体用のスポンジを取り、たっぷりとボディソープを付けて泡立てる。

「細いですね」

 幸は、スポンジをそっと男の首筋に添える。

「病気だったのもあると思いますがほとんど外に出ることがなかったのではらないでしょうか?肌は白いし、紫外線によるシミもありません」

「分かるの?」

 淑女は、驚く。

「なんとなく」

 幸は、男の首から胸に掛けて洗いながら言う。

「仕事の勘?」

「みたいなものでしょうか?」

 幸は、男の左手を持ち上げる。

「指先に……大きなタコが出来てます。ギターでもやってないとこんな固く大きなものは中々出来ません」

「兄は音楽なんてやってなかったと思うわ」

「そうなんですね。だとするとこれはキーボードを叩き過ぎて出来たものなのかも……」

「パソコンの叩き過ぎでタコなんて出来る?」

 自分も事務職としてパソコンを打つ日々を送ってるがタコなんて出来たことはない。

「必死……だったのはないでしょうか?」

 幸は、丁寧に男の手を洗いながら海家に前髪に隠れた目を向ける。

「貴方に会うために」

 時が止まる。

 海香の目が大きく、見開き、憎々しげに歪む。

「ふざけんな……」

 海香は、怒気を込めて低い声を上げる。

「さっきっから変なことばかり言いやがって……あんたに何がわかんのよ……」

 拳をぎゅっと握りしめる。

「他人の……あんたに……」

 海香は、貫くように幸を睨む。

「その通りです」

 幸は、動揺した様子も見せずに肯定する。

「だから、これは僕の推測です」

 幸は、ボディソープを付け足す。

「恐らくですけど、この方、相当裕福でしたよね?」

「事業が成功してたみたいだからね。そうなんじゃない?」

 淑女は、眉根を寄せて呟く。

「なのに……」

 幸は、男の右手を持ち上げる。

 その指先にはほとんどマメがない。

「右手に麻痺が出ていたのに病院にも行かずに仕事を続けていた」

「えっ?」

「右足も左足に比べれば細いです。恐らく一年やそこらの麻痺じゃない。神経にも触れてただろうから付随動作もあったのではないでしょうか?それなのに……この人は取引先が訪れて救急搬送されるまで病院に行かなかった。治療するお金はたっぷりあるのに。それは何故か……」

「私に会うためだって……いうの?」

 歯軋りしながら海香は言う。

「なんで?」

「立派な姿を貴方に見せたかったんじゃないでしょうか?」

 幸は、男の手を労るように洗う。

「父親として」

 海香の顔が真っ赤に染まる。

「だったらさっさと会いにくれば良かっただろう!」

 海香は、椅子から思い切り立ち上がる。

 パイプ椅子の倒れる音が部屋の中に響き渡る。

「なんで会いに来なかったんだよ!」

 海香は、叫ぶ。

 淑女は、驚いた顔をして娘の顔を見上げる。

「プライドと後ろめたさではないでしょうか?」

 幸は、ボディソープを付け足し、男の腹部を洗う。

「プライド……後ろめたさ?」

「男は往々にして見栄張りです」

 幸は、男の陰部を洗う。

「カッコ悪い、情けない姿を可愛いに見られたくない。見せたくない。そんな自分じゃ可愛い娘の父親にはなれない。そう思ってしまったのではないでしょうか?」

「えっ?」

「よく見せたい、かっこいいと思われたい、そして堂々貴方に会いに行きたい、そんな思いに駆られて仕事に打ち込んでいた。そしてらようやく会いにいける、父親であると胸を張れるようになった矢先に病気が進行し、会いにいくことが叶わなくなった……」

 幸は、男の右足を洗う。

 死後ということを抜きにしても固く、細くなった男の右足を。

「そんな……」

 海香は、よろける。

 淑女が慌てて立ち上がって海香の身体を支える。

「そんな……」

 海香は、ぎゅっと淑女の服を握りしめる。

「そんな……そんな身勝手なことで会いに来てくれなかったの……?迎えに来てくれなかったの?」

 海香の目から薄く涙が溢れる。

「そんな……そんな……」

 淑女は、海香の身体をぎゅっと抱きしめ、頭を撫でる。

 幸は、男の左足を洗う。

「確かに……」

 淑女は、小さく呟く。

「確かに兄は優しく……そしてプライドが高かった。それに裏切られ、傷つけられてから内に篭るようになり、姿を見せるのを嫌がった。突然、現れた娘にそんな姿を見せたくない、立派になってから見て欲しいと思った気持ちは分かる。だとしても……」

 淑女は、きっと幸を、幸が洗ってる兄を睨む。

「この子に会いに来れない理由にはならないわ!」

 淑女は、静かに叫ぶ。

「バカ兄貴」

 幸は、洗い終えた左足をそっと置く。

「その通りです」

 幸は、静かに肯定する。

 スポンジにボディソープを付け足し、ハンモックの隙間に手を入れる。

「そんなのは理由になりません」

 幸は、男の背中から臀部に掛けて丁寧に洗う。

「どんなに理由付けられてもそれは相手側の単なるエゴです。本人達にとっては単なる言い訳に過ぎない」

 幸は、そっと手を抜く。

「この人もそれは分かっていた」

 シャワーのコックを捻り、緩やかにぬるま湯を流してスポンジを洗って所定の位置に置く。

「分かってたけど懇願せずにはいられなかった。だから今際の際に呼んだんです。海香……と」

 シャワーが雨のように男の身体を濡らす。

「貴方は……ちゃんとお父さんに愛されてました」

 海香は、何かの糸が途切れたように泣き崩れる。

 淑女は、優しく海香を抱きしめる。

 幸は、男の身体の泡を流し、拭き、スタッフを呼んで棺に移し、丁寧に死装束を着せ、色の落ちた顔に化粧を施す。

「終わりました」

 幸は、棺の頭元に立って両手を腹の上で組む。

 淑女に連れられて海香は、男の元にやってくる。

 まるで生きているかのような綺麗になった男の……父の顔を覗き込む。

「お父さん……」

 海香は、唇を震わせて男の頬に触れる。

「お父さん……お父さん……お父さん!」

 海香は、泣いた。

 泣いて泣いて泣き続けた。

 淑女も泣き、泣きながらも愛しい娘の背中をずっと摩った。

 幸は、何も言わずじっとその場に佇んだ。


 男の遺体を霊安室に収めるのを見届けてから海香と淑女は帰って行った。

 海香は、ずっと涙し、淑女に支えられていた。

 しかし、その顔からは険が消え、どこか晴れ晴れていた。

 幸は、二人が霊安室から出ていくのを見てからぽそっと呟く。

「貴方の気持ち……伝わったと思いますよ」

 そう言って振り向いた先にあるのはこれから安置所に移される男の遺体と……フィルムの擦り切れた映画のようにぼやけ、青い炎のように揺らめく透けた男の姿があった。

 男は、何も答えない。

 しかし、その顔には嬉しそうな笑みが小さく浮かんでいた。

「どうぞ良き思い出と共に。ゆっくりとお休みください」

 男は、お礼を言うように小さく頭を下げて……消えた。

 無音の風が霊安室を静かに流れた。



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