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聖人

「船頭……くん?」

 海凪(まな)は、痛み、血の流れる左胸を押さえながら恐る恐る(ゆき)だと思われる白い喪服を着た男に声をかける。

 それほどまでに目の前の男は海凪の知る船頭幸とはかけ離れていた。

 静かで真面目。

 暗い雰囲気で何を考えているか分からない。

 それが海凪の知る船頭幸という人物だ。

 この現実とは度し難い空間で死前湯灌(アスクレピオス)という異様な儀式を行う聖人だったと知ってもその印象は変わらなかった。

 しかし、今は違う。

 顔の半分をすっぽりと隠していた前髪を掻き上げ、素顔を晒した幸の姿。

 獣ように鋭く沸る双眸、野性のある雄々しい顔だち、強みのある笑み、そして白い喪服に包まれた細いが背の高い身体から発せられる熱く、強い威圧感。

 そのどれもが海凪の知る船頭幸とはかけ離れていた。

 そして不謹慎にも思ってしまった。


 カッコいい……。


 海凪は、血を流し続ける左胸の奥が小さく高鳴るのを感じた。

 幸は、ぽおっと自分を見つめる海凪に鋭い目を向ける。

 右手に持った青い血に濡れる黄金の刃を口に咥え、喪服の内ポケットに手を入れ、引き抜く。

 その手に握られているのは姫林檎のような小さな赤い木の実だった。

 幸は、踵を返して海凪に近寄る。

 海凪は、頬を赤らめ、痛む心臓が激しく鳴るのを抑えられない。

「食え」

 幸は、海凪の前でしゃがみ込み、赤い木の実を血の気のなくなった唇の前に持っていく。

「このままじゃ死ぬぞ。食え」

 大人かった幸からは想像も出来ない乱暴で強い、しかし変わらない温かな口調。

 海凪は、黒真珠のような目を震わせながら小さく口を開いた。

 幸は、赤い木の実を海凪の唇にくっつけ、指で押し込む。

「嚙め。食え」

 海凪は、言われるままに赤い木の実を噛む。

 酸っぱい。

 驚くくらい酸っぱい。

 海凪は、嘔吐反射しそうになるのを堪えて飲み込んだ。

 その瞬間、身体が熱くなる。

 傷ついた胸の痛みがさらに増す。

 海凪は、小さく呻いて身を丸める。

 しかし、それは一瞬のこと。

 痛みと熱はすぐに引いた。と、言うよりも消え去った。

 海凪は、身体を起こして左胸を見る。

 左胸の傷は跡形もなく消え、その代わり黒子のような青い痕が星屑のように傷があった部分を埋めていた。

「アクエリアスの摂理は引き継がれた」

 幸は、冷静に答える。

 海凪の黒真珠のような目が大きく見開く。

「でも……私……覚えてるよ……」

 海凪は、声を震わせて言う。

「貴方のことも……お母さんのことも」

 幼稚園の頃に親のことで馬鹿にされたことも、幸が同級生に教科書を隠されたことも、お昼ご飯を一緒に食べたことも、彼がここに来た時の驚きも、執事達に優しく面倒見てもらったことも、そして母の冷たい態度の意味とその裏に隠れた本当の想いも……。

 全て……全て覚えてる。

「んなの当たり前だろ?」

 幸は、そっと海凪の頭に手を置く。

「お前は……生人(にんげん)なんだから」

 心臓が高鳴る。

 黒真珠のような目から一筋涙が零れる。

「覚えてて……良かったな」

 海凪は、嗚咽する。

 恐怖と不安、そして安堵が一気に押し寄せて来る。

 海凪は、身体を丸めて泣いた。

 幸は、それを見て小さく笑い、海凪の白い背中を摩った。

 衝撃が空間を走る。

 青い異形(アクエリアス)が地鳴りのような声を上げて尾鰭を振り上げて打ち鳴らし、青い雫を撒き散らしながら部屋を破壊し始める。

 幸は、獣ような目で冷淡に青い異形(アクエリアス)を見据える。

 幸は、内ポケットに手を入れ、折りたたれた白いハンカチを取り出す。

「広がれ」

 幸の命令に応じてハンカチが広がり、マントのように大きくなる。

 幸は、大きくなった白いハンカチを海凪の裸体にかける。

「離すな。守ってくれる」

 幸は、短く告げて立ち上がると青い異形(アクエリアス)に向き直る。

 海凪は、自分の身体を包み込む白いハンカチをぎゅっと掴んで身体を起こす。

「船頭くん……」

 海凪は、青い異形(アクエリアス)を見る。

「あれって……」

「垢だ」

 幸は、短く言葉を吐く。

「何千年、何万年と溜まりに溜まった神性(アクエリアス)の垢だ。こいつから摂理だけを綺麗にしてお前の身体に収めた」

 幸は、黄金の刃の切先を向ける。

「こいつを浄化したら俺の死前湯灌(アクエリアス)は終わる」

 ビュンッと幸は黄金の刃を振る。

「世界は消えず、思い出も消えない」

 海凪は、息を飲み、白いハンカチをぎゅっと握りしめる。

「お母さん……弔ってやろう」

「……うんっ」

 海凪は、泣きながら頷く。

 

 青い異形(アクエリアス)が動く。

 眼のない能面のような顔に大きな穴が開く。

 まるで見ているだけで奈落に吸い込まれるような深く、暗い穴。

「海凪……」

 青い異形(アクエリアス)の穴から漏れたのは苦痛塗れた(アクエリアス)の声。

「助けて……助けて……海凪」

 海凪は、黒真珠のような目と唇を震わせる。

「ここは暗いの……苦しいの……」

 青い異形(アクエリアス)は、(アクエリアス)の声で苦しく、必死に呼びかける。

「私を助けて……私を受け入れて……私を解放して……」

「おかあさ……」

「違う」

 幸は、身を乗り出そうとする海凪を制する。

「アレはお前のお母さんじゃない。垢がお前の身体に戻りたくて足掻いてるだけだ」

「でも……」

「アレを受け入れたら今度こそお前はアクエリアスになるる。全てを忘れ、忘れられ、ただただ世界の為だけに存在するだけになる。それを……あの人(アクエリアス)が望むか?」

 幸の言葉に海凪の黒真珠のような目が震える。

 視線が聖杯の中で横たわる青い屍蝋と化した母を見る。

"すまない海凪"

 母の言葉が蘇る。

"幸せにしてやれなくてすまない海凪"

 海凪の目の震えが止まる。

「違う……」

 海凪は、声を絞り出す。

「アレは……お母さんじゃない。お母さん……なんかじゃない!」

 ぎゅっと白いハンカチの端を握りしめる。

「お母さんを……(おく)って」

「ああっ」

 幸は、黄金の刃に左手を重ね、人差し指を刃に乗せる。

「分かった」

 人差し指から血が流れ、刃を濡らす。

 漂う血の匂い。

 それに反応するかのように青い異形(アクエリアス)は、向き直る。

 ポカリっと開いた穴から腹奥の震えるような唸り声が響き、表面が波打ち、下半身の鱗が肉食獣のように逆立つ。

聖人(おれ)の血は甘露か?」

 幸は、ニタァと笑う。

奈落(タルタロス)の亡者にとっては猛毒。お前達にとっては快楽を与える麻薬のようなもの。さぞ美味そうに感じるだろうな?」

 幸の血が黄金の刃を赤く染める。

 青い異形(アクエリアス)は、巨軀を大きく持ち上げる。

 頭が天井を削り、顔の穴から青い雫が唾液のように流れる。

 青い異形(アクエリアス)は、雄叫びを上げる。

 刹那。

 下半身の鱗が弾丸となって幸達に向かって放たれる。

 目で追うことの叶わない横に降る青い雨。

 それは一滴でも身に当たれば即死すると本能で理解した。

 海凪は、恐怖に白い布を握りしめる。

 その瞬間、白い布が変化する。

 海凪の身体から離れ、前面に広がるとその身を折り、重なり、曲がり、重装の鎧をまとった戦士の姿に変わる。

 戦士は、大きな腕を広げ、身を低くし、青い雨を全身で受ける。

 雨と布からは考えられない金属同士がぶつかり、破壊しあうような苛烈音。

 白い騎士の身体が青く染まり、削られていく。

 海凪は、自分を守ってくれる白い騎士の背中を呆然と見ながらも騎士の前にいた幸の安否を意識する。

 彼に身を守るようなものは一つもなかった。

 彼は……彼は……。

「船頭くん……!」

 刹那。

 無数の青色のシャボン玉が舞い上がる。

 青く、瑞々しく、そして煌びやかに輝く青色のシャボン玉。

 そのあまりに幻想的な光景に海凪は目を奪われる。

 青色のジャポン玉の中にに人影が映る。

「さすが水と海を司るもの……」

 青いシャボン玉が空気に揺られて広がっていく。

 全身を青く濡らした幸の姿が現れる。

「傘が欲しくて仕方ない」

 そう言って髪を掻き上げにっと笑う幸。

 彼の手には美しい装飾の施された黄金の長剣(バスタード ・ソード)が握られていた。

「船頭くん……」

 海凪は、幸の無事な、そして雄々しい姿に歓喜の声を漏らす。

 無惨に形の崩れた白い騎士がその場に膝を付き、そのまま身体を解放し、白い布に戻ると再び海凪の身体を覆う。

 青い異形(アクエリアス)の顔の穴から呻きが漏れ、逆立つ鱗が震える。

「聖剣が怖いか?」

 黄金の剣が煌めき、青い異形(アクエリアス)の身体に反射する。

 青い異形(アクエリアス)は、身を震わせ、身体を一歩後ろに下がる。

 幸は、前髪を掻き上げる。

 青いシャボン玉が一つ弾け、霧のように霧散する。

「お前達に取って麻薬である聖人の血。それを吸って形を変えた聖剣は摂理の垢(お前達)を浄化する唯一の兵器へと変わる」

 最初の一つに連鎖するように青いシャボン玉が次々と弾け、霧となって消えていく。

「洗い落としてやる」

 幸は、聖剣を下ろして切先を床に当て、表面を削りながら青い異形(アクエリアス)に近づいていく。

 青い異形(アクエリアス)は、声を上げ、再び青い鱗雨を放つ。

 幸は、聖剣を振るい上げ、青い雨を両断する。

 そして腕を。足を、身体を縦横無尽に振い、雨を切り裂いていく。

 卓越という言葉を超えた剣技。

 切り裂かれた雨の雫は青色のシャボン玉へと姿を変えて剣圧に振り飛ばされる。

 幸は、聖剣を横凪に構える。

 青い異形(アクエリアス)は、再び青い雨を放とうとする。

 刹那。

 青い異形(アクエリアス)の胴から上と下が二つに分断させる。

 青い雫が血液のように飛び散り、青色のシャボン玉に変わる。

 青い異形(アクエリアス)の上半身が床に落ち、下半身は崩れるように倒れ込む。

 青い異形(アクエリアス)の切断面から青色のシャボン玉が湯気のように立ち登り、二つに分かれた青い異形(アクエリアス)は、悶え苦しむ。

 海凪は、口に手を当てて息を飲む。

 幸は、前髪を掻き上げる。

 獣のような目が鋭く倒れた青い異形(アクエリアス)を睨む。

「こいつっ!」

 幸は、小さく舌打ちする。

 青い異形(アクエリアス)の上半身と下半身から立ち昇っていた青色のシャボン玉が止まる。

 二つの身体は何事も無かったかのように巨体を起こす。

 刹那。

 上半身の切断部から瞬時に魚の下半身が生える。

 下半身の切断面から瞬時に上半身が生える。

「自分から分裂したか」

 幸の聖剣に触れたら泡になって消える。

 知能の欠片もない青い異形(アクエリアス)は本能でそれを察し、斬られる直前に僅自らの身体を分裂したのだ。シャボン玉になったのは僅かに触れた部分のみ。

 二つになった青い異形(アクエリアス)は、両腕を伸ばして幸に襲いかかる。

 幸は、聖剣を振るい、四つの腕を切断する。

 二体の青い異形(アクエリアス)から悲鳴が上がる。

 切断面から青いシャボン玉が舞いあがり、四つの腕が床に落ちる。

 しかし……。

 切り落とされた四つの腕が蠢き、変化し、生人サイズの青い異形(アクエリアス)の姿に変わる。

 腕を切られた二体の青い異形(アクエリアス)の手も再生する。

「めんどいな」

 幸は、うんざりしたように言う。

 でも……。

 四体の青い異形(アクエリアス)が襲いかかる。

 幸は、聖剣を振るう。

 幸の聖剣が腹に入る直前に自ら身体んさを分裂させようとする……が。

 聖剣の軌道が変わる。

 黄金の刃が分裂してない上半身に食い込み、脳天まで両断する。

 切断された青い異形(アクエリアス)の身体がシャボン玉へと変化し、弾ける。

「それだけだ」

 聖剣の軌道を読んで分裂するなら軌道を変えればいい。

 ただそれだけのことだ。

 幸は、残った下半身を縦に切り裂く。

 下半身も青色のシャボン玉となって消え去る。

 そして残った青い異形(アクエリアス)も全て切り裂かれ、青色のシャボン玉となって舞い上がる。

「分裂したければ勝手にしろ」

 獣のような目を残った二体の青い異形(アクエリアス)に目を向ける。

「何万回でも洗い落としてやる」

 青い異形(アクエリアス)達の身体が震える。

 鱗が逆立ち、再び青い雨を放とうとする。

「馬鹿の一つ覚えか」

 うんざりしたように幸は呟き、聖剣を構えようとする……と。

「ダメ!」

 海凪が叫ぶ。

 幸の身体が止まる。

 その瞬間、強い圧が幸の全身を襲う。

 青く固まったはずの執事とメイド達が幸の両腕と両足、そして全身を羽交締めする。

「こいつら……」

 綺麗(浄化)にならない程度に弱く固めていたのが仇になった。

 青い異形(アクエリアス)達のぽっかりと開いた穴が嘲るようにいやらしく歪む。

 いつの間にか幸を囲むように陣を組み、それぞれが両腕を合わせて特殊な印を組む。

 執事とメイドは、全身の力を込めて幸を押さえ込む。

 青い異形(アクエリアス)達の身体が歪み、触手のようなものを展開し、己が身体を結びつける。

「やめて!」

 海凪の悲鳴が響き渡る。

「ちっ」

 幸は、舌打ちする。

水性神化(ダーウィン)

 青い異形(アクエリアス)のどちらかかが呟く。

 青い異形(アクエリアス)達の身体が融合する。

 互いに伸ばした触手を絡ませ、溶かし、円の壁を形成するように渦を巻きながら天井まで伸び、捻り合いながら一つの形に形成されていく。

暴水竜(レヴァイアサン)

 それは醜く、硬く歪んだ凶暴な龍の顎へと変貌した。

「竜にはなれないんじゃなかったでしたっけ?」

 幸は、青い屍蝋と化したアクエリアスを横目で見て皮肉っぽく笑う。

 暴水竜(レヴァイアサン)の硬く醜い顎が開く。

 青く濡れたような炎が口蓋で燃え上がる。

 幸は、聖剣を持ち上げようとするもの執事に押さえつけられ動かせない。

 幸はら忌々しく唇を歪ませ、暴水竜(レヴァイアサン)を睨みつける。

 青い炎が激流となって放たれる。

 幸は、身じろぎの一つも出来ないまま青い炎の熱線を浴びる。

 床が熱と圧に溶けて歪み、空気が震え、悲鳴のような放射音が響き渡る。

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