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母と娘

 熱い……。

 

 左胸に抱いた青く輝く聖卵から発せられる火傷どころか燃えてしまいそうな熱に海凪(まな)は思わず手を離す。

 しかし、聖卵は胸から落ちない。

 それどころか乳房の下に深くめり込み、血管のような根を皮膚の下に走らせ、激しく脈打ち、その筋の中を青く輝く神性の血が流れているのが分かる。

 その瞬間、海凪は悟った。

 皆月海凪(自分)が存在しなくなると言うこと。

 (アクエリアス)が存在しなくなると言うこと。

 そして皆月海凪(自分)が新たなアクエリアス(自分)として誕生すると言うことを。

「お……母……さん」

 海凪は、聖杯の風呂の中で青い屍蝋となって固まった母を見る。

 悔しげに、苦しげに、そして悲しげに歪み固まった母の顔。

 あんな……あんな顔を見たかった訳じゃないのに……。

 自分が新たなアクエリアスになると決意したのは自分を優しく大切に育ててくれた執事達を消さないため。

 それは今でも変わらない。

 しかし、今になってそれだけでなかったことに気付く。

「私は……お母さんに愛されたかった」

 黒真珠のような目から青く輝く涙が零れる。

 

 母親と言うものがいる。

 それを教えてくれたのは幼稚園の年少の時だった。

「海凪ちゃんのママってどんな人?」

 その子は無邪気に海凪に聞いてきた。

 海凪は、質問の意味が分からなかった。

 それだけ海凪にとってそれは雲から木の芽が生えて森になるくらい訳のわからない事だった。

 海凪が物心ついた時、側にいたのは魚介類の頭を持った異形の執事とメイド達だった。

 彼らは海凪の世話を甲斐甲斐しく行った。

 ミルクを与え、離乳食を与え、食事を与えた。

 オムツを取り替え、トイレの仕方を教えた。

 お風呂に入れ、清潔にし、お洒落な服を着させた。

 言葉を教え、文字を教え、同じ年の誰よりも深く豊かな知識と教養を与えた。

 そんな海凪にとってもその子が言った"ママ"と言う言葉の意味をまるで理解出来ず、「それなあに?」と聞き返すとその子は馬鹿にするように「海凪ちゃんってママいないんだぁ!」と言ってきた。

 今思うとその頃から変装した執事達に高級車で送迎をしてもらっていた海凪は幼稚園の親達の間で注目され、嫉妬の的だったのだろう。そしてあの子母親いなんじゃないの?とでも陰口を叩き、それを盗み聞きしての無邪気な質問で他意はなかったのだろう。

 しかし、幼く、知の発達の未熟な海凪はお腹の底から沸いてくる黒く熱い感情を抑えることが出来ず、気が付いたらその子に殴りかかっていていた。

 近くでそれを見ていた子ども達は泣き、先生達が慌てて止めに入った。

 迎えにきた執事達に起きたことを説明し、執事達は海凪が殴ってしまった子の親に謝った。ひょっとしたら治療費のようなものも渡したのかもしれない。

 そんな執事達を見て海凪は申し訳ない気持ちで一杯だった。

 屋敷に戻るといつもは居間(リビング)でメイド達が作った手作りのおやつを食べるが、その日は違った。

 執事達は、そのまま屋敷の奥にある部屋に連れて行った。

 普段は、近づいてはいけないと言われ、足すら向けないのに何故連れてこられたのか?

 それが分かったのは次の瞬間だった。

「オカア様ガオ待チデス」

 そう言って扉が開かれる。

 生臭く、どこか温かい匂いが幼い海凪の身体にぶつかる。

「お前が娘か?」

 厳かな声を放ったのはどう見ても人間ではないものだった。

 光沢のある銀と青色の混じった滑らかで美しい尾鰭、一糸纏わぬ、水に濡れたようにしっとりとした美しく白い肌に艶かしい身体、そしてどこか自分に似た妖艶で美しい顔だち。

 それは少し前に幼稚園で先生が読み聞かせしてくれた人魚そのものだった。

 そして同じ年の誰よりも聡い海凪は理解した。

 この人が自分の母親だ、と。

 そして人間とはまるで異質な存在なのだ、と言うことを。

 海凪は、急速に自分の心が冷めていくのを感じた。

「学友と喧嘩をしたらしいな」

 母親は、にっと美しい唇を釣り上げる。

「勝ったのか?」

 喧嘩をしたことを窘める訳でも、その原因を聞こうとするわけでもなく、ただただ無機質に、棒が声を上げるように結果だけを聞いてくる。

「……負け……ました」

 海凪は、辿々しく答える。

「負けたのか」

 母親は、無表情になり、失望のため息を吐く。

「失敗作が」

 心臓が痛々しく跳ねる。

 海凪は、唇を噛み締める。

「オク……サマ」

 後ろに控え、変装を外して伊勢海老の頭を露出した執事が恐る恐る言葉を出す。

「オジョウサマハ……オク……サマノコトヲ聞カレ……馬鹿ニサレタコトガ許セナクテ……」

 執事は、海凪を守るように、訴えるようにその気持ちを代弁する。

 しかし……。

「くだらん」

 母親は、呆れるように嘆息する。

「覚えていけ。お前は万物の摂理たる私の子なのだ。下等な生人の子の意見などに惑わされてなんとする。そんなだからお前は失敗作なのだ」

 恐らく人間なら青ざめているのであろう、執事は身体を震わせて海凪を見る。

 海凪は、俯き、両手を強く握り、黒真珠のような目を震わせる。

「下がるがいい。腹を満たし、眠れ。そして同じ下策を二度と繰り返すな」

 そうして初めてのあまりにも無機質な親子の対面は終わった。

 執事に連れられ、居間(リビング)に行き、いつもより豪華なおやつを食べ、お風呂に入り、テレビを見て、勉強し、夕食を食べて、メイドの一人に手を握ってもらって眠りについた。

 母の夢を見た。

 白く大きな手で抱きしめられ、優しい言葉をかけて笑いかけてくれる母の夢を。

 海凪は、母親の温かい手に抱かれ、笑顔を浮かべながらこう呟く。

「ママ大好き!」

 しかし、朝になり、夢が壊れた瞬間、心に感じたことのない痛みが訪れ、大粒の涙が溢れ出る。

 泣きながら海凪は悟る。

 私には母親なんていない、と。

 それから海凪は、母親のことを聞かれても無機質に、何も反応をしなかった。

 執事とメイド達のことを今まで以上に慕い、大切にし、期待に応えようと必死に勉強した。私立の小学校に進学し、そのままエスカレート式に中学校に進み、そして進学校に次席で入学した。

 執事達はとても嬉しそうに拍手し、ご馳走を作ってくれた。

 念の為、そのことを母親に報告する。

「首席ではなかったのか?」

「はいっ。とても敵いませんでした」

「そうか」

 母親は、小さく呟き息を吐く。

「失敗作が」

 海凪は、唇を噛み締め、拳をぎゅっと握りしめた。

 

 やっぱり……私にお母さんなんていない。

 

 進学校での生活は……割と楽しかった。

 次席という成績のせいで入学当初から生徒や教師達から慕われ、気が付いたら生徒会に加入していた。

 あの首席の才女も一緒だった。

 彼女を見た瞬間、母親のことが頭に過ぎり、逃げ出したい気持ちになった。しかし、彼女は海凪が思っていた以上に優秀でそしてらとんでもなく良い子だった。気が付いたら海凪も彼女のことが好きになり、互いを認め、成長し、友達になった。

 そんな彼女から二年生に上がる頃に生徒会長に推された時は何が起きたのか分からなかったが「海凪ちゃんなら出来るよ」と太鼓判を押され、立候補し、見事に当選した。

 順風満帆な学校生活だった。

 このまま順風に卒業し、大学に入り、社会人になったらあの屋敷を出る。そしたら母親のことなんてすぐに忘れてしまうのだろう。執事達と暮らせなくなるのは寂しいが会えなくなる訳ではない。なんなら一緒に出てったっていい。そんな風に思っていた。

 しかし、そんな願望は破られる。

 二年生に上がった年、母親に呼び出された。

 彼女から呼ばれるなんて初めてだった。

 海凪は、激しく鼓動する胸を押さえながら扉を抜け、絶句する。

 母親の身体は腐っていた。

 異形で異様であまりにも美しかった母の姿は見えない獣に齧られ、削られ、抉られたかのように肉は削げて腐り、鱗は光沢を失って崩れていった。

 海凪は、呆然と母親を見た。

「時が来た」

 母親は、腐っていく自分の身体を平然と見つめながら海凪に自分の存在と運命を説明する。

 自分がアクエリアスと呼ばれる超常の存在であること。

 自分の身体が役割を終わりを迎えようとしており、奈落(タルタロス)の亡者に蝕まれていること。

 自分が消えると言うことは世界が滅びるということ。

 そうならない為に自分の神性を次のアクエリアスに、つまり海凪に引き継がないといけないこと。

 そして……。

「お前が私になった瞬間、私の存在は歴史からも記憶からも消え、お前の存在も消え去る。そして新たなアクエリアス(お前)が生まれるのだ」

 そのあまりに突然で突飛な話しに海凪は言葉を失う。

「臆したか?」

 アクエリアスは、そんな海凪を面白そうに見る。

「お前如き失敗作には背負えん業であろう」

 失敗作……。

 業……。

 確かにそうだ。

 自分みたいなちょっと頭が良いくらいの普通の女子高生にそんなもの背負える訳がない。

 でも……。

「私が継がなかったら……あの人たちはどうなるの?」

 あの人たちというのが執事とメイドであることをアクエリアスは直ぐに察し、目を細める。

「消える」

 海凪の黒真珠のような目が小さく震える。

(アクエリアス)と言う存在自体が消えるのだ。残る道理などない」

「そう」

 海凪は、きゅっと拳を握りしめる。

「分かったよ」

 海凪は、顔を上げ、腐りゆく母親を見る。

「私は……貴方(アクエリアス)になります」

 海凪がそう告げた瞬間、アクエリアスの目が小さく震えた。

「そうか……」

 アクエリアスは、短くそう答え、目をきつく細めた。

「時が来たら田中葬儀社(タナトス)が聖人がやってくる」

 田中葬儀社(タナトス)

 聖人?

「それまで……生人としての生を楽しむが良い」

 母にそう言われ、海凪は部屋を出た。

 そして次の日の学校で席替えが行われ、海凪の隣に船頭(ゆき)がやってきた。

 運命に弄ばれるように。


「ありがとう」

 青く輝く聖卵から迸る熱を、青い血(イゴール)が流れ身体が生人からかけ離れたものに変化していく痛みを感じながらも海凪(まな)は、微笑んだ。

 両手を青い泡で染め、青い屍蝋と化した母親の前で佇む(ゆき)は、驚いたように口を開ける。

「何故、礼を?」

 幸は、抱いた疑問をそのまま口に出す。

「僕は、君に恨まれてもおかしくないのに?」

「恨んだりしないよ」

 海凪は、微笑みながら言う。

 黒真珠のような目から青い涙が流れる。

「貴方は……最後に私とお母さんの心を結びつけてくれたんだから」

 幸は、きゅっと唇を紡ぐ。

 海凪は、幸の後ろにいる青い屍蝋となったアクエリアスを見る。

「お母さん……辛そうな顔をしている」

 海凪は、顔を歪める。

「あんな顔……させたくなかったな」

「……ごめん」

 幸は、小さな声で謝る。

「君が悪いんじゃないよ。君はただ仕事をこなしただけでしょ?世界の摂理と……妹さんのために」

 幸は、何も答えない。

 海凪は、心臓が鼓動が早くなるのを感じた。

 身体の細胞の一つ一つが振動し、ナノレベルで粉々になるようだ。

 頭も……ぼおっとする。

 身体という花瓶がひっくり返って、入り口から大切なものがこぼれ落ちていくようだ。

 そして蓋の底に無理やり穴を開けて別の物が注がれていく。

 ああっ忘れちゃう。

 私が……いなくなる。

 私じゃないなにか(アクエリアス)になっていく。

「ねえ、船頭くん」

 青い涙に濡れた目で海凪は、幸を見る。

 彼女の両足に銀と青の混じり合った鱗が皮膚から貫くように生え、本来の形から別のものに変化しようとしている。

「私のこと……忘れないで」

 海凪は、青い涙に濡れた顔で微笑む。

 青い聖卵を中心に太い血管が無数に海凪の血管を侵略し、大きく脈打つ。

 幸は、何も答えず、じっと佇む。

「嫌だ……どうしようあたまがぼおぅとする。私の名前……なんだっけ?」

 海凪は、青い血管が走り、変わりゆく自分の手を見る。

「貴方……誰だっけ?どうして私……ここにいるの?あっそっか……私は……私は……」

 頭の中が錯乱する。

 もう何が大切なのかも分からない大切なものが次々と消えていく。

 それなのに涙が止まらない。

 何か分からないものが失われていくのが堪らなく悲しい。

「嫌だ……嫌だよ」

 海凪は、変わりゆく自分を両手で抱きしめる。

「嫌だ……嫌だよ……怖いよ……助けてよ……誰か……誰か……」

 海凪は、ぎゅっと自分の身体を抱きしめ、嗚咽する。

「助けて……お母さん」

 海凪の胸に埋まった聖卵が激しく輝く。

 透明な青い膜が海凪の身体を包み込み、光り輝く。

 海凪の身体は青い光りに溶け、身体の形を変えていく。

 生人からアクエリアスと呼ばれる存在に。

 思考が薄らぐ。

 自分が自分でなくなる。

 私は誰?

 私は何?

 私はこの世界の摂理。

 私はこの世界に巣食う悪魔。

 私はこの世界を構成する理。

 私はこの世界を司る神。

 私は……私は……私は……。

 海凪の黒真珠のようだった目が青く輝く。

 聖卵が海凪の身体の中に沈み込み、神性が青い膜の中で膨らんでいく。

 海凪であったものは妖艶に微笑む。

「私は……アクエリア……」

 刹那。

「お前は、海凪だ!」

 ブスッ。

 痛みが走る。

 青い膜から白い袖に包まれた腕が伸び、黄金の刃がアクエリアスの左胸の下に突き刺さる。

 アクエリアスの青い目が大きく見開く。

 黄金の刃が胸の中で大きく捻られ、一気に引き抜かれる。

 青い血に濡れた黄金の刃に青く輝く聖卵が突き刺さっている。

 アクエリアスの目が青から黒真珠へと変わる。

 左胸下の傷から流れる青い血が赤く変化する。

 青い膜が弾ける。

 身体中を侵食した血管が消え去り、銀と青の鱗の剥が落ち、人間の足へと戻っていく。

 海凪は、赤い血の流れる左胸を押さえながら何が起きたか分からないまま呆然とする。

 青い聖卵が突き刺さった黄金の刃。

 それを手にした白い喪服を着込んだ聖人。

「間に合ったぜ」

 聖人……幸はにっと笑う。

 不敵で畏怖を溢れさせる笑みを。

 海凪は、背筋が震えるのを感じた。

 幸は、黄金の刃を思い切り振る。

 突き刺さった聖卵が刃を離れ、吹き飛び、床に激突して割れる。

 破れた聖卵からドロっとした青い液が溢れ、床に広がり侵食していく。

「定められた死前湯灌(アスクレピオス)は終えた」

 幸は、黄金の刃を掲げる。

 青い液体が逆転した雨のように天井に向かって無数の雫を飛ばしていく。青い雫が貪りあうように重なり、くっつき、青い泥人形となって姿を形成する。

 それはまさにアクエリアスのようであった。

 その巨大な青い異形を見て幸は小さく嘆息する。

「汚ねえ(あか)だな。まあいい」

 幸は、前髪を掻き上げる。

「ここからは……俺の死前湯灌(アスクレピオス)だ」

 獣ような鋭く双眸が姿を現す。

 獣のような鋭い双眸が妖しく、大きく、美しい青い異形(アクエリアス)を貫く。

「思い出は……決して消させない!」

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