母の想い
アクエリアスの顔が憎々しく歪む。
神とも悪魔とも万物の摂理とも称される存在が余裕のない表情で幸を睨みつける。
しかし、幸は動じた様子も見せず前髪に隠れた目でアクエリアスを見下ろす。
「……げろ……」
アクエリアスの口から泡が溢れるように声が漏れる。
「逃げろ!海凪!」
アクエリアスは、血を吐くように叫ぶ。
しかし、海凪は動かない。
身体を震わせ、青ざめた顔が驚愕に固まり、黒真珠のような目を大きく見開く。
「お……母さん……」
海凪は、泣きそうに唇を震わせる。
「私の名前……呼んでくれた……」
黒真珠のような目から涙が一筋流れる。
「初めて……呼んでくれた……」
海凪の両目から涙が溢れ出る。
「逃げろ!逃げろ!海凪!」
アクエリアスは、泣き崩れる海凪に向かって必死に叫ぶ。
しかし、海凪は動かない。
いや……。
「無駄ですよ」
幸は、冷徹に言う。
アクエリアスは、突き刺すように幸を睨みつける。
「貴方なら分かっているでしょ?いや、見えているでしょ?皆月さんがどうなっているのか……を?」
アクエリアスは、うぅっと唸りながら海凪に目を向ける。
一糸纏わず、真紅の聖卵を抱きしめたまま床に蹲って泣く海凪。
その彼女を包み込むように青く輝く透明な卵形の膜が覆っている。
それだけではない。
アクエリアスの浸る聖杯の浴槽。それを埋め尽くす青色の聖水が触手のように伸びて、揺らめきながら赤い膜を貫いて海凪の抱く聖卵の中に入り込んでいく。
聖水が入っていく度に聖卵の輝きは増し、海凪の身体がぼんやりと青く輝く。
「皆月さんは変化しています」
幸は、アクエリアスの髪に触れる。
「触るな!」
アクエリアスは、憎しみを込めて叫ぶ。
しかし、幸はそんなアクエリアスの声に動じる素振りも見せず、青い泡をアクエリアスの髪に塗っていく。
「聖水は、貴方の身体にまとわりついた奈落の亡者を消し去ります。聖灰は奈落の亡者に寄って汚された貴方の身を清め、神性を穢れと一緒に落としていきます」
まるで垢でも取るかのように幸は言う。
「聖杯は器。穢れと共に落ちた神性を清め、注いでいきます。新たな……神を生み出す卵へと」
海凪に抱かれた聖卵が赤く脈打つ。
「貴方の身を清め、全ての穢れと神性が落ちた時、皆月さんは貴方になります。現世の理に従って……ね」
アクエリアスは、唇を噛み締め、幸を睨みつける。
「何を怒っているのです?」
幸は、アクエリアスの髪を洗いながら言う。
「皆月さんを貴方にする。それは貴方が望んだことなのではないですか?」
「嫌味のつもりか⁉︎」
「そうですね。嫌味のつもりです」
幸は、アクエリアスの髪を洗う。
「やめろ!洗うな!」
「それは無理な話しです」
幸は、冷淡に言う。
「貴方が貴方自身の本能に逆らえないように僕も聖人としての役割に逆らうことは出来ません。僕が逆らうと言うことは世界を滅ぼすことと同義なので」
「ぐっ……!」
アクエリアスは、悔しげに呻く。
「お……か……さん」
赤い輝きを増す聖卵を抱きしめたまま海凪は母に声をかける。
「本当に……本当に……私を愛してくれてたの……?」
「海凪……」
アクエリアスは、悲しさと辛さの入り混じった目で海凪を見る。
「本当ですよ」
アクエリアスの代わりに答えたのは幸だった。
「この方は皆月さんを愛してる。心の底から。いや、皆月さんだけじゃない。これまで産んだ全ての子を愛してます」
幸は、淡々と言う。
アクエリアスは、殺意を込めて幸を睨みつける。
「じゃあ……なんで……なんで……」
なんであんなに冷たい態度だったの?
海凪は、そう言いたいのに涙と嗚咽で言葉に出来なかった。
アクエリアスは、苦悶に表情を歪めて目を閉じる。
「皆月さん自身の意思で出ていって欲しかった……からですよね?」
幸は、アクエリアスの髪を洗いながら言う。
「皆月さんを産んだ辺りから貴方の周辺で奈落が蠢き出した。そして亡者達が貴方の身体を蝕み出した。亡者は病魔でもなければ呪いでもない。生人で言うなれば寿命。老衰のようなもの。そしてそれを自覚して尚更に高まる神性を引き継がなければいけないという衝動。そのせいで他の子達のように理由を付けて追い払うことが出来なくなってしまった……」
幸の言葉にアクエリアスの脳裏に次々と過去の光景が浮かんでいく。
ただただ本能に従い産んでいった無精卵のような子供たち。
その子供たちに特別な感情を抱くようになったのはいつの頃からだったか?
幸の言うようにこの屋敷に住むようになってから?
それとももっと時間が経ってから。
それともずっと前から?
分からない。
分からないが……それを自覚してからアクエリアスの脳裏に本能を押し除けてでも叶えたい願いが出来た。
"子供達を幸せにしたい"
"神性の呪縛から解き放ちたい"。
それからアクエリアスは本能に沿って産んだ自らの子どもを"失敗作""出来損ない""馬鹿"と罵った。
罵ることで自らの本能にこの子はいらない、追い出してもいいと刷り込ませた。
そしてアクエリアスは、子どもたちが自分のことを認識する前に里子に出し、精子の提供先に返していった。
その度に身を千切るような絶望を覚えた。
愛する我が子を手放す罪と罰に打ちのめされた。
当然、海凪の時もそうするつもりだった。
奇しくも自分と縁の深い数字である八百番目の子ども。
顔立ちも今まで産んだ子どもたちの中で最も良く似ていた。
だからこそ、健やかに育って欲しい。
生人でしか得ることの出来ない幸せを掴んで欲しい。
そう思っていたのに……。
「あんたの言う通りだよ」
アクエリアスは、奥歯を噛み締める。
「あの子を産んだと同時に亡者どもが私に群がり始めた。そして本能が告げたのさ。あの子に私を継がせろ、と」
口の端から青い血が滲み出る。
「私は……あの子を手離せなくなってしまったのさ」
それが愛情からくる言葉でなく、呪いに近い言葉であることは幸にも海凪にも分かった。
「だから……自らの意思で出て行かせようと?」
幸は、アクエリアスの口から流れた血を指で拭う。
アクエリアスは、その指を食いちぎらんと口を広げるが叶わなかった。
「そうだ。あの子の意思で逃げ出し、私の目の届かないところに隠れればもう追えない。次の子を産む力もない。アクエリアスは……途絶えるはずだった」
「それが世界を滅ぼすことになっても?」
「世界など知ったことか!」
アクエリアスは、言葉を吐き捨てる。
「世界と我が子たち、天秤にかけるまでもない!我が子を超えるものなどありはしない!」
「お母さん……」
海凪の目から涙が絶え間なく流れる。
「お母さん……私……お母さん……」
アクエリアスは、噛み締めるように目を細め海凪を見る。
「頼む……聖人」
アクエリアスは、懇願する。
「あの子を連れて……逃げてくれ」
神とも悪魔とも、万物の摂理とも呼ばれた存在が矮小な少年に懇願する。
「お前なら出来るはずだ。この子をこの場から連れ出すことが出来るはすだ!同級生なのだろう?友達なのだろう?頼む……この子を……海凪を助けてくれ!」
アクエリアスは、必死に……必死に訴える。
しかし……。
「ダメです」
幸は、無慈悲に否定する。
アクエリアスの顔に絶望が走る。
「死前湯灌を途中で止めることは何があろうと出来ません。世界が壊れてしまうから」
幸は、アスクレピオスの髪を洗う。
波を打った髪が青く輝き固まっていく。
そしで海凪が抱く聖卵にも変化が訪れる。
赤い輝きを放っていた聖卵の色が少しずつ青く変化していく。
まるでアクエリアスのように。
「もうすぐ……神性は移譲されます」
幸は、僧侶のように重々しく答える。
「聖卵の赤は生人の血の色。それが青く染まった瞬間、彼女は変化します。貴方として新たに生まれるのです」
アクエリアスの髪が根元まで青く固まっていく。
「そして全ての神性が受け継がれたと同時に貴方は青い土塊となって世界から消えます。記憶、生きた証も、存在自体が無くなり、最初から存在しなかったことになります。つまり……」
アクエリアスの髪が根本まで固まる。
「思い出は全て消え去ります」
アクエリアスの目から涙が一筋流れる。
「……すまない」
アクエリアスは、呻くように声を吐く。
「すまない……すまない……海凪……」
「お母さん……」
海凪も涙を流しながらアクエリアスを見る。
「お前を産んでしまってすまない……過酷な運命に落としてしまってすまない……お前を……幸せにしてやれなくてすまない……すまない……」
アクエリアスは、涙を流し、嗚咽する。
幸は、そんなアクエリアスを見下ろし、冷徹にその涙に崩れた美しい顔に青い泡をつける。
「すまない……すまない……」
「大丈夫だよ。お母さん」
海凪は、青く染まっていく聖卵をぎゅっと抱きしめる。
アクエリアスの涙に濡れた目が小さく震える。
「私……ずっとお母さんに嫌われてると思ってた。だから私もお母さんのこと……嫌ってた」
海凪は、花びらを吐き出すように声を紡ぐ。
「でも、そうじゃないって分かった。本当は愛してくれててたんだって分かった……それだけで……それだけで嬉しいよ」
「海凪……」
アクエリアスは、涙に震える目で海凪を見る。
「今更かも……しれないけどお……」
海凪は、胸に抱いた聖卵をぎゅっと握りしめる。
「私も大好きだよ……お母さん」
海凪は、にっこり微笑む。
「例え忘れても……心の奥の奥でずっと慕ってるから……ね」
アクエリアスの髪が青く輝き、聖水の中に沈む。
聖卵が青く染まり、輝きを放つ。
「神性が移譲されます」
幸は、厳かに告げる。
「今までお疲れ様でしたアクエリアス」
幸は、涙に濡れるアクエリアスの顔にそっと青い泡のついた両手を乗せる。
祈りを捧げるように。
「摂理の揺籠の中でゆっくりとお休み下さい」
幸は、両手をそっと上げる。
アクエリアスの苦鳴に歪んだ美しい顔が青玉の彫刻のように目を閉じ、佇む。
「死前湯灌の儀を終えます」
幸は、そっと頭を下げる。
海凪の抱く聖卵が激しく青く輝き出す。




