第2巻 第7章:祈りが消えゆくとき
「ねえ、あなた……寂しくなるよね、本当は?」
その声があまりにも真剣だったから、以前の私なら笑い飛ばしていただろう。どうして自分がそういうものにそんな反応をしてしまうのか、自分でもよくわからない。
でも、今は――笑えなかった。
それに、彼女の問いかけは少し我が儘すぎるような気がした。こういう時、普通なら「私が寂しくなる」と言うべきではないのだろうか? それなのに彼女は、その責任を私に押し付けることを選んだのだ。
私は彼女のルールに付き合うつもりはなかった。
「ん? 思わない。忙しいし」
私はそっけない風を装って肩をすくめた。
どちらかといえば、頭に浮かんだ最初の言葉を並べ立てて、自分自身を納得させようとしていたのだ。けれど、そんな瞬間でさえ、すべてを否定したがっている自分が心のどこかにいた。
ルイーザは眉をひそめた。
そして次の瞬間、私はクッションで見舞われた。かろうじて「ちょっと!」と声を上げるのが精一杯だった。しかし、謝罪の言葉の代わりに、もう一発飛んできた。
「もうやめてよ!」
身をかわそうとしたものの、かえって状況を悪化させ、クッションは私の顔面にまともに当たった。私はバランスを崩してベッドに倒れ込み、その上にルイーザが重なってくる。
いつもの体温。声のトーン。ひそめられた眉。首筋をくすぐる長い髪。そして、彼女の体重に押されて背骨が引き締まる感覚。そのすべて、そして……。
大切な瞬間というのは、後になってから気付くものだと人は言う。けれど、ある種の瞬間は、あまりにも早く気付いてしまうもののようだ――そうなれば、もうどうすることもできない。
私たちは特定の記念日と呼ぶ日ですら、簡単に忘れてしまうことがある。数字というのは、記憶に残りづらいものだから。けれど、瞬間は違う。
それが何月であれ、何日であれ、何時であれ――それが冬だったことくらいは覚えているだろうけれど――それらの瞬間は、すでに私の中のどこかに深く刻まれている。そして、私自身が消え去る時にしか、消えることはない。
「寂しくなるって、ただそう言いなさいよ」
彼女はそう要求した。
ルイーザが私の肩を強く掴んだとき、私は思わず身をよじった。まるで彼女の指先がどこかのツボを圧迫しているかのようだったけれど――お世辞にもそれをマッサージとは呼べなかった。
私は降参するつもりはなかった。まだ、その時じゃない。
「そっちは?」
「寂しくなる」
ルイーザは短くそう言って、答えを促すように膝で私を小突いた。私の記憶にある限り、彼女がこれほど攻撃的に振る舞ったのは初めてのことだった。
それでも、彼女は私よりもずっと素直だった。自分の感じていることを表現するのに、彼女は何の躊躇もなかった。それに引き換え、私は……。
「……あー、なるよ。寂しくなる。これで満足?」
「ううん」
私の答えに納得のいかないルイーザは、言葉の代わりに私を小突き続けた。突っつかれている感覚に近かったけれど、そんな振る舞いに、私は少し苛立ちを覚えた。
まるで、力づくで自白を強要しようとする不器用な捜査官のようだった。
「あなたがいなくなると寂しくなる。本当だよ」
その言葉の直後、小突きが止まった。彼女は私の上から退き、隣に腰を下ろした。
自分の体からかすかな体温が引いていくのを感じたけれど、私はすぐにその思考を振り払った。
ルイーザの意図が、私には最後までよく理解できなかった。別れがお互いにとって辛いものだと自覚することは、余計に痛みを増すだけではないのだろうか?
結局のところ、すべてはただ元の場所に戻るだけだ。私の日常は黒や白であることをやめ――きっと、また灰色に戻るのだろう。
望むと望まざるとにかかわらず、生きていく限り――変化は避けられない。その執拗な考えが、ずっと私を悩ませていた。それでも……私はそれを受け入れるしかなかった。
私は寝返りを打ち、慎重にベッドから這い出た。ひんやりとした木製の床が、まるで小さな針のように肌に突き刺さる。スリッパを履いて、ぐっと体を上に伸ばした。
「どこ行くの?」
「トイレ」
またついて来るのではないかと思ったけれど、彼女はベッドを降りると、代わりに本棚の方へと向かった。
「今回は、ついて来ないの?」
ルイーザは私の問いに何も答えなかった。彼女は本に手を伸ばしていた。本の数はそれほど多くなかったけれど、私たちが読み終えたのはまだ一冊だけだった。それも、何度も。
本当のことを言えば、私自身も、彼女にまたドアの向こうに立たれたくはなかった。彼女は気まずさを紛らわせるためか、ひたすら喋り続けていたけれど、それは消臭剤の裏面の説明書きを読むのと大して変わらない意味しか持っていなかったから。
私は部屋を出て、姿が見えなくなったのを確認してから、ドアの枠に寄りかかった。
別れというのは、どんな一日にでもある日常の一部で、今回も普通に「じゃあね」と言うくらい、大したことではないはずだった。それなのに、今の私はこうして、今にも倒れそうな様子で壁を支えている。言葉を紡ぐどころか、ただ息をするだけで、耐え難いほどに苦しかった。
自分の感情なら理解できる。けれど――私はこれまでに一体何ができていただろう、ルイーザがこれほど私に執着するほどに。
寂しがるのは私だけなのだと、自分に言い聞かせていた。そう思う方が、少しだけ心が軽くなったからだ。そうやって、他人の感情に対する責任から逃れていた。
けれど、現実は私の都合に合わせてはくれなかった。
「良いお友達になれたのね」
言葉に続いて部屋のドアが閉まり、私は思わず飛び上がりそうになった。その声は、母のものでも、父のものでもなく、そして、決してルイーザのものでもなかった。
私は声のした方に視線を向け、見知らぬ男と目が合った。背丈は父と同じくらいだったけれど、似ている点といえばそれだけだった。
男はあまりにも……この家には不釣り合いなほど落ち着いて見えた。自分がここに立つ権利を当然のように確信している、そんな佇まいだった。
艶やかな髪は、まるで急いでまとめたかのように無造作に後ろへ流されている。男がこちらを向いたとき、私はその顎に髭があることに気が付いた――濃く、見慣れない髭だ。それが、私の頭の中でほとんど完成しかけていた男のイメージを、ものの見事にぶち壊した。
もしその髭がなかったら、私はウリエルだと断定していただろう。
もしかして、ルイーザが話していたあの人――名前は何と言ったっけ?
「どなたですか?」
私は警戒を強め、ゆっくりと後ずさりしながら尋ねた。
「私が魅力的になりすぎて、誰だかわからなくなってしまったのかい?」
探りを入れるようなやり取りに付き合う気はなかったので、私はもう一度同じ質問を繰り返した。
「誰ですか?」
「嘘だろう? 本当に私がわからないのかい?」
見知らぬ男は私の方にかがみ込み、自分の顔を指差した。まるで「よく見てごらん。ほら、私だよ!」とでも言うように。だからといって、それで何かがわかるわけでもなかった。
「だから言っただろう、髭は似合わないと。一気におじいさんに見えるぞ」
父が現れたのを見て、私は心底ほっとした。少なくとも、この見知らぬ男が本当に不審者ではないということだけは証明されたからだ。
「ははっ。お前はただ、私がどれほど男らしくなったかに嫉妬しているだけさ。街の女の子たちがみんな私を横目で見ていたよ」
男は背筋を伸ばし、父にそう言い返した。
髭が男らしさの代名詞になるとは、私には到底思えなかった。
それに、彼は通行人の反応をかなり正確に描写していた――彼女たちは確かに、彼を「横目で見て」いたのだ。わざわざそれを口に教えてやるつもりはなかったけれど。
「当然だろう。彼女たちは、自分たちの愛する司教が、わずか一ヶ月でどれほど老け込んでしまったのかと衝撃を受けていたのだ」
一ヶ月? 司教? まさか……。
「ウリエル……?」
深く考える前に、その名前が口をついて出た。
男は再び私の方を向いた。その瞬間、彼の顔に見慣れたあの笑みが浮かんだ。いくらか不快な顔の毛に遮られてはいたけれど。
「そんな風に疑われるなんて、私の心は深く傷ついたよ」
彼はわざとらしいほどドラマチックにそう言った。
「演技がすぎるぞ。私でさえ、お前だと見分けるのは難しかったのだからな」
父が何を言いたいのかはわからなかったけれど、腕を組んで鼻を高く鳴らすその大柄な態度は、「この私がわからなかったのだから、他の誰にもわかるはずがない」とでも言いたげだった。
それに対して、私はなんとも言えない複雑な気分になった。
「お前に繊細さなど端から期待していないさ」
ウリエルは肩をすくめ、父の自己満足に満ちた表情を無視した。
「何と言った?」
父が彼を鋭く睨みつけたとき、また二人の言い合いが始まるのかと思ったけれど、代わりに……二人は抱き合い、親しげな挨拶を交わし始めた。
ウリエルがいつも我が家に煙のように突然現れることを、私はすっかり忘れていた。今回も同じように現れて、父は私よりも後から彼に気付いたのだろうか? それとも、ただ彼に会えなくて寂しかっただけだろうか。
まあ、どちらでもいいことだ。
「ねえ、ヨリ! あなた……あ、お、落ち、お邪魔しています……」
ルイーザは緊張の混じった声で小さく呟き、頭を垂れた。
ドアの向こうにウリエルの姿を見た瞬間、彼女の熱意は瞬時に霧散してしまった。彼女が彼だと気付いたのかどうかは定かではなかったけれど、その視線は泳ぎ、両肩が強張っていた。
ウリエルが「父親」としての役割を果たしている姿を見るのも、彼とルイーザが接しているところを見るのも、これが初めてのことだった。ウリエルが彼女の方へ視線を向けたとき、私自身も緊張し始めていることに気が付いた。
どうしてか、私の最初の衝動は、まるで彼女を守ろうとするかのように二人の間に割って入ることだった。けれど……私にはそんな権利がないことを知っていた。だから私はただその感情を飲み込み、胃の底へと沈めた。
ウリエルなら、この場の空気を和らげるような適切な言葉をきっと見つけてくれるだろうと思っていた――けれど、それは間違いだった。典型的な「こんにちは」や「久しぶり」といった言葉の代わりに、彼が選んだのは沈黙だった。ただ、小さく頷いただけだった。
無数の様々な感情が、私の体に押し寄せてきた。まるで胃の中で嵐が吹き荒れ、私が必死に沈めようとしていた記憶を水面に引きずり出しているかのようだった。
私は彼のことを、機転が利き、人付き合いの上手な人だと思い込んでいた。それが間違いだったと突きつけられるのは、気分の良いものではなかった。
でも、どうして? 司教ともあろう人が……そんな立場の人間なら、誰とでも上手くやれるはずではないのだろうか?
それとも……すべてはルイーザのせいなのだろうか?
彼は彼女のことが嫌いなのだろうか? だったら、どうして彼女を養女にしたのだろう?
そんな疑問や思考が、瞬く間に私の頭の中を濁らせていった。
そしてその時、私は彼からの視線を受け止めた。私には、彼がまるで私に助けを求めているかのようにさえ見えた。
けれど、そんなはずはないよね? それとも、やっぱり……。
「あ、えっと、この人はウリエルだよ」
私は頭に浮かんだ最初の言葉を口走り、ルイーザにウリエルを指し示した。
「知ってる」
ルイーザは戸惑ったように私を見つめ、短くそう答えた。
「そっか」
私には、もうそれ以上言うべき言葉がなかった。両肩が自然と落ちていく中、私は微笑みを浮かべ続けた。もちろん、嬉しかったからではない。
まるで、開けるべきではなかった箱を開けてしまったような気分だった。自分のことをそれほど利口だと思ったことはないけれど、今の私は本物の道化になったように感じていた。
ウリエルは、私が彼の紹介をするのではなく、私たちが二人でどう過ごしたかについて話すのを待っていたのだろうか? だからこそ、彼の最初の言葉が「良いお友達になれたのね」だったのかもしれなかった。
けれど、それは違う。私たちは友達なんかじゃない。最初からそう訂正すべきだったのに、そんな余裕はなかった。
わかっている――私はいつだって、自分に対して最後まで素直になれなかった。色々な言い訳を並べ立ててはみても、真実は単純だ。私にとって、ルイーザは大切な存在なのだ。
それだけで十分だった。それ以外のどんな肩書きも、何の意味も持たなかった。
一番最悪なのは――それを口にできないことだった。たとえ試みようとしたところで。言葉を正確に選べば選ぶほど、それは刃のように鋭く突き刺さるだろうから。
私は唾を飲み込んだ。
「それで?」
父は眉をひそめ――目の前で起きていることが気に入らないのだということを、その全身で示していた。
ウリエлがほんの少しだけ父の方へ顔を向けた次の瞬間、父は彼の尻を思い切り蹴り飛ばし、ウリエルはその場によろめいた。
あまりにも鈍く、明瞭な音が響いたので、父がかなりの力を込めたことは疑いようがなかった。けれど、ウリエルの顔からは痛がっている様子は読み取れず――どちらかといえば、怒っているようだった。
父のこんな一面を見るのは初めてだった。ルイーザの目が、不自然なほど丸く見開かれているのも無理はなかった。
「お前は馬鹿なのか、それとも大馬鹿なのか、どっちだ?」
「そっちこそ。もし私がヨリに一ヶ月も会えなかったなら、泣きながら抱きしめているさ。髪の毛がほんの数センチ伸びたことだって、間違いなく気付いてみせるね」
父のその告白は、私にそれほどの熱意を抱かせるものではなかったけれど、正直に言えば、そんな言葉を聞けたのは少しだけ嬉しかった。
「ヨリは本当に変わったよ」
ウリエルは私に視線を向けながら、そう付け加えた。
「は?」
父は彼の返答にあからさまに困惑していた。
「何が『は』だい? 君が気付けと言うから、私は気付いたまでさ」
彼の言葉には一理あったけれど、父が言いたかったのは絶対にそういう意味ではなかった。しかし、この滑稽なやり取りのおかげで、張り詰めていた緊張が確かに和らいだ。私は自分の顔の筋肉がひきつり、笑いを堪えるのに必死になっているのを感じていた。
「ヨリはお前の娘じゃない」
父はいら立った様子で告げた。
ウリエルが父の言わんとすることを理解していなかったとは思えない。けれど、一瞬だけ、父の瞳の奥に奇妙な色が浮かんだ。まるで、本当に私が連れ去られるのではないかと本気で心配しているかのように。
ウリエルが家の中に飾る観葉植物を欲しがっているとは思えなかったけれど、真相はどうあれ。
「それを聞くのは悲しいね。私は彼女を生まれた時から育ててきたというのに」
「お前……」
父は反論したそうにしていたけれど、同意せざるを得ない部分もあったのだろう。その証拠に、一度突き上げられた人差し指が、すぐに力なく力尽きた。
それは紛れもない事実だった――遠くへ行ってしまう前、ウリエルはいつも我が家を自分の家のようにして過ごしていたのだ。だからといって、今になって何かが大きく変わったわけでもない。
「君も変わったね、ルイーザ。今は以前と同じように振る舞っているかもしれないけれど、ほんの数分前までは……」
彼は人差し指を自分の唇に当て、彼女に向かってウィンクをしてみせた。
彼は何が言いたかったのだろう? ほんの数分前、何があったというのか?
記憶を遡ろうとして――私は自分の耳が少し熱くなり始めるのを感じた。私の手は無意識のうちに、あの「痕」が残っているパジャマの生地を掴んでいた。
馬鹿馬鹿しい。結局のところ、彼が昨日の出来事を知っているはずがなく、きっとさっきの子供じみたクッションの投げ合いのことを言っているに違いなかった。けれど、念のため、というやつだ。
「……すみません」
ルイーザはどこか上の空といった様子で、淡々と答えた。
気まずい。
その瞬間、私たちの間に生じた空気は、そう表現する他に言葉が見当たらなかった。
まるで、誰も参加したくなかったのに、強制的に出席させられたパーティーの席にいるかのようだった。そしてすべては、くだらない冗談か、あるいは息苦しい沈黙のどちらかに行き着くのだ。
父はいつも通りに振る舞っていたけれど――それは何の助けにもならなかった。
私は頭の中で、ルイーザとウリエルの存在を何度も反芻している自分に気が付いた。そして、今目の前にいる二人が、本当に自分の知っているあの二人なのか、確信が持てなくなっていた。
だとしても。
そんなことは、どうでもいい。
考えるよりも先に、私はすでにルイーザの手を掴んでいた。あらゆる拒絶を――彼女はそんな素振りすら見せなかったけれど――突っぱねるようにして、彼女の体を引っ張った。
「私たちは荷造りを続けるから」
私はドアを閉める前に、ひらひらと手を振った。
それでも、ある意味ではウリエルはウリエルのままだった。彼は状況を察したかのように、自ら私のためにドアを開けてくれたのだ。そうでなければ、私のあの劇的な退場は……まあ、意図したようには終わらなかっただろう。
「あなた、トイレに行くんじゃなかったの?」
「もうどうでもいいよ」
本当のことを言えば、最初からどうでもいいことだったのだ。私はただ、あの部屋の重苦しい空気から逃げ出したかっただけだった。蓋を開けてみれば――外の空気も大して変わりはしなかったけれど。
「私、荷物はもう全部まとめたと思う」
ルイーザは部屋を見渡しながら言った。
「本当? よかった」
私は頭に浮かんだ最初の言葉を口にした。彼女の言葉を正しく聞き取れていたかさえ、怪しいものだった。
ルイーザの視線がどこか一箇所に向いていたので、私はその視線を追ってみることにした。彼女の目が留まっていたのは一冊の本だった――机のちょうど真ん中に、まるで秘密の部屋に置かれた禁断の魔導書のようにぽつんと置かれている。
もしかして、彼女はそれを手で持って行くつもりなのだろうか? 窓の外の様子を見る限り、それはあまり良いアイデアだとは思えなかった。
「本、忘れてるよ」
私は机の方を顎で指した。
「忘れてない。あなたに置いていくの」
「どうして?」
タイトルを読まなくても、それがどんな本であるかは一目でわかった。そのえんじ色の表紙は、私にとってあまりにも見慣れたものだったから。だからこそ、ルイーザがそれを残していこうとする理由が、どうしても理解できなかった。
「思い出に」
まるで、ルイーザがどこか遠い外国へ行ってしまい、二度と戻ってこないかのような響きだった。けれど実際のところ、彼女がこれから移り住む家は、私の家から歩いてほんの数十分ほどの場所にあるのだ。
もしかしたら私は彼女の意図を誤解していて、彼女は「必ずこれを取りに戻ってくる」という口実のために、それを置いていくのだろうか?
正直なところ、形見の品を交換するというのは――他のどんな選択肢よりも――最も理にかなった解決策だった。彼女は「縄張りを主張する」ような真似をする前に、そのことを考えておくべきだったのだ。どれほど無作法に聞こえようとも。
だとしても。
交換する品として彼女が選んだものを、私はどうしても受け入れられなかった。彼女が何の変哲もない机の上に残していこうとしたその記憶は、私がこれまでに手にしたどんなものよりも価値があった。ルイーザがどれほど私に心を寄せてくれていようとも――私にそれほどの価値はない。
私はそれを受け取るわけにはいかなかった。
「他の本を選んだ方がいいよ」
「これがいい」
ルイーザのきっぱりとした拒絶は、彼女にしてはあまりにも無責任だった。同時に、彼女は反論の余地を一切残さなかった。彼女はただ私からぷいと顔を背け、まるで話は終わりだと告げるかのようだった。
厄介なことだ。
「私からは、代わりに返せるものが何もないよ」
私はため息をつき、もう一度部屋を見渡した。
家の中で私にとって価値のあるものといえばベッドくらいだったけれど、まさかそれをあげるわけにもいかないだろう。
「やっぱり、それはあなたが持っていた方がいい。私にくれるなら、例えば……これとか」
私はルイーザが着ているブラウスを指差した。別に彼女に服を脱いでほしいわけではなかったけれど、他の荷物はすべて梱包されてしまっていて、私には他に選びようがなかったのだ。
しかし、私のそんな平和的な提案に対して、ルイーザは断固として首を横に振った。
「じゃあ――髪飾り」
「髪飾り?」
「うん。これ」
ルイーザが指差したのは、母が初めて私の髪に留めてくれて以来、ずっと本棚の隅に置かれたままになっていた髪飾りだった。あの日以来、私は一度もそれに触れていなかった。そして母も――私の性格を知っているから――無理強いはしなかった。
特別なものなんて何もない、ありふれた品だった。とはいえ、もしかしたら何かしらの価値はあるのかもしれなかったけれど。
私が黙って髪飾りを見つめていると、ルイーザは本棚に近づき、棚からそれを手に取った。そして私の元へ歩み寄ると、私の手首を掴んで持ち上げ、その手のひらに髪飾りを握らせた。
「これ、私につけてくれる?」
言い終えるや否や、ルイーザは顔を私に近づけ、そっと目を閉じた。
私は唾を飲み込んだ。
手の中にある物体は数グラムにも満たないはずなのに、私はその重みをはっきりと感じていた。それがどんな感情なのか、言葉にするのは難しかった。
私は彼女の髪に手を伸ばし、毛先にそっと触れてから、品定めをするようにゆっくりと上へと滑らせていった。ルイーザのまつ毛がかすかに震えたけれど、目は閉じたままだった。彼女の静かな吐息が私の手首に触れ、私自身の呼吸をも彼女と同じリズムへと巻き込んでいく。
髪飾りを留めるなんて、ほんの数秒のことだ。数筋の毛束を手に取り、櫛の歯の間に通して固定する。それだけでいいはずだ。
それなのに、私はまるで彼女に三つ編みでも編んでいるかのように、ずいぶんと長い時間をかけていた。
本当は、理由なんてわかっていた。わかっていたのだ。それは思ったよりもずっと単純な理由だった――私が髪飾りを手こずらせていればいるほど、それだけ長くルイーザの髪に触れていられるから。
どうして自分がそんなことをしたいのか自分でもわからなかったけれど、やめることができなかった。指先が勝手に動き、まるで髪梳きのように彼女の髪をなぞっていく。
シルクのように滑らかな手触り。かつてはこの部屋の当たり前の日常だったあの香りが、今は私の鼻腔をくすぐっている。
まるで自分の体に自らの手で傷痕を刻み込んでいくかのように、私はその一瞬一瞬の断片を記憶に焼き付けようとしていた。
一度留めた髪飾りを外し、どこが一番似合うか決めかねているかのように、また留め直す。位置なんて大して変わっていないというのに。
ルイーザは文句ひとつ言わなかった。
死ぬ間際にいくら空気を吸い込もうとしても意味はないと言うけれど、私は貪るように空気を吸い込み続けていた――たとえ、もう何も変えられないのだとしても。
ルイーザが明日も、あるいはその次の日も、ふらりと顔を出すかもしれないことはわかっていた。けれど、ただ立ち寄ることと、ここに留まることは同じではない。
私たちの間に流れるあの静止した時間は、まるで氷河のようにゆっくりと溶け去り、やがて私たちの道をそれぞれの方向へと完全に分断してしまうのだろう。
「……できたよ」
ルイーザが目を開けたとき、私は一歩後ろに下がった。彼女は背筋を伸ばすと、すぐに髪飾りへと手を伸ばし、指先でそれに触れた。
「どう? 似合ってる?」
「いつも通りだと思うよ」
私は肩をすくめた。この状況で何と答えるべきなのか、よくわからなかったからだ。小さな飾りがひとつ増えたところで、本質的な何かが変わるわけではない。
それに、ルイーザはいつだって可愛らしかった。当然、それを彼女にわざわざ言ってやるつもりはなかったけれど。
「そう言うと思った」
彼女は私の肩を軽く小突いたけれど、その仕草に怒りは含まれていなかった。ルイーザは微笑んでいた。私は同じように微笑み返そうとしたけれど、唇の両端を引き上げるのは、いつもよりずっと難しかった。
「あの、ウリエル……」
「彼がどうかしたの?」
ルイーザは首を少し傾げ、私を見つめた。
それを尋ねるのに適切なタイミングなのかはわからなかったけれど、他に機会があるとも思えなかった。
おそらく、それは私の我が儘な願望にすぎなかったのだろう。私はルイーザがあんな顔をするのを二度と見たくなかった。けれど、それを変える力は私にはない。
「……仲が良くないの?」
「ううん、そういうわけじゃないの。ただ……」
説明はそこで終わってしまうような気がした。こういう時、ルイーザはまるで引き潮のように、すっと引き下がってしまうことが少なくないから。
ルイーザはため息をつくと、私の手を引いてベッドの方へと歩き、腰を下ろした。私も彼女に引かれるまま、隣に座った。
並んで座っている間も、私たちの指は絡み合ったままだった。
「昔はね、ウリエル叔父様はよく私たちの家に来ていたの。物心ついた時から、彼はいつも私の近くのどこかにいたわ」
ルイーザは淡々と語った。その声からは、それが良い思い出なのか悪い思い出なのかを判断することは難しかった。
けれど彼女の話を聞きながら、私は自分自身が特別な存在などでは全くなかったのだと、不意に思い知らされた。私はルイーザの存在を知らず、彼女もおそらく私の存在を知らなかった。そして、ウリエルだけが、いつも間接的に私たちを繋ぎ止める唯一の存在だったのだ。
「それでね、お父様がいなくなった時、真っ先に私を迎えに来てくれたのがウリエル叔父様だったの。それなのに私……彼を追い返しちゃったの。酷いことをたくさん言って」
ルイーザの手のひらが、私の手をより強く握りしめるのを私は感じた。
「色んなことがあった後だから、ウリエル叔父様も、本当は私を養女にしたくはなかったんだと思う。だから、あなたのママンに二人目の後見人になってくれるよう頼まなければならなかったのかも」
私の、お母さんに……?
正直に言って、それは初耳だった。けれど、母とウリエルは親戚同士だっただろうか? そんなはずはない。
だとしても、母がそんな頼みを引き受けたのだとしたら、どうして母と父が自分たちの手でルイーザを引き取らなかったのだろう? その方がずっと良かったのではないだろうか。
大人のすることには、それなりの理由があるのだと思いたかった。もしそうでないとしたら、もう誰も何も決められないことになってしまうから。
私の父も、母も、ウリエルも、親になるにはまだ若すぎる。けれど、それでも一人きりで残されるよりはマシなのかもしれない。
子供は未来だと言う。けれど、現在がなければ、未来がしがみつく場所なんてどこにもないのだ。
「ウリエルがあなたを怒っているとは思えないよ。お父さんに蹴られるまで、私は彼が怒ることすらできるのか、確信が持てなかったくらいだし」
「もちろん怒るわよ。誰だって怒るもの」
私の言葉は半分冗談で、現実とはあまり結びつきのないものだったけれど、私の頬をつついた彼女の指先は、紛れもなく本物だった。
「そういうことじゃなくて。ただ……彼は自分がしたくないことを無理にするような人には見えない、ってこと」
私は彼女の指を軽く払いのけて少し身を引いたけれど、ルイーザはすぐに私の手を引いて、元の場所へと引き戻した。
「そうかもね」
彼女の声に確信はなかった。きっと、この話をこれ以上続けたくはなかったのだろう。
彼女が私の方を向いたとき、その手が再び私の手をきゅっと握った。彼女の唇が一瞬だけ結ばれるのを、私は見逃さなかった。まるで、言葉にできない何かを物乞うかのように。
「……まあ、ここはいつでもあなたを歓迎するよ。ママンもいるし、パパもいるし」
「知ってる」
彼女は何度も唇を結び直しながら、まるでまだ他の何かを待っているかのように、じっと私を見つめ続けた。私は、もっと別の何かを言わなければならないのだと分かっていた。
――そして、私は何も言わなかった。
.
どうやって下まで降りたのか、まるですべてが夢の中の出来事だったかのように、うまく思い出すことができない。覚えているのは、私を引っ張っていくルイーザの手の感触だけだ。
居間の空気は、私の部屋と同じくらいの温度だった。けれど床は氷のように冷たく――スリッパの底を通してさえ、それがはっきりと伝わってきた。
ウリエルと両親は、すでに玄関で私たちを待っていた。長引いた荷造りを責める言葉も、静かにつぶやかれる小言もなかった。みんな、いつも通りに振る舞っている。そして、自分だけが違う世界にいるように感じているのは、きっと私だけなのだ。
「おや、ずいぶんと目覚ましい進歩を遂げたね。階段も一人で上り下りしているのかい?」
「うん、でも……これからは少し大変になるかも」
私は深く考えることもなく、機械的にそう答えた。
「これまでの努力を無駄にしないで、たまには一人で上り下りし続けなさいよ」
ルイーザが私の手を離しながら、すぐに口を挟んできた。
彼女が言葉を発したこと自体が驚きだったけれど、何よりも私を驚かせたのは、彼女が笑っていたことだった。
私は一瞬、呆気に取られてしまった。
「……ううん。もちろんそんなことしないよ。頑張る」
私を見つめていたルイーザが、またくすくすと笑った。どうして彼女が笑っているのか、私にはよく理解できなかった。そのあまりにも急激な態度の変化に、頭が混乱する。
彼女が微笑むことができるなら――私だってそうすべきだ。私はまるで体についた水滴を振り払うかのように、軽く頭を振った。
そして顔を上げ、できる限りの満面の笑みを浮かべた。
大丈夫。
そんな思いが、目の前の道をほんの少しでも照らしてくれればよかった。
けれど、私の思考からにじみ出る光など、目の前にいる少女の笑顔の輝きには到底及びもしなかった。
「私、また来てもいいよね?」
いつでもいいよ――本当はそう答えたかった。
けれど、それを決めるのは私ではない。
「どうして私に聞くの?」
「あなたに会いに来るんだから、当然でしょ」
ルイーザは迷うことなく答え、また声を上げて笑った。本当は、彼女の答えなんて聞かなくても分かっていた。それでも、その言葉は私の心をじんわりと温めてくれた。
私は前腕を少し掻き、視線を逸らした。
「……そういうことなら」
「そういうことなら? どういうこと?」
彼女はまるで光の粒を捕まえようとするかのように、私の視線をしつこく追いかけてきて、ついに私は降参した。
「もちろん。待ってるよ」
「へえ、私のことを待っててくれるんだ?」
彼女の驚き方はあまりにもわざとらしかった。父やウリエルから、演劇のレッスンでもいくつか受けた方がいいのではないだろうか。
彼女が私をからかっているのは明白だった。それは少し神経を逆撫でされたけれど――同時に、私に正気を取り戻す隙を与えてくれた。
「……もう、少しだけ待ち遠しくなくなったかも」
「おっと。じゃあ、完全に待ち遠しくなくなっちゃう前に、もう行かなきゃね」
彼女は自分の前で両手をひらひらと振って、一歩後ろに下がりながらそう答えた。
それは、私が見慣れた、あの少し小生意気で厄介なルイーザそのものだった。彼女がずっとこのままでいてくれるなら、私はこれほど胸を痛めることもなかったかもしれないのに。
まあ……ほんの少しは、痛むかもしれないけれど。
「二人の話が終わったなら、私たちはそろそろ行こうか」
ウリエルの手がルイーザの肩に置かれたとき、彼女の口元がかすかに引きつるのを私は見逃さなかった。以前にもこれと似たような光景を見たことがあるような、そんな既視感が脳裏をよぎった。けれど……今はどうでもいいことだ。
外へと続くドアが開け放たれた。直後、冷たい一陣の風が顔に叩きつけられ、私は思わず目を細めた。再び目を開けたときには、ルイーザはすでに敷居を跨いで外に出ており、私に向かってにぎやかに手を振っていた。
「またね!」
彼女は声を張り上げ、私の両親にも同じように手を振った。両親は彼女の出発を、あまりにもあっさりと受け入れていた。まるで、この一ヶ月という時間が、私の頭の中にしか存在しなかった幻想であるかのように。
「……た、体に気を付けてね」
危うく「バイバイ」と言いそうになって、私は慌てて言葉を止めた。他の誰かにとっては些細なことに思えるかもしれないけれど――ルイーザにとって、別れの言葉はその別れ自体よりも辛いものなのだから。
ルイーザは驚いたように目を見開いた。対照的に、私の視線は泳いでしまう。それが決して最善の言葉選びではなかったことは分かっていたけれど、他に私に何が言えたというのだろう。
私の反応を見たルイーザは、さらに声を大きくしてくすくすと笑った。
「あなたって、本当に変な人」
「変なのはそっちだよ……」
私はほとんど囁くような声で言い返したけれど、彼女自身の笑い声と二人の間の距離のせいで、その言葉は絶対に届いていなかったはずだ。
.
ルイーザが去ったばかりの時は、何の変哲もないように思えた。家の中が少し静かになっただけだ。公平を期すために言えば、彼女がここにいた時だって静かな時間はあった。だから、私は目の前の出来事を至極冷静に受け止めていた。
けれど、自分の部屋に戻った瞬間、私は思い知らされた――この家は、呪われている。
枕の上に、彼女が残していった数筋の髪の毛が見えた。そのエメラルドの色は、いつもの白さとは強烈な対照をなしていた――まるで厚い雪の層を突き破って、春の最初の兆しが芽吹き始めたかのように。皮肉なことに、私の心はそれとは真逆のことを感じていたけれど。
それから、匂いだ。私たちは同じ石鹸を使っていたはずなのに、それでも――彼女の匂いは違っていた。
どこかでこんな言葉を聞いたことがある。
『あなたは私の部屋の幽霊になった』――今、私はその言葉の意味を理解していた。
青あざはもう痛まなかった――本当のことを言えば最初から大して痛くはなかったのだけれど――それでも、まるで痛みがまだそこにあるかのように、ドクドクと脈打っているのを感じた。
お腹は空いているはずなのに、何も喉を通らないだろうことは分かっていた。たとえ無理に食べたところで、料理の味なんて感じられない。お母さんの前で、そんな酸っぱい顔をして昼食を摂りたくはなかった。
あんな顔をして食卓についたところで、何の役にも立たないことは分かっていた。お母さんもすべてを察していたのだろう。私を呼ぼうとはしなかった。
父でさえ部屋を覗きに来ず、冗談を言おうともしなかった。彼なりの、とても洗練された気遣いだった。
不幸を知らぬ者は祈らない、と人は言う。けれど、もし自分の祈りを届けるべき相手を知っていたとしても、私には語るべき言葉なんて何もなかった。
私は机の上の本に指先を走らせた――相変わらず、少し擦り切れた表紙だ。今の私は、それを手に取る気にも、ましてや開く気にもなれなかった。
机から離れ、私はベッドに這い上がると、すぐに隣にある枕をひっくり返して裏返しにした。本当のことを言えば、そんなことをしても何の意味もなかった。ルイーザの枕は、いつだって私自身だったのだから。私の体の上に彼女の髪の毛は残っていなくても、自分の腹の上に、彼女の頭の重みをまだはっきりと感じているような気がした。
どうやら、これには終わりがないらしい。部屋を出るべきだったけれど……私にはできなかった。
私は夕方になるまで、ずっとベッドの上で横になっていた。眠る気力さえ湧かなかった。夢の中で何を見てしまうのかが、怖かったのだ。
空が移り変わっていくあらゆるグラデーションを、私は生まれて初めて最初から最後まで見届けた。窓の外を雲が流れていき、やがて青の深淵へと完全に溶けていく。月は見えず、部屋の中はまたたく間に完全な暗闇に包まれた。
だとしても、外で起きていることなんて、私には何の関係もないことだった。
まるでベッドの代わりに硬い床の上に横たわっているかのように、背中が痛み始めた。こめかみで不快に脈打つ鼓動が、まるで時計の秒針のように時を刻んでいる。あらゆる思考が私の中に嫌悪感を充満させ、今にも吐き気が込み上げてきそうだった。
それでも、私は頑なに立ち上がることを拒んだ。
コンコン、とドアが静かにノックされた。それが開くと同時に、部屋に明かりが灯った。
「大丈夫?」
お母さんが部屋に入ってきながら、そう尋ねた。
私にできたことといえば、視線を彼女の方へ向けることだけだった。
「もちろん」
……もちろん、大丈夫なわけがない。
私はちっとも大丈夫ではなかった。けれど、それを口にしたくはなかった。説明しようとも思わなかった。ただ……嫌だったのだ。
「分かってるわ。ねえ、今夜はあなたと一緒に寝てもいいかしら?」
私はそれを求めていた。必要不可欠だとすら思っていた。けれど、私はすぐにその思考を振り払った。
お母さんだって、自分の問題だけで手一杯のはずだ。そこに私の悩みまで背負い込ませるわけにはいかない。
それでも、はっきりと拒絶するだけの気力を見出すことができなかった。
「……お母さんがそうしたいなら」
私は、本当にどうでもいいという風を装って、軽く肩を動かした。
「じゃあ、決定ね? もう言い逃れはなしよ」
お母さんは、まるで空間を漂うかのように、両手を後ろに隠しながらゆっくりとベッドへと近づいてきた。彼女が微笑んだとき、その瞳が深い輝きを取り戻す前に、一瞬だけ透き通るような色になるのに気が付いた。まるで、その奥にある電球が一瞬だけ消えたかのように。
「見てごらん、あなたにいいものがあるわよ」
彼女が背中から両手を差し出すと、そこには一匹の小さなヴェラリンが眠っていた。
私が何か答えるよりも先に、その生き物は頭をもたげ、一跳びで私の上に飛び乗ってきた。パジャマの生地越しに、湿った足の感触が伝わり、それは私のお腹の上で行儀よく丸くなった。
「どうやら、ヴェラヨリ(Verayori)になっちゃったみたいね。計算違いだったわ」
お母さんは自分の頭に拳をコツンと当てて、おどけた顔をしてみせた。その拍子に、私は思わずクスリと笑ってしまった。
私がその動物に手を伸ばそうとした瞬間、それは何一つ痕跡を残さず、煙のように消え去ってしまった。その瞬間、胸の奥で何かがパチンと弾けたような気がした。唇が、かすかに震える。
「心配しないで。私がその代わりになってあげるから」
お母さんがベッドになだれ込んできたとき、私は驚いて目を見開いた。一瞬、本当に押しつぶされるかと思った。けれど彼女は間一髪で踏みとどまり……私の体に、その顔をぐぎゅっと押し付けてきた。
「ママン! 重い!」
「まあ、なんて失礼な子かしら」
彼女はすぐに私の脚をつねり、私は小さく悲鳴を上げた。
お母さんは答えを求めることも、会話を続けようとすることもしなかった。表面的な言葉だけで距離を縮めるのは、恐ろしく難しい。けれど、肉体的な距離をゼロにするのは、とても簡単なことだ。
自分の意図なんて一言も口にしないまま、彼女は本当に、私の記憶を力づくで押し出そうとしているかのようだった。彼女が私に体重をかけるたびに、私の中から空気が断続的に押し出される。
その単純で、少し手荒な行為が、私は一人ではないのだということを教えてくれていた。
私は決して、一人ではなかったのだ。
ぐう、と私のお腹が鳴った。どうやら、この一連のドタバタのせいで、私は自分が猛烈にお腹を空かせていることに酷くはっきりと気付かされてしまったらしい。
「これはいけないわね。私の娘がオペラに出演するには、まだ早すぎるわ」
「何? オペラって何のこと?」
「あら? じゃあ――腹話術かしら?」
彼女の返答は、私をさっきと同じ困惑の中に置き去りにした。オペラって何? 腹話術って何?
どうやら彼女は、私のためにより良い舞台を探してくれているようだった。
「一体何の話をしているの?」
「あなた、お腹が空いているのね」
彼女は確信に満ちた様子で頷き、そう断言した。
「あ、まあ……気付いてくれてありがとう。でも、今はその……ねえ、そういう気分じゃないの」
過剰にドラマチックに聞こえず、同時に彼女を傷つけないように適切な言葉を組み立てるのは、私にとって少し難しいことだった。
「本当? ふうーっ、よかったわ。どっちにしろ、オムレツは塩を入れすぎて辛くなっちゃっていたから」
だったら、どうして最初から勧めたりしたのだろう。
彼女は少し頭を持ち上げ、人差し指で顎をトントンと叩いた。彼女の黒い髪が揺れ、私の記憶にあるあの見慣れた匂いが鼻腔に蘇る。
「でも、食べ物を無駄にするわけにはいかないでしょ? ちょっと食べてみて、どんな味がするか教えてくれないかしら?」
「え?」
一瞬の恐怖に、私の目は丸くなった。
私が答える隙を与えることもなく、お母さんは私をベッドから抱え上げ、まるで仕留めた獲物のように自分の肩へと担ぎ上げた。けれど、抵抗するのもひどく面倒なことだった。それに、抵抗したところで何の意味もないことは分かっていた。
どうしてか、糸の切れた人形のように手足をだらりと垂らしていても、不快感は全くなかった。見慣れた温もりが体の中にあまりにも心地よく染み渡り、周囲の冷たさを感じる隙すら与えてくれなかったからだ。
一人で階段を上り下りできるようになったのはつい最近のことだったけれど、誰かに抱えられて運ばれるなんて、まるで永遠の昔のことのように感じられた。心地よかった。もちろん、こんな格好のままで、ではあったけれど。
台所に入った瞬間、綺麗に整えられた食卓がお母さんの企みを完全に暴露していた――彼女は最初から、私を外に連れ出して食事をさせるつもりだったのだ。
まったく、大人というのはどこまでも策士だ。
私を肩から降ろし、お母さんは私を椅子に座らせた。そして隣の椅子を自分の近くに引き寄せると、私の隣に腰掛けた。
彼女が片手で顎を支え、挑発的な視線を私に向けているその様子は、あまりにも雄弁に「食べなさい」と叫んでいた。
はあ。
私は塩辛いものがそれほど好きではなかったし、不快な後味が残るようなものを口にしたいとも思っていなかった。けれど、私にはただ、選択肢が残されていなかったのだ。
私はテーブルの上からフォークを取り、オムレツを少し切り分けて口元に運ぶ前に、ごくりと唾を飲み込んだ。
お母さんを横目で盗み見る。彼女は、黙って食べるよう促すように、両方の眉をピクリと持ち上げてみせた。
まだ口に入れてもいないのに、すでに胃のあたりがキュッと引き締まるのを感じていた。
私は無意識のうちに歯を噛み締め、それから意を決してオムレツに舌を触れさせ――そして、それを飲み込んだ。
甘さが瞬く間に口の中に広がり、胃の底へと落ちていった。まるで塩辛いオムレツの代わりに、今しがた蜂蜜をたっぷり塗ったトーストを食べたかのようだった。
それは……美味しかった。
「でも、これ甘いよ」
私はお母さんを見つめながら、眉をひそめた。
「本当? ということは、味覚はちゃんと残っていたみたいね。よかったわ」
彼女は声を上げて笑い、私の肩を軽く小突いた。
どうやって? どうして彼女は、私の考えていたことが分かったのだろう。私は完全に混乱していた。
もしかしたら、これが『母親のスーパーパワー』というやつなのだろうか。
.
お母さんが言った通り、その夜、彼女は私と一緒に眠った。おそらく、ただそれだけの理由で、私は眠りにつくことができたのだと思う。
ルイーザがずっと隣にいた後では、毛布一枚すら私を温めることはできないのだと、痛いほど分かっていた。かつては私にとっての避難所だったベッドは――今や罠と化していた。あらゆる細部が、逃げ場のない棘のように私に突き刺さる。
私はいつもより早く目を覚まし、お母さんの息が自分の額に触れているのを感じた。彼女の胸は呼吸のたびに上下し、こぼれ落ちた毛束をかすかに持ち上げている。
お母さんの寝顔を見るのは、きっとこれが初めてのことだった。
自分がどれほど周囲の人間に無頓着であったかを、それは改めて突きつけていた。
暖かさを求めるように、私の手は無意識のうちに彼女へと伸びていた。彼女の寝間着の生地を握りしめたとき、自分の手が震えていることに気が付いた。
すると彼女は、寝言のように何かを呟き、私を自分の方へと抱き寄せた。まるで押しつぶされそうなほど、強い力で。私は彼女の腕を緩めようとしたけれど、それはあまりにも無力な抵抗だった。それから、彼女は力を抜いた。
それは、私が求めていた暖かさとは違っていた。激しく波打つ私の心臓の鼓動が、何よりもそれを証明している。私たちの肉体的な力の差が、こうした瞬間にあまりにも容赦なく浮き彫りになる。けれど、不思議なことに――震えは止まっていた。
自分でも理由はよく分からなかったけれど、少しだけ心が落ち着いていた。
お母さんがずっとここにいられるわけではないことは分かっていた――彼女には、彼女のいるべき場所があるのだから。そしてそれは、必ずしも私の隣というわけではない。ということは、私はまた慣れ始めなければならないのだ、自分のベッドが空っぽであることに。私一人には、また広すぎる空間に戻ってしまうことに。
けれど、今はまだ。ほんの、あと少しだけ。
私はもう一度お母さんの寝間着の生地を強く握りしめ、彼女の肩に頭を埋めた。彼女は疲れたようにため息をついた。どうやら、こんな風にしているのは私だけではないらしい。その考えが、私を少しだけおかしくさせた。
目を閉じると、私は暗闇の中に沈んでいった。それはまるで血管を巡る毒のように、ゆっくりと肌の奥へと染み込んんでくる。吸って。隣にある温もりと、静かな呼吸を感じる。肩にかかっていた圧迫感が和らぎ、自分の頭の感覚が消えていく。吐いて。
そして……。
ふー、すぴー。
.
次に目が覚めたときには、すでに正午をとうに過ぎていた。寝室のドアが少しだけ開いていて、廊下から空気が流れ込んでくるのを感じた。外はほんの少し肌寒い程度だったけれど、それだけで私の体は小刻みに震え始めるには十分だった。
お母さんはもう隣にはいなかったけれど、それは大して驚くようなことではなかった。
私にとっては一日が始まったばかりでも――お母さんにとっては、明らかにその真っ只中なのだ。ある意味では、すべてがいつもの日常に戻ったと言えた。
いや、すべてではない。けれど、確実にある部分は。
ルイーザが去ってから、およそ丸一日が経過していた。家の中がこれほど静かであることを考えれば――今日、彼女が来なかったのは当然のことだった。最初から分かっていたはずだ。どうして私は、彼女が本当に次の日にはもうひょっこり現れるなんて期待していたのだろう。私は彼女の人生における自分の役割を、あまりにも過大評価しすぎていたようだった。
皮肉なことだ。自分から好んで孤独を望んでいたくせに、いざその孤独と一対一で残されると、今度は誰かがそれを埋めてくれるのを待っているなんて。
ウリエルの旅立ちが、私たちの関係において中心的な役割を果たしていたのは間違いなかった。彼の帰還によって重心が移動し、すべてが崩壊してしまったのは、少しも不思議なことではない。ありのままを受け入れようと努めてはいたけれど、時折、その事実を自覚するたびに胸が締め付けられるような感覚に陥った。
正直に言って――ルイーザとは毎日会うべきではないのだと分かっていた。そんなことをすれば、たとえ現実が違っていても、すべてが以前のままなのだという淡い期待を私の意識が勝手に作り上げてしまうだろうから。
一度、間を置くことが大切なのだ。他の用事で時間を埋めること。そうすれば、失ってしまった合理的な自分を取り戻し、平穏を得られるかもしれない。
私は袖をまくり、もう一度あの痕跡に目をやった。それはもう、ほとんど見えなくなっていた。
思った通りだ――すぐに消えてしまう。
それなのに、ただ自分の腕を眺めているだけで、考えたくもないのに彼女のことを思い出してしまう。
冷たい空気の流れが止まり、それと同時に、見慣れた台所道具の触れ合う音が私の耳に届いた。お昼ご飯だ。それほど明確なものではなかったけれど、まるで私にベッドから起き上がるよう促す合図のように感じられた。このまま横たわり続けていても、何も変わりはしない。
ただベッドから起き上がったところで何かが変わるわけでもなかったけれど、そうすれば、少なくとも私は一人ではなくなる。
分かっている――我が儘だ。一人きりになって初めて両親のことを思い出すなんて、あまりにも調子が良すぎる。けれど……どうすることもできなかった。
年齢や、幼さや、他の何かのせいにして言い訳をするつもりはなかった。私は我が儘な人間だった。そして、彼らがそんな私を許してくれることを、願うばかりだった。
私はベッドから降り、スリッパを履いて、ぐっと体を上に伸ばした。古い機械の部品のように、脊椎の骨が一つ、また一つと音を立てた。冬の太陽の光の中で埃が舞い踊っていて、その発生源が自分自身なのではないかと、私は判断に窮した。
部屋を出て、私は背後のドアを閉めた。
「おや、ヨリ。お前にしては珍しく早いじゃないか」
まるで、わざとそのトーンを真似ようとしているかのような響きだった。私は声のした方に振り向いた――父が片方の目をこすり、あくびをしながら、シャツの下でお腹を掻いていた。彼自身も、今しがた起きたばかりのような様子だった。
「そう?」
「いや、本当は違うな」
彼は淡々とした口調で答えた。
どうやら父は、オリジナルの挨拶の仕方を模索していたようだった。認めざるを得ないけれど、それにはどこか独特の味わいがあった。
「あなたは……」
「今日は休みだ」
他のどんな一日とも同じように、ね?
けれど、その疑問が口にされることはなかった。代わりに、私はただ小さく頷いた。
父が私に近づき、私たちは一緒に階段の方へと向かった。実際のところ、その距離は決して長いものではなかったけれど――彼と一緒にいると、それでも少し違う気分になれた。
「下まで運んでやろう」
彼はそう提案した。
「自分でできる」
理由はよく分からなかったけれど、父はその返答が気に入らないようだった。彼は眉をひそめた。その瞳が、何かを探すかのようにあち起こちへと泳ぐのを私は見逃さなかった。
「じゃあ――競争だ。勝った方にはゲリオンをやる」
彼は自分自身にひどく満足した様子でそう宣言した。
正気だろうか?
どう考えても、それは悪手だった。もちろん、自分に勝ち目など万に一つもないことは分かっていたけれど、それを差し引いても、私の努力を注ぎ込むほどの価値があるとは思えなかった。
本当の理由はもっと単純だ――やりたくない。そして同じように、父のその試みを完全に無下に白けさせたくもない、ということだった。
「私の参加費としては、その賞品では不十分だよ」
「なんて欲張りな子だ」
彼は憤慨してみせた。
「父親に似たんだよ」
私は感情を交えずに、そっけなく肩をすくめた。
それが真実であることは、とうの昔に理解していた。見た目はお母さんにより似ているかもしれなかったけれど、性格は間違いなく父親の血を引いていた。
「理にかなっているな」
彼は頷いた。
父は反論すらしなかった。私たちがこの件について意見を一致させたのは、これが初めてかもしれない。もっとも、彼がそれを否定したことなど一度もなかったけれど。
私が階段の段から足を降ろそうとした――その瞬間、肺から一気に空気が押し出された。
硬く逞しい腕が、私のお腹のあたりをがっしりと囲い込んだのだ。
私は荒く息を吸い込み、目を丸くして父を振り返った。
「なにするの?」
「昨日、エミ(Emi)だけが私を運んだなんて不公平だろう。今日は私の番だ」
私はもちろん抗議しようとしたけれど、その抵抗は本気と捉えるにはあまりにも形ばかりのものだった。押し返そうとする手にも、まるでモチベーションが足りていなかった。逆に言えば、彼に下まで運んでもらうというのも、それほど悪いアイデアではないのかもしれない。
父もそれを察したようだった。彼は私を離す気など毛頭なかった。代わりに、私の体を少しだけ上へと放り投げ、私の背中を自分の脇の下へとぴったりと押し付けた。
「じゃあ、私の番はいつ?」
「いつでも私を両腕で抱っこしていいぞ」
明らかに、私が尋ねたのはそんなことではなかった。
まあ……どうでもいいけれど。
.
結局、私は昼食のすぐ後に机に突っ伏したまま眠ってしまっていたようだった。私を目覚めさせたのは、テーブルの上に置かれた焼き菓子の皿が立てた音だった。父はわざとらしく大きな音を立ててそれを置いた。おそらく、私に焼き立てのパンを分け合おうとしてくれたのだろう。
けれど、私が皿の方へ手を伸ばした瞬間――父はそれをさっと引っ込めた。
当然だ。誰も疑いはしない。
私は背伸びをして、もう一度パンに手を伸ばそうとした。何度かの失敗と――お腹の筋肉の激しい痛みの後――ようやく一つきれいに掴み取ることができた。
なんて目まぐるしい一日だろう。私はまるで冬眠中の熊のように、ただ食べて眠るだけの時間を過ごしていた。そういう視点で見れば、私の生活は完全に元の軌道に戻ったと言えた。
「おでこが縞模様だらけだぞ」
父は私を見つめながら、自分のパンを咀嚼しつつそう指摘した。
「すぐ消えるよ」
一噛み一噛みを丁寧に咀嚼したにもかかわらず、味はそれほど感じられなかった。口の中には、睡眠の後特有の奇妙な後味が残っていた。それを一つの言葉で表現するのは難しい。
けれど、せっかくのパンの味を十分に楽しめなかったのは、少しだけもったいない気がした。
「ほら。これで流し込みなさい」
テーブルの上に紅茶のカップが現れたとき、私は顔を上げた。お母さんもずっとここにいたようだった。
彼女は私に視線を落とした――こんな瞬間にしては、ずいぶんと真剣な眼差しだった。寝る場所として不適切な場所を選んだことをお説教されるのではないかと身構えたけれど、そんなことはなかった。お母さんは微笑むと、私のおでこに自分のそれを短くコツンとぶつけ、私が天井を見つめたまま固まっている間に、すっと離れていった。
まあ……いいけれど。
一口、二口と喉を鳴らすと、今度は体が自分の存在を主張し始めた。私は突然、自分が今すぐに全く別の場所にいなければならないのだと悟った。
私のお腹が、極めて具体的に悲鳴を上げていた。
私は椅子から降りて……そこで動きが止まった。私の足は、まるでひっくり返った虫の足のように小刻みに震えていた。支えを求めて椅子を掴んだけれど、もうほとんど力が入らなかった。
「どこへ行くの?」
お母さんが戸惑ったように尋ねた。
「上に行かなきゃ……上に、行かないと」
日常のありふれたことのはずなのに、それをありのままの言葉で口にするのは少しだけ気恥ずかしかった。代わりに、私はゆっくりとドアの方へ向かって足を動かした。
「ここでやったっていいんだぞ」
父は紅茶をすすりながら、平然と言い放った。
彼のあまりにも唐突な発言に、私は完全に不意を突かれた。彼を見つめる私の目は、限界まで丸く見開かれて、奥の方が痛み始めるほどだった。
お母さんも、どうやら私と同じ気持ちだったらしい。彼女が父を鋭く睨みつけたとき、父の顎を伝って紅茶が滴り落ち、その瞳が泳ぎ始めるのが見えた。
「ただの冗談だ、冗談」
彼は口元を拭いながら、慌ててカップをテーブルに置いた。
「笑えないわ」
お母さんが低く声を荒らげた。
彼女が私の方へ近づこうとしたその瞬間、父が椅子から勢いよく飛び起き、私を両腕で抱え上げた。私がまるでお姫様のように抱っこされたのは、きっとこれが初めてのことだった。
自分が宙に浮いたことすら、まともに認識できないほど一瞬の出来事だった。
もし父の迅速な助けがなかったら、彼のあの最低な冗談が現実のものになっていたかもしれない。私が自力で上まで登りきれたという保証はどこにもなかった。どんなに条件が良くても、それには十分近くの時間がかかってしまうのだから。
大騒ぎにするつもりはなかったけれど、彼が私を抱えたまま、一段上るたびに小さく跳ねるその振動で、私は体に軽い痛みを感じていた。
「着いたぞ。私はここで待っているからな」
父は私を床に降ろしながら言った。
「どうして?」
「万が一、お前が中に落ちてしまったら困るだろう。あるいは、そこにいる間に誰かと話したくなるかもしれないしな」
彼は肩をすくめてそう答えた。
彼が何を言っているのかさっぱり理解できなかったけれど、深く考える気力も残っていなかった。今日の太陽は、あまりにも早く、そして唐突に沈んでいくような気がした。
「……もう、早く行ってよ」
私は中に入り、背後のドアに鍵をかけた。
こうした欲求は、何も奇妙なことでも特別なことでもない。けれど時々、人間というのは周囲の感情をもっと推し量るべきなのではないかと思うことがある。一体誰が、トイレを二階に設置しようなんて思いついたのだろう。
もちろん、私がずっと自分の部屋に引きこもっていた間は、そんなことで問題が起きるはずもなかった。けれど今は……一階にもう一つ作ってくれればいいのに、と切に願うばかりだった。
トントン。
「まだ中にいるのか?」
ドアの向こうから父の声が響いた。
他にどこにいるっていうの?
私は怒鳴り返したくなったけれど、寸前で言葉を飲み込んだ。声に出して言いたいことの数ばかりが、私の内で膨らんでいく。このまま中に溜め込み続ければ、遠からず息が詰まってしまうのではないかと怖くなった。
けれど、今はそのことについて考える時ではない。
「……どうしてまだそこにいるの?」
「今行くところだ」
ドアの向こうから足音が遠ざかっていくのが聞こえ、私はため息をついた。どうやら、父にも最低限の分別の欠片くらいは残っていたらしい。
手を洗った後、私は床に水滴を振り払いながら洗面所を出た。タオルは私が何の手間もなく届くには少し高すぎる場所に掛けられていた。だから――最初から届こうともしなかった。
「いやあ、中々見応えのあるショーだったぞ」
父がくすくすと笑いながら、そうコメントした。
彼がまだドアの向こうに突っ立っている可能性は、確かに存在していた。私はただ、その可能性を信じたくなかっただけだった。本当にどこかへ行ってくれたのだと、そう願っていたのに。
それなのに彼はここにいた――壁に寄りかかり、まるで何事も起きなかったかのようなあの馬鹿げた笑みを浮かべて。苛立ちをぶつけてやりたかったけれど、そんな男を信用してしまった自分自身が悪いのだということは、痛いほど理解していた。
私は震えが表面に出る前に、それを無理やり抑え込んだ。そして、ため息をついた。
「……最低だよ」
「怒っているのか?」
「別に」私は肩をすくめた。「もしあなたが行ってしまっていたら、誰が私を下まで運んでくれるっていうの?」
父のあのかなり下品なコメントをこれほど冷静に受け止めてしまうなんて、私の頭のネジはきっと何本か外れてしまったに違いない。たとえそれが冗談だったとしても、下劣なことに変わりはなかった。
どうしてネジが外れてしまったのか、今は考えたくもない。ただ今の私は、誰かが隣にいてくれることに対して、本当に心が安らいでいた。それだけで十分なのだと、そう思う。
「なんて計算高い子だ」
彼は傷ついたふりをして、鼻を鳴らした。
もう一度「父親に似たんだよ」と言いそうになったけれど、やめておいた。そんなことは言われなくても彼自身が分かっているはずだ。わざわざ思い出させてやる必要もない。
「じゃあ、下に戻るか?」
父は壁から背を離しながら尋ねた。
「ここにいて、何かやることがあるの?」
たとえ父と一緒だったとしても、私はここに留まりたくはなかった。けれど、それを直接口にすることはできなかった。言葉にならなかった思いが、会話の流れを無視するように、ただそこに重く漂っていた。
「私はいつだってやることがあるさ」
父は誇らしげに腕を組み、そう豪語した。
「例えば? 床に箒でもかけるの?」
そんなことが本当に可能なのかは、甚だ疑問だった。父が箒を手に持っている姿なんて到底想像できなかったけれど、それでも私は尋ねてみた。
彼の目が一瞬だけ丸くなった。まるで、私が彼の化けの皮を剥ぎ取ってしまったかのように。けれど次の瞬間、彼は小さく咳払いをすると、声を上げて笑った。
彼は髪を後ろにかき上げた。私は、彼の表情がこれほど瞬時に切り替わったことに驚かされた。まるで、さっきの笑い声など最初から存在しなかったかのように。
「いや」
疑う余地もなかった。私には、父が家事から逃れるためなら何百もの言い訳を見つけ出す、そういう類の人間であるように思えてならなかった。
そして、その点において私も彼と大して変わりはしなかった。私が女の子として生まれてきたこと自体が、自然のちょっとした悪戯のように思えるほどに。
「ヨリ、クイント(Quint)――ちょっと下に降りてきなさい」
お母さんの声に続いて、耳に何かが擦れるような雑音が届いた。それが何の音なのか私にはうまく掴めず、その響きは意識の脇をすり抜けていった。けれど、夕食にはまだ早すぎる時間だった。
昼食からどれほどの時間が経ったのかは分からなかったけれど、外にはまだ太陽が見えていた。階段の脇の壁に落ちた明るい光の斑点が、ゆっくりと下に向かって這い落ちていく。
父も困惑したような顔をしていた。もしかしたら、また何かやらかして、自分が一体何をしたのかを必死に思い出そうとしているのかもしれない。いかにも彼らしい振る舞いだ。だから、私はその可能性を頭の片隅に留めておくことにした。
「さて、行こうか?」
私は父に手を伸ばした。自分の足で降りたいのだと、それとなくアピールするつもりだった。けれど、彼は私の提案を綺麗に無視した。
父は私の脇の下をすくい上げると、そのまま自分の肩の上へと担ぎ上げた。急激に視界が高くなったせいで、頭が少しクラリとした。ここから見る世界は、いつもと違って見えた。同じ世界のはずなのに――それでも、どこか少しだけ異なっている。
私もいつか、こんな風に背が高くなれるのだろうか。いや、無理だ。こんなに背の高い人間なんて、この世に存在するはずがない。
私たちは階段へと向かい、私は下を覗き込んだ。
ウリエルだ。
彼は玄関のドアのところで、お母さんの隣に立っていた。まるで長い間、中に入れてもらえなかったかのように、全身に雪をたくさん積もらせて。
気が付くと、私の視線は居間のあちこちを無意識に彷徨っていた。ルイーザの姿を探して。
彼女の姿は、どこにもなかった。
……うん。これでいいのだ。この方がいい。いいはずなのに、でも……。
私は唾を飲み込んだ。あるいは、そうしようと試みた。喉の奥に仕込まれた塊のせいで、肺にうまく空気が通らなかった。
私は精一杯の力を振り絞って、顔に笑みを貼り付け、彼に向かって手を振った。ウリエルも同じように手を振り返してくれた。
「また元の鞘に収まったみたいだね?」
彼はくすくすと低く笑いながら、私がまた誰かに抱えられていること――あるいは肩に乗っていること――をからかうように言った。どちらでも大した違いはないけれど。
彼のからかいに、いつもなら不満げに頬を膨らませるところだったけれど……私は普通にしていることができた。どうしてか、今の私にはその言葉がちっとも刺さらなかったのだ。私は支えを求めていた。たとえそれを、口が裂けても言葉にすることなんてなかったとしても。
「ヨリがトイレに長くこもりすぎてな。足が痺れて動かなくなってしまったんだ」
父は私の脚をポンポンと叩き、床に降ろしながらそう答えた。
「馬鹿なの?」
「何がだ? よくあることだろう」
父は私の非難を片手で払いのけると、挨拶をするためにそのままウリエルの方へと歩いていった。
別にそれで傷ついたわけではなかったけれど、そんなことの顛末を周囲の人間全員に知られる必要はないはずだ。おまけに――それは事実無根だった。
まあ……どうだっていいけれど。
私は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。それを開けるよりも早く、顔の上に何かがそっと触れるのを感じた。
手のひらだ。
その温もりは、まるで時間の外側にあるかのようだった。温かく、微かに湿り気を帯びていて、まるで彼らの世界には冬なんて最初から存在していないかのよう。
体が小刻みに震え始めた。寒くなんてないはずなのに。
視界を奪われたせいで、私の聴覚は限界まで研ぎ澄まされ、周囲のあらゆる呼吸音がはっきりと聞こえた。私自身の震えと共鳴するように、私の目の上にある指先が細かく震えているのが分かった。
「だーれだ?」
私はその声をあまりにもよく知っていた。後ろに誰が立っているのか、耳で確かめるまでもなかった。その香りが鼻腔を突き抜けていき、頭の奥が少しだけ痛み始めた。
「……えっと、私……分かん、ないな」
声が震えた。言葉を絞り出すのがやっとだった。私の体はさらに激しく震え、本能的に彼女の胸へと背中を押し付けていた。
と、その直後――私の脚に衝撃が走った。というよりも、軽く小突かれただけだったのかもしれない。けれど、それだけで私の膝はがくりと折れ、私は危うくその場にへたり込みそうになった。
「全然面白くない。もしまた私のことを忘れたなんて言ったら、今度こそ本当に窒息させてやるんだから」
ルイーザは怒ったようにぶつぶつと文句を言いながら、私の目から手を離した。
私はその場に硬直したままだった――これが現実だとは、どうしても信じたくなかった。どうしてなのか自分でも分からなかった。私は彼女を待っていたはずなのに。もう一度会い、その存在を感じたいと願っていたはずなのに。
それなのに、いざ彼女が目の前に現れると、私はどうしても彼女の方を向くことができなかった。
どうして?
どうして来たの? なんで、今なの?
そんな問いに正しい答えなんて存在しないことは分かっていたから、私はそれを口にはしなかった。どうにか力を振り絞って、彼女の方へと体を回した。けれど、どうしても視線を上に向けることができなかった。
今日の彼女は、いつもとは違う格好をしていた。目に入ったのは足元だけだったけれど、それだけで十分だった。ジーンズによく似た濃紺のズボンに、紐が固く締められた白いロングブーツ。
その姿は、彼女にとてもよく似合っていた。全体の景色が見えているかどうかは関係なかった――私の想像力だけで、すべてを補うには十分だったから。
「ねえ、私の顔はもっと上にあるんだけど」
「分かってる」
言わなければならなかったから、ただそう口にした。返ってきたのは、小さなため息ひとつだけだった。
彼女の指先が私の顎に触れ、ゆっくりと顔を持ち上げた。抵抗したかったけれど――私にはできなかった。
私は両親の方へと視線を逸らした。彼らが何も言わないことも、何かをしてくれるわけではないことも分かっていた。客観的に見れば、私に危険など何も及んでいない。私のこの震えが、それとは真逆のことを告げていたとしても。
私は視線をルイーザへと戻した。彼女は怒っているように見えた。その頬は、まるで中に何かを隠しているかのようにぷっくりと膨らんでいて、その瞳は今にも私をその場で灰にしてしまいそうなほど鋭かった。
私は何かを言わなければならなかった。どんなに他愛のない言葉でもいいから。けれど、頭の中には何も浮かんでこなかった。
『こんにちは』? 挨拶をするには、もう遅すぎる。
『会えて嬉しいよ』? もちろん、それは嘘にはならないだろう。少なくとも、完全に嘘というわけでは。
会話の糸口を掴むため、私はもう一度ルイーザを観察した。新しいズボンのほかに、彼女は私が今まで見たことのないセーターを着ていた――黒いセーターだ。
見慣れなかった。
私とは違って、彼女はいつも鮮やかな色合いの服を着ている印象があったから。
いや。何か別のことに注目しなければ。
髪の毛……。
思考がそこで途切れた。
「あなた、本当に私のこと――」
「違う。覚えてる」
手が勝手に動き、彼女の手首を掴んでいた。力の加減なんてコントロールできなかった。痛くしていなければいいけれど。
問題は、何のためにそんなことをしたのか、自分でも説明がつかないことだった。彼女の怯えたような視線に、私は耐えられなかった。
ルイーザの言葉を最後まで言わせないほど、私は彼女のことを知りすぎていた。
でも……この後はどうするの?
私は彼女の手首を掴んだまま、ただそこに立ち尽くしていた。今度はじっと目を見つめる。唇は動くのに、言葉は一向に見つからなかった。
もう一度、ルイーザに視線を落とす。セーターに刻まれた深い皺に気が付いた――鞄の紐が、彼女の両肩に深く食い込んでいる。二つも。
「……どうして鞄が二つもあるの?」
けれど、答えを受け取るよりも早く、私の両肩に手が置かれ、優しく包み込むように握られた。
「そんなに強張らないで。大丈夫だからね」
お母さんの手が私の手の上に滑り込んできて、ルイーザの手首を握りしめていた私の指を、ひとつずつ解していった。彼女はその場にしゃがみ込み、私の背中を優しく撫でた。
「ごめんなさい……私……」
謝らなければならないことは分かっていたけれど、自分の行動の理由を説明することはできなかった。理由なんて、あまりにも多すぎたから。
お母さんの指先が背中をなぞるにつれて、乱れていた呼吸が少しずつ元に戻っていくのを感じた。思考はまだ混沌としていたけれど、さっきよりはずっと物事を考えやすくなっていた。
私は深く息を吸い込み、酸素を脳まで行き渡らせた。もしこのまま思考を――たとえそれが断片的なものであっても――溜め込み続けていたら、それはいつか土砂崩れのような勢いで外へ溢れ出していただろう。
そして、私がこれほど必死に彼女にしがみついたこと……。言葉が足りないのなら、いつでも触れるという手段に訴えることができる――けれど、こんな乱暴なやり方であるべきではなかった。
ただ頭の中にすべてを溜め込んでいる姿は、周囲には今にも爆発しそうに見えたかもしれない。
私は自分に問いかけずにはいられなかった。私には、他に何ができたというのだろう?
私は微笑もうとしてみたけれど、それが精巧に作られた人形のように不自然で偽物じみた笑みになっていることは、自分でもよく分かっていた。
「大丈夫?」
ルイーザは警戒するように尋ねたけれど、それにもかかわらず、私の一歩近くへと足を踏み出してきた。それと同時に、お母さんが後ろへと下がっていく。それが良いアイデアなのかどうか、私には確信が持てなかった。
大丈夫じゃない、なんて言いたくなかった。ここでは特に。というか、そもそも口にしたくなかった。けれど、頭は言葉よりも先に、小さく横に振られていた。
彼女の両腕が私の腕の下をそっとくぐり抜け、私の背中で回されて、私を自分の体へと引き寄せた。
温かい。
私は本能的に彼女の肩に顔を埋めたけれど、自分の腕を持ち上げることは最後までできなかった。
セーターの生地が肌をチクチクと刺したけれど、そんなことはどうでもよかった。
寂しかった。あまりにも、寂しすぎたのだ。
当然、そんなことは口にしなかったけれど。
私たちはどちらが先に離れるべきか決めかねているかのように、しばらくの間そうしてじっと重なり合っていた。外で風が強まり、窓ガラスがガタガタと震える音が聞こえた。そして私は、ルイーザがもうすぐ帰らなければならない時間なのだと悟った。
今、自分が感じるべきなのが安堵なのか、それとも悲しみなのか分からなかった。彼女は本当に来てくれた。それも、次の日に。もしかしたら、明日も来てくれるかもしれない。けれどそれは、これから始まる気が遠くなるほど長い上り坂の前の、ほんの短い休憩時間のように感じられた。
たぶん、父の言う通りだったのだろう――私は本当に欲張りな人間だった。ずっと一緒にいたいと願っていながら、ほんの短い面会しか許されない囚人のような気分でいたのだから。
「……私に、何て言ってほしいの?」
私はゆっくりと手を持ち上げ、ルイーザのセーターの裾をきゅっと引っ張った。
もし彼女が聞きたい言葉があるのなら、何だって言ってやるつもりだった。こんな気まずい結末で終わらせたくはなかった。彼女の努力を無下にはしたくなかったのだ。
「何も。私には、全部見えているから」
彼女がどういう意味でそれを言ったのか、私にはうまく理解できなかった。一体何が見えているというのだろう。私は顔を巡らせて彼女の表情を確かめたかったけれど、動くのをやめた。
強くしがみつけばしがみつくほど、再び離れるときの痛みが大きくなることは分かっていた――けれど、どうしても身を引くことができなかった。たとえこれがほんの一瞬の休息にすぎないとしても――ほんの刹那であっても――私はもう少しだけ、このままでいたかった。
両親とウリエルが何かを話し合っている声が聞こえたけれど、その意味は私の頭には届かなかった。耳元で聞こえる彼女の呼吸の音が、無視するにはあまりにも鮮明すぎたから。体から体へと流れ込んでくるようなその見慣れた温もりは、私を温めると同時に、私の内側をひどく虚ろにしていった。
少しずつ、壁の光の斑点が下降していき、やがて完全に消え去った。夜が来たのだ。あるいは、厚い雲が立ち込めただけなのかもしれなかったけれど、正確なところは分からなかった。
分かっていたのは、ただ一つ。その時が来たのだ。またしても。
すべてを台無しにしたのは、他ならぬ自分自身のせいだった。それは理解している。けれど、ただ自覚したところで、感情を抑え込むためにあまりにも多くの時間を無駄にしてしまったという事実は変わりようがなかった。
「もう……行かなきゃいけないんでしょ?」
引き延ばしたところで意味はなかった。だから、私は尋ねた。もしルイーザが本当にまた来てくれるのなら、その時はもっとうまくやるつもりだった。
「まあね……」
「なるほど、話はそこから始めるべきだったな」
ウリエルの声が聞こえた瞬間、私は肩をビクリと震わせた。彼の手が私の肩に置かれ、その拍子にルイーザの腕が私から離れていった。どうやら今日の私の両親や周囲の人間にとって、私の肩は格好の接触ポイントになっているようだった。
彼の方を振り向く前に、私は首に手を当て、長い間動かしていなかった関節をほぐすように、小さく骨を鳴らした。
「……何から始めるの?」
私は問い詰めた。
「鞄が二つで――二ヶ月だ」
「え?」
脳裏をよぎったその思考は、起こりうる中で最悪のシナリオだった。信じたくはなかった。けれど、それが可能であることも分かっていた。
「……二ヶ月間、どこかへ行っちゃうの?」
まだ答えも受け取っていないというのに、私のお腹の筋肉が、まるでこれから衝撃を受けるかのように硬く緊張していくのを感じていた。
「どうしてそんな結論になるんだい? 私は帰ってきたばかりだよ」
ウリエルが何気なく声を立てて笑ったとき、私は彼を思い切り蹴り飛ばしてやりたいという衝動を、どうにかして抑え込んだ。力づくで彼に分からせようとした父の気持ちが、今の私には少しだけ理解できたような気がした。
「だったら、何なの?」
私は毅然とした口調で、まともな答えを要求した。
「いやあ……ルイーザが毎日ここに来たがってね。だけどそれは……少しばかり骨が折れるだろう? 私にだって自分の仕事があるしね」
彼の言葉は言い訳のように響いた。そして、私に明快な答えをくれるものでもなかった。
私は彼の顔をにらみつけながら、眉をひそめた。その間にも、自分の足がその場で小刻みに動いているのに気が付いた。まるで、私の張り詰めた神経がリズムを刻んでいるかのように。
「だから私たちは、雪が解けるまでルイーザをここに預けることに決めたんだ」
私の口が無意識のうちにぽかんと開いた――顎のあたりが強張っていく――それが喜びによるものなのか、それとも不安によるものなのか、自分でも分からなかった。おそらく、そのすべてが一度に押し寄せてきたのだろう。
私が念入りに身構えていた衝撃は、お腹にはやってこなかった。それは私の全身を完全に打ちのめした、まるですべてを飲み込む雪崩のように。
ここに、残る。それも、また明確な期限付きで。
たった一ヶ月の時間が、私の均衡を失わせるには十分だった。
そして、ほんの一時間のズレが、足元に深い奈落を作り出す。
自分がどう反応すべきなのか分からなかった。ただそこに立ち尽くし、まるで誰かに操られているかのように、無力に唇を動かすことしかできない。
「だったら、最初から彼女をここに置いていけばよかったじゃないか。荷物だけを持ってな」父は手を振り上げながら言った。「ウリエル、お前と違って、ルイーザはもう我が家の一員なんだからな」
ウリエルの顔が歪むのが見えた。この後どうなるのかを予想するのは、決して難しいことではなかった。
「それは残念だ。どうやら私と君は、ここには居場所がないみたいだね」彼は頭を垂れ,、まるで明白な事実に同意するかのように、大袈裟に首を振ってみせた。
「何だって?」
ウリエルの返しを聞いた父は、危うく空気に噎せ返るところだった。
どうやら父は、自分の得意な土俵でウリエルに出し抜かれてしまったらしい。
二人はそのまま言い合いを続けていたけれど、私はもう耳を貸さなかった。ただ背景で流れる、消し忘れたラジオの音声のようなものだった。お母さんは、そのどちらの衝突にも介入しようとはしなかった。まるで、そこに自分の居場所などないかのように。その様子に、胸が少しだけ息苦しくなった。
「ママン……」
私の呼びかけに対して、お母さんはただ唇に人差し指を当て、私に静かにするよう促すだけだった。そしてルイーザから二つの鞄を受け取ると、彼女の背中をぽんと軽く叩いて、私たちの距離を縮めさせた。お母さん自身は、そのまま階段の方へと向かっていく。
距離というのは――簡単に縮められる分、同じように簡単に引き裂かれてしまうものだ。
残念ながら、感情においては同じようにはいかなかったけれど。
一緒にいる間は――ただ蓄積されていく。離れた瞬間に――それは外へと溢れ出す。けれど、だからといって、その量が減るわけではないのだ。
これほど色々なことがあった後だ、ルイーザが戸惑ったような顔をしているのも無理はなかった。彼女が私を見たとき、その瞳が気まずそうに細められた。
今度は私の番なのだということが、あまりにも明白だった。彼女に向かって、一歩を踏み出す番が。
自分の気持ちを素直に打ち明けることなんてできないことは分かっていた。どんな余計な言葉も――すべて冗談の中に包み込んで、どこかへ投げ捨ててしまわなければならない。
お母さんのように、触れ合いを通じて自分の感情を伝えることも私にはできないと分かっていた。
私には、私自身のやり方がある。決して十分なものとは言えないけれど――それでも、完全に心からのやり方が。
けれど、もし彼女が覚えていなかったら? 拒絶されたら? もうそんなこと望んでいなかったら?
元の場所に戻ろうとするかのようにピクリと跳ねた私の手が、私自身の躊躇いを雄弁に物語っていた。
それでも、手は伸ばされた――小指が、まっすぐに突き出される。
彼女の視線がさっと下に向いた瞬間、私は危うくその手を引っ込めそうになった。
彼女の反応は、あまり芳しいものには見えなかった。すでに自分の仕出かしたことを後悔し始めていた。背筋に冷たいものが走るのを感じて、私は背中を丸めた。
けれど次の瞬間、彼女は首を少し横に傾げ、その唇の両端をきゅっと持ち上げた。
指先と指先が重なり合い――私たちの小指は、再び二人の間の絆を強く結びつけた。まるで、私たちはまだここにいるのだと、互いに確かめ合うかのように。




