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第2巻 第6章:カレンダーの外側

今日、ママとルイザは市場へ出かけた。

ルイザは私も誘ってくれたけど……まあ、明らかな理由で、丁寧にお断りした。

朝からずっとベッドにいて、今もパジャマ姿のまま。

別に珍しくもない。

私を普段着で見たことなんて、ほとんどないかも。

なんか、クリスマスツリーみたいなもんかな。

特別な日だけ着飾る……って言ったら、着飾るって言葉、私に似合うのかな。

キッチンで父さんとこっそり(ママには内緒で)残りのチョコを食べてると、ふと思った。

……今日、休み?

それとも父さん、毎日が休みみたいな感じ?

時々、家を出て夕方に戻ってくることはあるけど、

父さんって、忙しそうな人には全然見えない。

父さんが全部食べちゃう前に、もう一つチョコをつまんで口に放り込む。

こういうのは、待ってると損する。

甘い外側に、中はフルーティーでちょっと苦い。

まあ、別にどうでもいい。

食べられるんだから。

「ねえ、パパ。

体を温かくするのと、空に火で円描くの以外に、何かできることあるの?」

ちょっと失礼な質問かもしれないけど、聞いちゃった。

体格はいいのに、なんか……尊敬するような感じじゃないんだよね。

……あ、いや、そういう意味じゃなくて。

えっと……まあ、いいや。

「ん?」

父さんがこっちを向いて、ぱちぱち瞬きする。

「ただ……冒険者みたいな武器、持ってるの見たことないなって」

手をぶんぶん振って、剣持ってる真似をしてみる。

「冒険者?」

首を傾げて、眉を上げる。

「大人になった男が、冒険に時間使うべきだと思うのか?」

……確かに、そうかも。

冒険者って、ティーンエイジャー向きだよね。

「見て見て! 私ここにいるよ!」って叫んでる時期。

……ん? 待って。

家で父さんも、似たようなことしてない?

いや、「真面目な家庭人」になりたくなかったのかも……?

「真面目」って言葉は、ちょっと大げさだったかも。

まあ、置いとこう。

私が答えを探してる間に、父さんはキョロキョロ周りを見回して、

体を張って、筋肉アピールしてるみたい。

家を支えてるのは俺だぜ、って言わんばかりに。

……いや、なんでそんなポーズ?

なんか、ありきたりなこと言ったら損しそう。

だから、別の角度から。

「じゃあ、ママが家事してる間、ずっとここに座ってるだけ?」

「それが……どうした?」

目も瞬かせずに、さらっと返す。

言い訳もせず、冗談にもせず。

本当に、それで普通だと思ってるみたい。

……私、なんか無理に深刻に考えすぎてるのかも。

「実は、結構いろいろやってるんだぞ。お前が気づかないだけだ」

突然、父さんが説明モードに入った。

「たとえばな」

指で床を指す。

視線を追うと――

そこにあったのは、暖炉から吐き出された木炭の山。

黒くてゴツゴツした塊が、床に無造作に転がってる。

誰かが灰を適当にぶちまけて、そのまま放置したみたい。

私がここに来た時は、絶対になかったのに。

間違いなく、木炭だった。

……で、これで何が言いたいの?

家事の仕事がゴミを撒き散らすこと?

私だって、それくらいならできるよ。

……いや、忘れよう。

考えを振り払おうとした瞬間、パチッと音がした。

びくっと体が跳ねて、思わず椅子の端を指で掴む。

一瞬、椅子が崩れるんじゃないかと思った。

でも、音は下からじゃなかった。

黒い木の塊から聞こえてくる。

近くの空気が急に乾いて、熱くなった。

まるで暖炉の前に押し出されたみたい。

頭が反応する前に、足が勝手に伸びて……

熱が足の甲に触れて、慌てて引っ込めた。

まるで死んだ木が「昔は生きてた」って思い出したみたいに、

木炭が動き始めた。

最初はぎこちなくて、崩れるようなざらざら音。

それから、だんだん自信を持って。

塊から、短い足、丸い頭、胴体が浮かび上がる。

中から炎がぱっと灯って、内側を満たす。

火の舌がのろのろと上へ伸びて、輪郭をぼやけさせる。

炎から生まれた……ぬいぐるみのクマ。

柔らかそうで――ほとんど笑えるくらい可愛いのに、

熱は本物。

距離があるのに、顔の皮膚がぴりぴり引きつる。

この生き物を「クマ」って名付けられたことに気づいても、

全然理解が進まない。

「どうだ? 感想は?」

父さんが腰に手を当てて、鼻を高く上げる。

……いい質問だね。

何を考えればいいの?

生き返った子供向けのおもちゃに、何を思えって?

父さんの謎を解くには、人間離れした努力が必要そう。

もう、諦めたいレベル。

クマが炎の腕をぎこちなく動かすのを見てるだけで、頭が痛い。

熱くて……本当に今、冬なの? って疑問が湧く。

「……子供向けの劇でもやってるの?

わかんない」

肩をすくめて、首を振る。

「その通り。俺はマジシャンだ」

得意げに胸を張って宣言したと思ったら、

すぐチョコに戻って、最後の一つをぱくり。

私は見て見ぬふり。

……彼の中では、これも「マジック」の一部なんだろうね。

「じゃあ、ギ……」

「ギルド・マジシャン」

私が言い終わる前に、即答。

……聞いた?

それとも、ずっと待ってた質問だった?

まるで、大人が子供から聞かれる定番のやつみたい。

「赤ちゃんはどこから来るの?」みたいな。

私は「赤ちゃんはどこから来るか」は知ってるけど、

父さんは解読不能のパズル。

どんなに組み合わせても、全体像が見えない。

……結局、父さんは私を適当にあしらっただけだ。

もう、どうでもいいや。

で、クマ……まあ、可愛いよね。

表情は読み取れないけど、

急に首を振って、自分の炎の腕足を眺めてる様子が、

「俺、すげぇ!」って自画自賛してるみたい。

父さんと同じ性格を、ぬいぐるみが受け継いだのかな。

残念だけど、寿命は短かった。

玄関のドアが開いて、ママとルイザが帰ってきた音がした瞬間――

クマはぱっと消えた。

まるで、隙間風に吹き飛ばされたみたいに。


.


何度か試した末に、ようやく階段を一人で降りられるようになった。

……まあ、別にそれで何か変わったわけじゃないけど。

昨日も一昨日も、そして今日も――またベッドの上。

今回は周りが静か。

ルイザとママは下にいるし、父さんは……どこかに行ってるんだろう。

ルイザが持ってくる賑やかさ、嫌いじゃないよ。

でも、あの子の突発的な「やろう!」の後には、いつも次の日丸々寝込んで、エネルギーを少しでも取り戻さないとダメになる。

たとえば昨日も、ルイザに引っ張り出されて雪合戦。

結果はいつも通り――雪に埋もれて、凍えて、ぐったり。

本を持ってベッドに潜り込んだ。

ルイザと一緒に読んでた本。

もう暗唱できるくらい覚えてるのに、開いて読む。

練習は練習だから。

……私、めっちゃ真面目な子になったよね?

親が見たら、涙ぐむレベル。

……って言えたらいいんだけど。

現実って、もっと味気ない。

父さんが部屋を覗いて、私が読んでるのを聞いてた時も、

全然驚かなかった。ただ頷いて、

「記憶力いいな。

ちゃんと読めるようになったら、大人同士で話そうぜ」

って、にやにや笑って出てった。

つまり、私の成長なんて眼中になかった。

別に、頑張ってるつもりもないけど。

時々、ルイザと「ただ一緒にいる」時間が恋しくなる。

何か学べば学ぶほど、彼女がそばにいる時間が減っていくみたい。

釣りの話みたい。

魚をくれる間は、ずっと一緒に。

釣り竿を渡されたら、もう一人でやれるよね。

……もうちょっと、習うのを遅くすればよかった?

「いや、やっぱり違う」

人生は続く。変化は避けられない。

でも、まだ一つ、変わらない場所がある。

毎朝と毎晩、必ず会う場所。

私は猫みたいに、のろのろと体を伸ばした。

日向ぼっこしてるみたいに。

ただ、窓から入る光の量と、暖かさは全然比例してない。

つまり――布団の外は寒い。

突然、ドアがバン!と壁にぶつかって、私はびくっと跳ね起きた。

振り返っても、驚きはなかった。

犯人はわかってる。

もっと静かに入ってきてほしいな、って言おうとしたけど、

今はそれどころじゃない。

ルイザ――この自然災害みたいな子――が、

めちゃくちゃ興奮した顔で立ってる。

外は涼しいのに、彼女の額から汗がびっしょり。

まるで、私たち全然違う世界にいるみたい。

駆け寄ってきて、すぐそばで、

得意げに笑う。

「できた! 見て見て!」

どこを見ろって言われても……

頭がルイザの胸に埋まってて、鼻が潰れそう。

別に鼻が長いわけじゃないのに。

押し返そうとしたけど、全然効かない。

ルイザは全然譲らない。

結局、私が諦めた。

「――おい! 寝たの?」

私が手を下ろした途端、ルイザが不満げに睨んでくる。

何か言おうとしたけど、

胸に顔を押しつけられてるせいで、

声も思考も、ただのモゴモゴにしかならない。

ルイザは全然気にしてないみたい。

……ルイザ王国では、口に布詰められて話すのが普通なのかな。

「変な子。

まあいいや、ほら見て! できたんだから!」

また繰り返すけど、何ができたのか全然わからない。

急に襲ってきた? 私を潰した? それ?

ようやくルイザが自分から離してくれて、

私は慌てて息を吸った。

いつものことだけど、ルイザの髪が舌に絡まるの、ほんと嫌。

もう、ちゃんと手入れしなよ。

何も言わずに、ルイザが掌を開く。

覗き込むと――予想通り、何もない。

普通の掌。もう何百回も見たやつ。

……最近見た夢を思い出した。

内容は覚えてないけど、なんか最後、しいたけが出てきた気がする。

ルイザの掌と何の関係があるんだろう。

……まあ、誰が気にするのさ。

ふっと、ため息みたいな音がした。

最初はルイザが失敗したのかと思ったけど、違う。

彼女の顔はまだ勝ち誇った笑み。

空気がざわついて、壁を引っ掻くような音。

窓は閉まってるってわかってる。

わかってるのに、ぞわっとする。

こんな説明できない出来事の中でも、ルイザだけは落ち着いてる。

ただ、息がだんだん荒くなってる。

だから、もう一度掌を見た。

――顔に直撃。

風の塊が髪を顔に叩きつけて、頬を風船みたいに膨らませる。

まるで飛行機の窓を開けた瞬間みたい。

頭を振って後ずさる。

空気がだんだん抜けて、乾いて、

掃除機に吸い込まれるみたいに消えていく。

そして――掌から、何かが飛び出した。

オリーブ色の染みみたいな、細長い形。

天井に向かって舞い上がって、広がって……

ようやくわかった。

翼だ。

鳥。

すぐに思い出した。

雪合戦と、ママのグランダル。

……あ、だからあんなに一緒にいたのか。

生きてる空気が部屋に現れたことに、どう反応すればいいかわからないまま、

鳥が私の肩に降りてきた。

体がびくっと固まる。

爪、痛み、引っかき傷……覚悟したのに、何もない。

足が温かくて、柔らかい。

ほとんど触れてないみたい。

布を通り抜けて、肌を通り抜けて……

空気の流れが肩から首に広がって、背中にぞわぞわっと鳥肌。

……変。

でも、嫌じゃない。

曲げた指を首の方に伸ばして、撫でてみる。

父さんみたいに止めない。

ルイザの魔法は、わりと大人しいみたい。

危険度、低め。

触れた空気、予想外に柔らかい。

空気なんて触ったことないはずなのに……

でも、冷たい隙間風でも、乾いたそよ風でもない。

軽くて、温かい息みたいな。

指の下で、震えてる。

一番細い蜘蛛の糸みたいに。

触れたところで、弱く光る。

鳥が息をしてる――胸じゃなくて、全身で。

透明な羽の一粒一粒が、呼吸してるみたい。

重くない。

全然。

首から胸の方へ指を滑らせると、

空気が一瞬、形を崩して、すぐにまた集まる。

「羽」――そう呼べるなら――が私の指をすり抜けて、

また閉じる。

そのあと、ぴりぴりした感覚。

小さな光の火花が何千も肌を走って、溶けるみたい。

鳥が首を傾げて、

もっと撫でて、って言ってるみたい。

私は、一瞬、息を止めた。

吐いたら、消えちゃうんじゃないかって。

でも、消えなかった。

一つだけ確かなのは……

ルイザと同じで、この空気の鳥も、めちゃくちゃふわふわだってこと。

確かに、ルイザの進歩はすごい。

でも、どうして鳥なんだろう?

……ちょっと、わかりやすすぎない?

空を見上げれば、誰だって鳥を想像する。

ママに似たくなりたかったのかな……?

あと、なんでオリーブ色?

ルイザの翡翠色の方が、絶対似合うのに。

……まあ、質問は山ほどあるけど、

まずは一番シンプルなやつから。

「どうして鳥なの?」

「嫌い……?」

ルイザが眉を寄せて、ちょっと傷ついた顔。

「いや、すごいよ。ほんとに。

ただ……鳥と空気って、なんか……」

言葉が見つからなくて、肩をすくめる。

わかってくれるかな、と思って。

「でも、ヨリのママの鳥に、すっごく感動してたじゃん。

口開けてたし……」

肩が落ちて、息を吐くみたい。

ルイザの息が、鳥を保つのに多すぎたのかも。

今度は私が罪悪感で胸が痛い。

でも……たとえ真似でも、

ルイザは日常の流れから抜け出そうとしてる。

その方向が、私と直結してる気がする。

「水の鳥は珍しかったから、かな。

もうできたんだし、違うの試してみたら?」

「違うの?」

「クジラとか。

タコとか」

ルイザの目が丸くなる。

……あ、名前が違うのか。

「描いてあげるよ」

もう一度、鳥を撫でる。

これが最初で最後かも。

だから、後悔したくない。

でも、鳥が現れた時と同じように、

ふっと空気に溶けて消えた瞬間――

なんか、変な寂しさが胸に残った。

ルイザの様子が急に変わった。

体を丸めて、息を荒げてる。

長い走りの後みたいに。

でも、走ってないのに。

空は赤く染まってるけど、

ルイザの方がもっと赤い。

慌てて近づいて、支えてベッドに引きずり上げる。

……私の力じゃ、全然足りない。

ルイザは軽いのに。

階段登ったあと、牛乳飲もうと思った。

骨、強くするかなって。

……結果、乳糖不耐症だった。

ルイザがベッドに倒れ込んで、手で目を覆う。

赤い顔が、苦しげに歪んで、

無理やり笑ってるみたい。

涙を我慢してるみたい。

……そんなに辛い?

どうしよう。ママ呼ぼう。

ベッドから降りようとしたら、

シャツが引っ張られて止まる。

振り返ると、ルイザの手が掴んでる。

「……私、ダメだね」

突然、そんな言葉。

なんで今、そんな結論に?

さっきの小さな渦に比べたら、

ルイザはずっと長く保ててた。

相当頑張ったってことじゃん。

それで十分じゃない?

「……一生懸命やったのに、無駄だった」

そう言って、手を離す。

ベッドに落ちる。

無駄?

何言ってるの?

私にとって、これは初めて「触れられる」魔法だった。

通り過ぎる鳥じゃなくて。

ふわふわじゃないクマじゃなくて。

触れて、撫でて、生きてる生き物。

一瞬、ペットができたみたいに思った。

……待って。

私のせい?

ルイザに、自分の形を見つけてほしかった。

ママの真似じゃなくて。

でも、頭の中で繰り返すほど、

どんどん悪くなる。

私が提案したのも、水に生きるものばっかり。

結局、同じ方向に引っ張ってる。

どこで間違えたんだろう。

傷つけたくなかったのに。

……問題は、そこかも。

わかってないのに、言っちゃった。

知らないのに、アドバイスした。

今、ルイザはベッドで目をぎゅっと閉じて、

私が押し込んだ場所にいるみたい。

これが何て名前かわからない。

でも、なんか大事なところを、触っちゃった。

もう、無かったことにできない。

真似から始めることに、何も悪いことなんてない。

言葉は誰かの真似から覚えるし、歩き方も誰かの後ろをなぞるだけ。

なのに、私……

ルイザの頑張りを、めちゃくちゃ安く扱っちゃった。

的外れな提案して、ちゃんと説明もせずに。

今、何をすればいい?

抱きしめる?

……いや、なんで?

じゃあ、撫でる?

……なんか、それも違う。

手をつなぐくらいなら……安全かな。

だから、ルイザの手の上に自分の手を重ねた。

すぐに、彼女の指が私の指の間に入ってきて、ぎゅっと握り返す。

……思ってたのとちょっと違う。

でも、手を離そうとは思わなかった。

掌、温かい。

むしろ熱い。

それに……湿ってる。

鳥を作って、維持してた努力が、こんなところにまで出てる。

今、そんなこと考えるタイミングじゃないのに、

手首が変な角度で曲がってて、ちょっと痛い。

だから、ルイザの隣に横になって、

頭を彼女の膝に預けて、手を繋いだまま。

「……ねえ、ルイザの鳥、

私が今まで見た中で、一番よかったと思う」

「嘘つき」

即答。

「まだ言い終わってないよ」

……まあ、タイミング悪かった。

私の言い方が悪かったんだから、当然。

でも、どう言えばよかったんだろう。

「触れた中で一番」?

他の鳥に触れたことなんてないのに、比較なんてできない。

誰も、人の人生に深く入り込まれるの嫌がる。

でも、興味持たれないのも嫌。

親だけが、そんなわがままを受け入れてくれる。

今、気づいた。

子供がこの矛盾で引き裂かれてるのを、ちゃんと見て、

どうやって折り合いをつけるか教えてあげるのが、大事なんだって。

ルイザには、そんな人がいなかった。

だから、必死で注目を集めようとしてる。

今、ルイザは私を――私だけを――

驚かせようとしてた。

何を学んだか、見せようとしてた。

なのに、私は違うところを見てた。

まだ、ちゃんとした言葉が見つからない。

考えれば考えるほど、何をすべきかわからなくなる。

だから……

ちょっと、論理のつじつまが合わなくても、

許してほしいな。

「……私、ルイザを鳥だなんて思ってないよ」

「じゃあ、何?

クジラ? それとも変な生き物?」

……もちろん、許してくれなかった。

一言、二言、不注意な言葉で全部壊れちゃう。

今、何度も失敗したから、慎重にならなきゃ。

もう、試すのも怖い。

「ううん、それも間違いだった」

説明が足りないのはわかってる。

でも、ルイザは黙ってくれた。

額の汗が落ちるたび、眉を寄せる。

それに、私の手の甲を指でトントン叩き始めて……

急かしてるみたい。

……正直、プレッシャー。

私の中では、ルイザはただのルイザ。

いい子でも悪い子でもない。

複雑でもシンプルでもない。

ただ、ルイザ。

ママに似てほしくない。

知らない誰かに似てほしくない。

必要なのは、ルイザそのもの。

でも、そんな答えじゃ、彼女は納得しない。

だから、また頭の中で動物を並べ始める。

正しいのを見つけたら、全部簡単になる気がして。

でも、考えれば考えるほど、はっきりする。

一つの言葉じゃ、人を表せない。

キメラを提案した方が簡単だったかも。

……でも、それじゃ余計に傷つけるよね。

まあ、無難な選択肢だったかもだけど。

振り返ってみれば、ヴェラリンが一番ぴったりだった。

ふわふわで、いたずら好きで、目がキラキラしてて。

でも、それもまた「わかりやすすぎ」。

そして、やっぱり私のものじゃない。

……ん?

私、ルイザのこと、猫だと思ってない?

生意気だけど、傷つきやすい。

ふわふわなのに、爪がある。

猫って無害だと思ってる人いるけど、

ルイザみたいに、急に大きくなる。

トラとか、ライオンとか。

「……猫」

ルイザの顔を見て、はっきり言った。

「何が猫?」

眉を寄せて、首を傾げる。

「ルイザは猫だよ」

突然、彼女の首と肩がびくっと固まって、

変な音がした。

肺の空気が全部頬に移動したみたいで、

ハムスターみたいにぷくっと膨らむ。

……あれ、私のキャラ診断、間違えた?

待って、もしかして猫って知らない?

言い方、悪かった?

「ヨリこそ猫だよ。

それで、何?」

……猫は知ってるんだ。

私の言い方が曖昧だっただけか。

「猫が似合うってこと」

ルイザの顔がますます困惑して、

私の説明が全然改善してないことに気づく。

……ほんと、気持ちを伝えるの難しい。

「なんか、遠回しな悪口?」

今度は私が目を丸くする番。

言葉は、意味通りの意味だと思ってたのに。

どうしてそんな結論に?

普通の会話が、なんで「指相撲」みたいになってるの?

猫が何か悪い象徴だったりする?

知らなかっただけ?

頭をフル回転させて考えるけど、

出てくるのは蝶々のイメージだけ。

ため息をついて首を振ったら、

膝の上がびくっと震えた。

……一言じゃダメだって、わかってた。

恥ずかしさを捨てて、本気で言葉を絞り出そうとしても、

口が動かない。

そういう体質なんだ、私。

心臓がずきっと痛んだ。

自分の限界を、こんなに実感したことない。

「……ただ、温かくて、ふわふわで、家にいる感じ」

ルイザの顔を見るのが恥ずかしくて、

天井を見つめる。

「ふてくされてる時、猫みたい。

時々、生意気。

でも、いないと家が家じゃなくなる。

……そんな感じ、かな」

声に出すの、ほんとに辛い。

言葉にするのも、もっと辛い。

舌と脳が、喧嘩してるみたい。

「ひどい。ヨリ、変な子」

……こんなに頑張ったのに、これだけ?

文句言う権利ないけど、ちょっと悔しい。

最初は拗ねたふりしようと思ったけど、

ルイザの手の甲が赤いのに気づく。

視線を上げると、唇が震えて、

笑いを必死に抑えてる。

手の下でも、耳が赤くなってるのが見える。

その色、秋みたい。


.


「ママ、猫作れる?」

この質問、すぐには出せなかった。

もちろん。

ルイザが魔法を使ったあと、回復に丸二日かかったんだから。

魔法を使うと良い効果しか残らない、なんて思ってる人多いけど、

実際は逆。

悪い影響の方が圧倒的に多い。

ママは正午まで出かけてて、父さんもまだ帰ってない。

だから一階、めちゃくちゃ寒い。

階段の途中で、もう夏と冬が戦ってるみたいに温度差が激しい。

Tシャツの温度がどんどん下がって、肌に食い込む。

まだそんなに時間経ってないのに、耳がもう落ちそう。

……冬でよかった。

機嫌悪いのも、全部季節のせいにできる。

本当の原因を認めたくないだけだけど。

白い息を吐きながら、ルイザは全然平気そう。

まあ、彼女はちゃんと冬服着てるし。

私、洗濯したあと暖かいパジャマに戻さなかったこと、めっちゃ後悔。

そんなことを思いながらキッチンに着くと、

ママが袋――というか、袋一つ――を整理してる。

……いつから魔法の袋使ってるんだろう?

いつも一緒に買い物行くと普通のビニール袋なのに。

まず「手伝う?」って言うべきだったかも。

でも、私が手伝うと大抵邪魔になるだけだから、

最初から諦めてる。

「猫、ね?」

ママが首を傾げて、ちょっと考える顔。

……なんか、この「猫」って言葉にみんな反応おかしい。

私、純粋に困惑してる。

「まあ、いいんじゃない」

肩をすくめて、さらっと同意。

――ぽたり。

水滴が落ちる音。

でも、蛇口は閉まってる。

思わずキョロキョロ周りを見回す。

ルイザも同じく、ぽかんとしてる。

家の中の魔法って、なんで毎回こんな効果音つくの?

まるで没入型空間にいるみたい。

次の瞬間、顔の前にぽたり。

また一滴。

頭上を見上げる。

天井から水が落ちてる。

流れでも雨でもない。

ぽつぽつと、間隔が広すぎる滴。

床に落ちても飛び散らず、そのまま溜まって形になる。

反射的に横に避けた。

ルイザもつられて動く。

水が床を這って、一本の細長い線に集まる。

猫にしては長すぎる。

「……何これ?」

床を指差して、ママを見る。

「猫よ」

平然と答える。

「……ほんとに?」

その瞬間、線が急に持ち上がった。

まるで床から噴水みたいに。

でも、水しぶきは飛ばない。

全部、中に収まって形を保ってる。

目の前に現れたものは、

私の知ってる猫とは何一つ共通点がない。

背中はある。

……それだけ。

足も尾もなし。

ただの長い板みたい。

そして、その一部がくるっと回った。

すぐにわかった。

あれが頭だ。

暗い二つの切れ目がこっちを向いた瞬間、

床に崩れ落ちそうになった。

水の色が違う――どんよりして、濃くて、

その視線に耐えきれなくて、目を逸らしたくなる。

ルイザが私の背中に隠れて、Tシャツをぎゅっと掴む。

……初めて、姉貴っぽい気分になった。

でも、膝の震えは止まらない。

生き物はもう動かない。

ただ、そこに「いる」だけ。

それだけで十分。

キッチンから逃げ出して、部屋のドアに隠れたくなる。

「子猫よ」

ママがしゃがんで、背中をぽんぽん叩く。

「大人は……家くらいの大きさかな」

「……は?」

あまりにもバカバカしくて、

このイメージを一生頭から消したくなった。

家って何?

こんな怪物みたいな子猫が、猫?

それに……これでルイザを表したってこと?

私、思ってた以上に非人間的だ。

頭が近づいてくる。

ルイザが後ろでしゃがみ込んだ。

……私も本当はそうしたい。

でも、生き物は私の手に伸びてきた。

撫でて、って言ってるみたい。

「肌」――そう呼べるなら――が波打って、

指の間を通り抜けて、軽く湿りを残す。

ごくり、と喉が鳴った。

最初は怖かったのに、今は……撫でたい。

ママがコントロールしてるからか、

生き物はすごく穏やかで、

むしろ……甘えてるみたい。

「で、なんで猫が必要だったの?」

「――あ、もういらないわ」

……また記憶が怪しくなった。

本当に「猫」でよかったのかな。

もしかして、私が間違えた?

「ふーん。まあいいか」

ママは全然動じない。

そんな簡単に受け入れてくれるなら、

この生き物、見た目ほど怖くないのかも。

ママが頷くと、生き物がぱっと消えた。

指に残ってた湿り気すら、跡形もなく。

ルイザがようやく隠れ場所から出てくる。

……まあ、隠れ場所としては最悪だけど。

こんなのに飲み込まれるのに時間かかると思うなんて、

ルイザ、ほんと純粋すぎ。

魔法が気持ちを反映するなら、

手を出してきたってことは……

ママも、触れ合いが足りてないってこと?

……いや、まさか。

ママがそんなことで悩むわけない。

魔法自体はすごいけど、

それ以上に衝撃だったのは、

跡が残らないこと。

床に広がってた水の跡も、

生き物と一緒に消えた。

「じゃあ、お昼作るわ。

あなたたちは……とりあえず部屋に戻ってて」

ママが袋から鶏みたいなものを取り出してテーブルに置く。

さっきは気にしてなかったけど、

今になって、なんか……ママ、寂しいのかな、って思っちゃった。

「……手伝おうか?」

ママがこっちを向いて、

本気でびっくりした顔。

……私らしくないのはわかってる。

でも、そこまで驚かれるとは。

「いいわよ」

短く答えて、背を向ける。

……会話終了、って感じ。

……結構、冷たいな。

まあ、当然だけど。

もちろん、私、料理なんて全然ダメだけど……

せめて何か手伝えれば……いや、無理。

ママをキッチンに残して、ルイザと一緒に部屋に戻る。

今は階段が「前よりマシ」になったから、大人の助けはいらない。

……心の奥では、まだ「誰かに運んでもらいたい」って思ってるけど。

まあ、とにかく。

ルイザと二人きりになると、また実感する。

私の人生、完全にルイザ中心。

つまり、ちゃんと説明して、誤解を解かなきゃいけない。

「……ねえ、あれ、違うんだよ」

「何が?」

「猫って言ったこと」

声がだんだん小さくなる。

……階段登ってるから息切れしたことにしよう。

うん、それでいこう。

「そう?

あんなに撫でてたから、別の意味かと思ったけど」

ルイザは平気そうな顔で言うけど、

どこか……ちょっと傷ついてる気がする。

言葉で説明するの、私ほんと下手。

じゃあ……。

階段の途中で、指をくいくい。

ルイザが眉を寄せて、でも素直に近づいてくる。

彼女が屈んだ瞬間、

私は掌を彼女の額に当てて、ゆっくり髪を梳くみたいに上へ滑らせた。

ルイザがびくっと震えて、

頭を下げたまま、じっとしてる。

……無言で「もっと」って言ってるみたい。

「ほら?

ルイザはあんな猫じゃないよ」

「何がわかるの?

説明、ますますわかんなくなった」

……やっぱり、ダメか。

手を離そうとしたら、

ルイザが自分で前に倒れ込んで、

額が掌にくっついてくる。

このまま倒れそうで、慌てて撫で続けた。

……私、多分マルチタスク向いてない。

ルイザの様子と、自分の考えを同時に処理するの、ちょっと無理。

「描いてくれるって言ってたよね」

ルイザが、背中を丸めたまま言う。

「あ!」

……寝起きで記憶が飛ぶの、ほんと困る。

最初からこれやればよかった。

ママに現実でイメージ壊させる必要なんてなかったのに。

撫でるのを中断して、ようやく階段を上った。

……まあ、この行動のおかげで息を整えられて、

みっともなくない感じで頂上にたどり着けた。

部屋に入って、椅子をテーブルに引き寄せて、

その上にちょこんと座る。

アルバムなんてないけど、ルイザの空き紙は十分にあったから、それを使う。

ペンを取って、先をインクに浸して、描き始める。

線。一本。また一本。そして……

「私、描いてる間、ずっと立ってるの?」

「うん。気になる」

ルイザがこくんっと頷いて、紙をじーっと見てる。

別に邪魔ってわけじゃないけど、

見られてると……ちょっと落ち着かない。

線が曲がるのも、当然だよね。

ため息をついて、また描き直す。

ルイザの視線が刺さるみたいで、手が震える。

才能がないのか、緊張してるだけなのか、もうわからない。

一発目、なんかロバみたいなのに猫の足がついたやつ。

「……これ?」

ルイザが指差す。

「違う。失敗」

ぐしゃっと線を引いて消す。

次、犬。

……というか、コーギーとダックスフンドの間みたいな。

「じゃあ、これ?」

「コメント、ほんとに助からない」

ルイザがむっとした顔で鼻を鳴らすけど、

離れない。

むしろ、もっと近づいてくる。

肘が私の肩にのっかって、

息が耳に直撃。

集中できなくなってたのが、

今はもう不可能レベル。

彼女の息が、はっきり聞こえる。

他の感覚全部、耳に負けてるみたい。

肩にかかる重さなんて、もう背景。

……これ、新しいいじめ?

黙っててって言ったの、後悔し始めた。

「ねえ? 描くの?」

右半分の顔に息がかかって、

頭がびくっと跳ねる。

でも、ルイザは私の反応なんて気にしてない。

「う、うん……」

選択肢がない。

まるで、ネズミが巣の入り口で、

猫に尻尾掴まれてるみたい。

全集中で描く。

線が歪んでもいい。

伝われば、それで十分。

……でも、意気込みだけじゃ絵は上手くならない。

何回目か――もう数えてない――で、

ようやく、まともな猫になった。

本物の猫、ね。

ふうっと息を吐いて、背もたれに寄りかかる。

なんか、命がけの冒険を終えた気分。

もちろん、そこまで大げさじゃないけど。

描き終わったのに、ルイザは黙ったまま。

……ねえ、なんか言ってよ!

って言いたかったけど、我慢。

振り返って、終わったよって合図しようとしたら、

ごくり。

鼻が、ルイザの頬にほぼくっつく。

毎朝嗅いでる彼女の匂いが、急に強く鼻を突く。

でも、彼女は全然気づいてない。

視線は紙に釘付け。

……そんなにひどい絵だった?

「これ、ヴェスペリアじゃん」

……顔が見えないから、どんな表情かわからない。

反応がない代わりに、急に動物学の講義が始まった。

「ええ?」

「ヨリ、絵下手すぎ」

……技術的には答えだけど、

質問に全然答えてない。

しかも、指摘されて、頬がぷくっと膨らむ。

自分の絵がひどいのはわかってる。

でも、面と向かって言われると、嫌なもんだ。

耳を引っ張ってやりたかったけど、

ルイザが先に続ける。

「好きだよ」

「嘘」

「絵じゃなくて。

ヨリが私をこう見てるってこと。

……でも、こんなにブサイクじゃないといいな」

ルイザがくすくす笑う。

肘が肩にぐっと食い込む。

反論したくて、押し返したくて、

でも、結局諦めた。

……黙ってる方が、言葉より伝わるかも。

……たぶん。


.


エウリエルが三日後に帰ってくるって知らせが来てから、

ルイザの行動がめちゃくちゃ変になった。

……まあ、元々変な子だから、「変」って言葉じゃ足りないんだけど。

いつも私を枕代わりにするのは慣れたけど、

今まではお腹だったのに、最近は首。

体が「これはダメ」って抗議してくる。

……この発見、ほんとに感謝してない。

それに――見られてる。

「見られてる」ってだけじゃ大したことないように聞こえるけど、

朝起きたら、じーっと見つめられてるの、

全然楽しくない。

この二日で、ルイザは私の「一人時間」の場所を全部潰した。

一瞬で「ルイザ王国」から「ルイザ空間」まで進化した。

……わざとウザくして、

いなくなった時に寂しくならないようにしてるのかな?

最初から、関係に明確な期限があった。

エウリエルが帰ってきたら、終わり。

人生のスケールで見たら、ほんの小さな一部なのに、

なんか……すごく大事に感じる。

この一ヶ月で、何が起こったんだろう。

読むこと、書くこと、階段登ること、

魔法の違い……それに、誰かを自分のパーソナルスペースに入れるのが、

どれだけ心地いいか。

彼女は私のコンフォートゾーンを壊したわけじゃない。

広げて、その一部になってくれた。

……でも、もうすぐ終わり。

最初から、状況を勘違いしてたのかも。

ルイザは私に飽きさせようとしてるんじゃなくて、

ゴールデンレトリバーみたいに、自分の匂いを全部染み込ませようとしてる?

……いや、それでも彼女にしては狂ってる。

じゃあ、今の行動、どう解釈すればいいの?

なんで私の手をガジガジ噛むの?

全然わからない。

……まあ、始まりはそんなに昔じゃない。

「人間の一番の欠点は、ゆっくり枯れることだ」

――って、誰かが言ったらしい。

「一番奥底から、目に見えないところでゆっくり分解が始まって、

気づいた時にはもう取り返しがつかない」

父さんが鏡の前で、額の薄くなったところを眺めながら言ってた。

……でも、あの時、父さんは私をママと間違えてた。

それで、私、ちょっと不安になった。

歳取ったら、私もハゲるのかなって。

遺伝子の仕組みなんてよくわからないけど、

とりあえずルイザに相談してみた。

「あー、うんうん。

絶対そうだよ」

彼女の適当な返事に、目を丸くする。

……何? もうすぐハゲるってこと?

別にこの年齢でそんな話に興味ないけど、

会話が全然噛み合わない。

「……ありがとうね」

皮肉を飛ばしてみたけど、

ルイザは聞いてすらいない。

……じゃあ、私、何のために喋ってるの?

視線はこっちに向いてるのに、

耳は頭から完全に独立してるみたい。

ため息をついて、窓の方に視線を移す。

外はもう十分明るい。

正午前に天気を見るなんて、いつ以来だろう。

向こう側は真っ白。

口から出る白い息すら、こんな景色の中じゃ溶けて見えなくなる。

でも、何百回も同じ景色を見てると、

もう驚かなくなった。

世界が退屈。

それなのに、何か変えようとも思わない。

努力するモチベーションが、ゼロだから。

「手、貸して」

……私の手?

反射的に無視したかったけど、

視線がすぐルイザに向いた時点で、

聞こえてるのバレバレ。

「なんで?」

「ちょっと試したいことあるの」

……答えにはなってるけど、

何も説明になってない。

別に手を貸すのが嫌ってわけじゃない。

ただ、ルイザの頭の中が気になる。

「何?」

「孤児院で、お姉さんたちがやってたの見た。

首でやりたかったけど……ちょっと怖い。

痛かったらどうしようって」

また孤児院か。

前回は私の口の中の食べ物を分けようとして、

今回は痛い可能性あり。

……首に何する気だよ、マジで。

複雑な気持ちだけど、

結局、手を差し出した。

ルイザがすぐ掴んでくる。

内側を指でなぞられて、体がびくっと固まる。

注射の準備みたい。

でも、注射じゃなかった。

彼女の歯が、ゆっくり皮膚に食い込んでくる。

もう少しで貫通しそうなくらい。

思わず叫んだ。

「痛い! やめて!」

ルイザが慌てて離れて、

前腕をきょとんとして見つめる。

跡が湿ってて、べたつく。

顔が歪む。

手を引っ込めて、必死にこする。

いくら擦っても、

脈打つような凹みが消えない。

もちろん、ドアに指挟んだ時ほど痛くないけど、

こんなのも嫌だ。

「……いつか人間食いたくなると思ってたよ」

眉を寄せて言う。

ルイザがぱちくり瞬きして、

頭がゆっくり首に沈む。

顔がだんだん赤くなる。

「ごめん……

違うはずなのに……」

「ほんとにそうであってほしい」

手を差し出した時、

ここまでいくとは思ってなかった。

気まずさが、私にも伝染してる。

背中も、汗でべたべた。

……本当は何しようとしてたの?

「もう一回、いい?」

「噛むの?」

「違う! ……たぶん」

声に自信がない。

まあ、責められない。

ルイザ自身、何をしたいのかわかってないみたい。

……別に、今に始まったことじゃないけど。

自分でも何に突き動かされてるかわからないけど、

結局、また手を差し出した。

……ちょっと震えてるのに気づいた。

無意識に、また痛くなるんじゃないかって怖がってる。

唇が手に触れた瞬間、びくっと体が跳ねた。

ルイザが上目遣いでこっちを見て、

痛くない? って確認してるみたい。

なぜか、今はルイザの顔を見たくなかった。

彼女の息の温かさが、手から胸へ上がってきて、

息をするたび温まる。

……結局、歯が皮膚の下に潜り込んだんだ。

もちろん、物理的には違うけど。

今度は、ほとんど痛くない。

軽く噛んで、離して、また噛んで。

乳歯が生え変わる子供みたい。

このままなら、耐えられるかも。

でも、なんで私の手をガジガジ噛むの?

舌が皮膚に触れて、またびくっとする。

嫌な感覚。

慌ててルイザを見下ろす。

顔がどんどん赤くなって、

私の手が口の中にあるせいで息苦しそう。

それが、噛まれるより怖い。

突然、皮膚を吸い込むみたいに引っ張る。

小さな音がして……

吸い痕?

……わかった瞬間、もう止めるタイミングは過ぎてた。

止めようと思えば止められたのに、

しなかった。

「わかってる」って態度を見せたら、

後々めんどくさいことになる。

正直、そんな問題に直面したくなかった。

お互い「何も起きてない」ってふりしてる間は、

まだ「子供の間違い」「勘違い」「なんでもいい」ってことにしておける。

自分の言い訳がどれだけ無理筋で脆いか、

わかってる。

でも、ルイザのことになると、

まともな判断なんてほとんどしない。

噛んで、引っ張って、また噛んで。

手首の上、びしょびしょ。

もうすぐ、ルイザの唾が私の皮膚の一部になるんじゃないかって思う。

……それで嬉しくなんてない。

動機が何であれ、

今止めないと、後で面倒なことになる。

「……もう、いいよ」

思ったより落ち着いた声が出た。

ルイザが顔を上げて、唇を拭う。

手首に、はっきり赤い跡。

痛くも不快でもない。

べたべたして、ちょっと……気持ち悪いだけ。

大したことない、よね?

跡がゆっくり広がって、

不揃いな花びらみたいに割れる。

歯型にしては整いすぎ。

……私の肌、そんなにおいしかったの?

子猫が母猫の胸に吸いつくみたいに?

……待って。

あれって、なんて呼ぶんだっけ……まあ、いいや。

冬って、いつも複雑な気持ちになるけど、

今はちょっと好きかも。

長袖着てても、誰も変に思わない。

ほんとに寒いし。

「ほら。これで、私のこと忘れないでしょ」

ルイザの努力を否定したくはないけど、

この跡は、心の奥に響かない。

大人だって、こんなのすぐ消えるし、記憶も一緒に消える。

いい思い出になるか自信ない。

でも、ある意味で……同意せざるを得ない。

二度とこんな感覚、味わわないと思う。

ほとんど、嫌だったから。

それが、逆に記憶に残るんだろうね。

「……うん、忘れない。

でも、もうやめて」

「なんで?」

ルイザの声、傷ついたみたい。

私が嫌がってるって感じたんだろう。

……まあ、近いけど。

「青いよ。

殴られたみたい」

跡を指差す。

「え……そうなるはず?」

「私に聞かないで」

ルイザは私に「忘れないで」って跡を残そうとしたけど、

本当の怖いのは、どんな印より――時間。

明日になったら、全部終わりだって感覚が離れない。

今は、手が届く距離にいるから、

仲良くしたり、喧嘩したり、仲直りしたり、簡単。

でも、ルイザがエウリエルと一緒にいなくなったら、

私たちの世界、変わっちゃう。

自分をよく知ってるから、はっきり言える。

私は、彼女のところに遊びに行かない。

少なくとも、冬の間は。

その間に、お互い完全に慣れなくなっちゃう。

新しい友達ができる。

……私は、たぶん無理だけど。

こんなに一緒にいたあと、

もう一度繋がり直す気なんて、どっちにも起きないと思う。

ルイザは来てくれるかもだけど……

どれだけ続く?

いつか、飽きるよ。

前は別れが怖かったのに、

今は、意外と落ち着いてる。

明日も、このまま受け入れられたらいいな。

ベッドから降りて、クローゼットへ。

パジャマを探す。

……すぐ見つかった。

ルイザの山と私の山を比べたら、

金山とエベレストくらい差がある。

跡をもう一度見て、ふと思った。

孤児院の世話係に、誰に苦情入れればいいんだろう。

あの人たち、仕事サボりすぎ。

ルイザの父さんは、

彼女を何からでも守ろうとしてるみたいだけど、

孤児院は「守っちゃいけないこと」全部教えてくれた。

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