第2巻 第5章:共通の動機
リビングに降りてきたら……変なキツネがいた。
そしてそのふわふわの耳の間に、母さんの顔がすっぽり埋まっていた。
……「降りてきた」って言うのも大げさかな。
実際は父さんに抱えられて運ばれてきたんだけど。
でも、そんなのどうでもいい。
「なにこれ……?」
「――あら、もう起きたの?」
母さんが顔を上げながら、のんびり言った。
キツネがくるっと振り向いて――そのまま私に向かって突進してきた。
勢いよく飛びつかれそうになって、ちょっとよろめく。
……でも、なんかおかしい。
本物のキツネじゃない。
明らかに「間違ってる」。
この世界の外側には変なものがいっぱい隠れてるってわかってるけど……これはもう、別次元の間違いだ。
――だって、すぐにわかったもん。
これ、ルイザだ。
フードの隙間から、翡翠色の髪が何本か覗いている。
いつも見てる髪なのに、今日はなぜか妙に目について離れない。
ふわふわのキツネの毛並みに沿って、細く細く垂れ下がってるのが……なんだか、すごく綺麗で。
尻尾もぴんと立って、走ってくる間、ゆらゆら左右に揺れてる。
本物みたい。
自然がミスったんだろうな、絶対。
「同じようなパジャマの方がいいかなって思ってね。
でも、木の精霊みたいなのはルイザちゃんのキャラに合わない気がして」
母さんが膝から立ち上がって、ドレスの裾をぱたぱた払いながら説明した。
「だから、いたずら好きのキツネの方が似合うかなって」
「――おい!」
ルイザが軽く私を押した。
でも、なんだかすごく得意げな顔してる。
「誰のこと言ってるのか知らないけど、これはヴェラリンだから!」
「……あ。そっか」
母さんは私の言葉なんて気にも留めていないみたいだったけど、
ルイザは逆に、じーっと私の顔を見つめてきた。
何か……期待してるみたいに。
そのまま見つめ合ってると、だんだん顔が近づいてくる。
獣の鼻が私の口元をくんくん嗅いでるみたいで――このまま飛び込んで、巣みたいに潜り込んできそう。
……マジで何なの、この子。
「…………すごく可愛いね」
「――っ」
ルイザが少し離れて、満足そうにこくんっと頷いた。
……あ、これが正解だったんだ。
なんか、変なクイズに正解したみたいな気分。
間違えたら足をガブリと噛まれて、巣に引きずり込まれてたのかな……?
……いや、知りたくない。
でも、まだ終わってなかった。
少し離れただけなのに、ルイザはまだ私をじっと見つめてくる。
視線が強すぎて、ちょっと怖いくらい。
……まだ何か、求められてる?
「耳、触ってみる?」
その瞬間、ルイザの目がきらきら光った。
いや、ほんとに光った。
星みたいに、ぱっと輝いた――たぶん、光の加減なんだけど……でも、ほんとにそう見えた。
急に言われて、頭が真っ白になる。
……触っていいのかな、これ。
でも、心と頭が同時に結論を出した。
――もちろん、触りたい。
私は、ルイザの垂れた頭にそっと手を伸ばした。
パジャマの耳を、慎重に……指でつまむ。
最初はふわふわが手のひらをくすぐって、
それから温かくて柔らかく、指の間に沈み込んでいく。
……あ、触ってよかったかも。
すると、ルイザの小さな手が私の頬にぽんっと乗ってきて、
彼女が顔を上げた。
その瞳に……いたずらっぽい光が宿ってる。
あまりにもはっきりしていて、私は固まった。
私の手はまだ耳に触れたまま――中途半端に、動けなくて。
まるで虫取りの粘着シートに張り付いた虫みたい。
ただ見てるだけで、顔が熱くなる。
頭の中をいろんな考えがぐるぐる回って……ルイザが宇宙人みたいで、
「なんでここに来たの?」って聞きそびれたみたいな気分。
まだ何も起きてないのに、もう落ち着かない。
……起きるはずないよね?
「どう?」
「え……何が?」
「ママが作ってくれたこの肉球、めっちゃいいでしょ?」
ヴェラリンがくすくす笑って、私の頬から手を離した。
その瞬間、何かがぽっかり抜け落ちたみたいに……空っぽになった。
事前に警告してくれれば、まだマシだったのに。
……いや、そんなのだったら、きっと今みたいにドキドキしなかったか。
私、バカ? 何考えてんの……
まあいいや。
「う、うん。すごく……いいよ」
すぐ後に、冷たくてちょっとざらざらした手が私の頬に触れた。
びくっと肩が跳ねる。
誰の手かなんて、考えるまでもない。
「なにしてんの?」
視線を上げると――父さんだった。
……意外と長く黙って見てたんだな。
完全に忘れてた。
「ルイザにはいいけど、俺はダメか?」
父さんが眉を皮肉っぽく上げて、私の頬をこねくり回し始めた。
まるでパンの生地を確かめるみたいに。
「ダメ! 私……心の準備が……!」
その間に、ヴェラリンは母さんのほうへすっと戻って、
私の手から耳をほとんど引きちぎる勢いで離れた。
私は名残惜しそうに、指をぎゅっと開いたり閉じたり。
まだふわふわの感触が手に残ってる。
「もういい加減にしろよ」
父さんを睨むと、彼は慌てて手を引っ込めた。
まるで私の頬が急に熱湯になったみたいに。
「おお、怖い怖い。木霊だって牙があるんだな」
父さんの指が、今度は私の頭をぐしゃぐしゃにかき回す。
力加減が下手すぎて、まるで下手な床屋さん。
膝がガクッと折れそうになって、なんとか耐える。
「もうやめてってば……」
手を振り払おうとするけど、父さんは止まらない。
「なあ、知ってるか? 丸を描くのに必要なものって何だ?」
急にそんな質問されて、ぽかんとする。
反射的に「もちろん知ってるよ」って答えそうになったけど……
この世界の常識と、前の記憶がごっちゃになって、
もう何も確信が持てなくなってる。
父さんが答えを待つ前に、指を一本立てて、くるっと円を描いた。
空気がぱちんと小さく割れる音がして――乾いた枝が折れるみたいに。
その軌跡に、鮮やかな炎の線が残る。
熱が頬を撫でて、私は思わず目を瞬かせた。
驚いてその魔法みたいな光景を見つめてる間に、
炎はあっという間に空気に吸い込まれるように消えた。
「……え、っと……」
父さんの考えが、ほんとにわからない。
こんなシンプルな説明なのに、結局何もピンとこない。
「必要なのは、線だけだよ」
「へぇ……まあ、シンプルだね」
「でも、線が繋がらなかったら? 円は完成しない」
そう言って、今度はもう一つ円を描き始めた。
いや、ほとんど円――でも、最後がほんの少し、途切れてる。
「すごく円っぽいだろ?
でも、同時に……永遠に円じゃない」
私がその隙間を指で埋めようと手を伸ばしたら、
父さんが首を振って止めた。
……じゃあ、あの炎、本物だったんだ。
なんか、それってすごく大事なことみたいに思えた。
「……で? それがどうしたの?」
「それだけ」
「それだけ?」
また父さんのいつもの悪戯か……と思ったけど、
今回はあまりにも無害すぎて、怒るのも面倒くさくなった。
次の数秒、父さんはただ壁を見つめてた。
まるで私の後ろに、セリフを教えてくれるカンペ持ちがいるみたいに。
「……いいか。
この円を、時間だと想像してくれ」
「うん……」
もう細かいこと考えたくなかったけど、とりあえず聞くことにした。
「欠けた線を、今だと考えてみろ。
お前がここにいない限り、円は閉じない」
「……は?」
意味を理解するのに、少し時間がかかった。
父さんって、普段はただの変な道化みたいだけど、
時々、こうやって急に本気で刺さってくる。
でも……なんか、罠っぽい気もする。
心理テスト? それともまたからかってるだけ?
結局、もしテストならもう落ちてるだろうなって思って、
ただこくんっと頷いた。
私だったら、父さんにもっと私のレベルに合わせてほしい。
せめて「持ち上げられない鎖って何?」くらいのやつでいいのに。
父さんは満足げに私の肩をぽんぽん叩いて、
いつもの調子に戻って、二階へ上がっていった。
その背中を見送りながら、ちょっと羨ましくなった。
あの人、頭の中の切り替えが早すぎる。
もう次のこと考えてるみたいで、私の思考はカメみたいにのろのろ。
視線を移すと、ルイザが母さんと一緒にソファに座ってた。
クッションを抱きしめて、こそこそ何かを囁き合ってる。
……なんか、陰謀でも企ててるみたい。
ルイザなんて、指で膝をトントン叩きながら、
母さんが耳元で何か指示してるみたいだった。
数秒見つめて……すぐに結論が出た。
今は、これ以上考えたくない。
季節なんて関係なく、私が一日中いたい場所は決まってる。
ベッド。
でも、今はそこまで行くのも遠すぎる気がした。
「いつか……」
階段をちらっと見て、
結局、キッチンに向かった。
.
キッチンから出ても、母さんとルイザの会話は止まらなかった。
むしろ、もっと弾んでるみたい。
どこから来るんだろう、この感覚。
こういう時、私はいつも「余計な存在」みたいに感じる。
どんなに優しく迎え入れてくれても、最初から呼ばれてなかったら……入る意味ないよね?
今日を、せめて普通に過ごす方法はいくらでもあるのに。
なのに、私はここでただ腐ってる。
「……なんか、悔しい。
何かしなきゃ」
顔を手で覆って、独り言みたいに呟いた。
後悔の言葉なんて、重みゼロ。
重いのは、私の体だけ。
ちょっと同じ場所にいると、動けなくなるの、よくある。
階段の床は冷たいのに、お尻がじんじん痛み始めてるのに……立ち上がる気力がない。
「――あれ、ここにいるなんて意外」
ルイザがぴょんぴょん弾むような足取りで近づいてきて、
私の隣にぺたんと座った。
床がきしむ音がして――二人の女の子の重さを、床が耐えきれないみたい。
「もう、話し終わったの?」
「ふふ。……嫉妬?」
見なくてもわかる。
今、ルイザの顔、絶対ににやにやしてる。
「まさか」
頭を上げずに、ぶつぶつ呟く。
「ほんとぉ?」
ルイザが顔を近づけてくる。
頬に息がかかる距離で。
「じゃあ、なんでここに一人で座ってるの?」
「……ふん。自分で考えてよ」
ようやく顔を上げて、ルイザの目を見つめた。
その瞬間、ルイザが手を差し出してきた。
……何? 何かくれるの?
掌を見ると、空っぽ。
ただ、パジャマの肉球がぷっくり盛り上がって、小さな丘みたい。
表面に、干からびた大地みたいなひび割れが見える。
私はそっと指を伸ばして、一つの肉球に触れた。
木の皮みたいにざらざらして、乾いてる……のに、意外と柔らかい。
指先が、するっと沈み込む。
次の瞬間、ルイザが私の手をぎゅっと掴んで、
にっこり笑った。
「待っててくれたんだ」
立ち上がって、私を引っ張り上げる。
「待ってなんかないよ……」
つい頬を膨らませて、視線を逸らす。
「へぇ〜、そっかそっか」
完全に信じてない声。
ルイザは、もう確信してるみたい。
私がここにいたのは、彼女のためだって――それが当たり前みたいに。
……まあ、好きに思えばいいけど。
「じゃあ、行こ?」
「え?」
気づいたら、視線が階段に向かってた。
眉を寄せて首を振る。
――階段、どうするの? って意味で。
ルイザはそんな私の反応なんて気にも留めない顔で、
少しだけ頷いた。
自分に言い聞かせるみたいに。
「じゃあ、何か考えなきゃ」
目が階段に行って、すぐに戻る。
考えはもうあるみたいだけど、形にするのをためらってる感じ。
「ママ呼んでくる」
私はキッチンを指差した。
もう待てない。
ママは今、暇そうだし、普通に頼めば抱っこしてくれるはず。
振り向こうとした瞬間、ルイザが私の前腕を掴んだ。
ぐいっと引き戻されて、よろめく。
まるで道路に飛び出しそうになったみたいに強い力。
……家の中なのに。
「え、ルイザ……?」
「待って」
「わかったって。もう離して?」
指を解こうとするけど、ルイザはもっと強く握ってくる。
表情がだんだん真剣になって……
本気で力入れてるみたい。
別に抵抗してるわけじゃないのに、ちょっと痛いくらい。
私はため息をついて、素直に後ろへ体を預けた。
ほとんど背中がルイザにくっつくくらい。
同時に、腕を掴む力がふっと緩んで、彼女の顔も少し柔らかくなった。
……こういうところ、好きだな。
ルイザの感情って、いつも顔にすぐ出る。
私って、なんでこんなに……面倒くさい人間なんだろう?
――いやいやいや、ダメダメ。
またそんな考えに落ちそうになって、慌てて止めた。
「ママと一緒に決めたんだけど……」
ルイザがもごもご呟く。
なんか、言葉が喉に引っかかってるみたい。
「うん。それで?」
「私、ヨリを……」
もっと力強く言ってくれればいいのに。
さっきの握力みたいに。
「……代わりに、私がヨリを運ぼうかって?」
彼女の反応を窺いながら、勝手に予想してみた。
「え? ち、違うよ! ……そういうんじゃない」
「あ。そっか」
間違えたか。
今日一日、なんかクイズ大会みたいになってる気がする。
三問中一問正解……これ、成功って言えるのかな?
全然自信ない。周りの気持ちが、まだ全然読めてない。
「一緒に……上まで、上がろう?」
ルイザがようやく顔を上げて、私を見た。
その目、捨てられた子犬みたいで……胸がきゅっとした。
一緒に、ね……。
外は冬だよ。
肌で感じる。
体が少し震え始めてるし、他のサインも全部揃ってる。
こんな日は鼻先凍らせないように気をつけないと。
当然、早く暖かい布団に潜り込みたい。
だから、冷たいし疲れたって断ろうと思った。
でも……ちょっと考えて、気づいた。
そんな風にバッサリ断ったら、ルイザの頑張りが可哀想すぎる。
じゃあ、どう返せばいい?
「嫌ならいいよ! ……また今度、ね……?」
ルイザが慌てて予防線を張ってきた。
ママと決めたこと、きっと意見が割れてたんだろう。
それとも、ルイザが「無理強いはダメ」って優先したのかも。
「……そっか。むしろ、その方がいいかも。
まだ、心の準備ができてないし」
「じゃあ、ヨリ、パンみたいに焼いてもらおうか?」
「え?」
ルイザの視線が横に逸れて、唇がにやりと曲がる。
顔が生き生きしてて、言葉が生意気で……
こんな大胆さ、ちょっと……憎らしいくらい、素敵。
「……生意気になった?」
半分冗談で言ったのに、ルイザがびくっと体を縮こまらせた。
まるで、本当に叩かれると思ったみたいに。
「ご、ごめん……」
私が謝らせちゃった。
そんなつもりじゃなかったのに。
罪悪感が、冷たい湧き水みたいに肌を這う。
もう、断れない。
一瞬、嫌な考えがよぎった。
――もしかして、これも……
すぐ振り払った。
「冗談だよ。ごめんね」
肩がずしっと落ちる。
誰かに押さえつけられてるみたい。
「……やってみようか」
最近、嫌なことばっかり増えてる。
ほとんど、全部彼女のせい。
今、頭を下げて、パジャマの襟を噛むふりしてる子。
本当は、必死で笑顔を抑えてるだけなのに。
……全然、隠せてないよ。
エミは……まるでここにいないみたいに、全部見てる。
突然、母さんの声が聞こえて、私はびくっと体を震わせた。
自分の考えを声に出してるみたいだったけど――その声、力なく、だるそう。
「いつからいたの?」
「全然。
お前が決めるの、めっちゃ時間かかってたから。
待つの疲れた」
……何が言いたいんだろう。
誰にもわからない。
母さんが階段の手すりから頭を上げて、伸びをする。
まるで一日中そこで寝てたみたいに。
いつもの「負けん気」オーラが戻ってきて、腰に手を当てて、ルイザに視線を向けて、こくりと頷いた。
――あ、わかった。
「全部、お前が仕組んだの?」
「まさか。
ただ、お前の口が軽いって知ってただけ」
肩をすくめて、さらっと言う。
最初は変だった。
母さんとルイザが一緒に座ってるの。
興味の方向が全然違う二人なのに、なんだかんだ上手くやってる。
……これが、いい関係ってやつなのかな。
よく考えたら、うちの家族みんな、そんな感じで成り立ってる。
「じゃあ、もうここにいるんだし……運んで?」
私は母さんに、ちょっと甘えた目で見上げてみた。
少なくとも、自分ではそれっぽい顔してるつもり。
「無理」
一瞬も考えずに即答。
ため息をついて、視線を逸らす。
理由なんて、聞かなくてもわかる。
でも、つい、試してみたくなった。
「……なんで?」
「自分の言葉に責任持てないの?」
腕を組んで、眉を上げてくる。
挑戦的なポーズ。
今、父さんと完全にシンクロしてる。
どっちも、ほんと耐えられない。
でも……正しいのは母さんだ。
それが、めちゃくちゃ腹立つ。
自分で、自分の逃げ道を切っちゃった。
仕方ない。
受けて立つしかない。
頭を下げて、目の前の段を見下ろす。
……私、パンダと共通点多すぎ。
不器用で、逃げ腰で、階段なんて絶対向いてない。
どうやって足を踏み出せばいいのか、頭が痛い。
自己嫌悪のループにハマってて、気づかなかった。
ルイザが、そっと「肉球」の手を出してた。
開いたり閉じたり、思い出させるみたいに。
「行こ?」
一緒に階段を上がるって考えは、ちょっと希望を感じさせた。
でも、ルイザも同じくらい不安そうだった。
私は手を伸ばして、彼女の掌に触れる。
ルイザの手が、私のをぎゅっと握り返す。
まるで、怖がってる小鳥が、最後の枝にしがみつくみたい。
最初、手が震えてて……私までパニックになりかけた。
でも、すぐに力が抜けて、普通に握ってくれた。
私は、ほっと息を吐いた。
ルイザの緊張が、責任の重さから来てるのはわかる。
でも、その真剣すぎる顔を見てるだけで、なんだかこっちまで落ち着かなくなる。
彼女はまっすぐ前だけ見てて――まるで船の船首みたいに。
周りなんて見ようともしない。まばたきすらしてない気がする。
突然、ルイザが一歩踏み出した。
私も一緒に引き寄せられて、すぐに止まる。
彼女は首を伸ばして、階段をじっくり見つめ直す。
背中まで少し曲げて……本気で観察してる。
正直、初めて階段見たみたいな顔してる。
「……じゃあ、行く?」
またルイザが、顔を向けずに聞いた。
「う、うん……まあ」
ルイザがまた一歩。
簡単そうに見えるけど、足が微かに震えてるのに気づいた。
寒いのかな? ……いや、違う気がする。
何か、別の理由。
彼女が横にずれて、私の方を振り返る。
手をしっかり張って、誘うみたいに。
少し腰を落として、私の身長に合わせてくれる。
……じゃあ、私の番か。
無理やり笑顔を作ってみた。
これで少しは緊張が解けるかな、と思って。
足を上げる。
今にも転びそうで、思わず目を閉じかけたけど――
ルイザの手が、ちゃんと現実で、しっかり支えてくれてる。
ほっぺ。
一回で、意外と簡単に一段目に乗れた。
全然疲れない。
……私、天才?
……いや、冗談。
ルイザがふうっと息を吐いて、上を見上げる。
「よし。あと九段」
「……おお」
始めるより、終わらせる方がずっと難しい。
「今日はここまででいいよね? 次にしよう」って言えたら楽なのに。
……もちろん、無理。
「じゃあ、続ける?」
ルイザがそう聞いて、私を頭から足までじっくり見る。
まるで、何か奇跡が起きてないか確かめてるみたい。
なんで?
一段登っただけで、私が劇的に変わると思ってたの?
足の筋肉が急に強くなったとか?
自分の足元まで見下ろしたけど、何も変わってない。
ルイザは何か納得したみたいに頷いて、また一歩。
私もついていく。
また一歩。
また……
――そして、全部。
もう一歩踏み出そうとした瞬間、足が言うこと聞かなくなった。
膝がガクッと折れて、次の瞬間、どすんと階段に尻餅。
頭の中が一瞬、真っ白。
「大丈夫?
初めて見る……こんなにぐったりしたヨリ。
まるで浜辺に打ち上げられたテルミロンみたい」
「……ただ、お前にバッテリー多すぎなんじゃない?」
最初はキツく言い返したかったけど、
結局、冗談で返した。
そもそも「テルミロン」って何?
……魚かなんかだろうけど。
ルイザは私の言葉に、ぽかんとしてる。
また変なこと言っちゃったみたい。
でも、彼女の例えも大概だよ。
「そんなに冷酷なの?
娘が崩壊してるのに、黙って見てるだけ?」
私は下の方にいる母さんに声をかけた。
彼女は手すりに肘をついて、頭を支えて、
疲れたような忍耐の顔で私たちを見上げてる。
「何言ってるの?
ここにいるのは、娘が頭打たないように見張るためよ」
……なんて残酷な人。
言ってる間も、姿勢ひとつ変えない。
もう、待つのに飽きたって態度丸出し。
本当は一番疲れてるの、私なのに。
深く息を吸って、肺に空気を入れる。
次の力をためる。
見なくてもわかる――母さんの視線が「動け」って押してくる。
動かなかったら、「あんたほんと弱っちいわね」みたいな歌でも歌われそう。
……父さんっぽいセリフだけど、もう驚かない。
物事が面白くなくなる瞬間って、
それがわかってしまう瞬間だ。
全部、日常の一部になる。
だから、私は何にも本気にならない。
……そう思いたかった。
本当は、ただ言い訳を探してるだけ。
全力で頑張って、それでもダメだった時のダメージが怖いから。
盲目な射手だって、撃ち続ければいつか当たる。
でも、それを「成功」って呼べる?
階段と射撃は違うけど、
一段登っただけじゃ、何も変わらない。
一発当たっただけじゃ、何も証明されない。
今、その事実が、自分の体重より重くのしかかってる。
私は階段に座ったまま、重くて、動けなくて、
もうここまでしか許されないみたい。
……降参の時間か。
母さんもわかったみたい。
手すりから離れて、微笑む。
「もう十分じゃない?」
その顔から、失望なのか、少しは誇らしいのか、読み取れない。
でも、一つだけ確かなのは――
自分が惨めだってこと。
「違う! ヨリならできる!」
「え?」
ルイザが急に手を引いて、私を無理やり立たせた。
足がふらついて、そのまま彼女の方へ倒れ込む。
ルイザは慌てて受け止めて、胸にぎゅっと抱き寄せる。
息がふわっと鼻にかかって、彼女の匂いがする。
パジャマのふわふわが、私を毛の中に飲み込むみたい。
抱きしめられてるのに、足はまだ震えてる。
本当に、あと五段も登れると思ってんの……?
「――おいおい、うちの娘を殺す気?」
母さんも私を信じてない。
ほとんど冗談だけど、一瞬、ルイザの顔に痛そうな影がよぎった。
すぐに首をぶんぶん振って、「違うよ!」って叫んでるみたい。
何か吹っ切れたみたいに、ルイザの気合いが急に上がった。
周りの空気まで軽くなった気がする。
……魔法で持ち上げようとしてる?
でも、それじゃ先にルイザが倒れるよ。
止めようとしたけど、もう遅い。
ルイザがぐっと腰を落として、私の手を自分の肩に引き寄せる。
身長差で、肩がちょうど脇の下に当たる――全然楽じゃない。
「ひゃっ」って声が出ちゃって、ルイザが申し訳なさそうにびくっとするけど、すぐに強く抱え直す。
彼女は背中を丸めて、まるで重いリュックを背負ってるみたい。
一歩ごとに、ぐっと力入れて、短く押し上げる。
……全然格好いい登り方じゃない。
私の片足は引きずって、もう片方は段の端に引っかかって、
全部、ルイザの根性と肩に頼ってる。
でも……確かに、楽になった。
下から母さんがくすくす笑ってるのが聞こえる。
何がそんなにおかしいんだろう。
私たちの間抜けさ? それとも、ようやく進んでるってこと?
「あ、何……」
母さんの方を振り返ろうとした瞬間、もう片方の手に柔らかい水の触手が巻きついてきた。
母さんは人差し指を唇に当てて、ウィンク。
……ほんと、なんでそんなに陰謀家ぶるの?
結局助けるなら、最初から普通に助けてくれればいいのに。
大人のやり方って、ほんとわけわかんない。
ルイザは全然気づいてないみたい。
鼻の先だけじゃなくて、顔全体が真っ赤。
もう、助けを求めてるみたい。
朝日すら、彼女の前では色褪せて見える。
こんな必死さ――いや、意地っ張り――見てると、ちょっと痛々しい。
もう、自分で歩いてるのか、完全に運ばれてるのか、わからなくなった。
でも、なんか……私も、このゴールを超えたいって思ってる。
必死に何かを達成したいって気持ち、
私にはあんまり馴染みがない。
でも、ルイザの熱が、触れてる部分から伝わってくるみたい。
それ以外に、どこからこんな力が湧いてきたのか、説明がつかない。
……でも、終わった。
やっと上。
信じられない。
。
予想通り、次の朝は指一本動かせなかった。
まるで世界一高い山を登った後みたい。
感覚的には、登るんじゃなくて、這いずって、なんでも使って這い上がった感じ。
ルイザも同じ。
普段は猫みたいに私にくっついてくる元気な塊が、
今日は自分のベッドの半分すら越えられない。
二人とも、怠惰なアザラシみたいに転がって、
ご飯すら拒否。
笑うとすぐ、体中が痛くて顔を歪める。
でも、ルイザはすぐに気づかなかった。
昨日、勝った気で寝ちゃったからかな。
朝起きた瞬間、彼女はまだ元気いっぱい。
寝た姿勢のままなのに、全然気にしてない。
誇らしげで、ちょっと得意げな顔で、突然言い出した。
「もう、私、ヨリを一人で運べるくらい強くなったと思う」
頭をゆっくり回すのに、めちゃくちゃ力が必要だった。
「……へぇ、そう?」
声からして、本気。
何がそんな自信にさせたんだろう。
正直、感心はしてる。
昨日、ルイザは日焼けしたみたいに真っ赤だったのに。
私だけがこんなに弱いのかな……?
「信じないの?」
眉を上げて、まるで私が軽すぎるって疑ってるみたい。
「じゃあ、持ち上げてみせる」
「なんで?」
本当は知りたくなかった。
絶対、シンプルだけど超アホらしい理由を言うから。
今、誰かに支えられても立てる気がしないのに。
「どれだけ強くなったか、見せてあげたいから」
一秒も迷わずに答える。
「……やめとこうよ」
完全に無視して、ルイザが勢いよく起き上がろうとして――
次の瞬間、悲痛な叫びが漏れた。
自分自身すら持ち上げられなくて。
……これ、勝利の雄叫びってことにしとく?
うーん、微妙。




