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第二巻 第十二話:ジレンマ:ヘリアンタス

自分に直接関係のない事柄であるうちは、私を不快にさせるものなど存在しないはずだった。それなのに、学校の正門近くの壁に背中を預けながら、私はどういうわけか酷く緊張していた。お母さんが私を学校の警備兵の目の届く場所に残し、自分だけ買い物に行ってしまったのは、おそらくこれが初めてのことだったからだろう。


今日は金曜日ではないし、私がここにいる明確な理由は存在しなかった。夏季における私は、歴史的に見て、何かを行うためのあらゆるモチベーションを喪失するのが常だった。いや、嘘。それは夏に限らず、どの季節でも同じだった気がする。だから今日、お母さんと一緒に街へ出かけたときも、私はこの「お迎え」という慣習から解放されたいと願っていたのだ。


ルイーザは、ここで私を見つけたら一体どんな反応をするだろう。喜んでくれるだろうか。あるいは、戸惑うだろうか。それとも……自分の友達と一緒に門から出てきて、私のことなど知らないフリをするのだろうか。


そんな可能性が存在するなんて信じたくはなかったけれど、私は彼女の学校での生活について、ほとんど何も知らなかった。彼女が話してくれることと言えば、授業の内容や、講義に座っているのがどれほど退屈か、そして魔法の実技演習なんて自分にとっては朝飯前だということくらい。私の知識は、そこで途切れていた。


もし本当に最悪の事態が起こり、ルイーザが私の横をただ通り過ぎて、お母さんが戻ってくるまで私を門の前に置き去りにしたら、私はどう振る舞うべきなのだろう。同じように無視し返すか、それとも呼びかけるべきか……。答えは、言うまでもなく明白だった。


ヤスツィリスの花はとっくに散り失せ、赤い花びらの代わりに、見慣れたありふれた緑の葉が枝を覆っていた。春に生まれた自分の姿を想像したとき、私が思い描いたのはこんな色彩だっただろうか。通りすがりの人間が、わざわざ視線を止めることもないような、そんな色。おそらく、そうなのだろう。


私自身と同じように、これらの見飽きた色彩が他人の興味を惹きつけることはなかった。けれど同時に、無数に存在するまったく同じ形をした葉の一枚一枚が重なり合って影を作り出し、冷たい壁とともに、私を夏の猛暑から救ってくれていた。美しさというものは、必ずしも複雑である必要はないのかもしれない。


私がため息を漏らすと――どうやらそれが少し大きすぎたようで、通りがかりの少女がこちらを振り返って私を見た。


彼女は私よりも頭一つ分ほど背が高かった。肌の色と同じように、彼女の髪も少し変わった色をしていた。私と同じくらいに黒く、そしてお母さんの夜のように深い色。彼女の制服はルイーザのものと似ていたけれど、どこか着崩したような、だらしない印象を与えた。それに、髪の隙間からピアスの輝きが一瞬見えたような気がした。


私は彼女をそれ以上観察するのをやめた。すると、彼女もすぐに視線を逸らした。妙なのは、彼女が学校の中からではなく、別のどこかから歩いてきたことだった。もしかして、どこかに別の出入口でもあるのだろうか。それとも……彼女は不良娘なのだろうか。


まあ、私には関係のないことだけれど。


かすかな微風と、頭上でさわさわと鳴る葉の心地よい音のせいで、段々と眠気が襲ってきた。私はあくびを噛み殺しながら、目に溜まった眠気を追い出すように瞼をこすった。


もし本当に別の出入口が存在して、ルイーザがそこから出ていってしまったらどうしよう。警備兵に確認してみるべきかもしれないけれど、そんな気には到底なれなかった。彼はまるで王宮の近衛兵のように、外がどれほど暑かろうと、微動だにせず同じ場所に立ち続けているのだから。


そんなことを考えていると、足元の石畳を擦るような物音が私の注意を引いた。顔を向けた瞬間、私の視線は先ほどの少女と正面からぶつかった。彼女の目は大きく見開かれていて、私は思わず後ずさりしようとした。正確には、そうしたかったけれど、すでに背中は壁に阻まれていた。私たちはしばらくの間、ただじっとお互いを見つめ合っていた。


「あんた……ふーん……ルイーザの友達、だよね?」


彼女は確信の持てない様子で、今にも私の鼻先に指を突きつけんばかりの勢いで問いかけてきた。


私は言葉を失った。目の前に突き出された彼女の指に、焦点がうまく合わなかった。それにもかかわらず、私はこの状況をどうにか理解しようと必死に思考を巡らせていた。


もし二人が同じ学校の生徒なら、彼女がなぜルイーザを知っているのかは見当がついた。けれど、あの校舎は、全員の顔を把握できるほど小さな場所なのだろうか。それとも、問題はルイーザの方にあるのだろうか。彼女は、生徒たちが校長の名前は知らなくても、自分の名前だけは全員が知っているというような、何かとてつもないことでも仕でかしたのだろうか。……いや、さすがにそれは荒唐無稽すぎる。


「ん?」


「一昨日、二人で一緒に歩いてるの見たんだ。それに先週の金曜日も、あんたここでルイーザを待ってたでしょ。で、どうなの?」


彼女が私のプライベートな領域に土足で踏み込んできたことに対して、私のこの拒絶の気配を感じ取ってほしかった。けれど、彼女は気づかない。引く様子もなかった。むしろ、その存在感だけで、私をさらに圧迫してくるかのようだった。


それで……私は彼女に何と答えるべきなのだろう。


「違います」――それは嘘だ。

「ルイーザは私の友達です」――果たして、本当にそうなのだろうか。

「私たちは親しい間柄です」――それは事実だ。


けれど……。


鼻腔に、ツンとする汗の匂いが飛び込んできた。それは、この少女が走ってきたか、あるいは長い間太陽の下にいたことを明白に示していた。ということは、彼女はやっぱり本物の不良なのだろうか。彼女の肌が少し褐色がかっているのも、同じ理由からなのだろうか。


本の中では、生徒たちが屋上で授業をサボったり、街をあてもなくぶらついたりする描写をよく見かける。けれど、もし本当にそんな暴挙に出るなら、たとえ日陰に隠れていたとしても、最終的に日焼けで肌がボロボロになっても文京句もんくは言えないはずだ。


……いや、待って。私は一体何の話をしているの?


私はようやく目を上げて少女の顔をまっすぐ見据えたけれど、お世辞にも愛想が良いとは言えない表情をしていた。顔立ちそのものの問題ではなく、どちらかと言えば私に向けるその視線の質の問題だ。もし私の年齢がもう少し上だったら、「襟首を掴まれて財布を出せと脅される可能性」だって、あながち荒唐無稽な妄想とは笑えなかっただろう。


「あんた、舌でも引っ込んじゃったわけ?」


けれど、直後に警備兵が向けた、たった一度の短い一瞥いちべつだけで、少女は両手を上げて一歩後ろへと退がった。お母さんの「この子を見ていて」という頼みをこれほど忠実に守ってくれたことについて、あとで彼に感謝の言葉を述べるべきかもしれない。


「ごめん、ごめんって。別にこの子に乱暴しようとしたわけじゃないから」


頭を下げてため息をつく今の彼女は、さっき私が思い描いたような恐ろしい人物には見えなかった。おそらく、背の高さにかなりの開きがあったせいで、彼女の視線が余計に威圧的に感じられただけなのだろう。


少しぶっきらぼうなだけで、中身はいたって普通の女の子。そんな気がする。


まもなく、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。それは学校の敷地外にいる私にまで容赦なく届くほどの大音量だった。なんとも奇妙な音だった。まるで、誰かがサックスの中にゲップを吹き込んだかのような、そんな濁った響きに似ていた。


その音を聞くと、少女はさらに大きなため息をついた。まるで乗るべきバスを目の前で逃したかのように、その両肩ががっくりと落ちる。


「じゃあね」


彼女はそう言って、片手をひらひらと挙げた。


二、三秒遅れて、私も同じように手を振り返した。私の手は、まるで木々の葉が風に揺れるように、頼りなく左右に揺れていた。


「『じゃあね』、か……」


私は指を握り締めながら、心の中でその言葉を繰り返した。


本当に、また会うことなんてあるのだろうか。私たちは本当に、もう一度顔を合わせる予定でもあるのだろうか。とはいえ、少なくとも週に二回は私がここを訪れることを考えれば、その可能性を完全に排除することはできなかった。


……待って、私はそもそも、彼女に何か一言でも返したっけ? 確か、何も言っていない気がする。


本当なら、その場ですぐに彼女の誤解を解いておくべきだったのだ。「私とルイーザは友達なんかじゃない」と。私たちの間にあるあの関係性を収めるには、「友達」という言葉のうつわではあまりにも小さすぎた。もっとも、代わりにどんな言葉を使えば二人の関係を正しく説明できるのか、私自身いまだに見つけられていないのだけれど。


私がそんな思考を巡らせていると、歩き去ろうとしていた少女が不意に振り返った。何か忘れ物でもしたのだろうか。


彼女は再び私の方へと歩み寄り、すぐにまた目の前に立ちはだかった。どこか気まずそうに、視線をあさっての方向に向けながら指先で自分の髪をくるくるといじるその姿は、さっきとはまるで別人のようだった。どうしてだか分からないけれど、そんな彼女の様子を見るのは妙な感覚で、同時に――どこか新鮮で印象的だった。


「あのさ……さっきは脅かすようなこと言って、悪かったね」


事のついでにそんなことを思い出すのが正しい選択だったのかは分からないけれど、彼女には、自分から進んで謝罪の言葉を口にするだけのいさぎよさがあった。もちろん、最初からそれくらい礼儀正しく話しかけてくれた方がずっと良かったのは言うまでもないけれど。まあ、今更どうでもいいことだ。


「驚いたわけじゃなくて、ただ……ちょっと戸惑っただけだから」


ぽつりぽつりと口を開くうちに、自分の頬がじわじわと熱くなっていくのが分かった。自分の言った言葉のどこに、そんな反応を引き起こす要素があったのだろう。まるで見当がつかない。


耳の奥で、かすかな耳鳴りがしていた。頭の中で何かがトントンとノックしているかのような感覚。私が一人のときには、どうか見知らぬ他人が話しかけてこない世界になってほしいものだ。


「あー、あんた、ちゃんと喋れるんじゃん」


「確信がないなら、なんでそんなに根掘り葉掘り聞き出そうとしたの?」――そう言ってやりたかった。


少女はチラリと警備兵の方に目を向け、問題がないことを確認してから、再び私に視線を戻した。


「で、あんたたちって友達なの? それとも違うの?」


どうやら、私からようやく返答を引き出せたことで、少女はまたしてもグイグイと踏み込んできた。最初ほど威圧的ではなかったけれど、それでも十分な圧迫感があった。


「……まあ、そんな感じ」


私はその事実を認めざるを得なかった。別に何かを隠そうとしていたわけではない。ただ、ルイーザにとっては、自分がこんな小さな子供とつるんでいることが周囲に知られない方が都合がいいだろうと、私が勝手にそう決めていただけだ。


けれど同時に、私は自己矛盾を抱えてもいた。二人で一緒に街を歩いていれば――たとえ手を繋いでいなくても、会話を交わしていなくても――誰かに見られる可能性は常にあったのだから。


自分についての思索も、他者への気遣いも、そのどれもがルイーザ自身には関係のないことだった。これらはきっと、私自身の偏見や先入観にすぎず、それを他人に当てはめようとしていただけなのだろう。


「はあ? それ、どういう意味よ?」


案の定、私の曖昧な返答は彼女を納得させられなかったらしい。彼女の表情は、まるでウサギの皮をかぶった亀を仕留めてしまった狼のようだった。


私は、この関係を言い表すのに他にどんな言葉が適しているか、しばし考え込んだ。人間関係というものの厄介なところは、それを定義づけようとした瞬間に、かえって説明が難しくなるところにある。それはまるで、他人が作ったモザイク画の中に、自分の手にあるパズルのピースを無理やりはめ込もうとするようなものだ。どれだけ押し当ててみても、望むような絵は完成しない。


「いや、それはね……」


私は後頭部に手を当てて、小さくため息をついた。


「友達だって答えるのが、そんなに難しいわけ? あんたたち、全然姉妹には見えないし」


私の言葉が彼女の理解に届くことはないのだと悟ると、私はそれ以上何も説明するのをやめた。


自分の基準を押し付け、執拗に問い詰めてくる彼女の態度に、段々と苛立ちが募ってきた。まるで彼女の中で最初から答えは決まっていて、今はただ、自分の見ている世界を私に押し付けているだけのように思えたからだ。


「もうどこかへ行って」と言い放ちたくなったけれど、私が口を開くより早く、生徒の集団がぞろぞろと校庭から出始めた。この瞬間、私の意識から目の前の少女の存在は消え失せた。見ず知らずの他行生と言い争っているせいで、ルイーザの姿を見失うなんて愚の骨頂だ。


けれど、少女の方はまだ満足していなかったらしい。正門付近の生徒の数が増え、警備兵の意識がそちらに向いた隙を見計らって、彼女の手が私の肩にぽんと置かれた。殴ろうという悪意は感じられなかったけれど、どうしても私にこっちを向かせたいという明確な意思が伝わってきた。


「ちょっと、無視しないでよ」


彼女は目を細めて、私をじっと見つめてきた。


人は誰しも、自分だけの価値観というシステムを持っているとどこかで聞いたことがある。もしそのシステム同士の隔たりがあまりにも大きい場合、相手に興味があるようなフリをして会話を続ける意味なんてどこにもない。どんなに言葉を尽くしても、意見が噛み合わないテーマというのは必ず存在するのだから。そして、自分の意見を相手に強要するのは、決して賢い選択とは言えなかった。


私は、いい加減に引き下がってほしいという思いを無言の視線に込めて、彼女を見返した。


「授業をサボるんなら、せめて学校の目の前でするのはやめろよな、貧乏人が」


――なんとも正論極まる指摘だね。私はそう思いながら、声のした方へと顔を向けた。


数歩離れた場所に、一人の男子生徒が立っていた。その口ぶりから察するに、彼は目の前の少女と知り合いであるようだった。ある種の意味において、だけど。


これが、彼女の言うところの「友達」というやつなのだろうか。


彼は、私の存在には目もくれていないようだった。その視線は完全に少女だけに注がれている。私には彼女の社会的な身分を推し量るすべはなかったけれど、彼が彼女のことを、まるで出来損ないの出来事を見るような目で見下していることだけは、痛いほど伝わってきた。


同時に、彼には一目でそれと分かる独特の雰囲気があった。制服の配色は少女と同じはずなのに、ただそこに立っている佇まいというか……妙に気取った、鼻につくような傲慢さがにじみ出ていたのだ。


「ちっ……」


少女の手が、弾かれたように私の肩から離れた。がっくりと落とされた彼女の頭から髪が顔へと覆いかぶさり、まるで水をぶっかけられたかのようにその表情を完全に隠してしまう。


「体調が、悪かったんです……」


彼女の声は、言葉を紡ぐごとにどんどん小さくなっていった。まるで、喉の痛みを必死に装おうとでもしているかのようだった。


「俺を馬鹿にしてるのか?」


男子生徒は片方の眉を跳ね上げ、誇らしげに顎を突き出した。


「もう放課後の時間だぞ。そんな格好でサボっておいて、よく言うぜ」


彼の理路整然とした指摘には、反論の余地がなかった。彼女の注意を自分の方へ逸らしてくれたことには感謝したけれど、だからといって、彼が浮かべているその勝ち誇った笑みが正当なものだとは到底思えなかった。


「私は、ただ……」


彼女に言い訳を完成させる隙を与えず、パッと距離を詰めた少年は、逃げられるのを予期していたかのように彼女の手首をひったくった。


「ただ何だ? ご丁寧に男の連れまで引き込んで。学校はそんなことをする場所じゃないんだぞ」


男の連れ? 一体誰のことだろう。


私は思わずあたりをキョロキョロと見回してみたけれど、それらしき人物は見当たらなかった。いや、違う。周囲には大勢の生徒がいたけれど、彼の言う特徴に当てはまる人間なんて一人もいなかったのだ。


「あんたが、こいつにサボりを唆した原因か?」


この時、初めて少年が私を正面から凝視した。わあ、てっきり壁のシミにでもなりきれていたと思っていたのに、計算が狂ってしまった。


……いや、待って。もしかして、その「男の連れ」って私のこと? 私は無意識のうちに、自分を指さして手を挙げていた。


「あんたも一緒に来い」


彼の伸ばした手が私に届くより早く、私はするりと横にステップを踏んで身をかわした。この男、私のことを女の子だと見分けることすらできないのだろうか。まっすぐ私を見つめているはずなのに、その実、私の姿なんて微塵も目に入っていないような、そんな違和感を覚えた。


そういえば、前にもこんな状況に陥ったことがあったような気がする。


まあ、それはともかくとして。


「……私、女の子なんですけど」


「あ? だから何だよ、そんなの関係ないだろ」


関係ないってどういうことだろう。彼みたいなタイプが、誰かから女の子に間違えられたら、絶対に烈火のごとく怒り狂うはずなのに。


今ため息をついたのは、私だろうか、それとも隣の少女だろうか。彼のあまりの配慮のなさに二人して唖然としてしまい、私自身、状況がうまく掴めなくなっていた。


「あんた、本当のバカなの?」


彼は最初から不機嫌そうな顔をしていたけれど、私の言葉を聞いた途端、その表情はさらに苦虫を噛み潰したように歪んだ。隣の少女といえば、あまりの展開の早さに反応する暇すらなさそうだった。


もしかして私は状況を読み違えて、何かしらの痴話喧嘩の修羅場にうっかり巻き込まれてしまったのだろうか。……うーん、いや、それにしては毛色が違いすぎる。


まあ、実際のところは知る由もないけれど。


「誰に向かってバカって言ってんだ、このバカ女! 自分が誰と口を利いてるのか分かってんのか?」


「分かってるよ。バカと喋ってる」


「あんた! ……この、大バカ者が!」


今度のため息は、間違いなく私だけのものだった。これ以上言い争いを続けたところで不毛すぎる。このままいけば、ただの小学生並みの口喧嘩に発展するのは目に見えていた。ルイーザやお母さんが戻ってきたときに、こんな情けない姿を見られるのだけは勘弁してほしかった。


深くため息をつき、私は再び壁に寄りかかって、ぷいと顔を背けた。


「何だ? 降参か? 意気地なしめ」


本当に騒々しい男だ。喉元まで「うるさい」という言葉が出かかったけれど、私はどうにかそれを飲み込んだ。


「さあ、来い」


私がこれ以上言葉のドッジボールに付き合う気がないと察したのか、彼は再び私を引っ立てようと手を伸ばしてきた。今度の私は少し油断がすぎて、身をかわすのが遅れてしまった。彼の掌が、私の前腕をがっしりと掴む。その力は思いのほか強く、彼が私と少女をまとめて強引に引っ張った瞬間、私は痛みに思わず眉をひそめた。


「ちょっと!」


「ベネフォードくん、うちの娘を連れてどこへ行くつもりかしら?」


この鬱陶しい少年が二、三歩進んだところで、突如としてその目の前に、お母さんが壁のように立ちはだかった。少年はあまりの威圧感に勢いよく後ずさりし、危うく私の足を踏んづけるところだった。


ちょっと待って。ベネ、何だって……? なんでお母さんがこの男の名前を知っているのだろう。この状況全体が,、まるでタチの悪いドッキリの仕込みのように思えてきた。


「お、おばさん? 娘って……こいつのこと?」


彼は慌てて私の腕を放すと、どういうわけか隣の少女を指さした。私は彼の背中しか見えなかったけれど、その指先が小刻みに震えている様子からして、相当テンパっているのが伝わってきた。けれど、お母さんが一体誰のことを指して「娘」と言ったのか、この瞬間、私とお母さんの表情は完璧にシンクロしていたはずだ。


当の「新しいお姉さん」といえば、自分の体に亀の甲羅でも生えてこないかと願うかのように、両肩をすぼめて縮こまっていた。そして隙を見計らうと、まるで親鶏の後ろに隠れるひよこのように、私の背中へとずるずると回り込んできた。自分より背の高い人間が、自分の陰に隠れようとしているのを見るのは、なんとも奇妙な気分だった。


……ということは、彼女がひよこなら、私は一体何なのだろう?


まあ、深く考えるのはやめよう。


「何回言ったら『おばさん』って呼ぶのをやめるのかしら?」


お母さんは一瞬の躊躇ちゅうちょもなく手を伸ばすと、少年の額をぴしゃりとデコピンした。


「私が言っているのは、こっちの子よ」


お母さんは顔を向けることも、視線を動かすこともなく、まっすぐ私を指さした。もちろん私はずっと同じ場所にいたけれど、彼女は私が立っている位置をそこまで正確に把握していたのだろうか。それとも、これもお母さんの新しいスーパーパワーの一種なのだろうか。


そんなことを考えていると、視界の端に鮮やかな緑色が飛び込んできた。今度は木の葉ではない――ルイーザだ。彼女は少し離れた場所からこちらの会話をうかがっていて、何が起きているのかを必死に理解しようとしているようだった。


私はすぐに彼女の方へ歩み寄ろうとしたけれど、一歩踏み出した瞬間、Tシャツの布地がぐっと引っ張られてお腹を圧迫した。この少女、まだ私にしがみついていたのだ。それと同時に、ルイーザの表情がみるみる変わっていくのが見えた。


彼女は怒っているのだろうか。一体、誰に対して? 私? それとも、この少女?


それがどちらであれ、ルイーザの顔を見た瞬間、私は自分が何かとてつもない過ちを犯してしまったのだと直感した。けれど、一体何を?


彼女は何かを言いかけるようにかすかに唇を開いたけれど、すぐに思い直したようにそれを閉じた。そして、ぷいと顔を背けると、そのままお母さんの隣へと歩み寄って立ってしまった。


「じゃ、私は行くね。ありがと」


お腹への圧迫感がすっと消え、布地が再び背中に馴染んだ。少女がようやく私のTシャツの手を放したのだ。彼女は直後に、私の肩をぽんと叩いた。わざと力を込めたのではないかと思うほど強い衝撃で、私は思わずよろけてしまった。けれど、振り返ったときには、彼女はすでに背中を向け、手をひらひらと左右に振っていた。


……これ、さっきの私の真似まねをしてからかっているのだろうか。遠ざかっていく彼女の背中を見つめながら、私の顔が引きつるのが自分でも分かった。


「あんた、意外と話しやすかったよ。またね!」


彼女は、周囲に聞こえるほどの大きな声でそう言い残した。その振る舞いは、まるでいたずら好きな猫のようだった。周囲の注意が逸れた隙に、さっと尻尾を振って姿を消してしまう、そんな猫。


なんて厄介な女の子なのだろう。


私は後頭部に手を当てて、これ以上ないほど深い、長いため息を吐き出した。最初の一歩の時点では「また会うこともあるかも」なんて呑気のんきなことを考えていたけれど、今となっては、もう二度と顔を合わせたくないというのが本音だった。


けれど、もし彼女が本当にルイーザの友達だったとしたら? これから先、私は彼女の存在を我慢して受け入れなければならないのだろうか。でも……ルイーザはこれまで、学校の友達の話なんて一度も私にしてくれなかった。ということは、私たちはやっぱり……少しずつ心の距離が離れていってしまっているのだろうか。そして、今の彼女が私を避けるような態度を取ったのも……。


思考がこのまま暗い方向へと転がっていくのが少し怖くなり、私はそれを一旦、頭の隅へと追いやることにした。


耳元に、小鳥たちのさえずりが届いた。どうしてこの学校の敷地内では、我が家の周りよりも鳥たちのシンフォニーがこんなに大きく響き渡っているのだろう。学校を埋め尽くすように植えられた、あのたくさんの木々のせいだろうか。きっと、そうなのだろう。


それにしても、我が家のことに話を戻せば。あの少年は、一体どういうつもりでお母さんのことを「おばさん」なんて呼んだのだろう。


.


あの少年の迎えの馬車が到着したことで、お母さんのお説教はようやく幕を閉じた。その時の彼といえば、顔を真っ赤にしてうつむいていて、最初ほど憎たらしくは見えなかった。せいぜい、無駄に騒々しい男といったところだろう。問題は、あの少女の方だ。


彼女を猫に例えたのは、私の間違いだった。もしルイーザが、私が二人をほとんど同類だと思っていたと知ったら、一体どんな反応をするだろう。私としてはそんなつもりは毛頭なかったのだけれど、言葉にしてしまえば、まさにその通りに聞こえてしまうに違いない。


今にして思えば、彼女はどちらかというと蛇に似ていた。毒を吐き散らしたり、巣から落ちた雛鳥ひなどりのように私を丸呑みにしようとしたりしたわけではない。ただ、掴みどころがなく、最後の最後まで本心の見えない不気味さがあったのだ。


「あんた、意外と話しやすかったよ」なんて、一体どういうつもりで言ったのだろう。


それよりも重大な問題は、あの瞬間からルイーザが一言も口を利いてくれないことだった。少なくとも、私に対しては。私が何か話しかけようとするたびに、彼女の不機嫌そうな仏頂面が、千の言葉よりも雄弁に私を拒絶した。それはまるで、危険な川の深さを足で測ろうとした瞬間、気づけばすでに首まで水に浸かっていたと知るような、そんな恐ろしい感覚に似ていた。


どうやら人生というやつは、自分らしくない不自然な行動をとったときに何が起こるかを、私に身をもって教えてくれているようだった。


言葉がルイーザにまったく通用しない以上、かといって自分から手を繋ぐ勇気もなかった私は、最終手段に出ることにした――彼女の体を、つねってやるのだ。結果として、彼女の背中に指先でちょんと触れただけで、彼女は悲鳴を上げた。


「あんたバカなの!? ――あ、すみません……」


ルイーザはすぐさまお母さんの方を向き、今口にしたばかりの暴言を慌てて撤回した。


お母さんの方は、特に気に留めた様子もなかった。頭の中の買い物リストと照らし合わせるかのように、指を折り曲げながら何事かぶつぶつとつぶやいている。自分に視線が注がれていることに気づくと、彼女はすぐに意識を切り替え、ルイーザに向かって優しく微笑んだ。


「いいのよ、ルイーザちゃん。正しいことを言ったときには、謝る必要なんてないわ」


「え……?」


お母さんのその発言が、私たち二人のうちどちらをより深く困惑させたのかは、神のみぞ知るところだった。


実の娘を差し置いてルイーザの味方をするなんて、あんまりな仕打ちだ。まあ、もし私が逆の立場だったとしても、同じような行動をとったかもしれないけれど。おそらく、ね。


「そうだわ。買い忘れたものを思い出したから、ちょっと行ってくるわね。ルイーザちゃん、この手のかかる娘がまたトラブルを起こさないように、しっかり見張っていておくれ」


「お母さん!」


私の抗議を完全に無視して、お母さんは私の背中に手を当てると、文字通りルイーザの方へと私を押し出した。お母さんは少し疲れているようだったけれど、それ以上に、私たちの間に漂うこの緊迫した空気に当てられる方をご免被めんこうむりたい、という風に見えた。


ルイーザは抵抗することなく小さく頷き、私の手をそっと握り締めた。考えてみれば、今日はやたらと他人に触れられる機会の多い一日だった。そして、彼女が私に対して怒りを抱いているのは間違いなかったけれど――それにもかかわらず――彼女の手のひらは、いつもと変わらない優しさで私の手を包み込んでいた。


お母さんのこういう絶妙な手腕は、いつも必要な瞬間に発揮される。いや、違うな。私が本当に困り果てたときにしか、彼女のその気遣いに気づけていないだけなのだろう。他人の差し伸べてくれた労力というやつは、それなしでは自分が立ち行かなくなった時に初めて、その有り難みが身に染みるものなのだ。


大人が抱える最も過酷な仕事とは、子供たちのエウゴイズムをただ耐え忍び、受け入れることなのかもしれない。子供たちの引き起こす「大惨事」の解決に奔走し、そのくせ感謝の言葉すらまともにもらえない。確信しているけれど、そんなことには凄まじい量のエネルギーが消費されているはずなのだ。


遠ざかっていくお母さんの後ろ姿を見送りながら、私の頭の中をそんな思考が駆け巡っていた。今、私にできる唯一の恩返しは、彼女が作ってくれたこの機会を無駄にしないことだけだった。


言葉を発する前に、私はルイーザの手を少し強めに握り締め、こちらに意識を向けさせようとした。けれど、彼女からの反応はなかった。


だとしたら、ルイーザは一体何について話したいのだろう。今日の学校がどうだったかを尋ねるのに、今が最適なタイミングだとは到底思えなかった。いや、絶対に違う。


私は自分の思考を落ち着かせるように、そっと片手で頬に触れた。


「……迷惑かけて、ごめんね」


ルイーザの苛立ちの正確な原因が分からない以上、今の私には一か八かの賭けに出るしか道は残されていなかった。私に非があるのは間違いなかった。それは確信している。けれど、思い当たるふしがあまりにも多すぎて、どれか一つに絞り込むことができなかったのだ。


私の手を握ったまま、ルイーザはようやく私の方へと顔を向け、その視線を低く落とした。


「迷惑? 私の知らないところで、随分と楽しそうにお友達作りに励んでいたことを、今はそういう風に呼ぶわけ?」


……え? 一体何の話をしているの?


ルイーザが何を言わんとしているのかが完全に理解できず、私の両肩は本能的にすくみ、背中は自然と丸まっていった。


「私は、そんなんじゃ……」


「へえ、そう」


私が言い訳をする余地さえ残さず、彼女は再びぷいと顔を背けた。その一言だけで、この話はもう終わりだと言わんばかりの態度だった。


次に何を言うべきか分からなくなった私は、言葉の代わりにでもなればいいなと思いながら、ひとつ小さく咳払いをしてみた。それからもう一度口を開こうとしたけれど、最初の時と同じように、私の思考はガラスの砂粒のように砕け散っていて、もはやどんな形も成してはくれなかった。


ルイーザは向かいにある建物から頑なに視線を外そうとしなかった。そこには看板すら掲げられておらず、目を引くような要素は何一つないというのに。正直なところ、彼女の視線の先に自分がいないという事実は、ほんの少しだけ面白くなかった。


面白くない? 私が? そんなことを考えると、自分の頬がじわじわと熱くなっていくのが分かった。けれど同時に、いつものことながら、私は彼女から目を逸らすことができずにいた。


一連の騒動のせいだろうか、ルイーザの瞳は心なしか少し潤んでいるように見えた。その瞳は、まるで本物のエメラルドであるかのように強くきらめいていて……それは、どこか魔法めいた美しさだった。


私の言葉では彼女の強固なよろいを打ち破ることはできないし、そもそも今の私には気の利いた言葉なんて見つけられそうになかった。だから私は、自分が今一番したいと思った行動に出ることにした。繋いでいた手を放し、彼女の背中へと回り込んで、後ろからそっと抱きついたのだ。


彼女の背中しか見えない状態では、ルイーザがどんな表情を浮かべたのかを推し量ることは難しかった。ただ、私の両腕が彼女のお腹に回った瞬間、そこが微かに緊張して固くなったのを感じた。今の彼女は、どこかハリネズミに似ていた。どれだけ外側の針が鋭く尖っていようとも、内側のどこかには、同じくらいに柔らかい部分を残しているのだ。


「……何、やってんのよ」


「なんでもない」


「なんでもないわけないでしょ」


私はそれ以上動くことなく、ただ短く「うん」とだけ返事をした。彼女の背中に顔をうずめていると、自分の耳の存在がやけに強く主張を始めた。おそらく、触れたらチクチクと痛むのではないかと思うほどに、真っ赤に染まっているに違いない。


まあ、それも仕方のないことだ。外は本当に暑かったのだから。私と同じように、ルイーザの背中も少し汗ばんでいるようだった。考えてみれば、彼女の匂いをこれほど間近で、強く感じたことがこれまでにあっただろうか。それなのに、その香りは私の鼻腔を少しも不快にさせなかった。むしろ、そのせいで私の体じゅうが、心地よい熱で満たされていくかのようだった。


あるいはこれも、私たちに真っ直ぐに降り注ぐ夏の太陽のせいだったのかもしれない。木々の隙間から漏れ出す木漏れ日は、まるでこの一瞬の光景を、私たちの肌に直接焼き付けようとしているかのようにまぶしかった。


「あんたって、本当にバカね、イオリ。私がいない時は今にも捨てられた仔犬みたいな顔をするくせに、ちょっと目を離すとすぐにこれだもん。勝手気ままに自由を満喫しちゃってさ」


「どういう意味?」


「バカって意味よ」


いつものことながら、ルイーザは自分の本心を言葉の裏に隠そうとはしなかった。けれど、今彼女の口からこぼれ落ちた声は、数分前のものよりもずっと柔らかく響いていた。


「……分かった」


「本当に? 分かったなら、もう二度と同じことしないでよね」


彼女は、私のお腹に回された手の上に、自分の手を重ねてきた。まるで何かの弦楽器でも奏でるかのように、彼女の細い指先が、私の手の甲を優しく、なぞるように引っ掻いた。


.


ふと顔を上げて時計に目をやると、放課後の時間まではもう十分も残されていないことが分かった。当然ながら、それが終わったところで私を待ち受けている刺激的な出来事なんて何一つない。今日は金曜日だったけれど、ルイーザからはわざわざ迎えに来る必要はないと言われていた。


彼女はもう私に対して怒っていないようだったけれど、それでも何かが確実に彼女の心をいらだたせているようだった。私が危惧していた通り、学校という場所は私とは切り離された、まったく別の世界として存在している。それはまるで、こちらからは決して向こう側を覗くことのできない、高くて分厚い壁のようだった。


それよりも重要なのは、そろそろ顎を引くべきだということ。このまま上を向いて頭をのけぞらせたままでいたら、鼻の中に埃が入り込んできてしまう。


この広すぎるリビングを冷やすには、あの緑の小石だけではあまりにも力不足だった。いつもならこんなに暑い日は玄関のドアが開け放たれているはずなのに、今日に限ってはどういうわけか固く閉ざされている。この瞬間の私が切望していたのは、ただ自分の部屋に戻って、毛布の中に潜り込むことだけだった。


「そんなことをしたら、ルイーザがまた怒るよね……」


私は心の中でそっとため息をついた。


残念ながら、そんな我がままは許されない。学校まで迎えに行かなかったというのに、その上またしてもベッドの中で彼女を出迎えるなんて、我ながら不義理がすぎるというものだ。今度は一体どんな新しい「お仕置き」を考案されるか分かったものではない。別にそれを全力で拒絶したいわけではないけれど……かといって、積極的に歓迎したいわけでもない、というのが本音だ。


この状況において、もし私に人より抜きん出た特徴があるとすれば、それは「趣味が何一つない」ということくらいだろう。つまり、私にはどっちみち他にやるべきことなんて何もなかったのだ。


「こんな蒸し暑い空気じゃ、寝るに寝られないよ。どうやら私にも……少しは役に立てることがあるみたい」


私は口に出して自分を褒めてみたけれど、その言葉はすぐに大きなあくびの中へと掻き消されてしまった。


私は、まるで迫りくる睡魔が髪の毛の先にでも潜んでいるかのように、それを振り払おうと力強く頭を振った。けれど、そんな抵抗も虚しく、一度閉じた口はすぐにまた大きなあくびのために開いてしまう。


ほんの少しだけ眠るくらいなら、何も問題は起きないよね? ほとんどドアの目の前と言っていい場所で彼女の帰りを待っているだけでも、十分に大した手柄だと思わない?


自分を正当化しようと言い訳を並べるうちに、私の頭は小さく前後に揺れ始めた。両腕が鉛のように重く感じられて、目をこすろうにも、そのための力すら残されていなかった。


それにしても、夢とは一体何なのだろう。人はなぜ、わざわざ夢なんていうものを見るのだろう。もし仮に、私たちの脳がそんな方法を使って、自分自身の願望や恐怖を形にしているのだとしたら、どうして夢の中の私は、時として「私自身」ではないのだろう。ただ見知らぬ誰かの人生や、一度も会ったことのない人々を、ただ眺めているだけの私。それなのに、なぜだか彼らのことを、ずっと昔から知っているような奇妙な感覚に囚われるのだ。


手裏剣しゅりけん!」


「わあ」


彼女はくしゃくしゃに丸めた紙切れを勝ち誇ったように掲げて、随分と得意げな顔をしていた。


「折りづる!」


「本当だ、それっぽいね」


折り紙のピースが一つ組み上がるたびに、彼女の誇らしげな表情はどんどん深みを増していった。


「そしてこれは、ホムキのための剣!」


私は、彼女が細長く丸めた紙の筒を、ハムスターの前足に無理やり握らせようとしているのをじっと眺めていた。そして何より奇妙だったのは、その生き物が本当にそれをしっかりと掴み、今ではまるで木の上で眠りこけているコアラのような格好になっていることだった。


「……ところで、ホムキって誰?」


「ハムスターに決まってるじゃん、あんた本物のバカなの? あはははっ」


「でも、この子の名前はミノでしょ」


「えー……あ、そうだった。この子の名前はホニだよ」


彼女にとって、この子の名前を覚えるのはそんなに難しいことなのだろうか。私にはそれほど複雑な名前だとは思えなかったけれど。それなのに彼女は、今度こそ正しい名前を呼べたと言わんばかりに、またしても大威張りしていた。


まあ、そういうことにしておこう。


「そうだね」


「あんた、ヒバライに触ったことある? すっごく毛並みが柔らかいんだよ!」


ヒバ……ライ? 彼女が一体誰のことを言っているのか、私には最後まで判然としなかった。彼女の視線は、私の顔とハムスターの間を何度も激しく行き来していた。おそらく、それがこの子の新しい名前になったのだろう。正直なところ、次から次へと名前が変わるせいで、どれが本当の正解なのか私にはもう分からなくなっていた。


けれど、私の記憶が確かならば、その生き物はいつでも手の届く距離にいたはずなのに、私は一度もそれに触れたことがなかった。なぜだろう? もしかしたら今と同じように、私が触ろうとするたびに、いつも眠りこけていたからだろうか。きっと、そうなのだろう。


少し考えた末に、私はただ小さく首を横に振った。


「嘘、マジで!?」


彼女は呆れたように長く声を引いた。その勢いで、今にも頭が後ろにひっくり返りそうだった。


「うわ、あんた人生の半分くらい損してるよ。本当に柔らかいんだから。もふもふの、ふわふわ。……あ、そういえば知ってた? って、あんたが知るわけないか! あはははっ。本当におかしいよね、こんなに久しぶりに会ったのに、あんたってば何一つ変わってないんだもん。分かってる、分かってるって。でも、だからってあんたが****であることには変わりないでしょ。あんたなら……あははは、うん、あんたなら絶対にそんなことしないよね。本当でしょ? ――ねえ、私に許してくれる……?」


彼女があまりにもまくし立てるように話すので、私はただ具体的な何かを掴み損ねたまま、相槌あいづち代わりに首を縦に振ることしかできなかった。もちろん、それが本当に質問だったのかどうかも怪しいのだけれど。


それにしても、この少女は一体誰だったのだろう。


どういうわけか、彼女の輪郭を頭の中で捉えようとするたびに、そのイメージはまるで生き物のように形を変えてしまう。あるいは、彼女を正しく形容するための言葉を、私がただ忘れてしまっているだけなのか。彼女はこんな風でもあり……あんな風でもあった。同時にすぐ近くにいるようにも感じられるのに、いざ目を凝らしてみると、もう遥か遠くへ行ってしまっている。本当に奇妙だった。


「いや、マジで。あんたの**、ちょっと触らせてよ。すっごく柔らかそうなんだもん。あはははっ。なんか頭が熱くなってきた。うん。えー……。分かったよ、認める。でも私、絶対に諦めないからね! お願いだからさ! 触らせて! ちょっとだけでいいから触らせてよ!」


私が口を開くより早く、彼女はまた喉を鳴らして大笑いした。彼女の独白がどんな内容であれ、それは彼女自身にとって深く印象に残るものだったらしい。


彼女の瞳は、どこか太陽に似ていた。眩しすぎるという意味ではなく、どちらかと言えば、彼女が一体どっちを向いているのかが私にはまったく掴めなかったからだ。


「あの、ねえ。あんた……誰なの?」


「寝言は寝てから言いなさいよ、この大バカ」


「……え?」


両頬にぎゅっと強い圧迫感を覚えて、私の目は一瞬で弾け飛ぶように開いた。まるで私の頭をランプの傘か何かと勘違いしているかのように、ルイーザの両手のひらが私の肌をごしごしと激しくこすり上げていた。あと少し遅ければ、私の顔の皮は綺麗に削ぎ落とされていたに違いない。


というか、彼女は一体いつの間に帰ってきたのだろう。


「私は、寝てなんて……ない」


「よく言うわ。顎のあたりでカピカピに干からびてるヨダレに向かって、もう一回同じこと言ってみたら?」


ルイーザがようやく私の頬から手を離したので、今度は私が自分の手でそこを擦る番になった。ある痛みを、別の同じような痛みで上書きしようとするなんて、我ながらどんな思考回路をしているのか謎である。


私が必死に顔のコンディションを整えている間、ルイーザは手ぐしで自分の髪を何度もかしていた。彼女の肌が、いつも以上に汗で光っていることに気づく。それに、彼女の胸の上下運動は、まるで後ろから犬の群れにでも追いかけ回されてきたかのように激しかった。彼女の猫のような気性を考えれば、それもあながちあり得ない話ではない。


もちろん、ただの冗談だけど。


「何かあったの?」


「何でもない」


「何でもない」って、じゃあ何でそんなに息が上がっているのだろう。もしかして彼女は、私の知らないうちに『ナニモノモナイ惑星』の住人として生まれてきて、この世のすべてを大したことのない雑事として片付けているのだろうか。いや、どう考えても様子がおかしい。


私は盗み見るように彼女のシャツに目をやった。それは汗でぴったりと肌に張り付いていて、ほとんど透けそうになっていた。私の視線に気づくや否や、彼女の反応は早かった。片方の腕で自分の体を隠し、同時にもう片方の手で自分の顔を覆い隠したのだ。彼女の指の隙間から、その瞳が必死に右へ左へと泳いでいるのが見えた。


客観的に見れば、私たちの間には何やら重大なイベントが発生しているように映るかもしれない。けれど実際のところ、私たちは最初に出会ったときと何一つ変わらない、地続きの退屈な空間に放り出されたままだった。


「……見たわけ?」


見た、って何を? 彼女が汗だくになっていること? それのどこに、そんなに驚く要素があるのだろう。


「うん、見たよ」


「全部……?」


ほら、またこれだ。彼女は一体どういう意図でそんな質問を投げかけてきているのだろう。正直に「見た」と答えたことを、私は早くも後悔し始めていた。


「ええと、まあ……ある程度の部分は? たぶん」


「ある程度って、どこよ?」


改めて考えてみれば、私は彼女のシャツのほぼ全体を視界に収めていたはずだ。……ねえ、これ、私はなんて答えるのが正解だったのだろう。


「下の方……かな?」


「下? ……なら、まあ、いいけど」


なぜ彼女はそんなことを尋ねてきたのだろう。もしかしたら私の頭がまだ完全に覚醒していないだけかもしれないけれど、今のルイーザはどう考えても様子がおかしかった。もしかして、本当にシャツのどこかに穴でも開いていたのだろうか。それをわざわざ目で確かめるのに、今はあまり良いタイミングとは言えそうになかった。


「そこで待ってて。いい?」


私が返事をするよりも早く、ルイーザはステップを踏むようにくるくると体を回しながら、階段の方へと駆け出していった。


「……そんなに気にしなくてもいいのに。そのままでも、十分、その……可愛いから」


なぜ私は、彼女にそんな言葉を投げかけてしまったのだろう。いつもなら、この手の思考が私の脳外へ飛び出すことなんて滅多にないというのに。もしかして、私はまだ夢の中にいるのだろうか。


ルイーザがピタッと足を止め、振り返って指をパチンと鳴らした。……厳密にいえば、彼女はそうしようと試みただけだった。彼女の指先からは確かに何かしらの音が響いたけれど、お世辞にもそれを「綺麗な指パッチン」と呼ぶことはできなかった。


「ん?」


それ以上の説明を拒むように、ルイーザはそのまま階段を駆け上がっていき、私だけがソファに取り残された。


どうやら私たちは、また最初のスタート地点へと戻ってきてしまったらしい。


.


それが自分にとって決して珍しいことではないと分かっていても――私はまたしても、強烈な疲労の波に呑み込まれてしまった。それはまるで、一日の始まりを告げる最初の朝日のように鋭く、鮮烈だった。そして、ただ目を閉じるだけで、私は瞬時に深い夜の真ん中へと連れ去られてしまうのだ。


人間の意識というやつは、本当に魔法めいている。それは、たった一瞬で昼と夜の状態を切り替えることのできる魔術だ。外側の世界は何一つ変えないまま、内側で世界を創り出し、また破壊する。


それなのに、矛盾しているようだけれど――確かに、すべてが変わっていく。


ルイーザはもう戻ってきた。そしてこれまでの経験が示す通り、私がこの果てしない意識の海に深く沈もうとするたびに、彼女は容赦なく私を岸辺へと引き揚げてくれるのだろう。そして、これから先そんな日々が、これまでに過ぎ去った日々よりも多く待ち受けているという事実は、間違いなく私の人生が今、そこそこ良い状態にあることの証明だった。


ルイーザは行っては、また戻ってくる。これが私たちの未来において繰り返される日常になるのだとしたら、私はもう少しドラマチックに捉えるのをやめて、あらゆる変化を「新しい何か」として受け入れるべきなのかもしれない。


もちろん、私が楽観的すぎるという可能性はいつだって残されているけれど。まあ、それは置いておこう。


考えてみれば、これからも今日のような日はやってくるのだ。どういうわけか、ルイーザを迎えに行かなくてもいいような、そんな日が。そうなれば、「玄関のすぐ前で健気に待っていたけれど、疲れちゃって寝ちゃった」というあの言い訳トリックは二度と使えない。どうやら、最初から一番強い切り札を切ってしまったのは、あまり賢い選択ではなかったらしい。その上、ルイーザ自身には私のその健気なアピールがあまり響いていなかったようだし。


まさか次回からは、眠ってしまわないように何か別の暇つぶしでも見つけなきゃいけないのだろうか。うーん……。


あの日から数日が経った今でも、私は時折、あの二人のことを考えている自分に気づく。気まずい状況で口にしてしまった言葉を、後から何度も脳内で反省して苦しむのは「人間あるある」だとどこかで聞いたことがあるけれど、今の私にはその理由がよく分かった。……やっぱり、黙っていればよかったのだ。


私のいつものスタンスである「まあ、どっちでもいいや」という態度が、ついにそれ相応のしっぺ返しを食らった格好だった。


あの日、ルイーザの顔を見たとき、私はこれまでにないほどの無力感を味わった。まさにその無力感があるからこそ、「もしあの時……」という仮定の話が生まれてしまうのだ。もしあの一連の出来事に犯人を仕立て上げるのだとしたら、おそらくその原因の大部分は私にあるのだろう。


「はぁ……、すっごく疲れた」


私はそう呟きながら、ソファの背もたれから肘置きへとずるずると体を滑らせた。


「おいおい、いつものことだろ」


聞き覚えのある男の声が、私を瞬時に現実へと引き戻した。私は弾かれたように上体を起こす。


「えっ……どこから入ってきたの?」


もちろん、ユーリエルがいつでも自分の好きな時にふらりと現れることには慣れていたけれど、彼は一体どうやってまた家の中に侵入したのだろう。私は盗み見るように玄関のドアへ視線をやったが、ドアは相変わらず固く閉ざされたままだ。まさか、窓から這い入ってきた? それとも、ルイーザと一緒に戻ってきたのだろうか。


「何かあったのか?」


私の問いかけを完全に無視して、彼はソファの背もたれに両肘を突き、組んだ両手の上に顎を乗せた姿勢のままじっと佇んでいた。


「何でもない。ただ……ちょっと考え事をしてただけ」


「ふーん? そうかい。相変わらずだな」


「ええと、まあね」


彼の登場に隠された謎をこれ以上追及するのは諦めて、私は再び肘置きに背中をもたれかけさせた。大きく胸を張ると、私の背骨がまるで乾燥したクッキーみたいにパキパキと音を立て、それと同時に唇から深い息が漏れ出た。


「たまには、トラブルに巻き込まれるのも悪くないんじゃないか?」


「どういう意味?」


「つまり、そろそろ何事にももう少し真面目に向き合う時期が来たってことさ」


彼が私の顔へと手を伸ばし、人差し指で私の鼻の頭をちょんと突いた。その刺激に、鼻の周りの皮膚が本能的にきゅっと緊張する。


妙に説得力のある言い分だった。けれど、私がその言葉に対する自分の考えを口にするより早く、彼はただ、掻き消えるように姿を消してしまった。


私はソファの背もたれを掴みながら勢いよく立ち上がり、あたりを忙しなく見回した。視界に映るのは、いつもと変わらない我が家のリビング。不審な点は何一つない。


だとしたら……私はたった今、一体誰と話をしていたのだろう。


「どうしたの?」


聞こえてきたのは、ユーリエルのものではない声だった。ルイーザだ。まさか私は、今の今まで彼女を相手に独り言を言っていたのだろうか。奇妙なこともあるものだ。


「……ここに、誰か見かけなかった?」


確かめるためにそう尋ねてみると、彼女は最初、人差し指を唇の端に当てて不思議そうに首を傾げたけれど、すぐに姿勢を正して深く頷いた。


「私がいるじゃない」


まあ、それは実にもっともな観察眼だった。少なくとも、私に異論はなかった。


「あんた、さっきまで天井をぽかんと見つめてたと思ったら、急に飛び起きるんだもん」


「ええと、まあ、その……腕がしびれちゃってさ。うん」


私は何のことだかさっぱり分からないという風を装い、自信満々に言い放った。


彼女に、またしても独り言をブツブツ呟いている現場を見られていなければいいのだけれど。まあ、今さら誰が気にするというのだろう。そのおかげで、ルイーザが着替えを終えて戻ってくるまでの時間を退屈せずに待てたのだから、むしろ結果オーライというやつだ。


「ルイーザが戻ってきたら、今日は面白いことをたくさんしようって、ちょうど考えてたところ」


ソファに再び腰を下ろしながら、私は必死に話題を変えようと試みた。首のあたりが少し痛むのを感じる。どうやら、肘置きに頭を乗せて随分と長い時間を過ごしてしまったらしい。


「へえ、本当に?」


「うん」


彼女の頭の上に、巨大なクエスチョンマークが浮かび上がるのが見えるようだった。


「たとえば、どんなこと?」


「……まだ考えてない」


私の答えを聞いた瞬間、ルイーザの眉が不機嫌そうに跳ね上がった。彼女の両手が私の顔に向かって伸びてくるのを見て、話題のすり替えはあまり上手くいかなかったのだと察した。けれど、その手のひらが私に届くより早く、玄関のドアが激しく叩かれた。


その音が私の耳に届くか届かないかのうちに、ルイーザはまるで崖から投げ落とされた岩石のような勢いでその場から飛び出していった。いや、岩石という表現は少し大袈裟おおげさかもしれないけれど、あのハヤブサでさえ彼女の初速には嫉妬したに違いない。


ドアの前にたどり着いた彼女が振り返ったので、私はひらひらと手を振ってみた。すると、彼女も即座に同じように手を振り返してきた。私の動きには大して熱意がこもっていなかったのに対して、彼女の振り返し方にはいささかの躊躇ちゅうちょもなかった。もし私が別のポーズをとっていたら、彼女はそれも真似したのだろうか……。いや、誰を騙そうとしているのだ、私は。その答えなら、もう最初から分かっている。いつだって私の数歩先を行くこと――それこそが、ルイーザという少女のキャラクターを象徴していた。


そんなことを考えている間に、ルイーザはもうドアを開けていた。本当に一瞬の出来事だった。あまりの早さに、外にいる人間は、自分がノックする前からずっとドアのすぐ裏で待ち伏せされていたのではないかと勘違いしたことだろう。


ところで、一体誰が訪ねてきたのだろう?


「ルイーザ? あなたもここにいたのね。同じ場所を目指しているなら、そう言ってくれればよかったのに」


「あ、ええと……こんにちは」


まさかユーリエルが二階の窓から這い出て、今度は正面から普通に入り直してきたのだろうか。けれど、聞こえてきたのは女性の声だった。だとしたら、ピザの配達人とか……? いや、この世界にそんな便利なものがあるのだろうか。


あれこれ予想を巡らせてみたものの、結局どれもしっくりこなくて、私は自分の目で確かめるためにソファから腰を上げた。それと同時にキッチンのドアが開き、中からお母さんが出てきた。彼女はまるでキッチンの机でそのまま寝こけていたかのように大きく肩を回し、前髪を手で後ろへと掻き上げている。


私が玄関口へと近づいた瞬間、強烈な太陽の光が目に飛び込んできて、私は思わず顔をしかめ、手で視界を遮った。その直後、どこか聞き覚えのある香りが鼻腔をくすぐった。あまりにも濃厚なその香りのせいで、鼻の奥がムズムズと痒くなってくる。……一体どこで、この匂いを嗅いだことがあっただろう。


逆光のせいで、そこに誰が立っているのかを正確に見極めるのは困難だった。ただ一つ言えるのは、そのシルエットがまるで光そのもので形作られているかのように、目も眩むほどの鮮烈な輝きを放っているということだけだ。


「あら、イオリ。随分と久しぶりね」


目が光に慣れてくるにつれて、私はその人物の正体を認識した。その人の顔に浮かんだ完璧な微笑みを見た瞬間、日中の太陽がもたらしていた穏やかな熱気は、跡形もなく掻き消されてしまった。


白い衣を身にまとった、あの時の女性。ただ、今日の衣服は以前のものとは少し違っていた。もっと軽やかで、いわば夏仕様のような。


――レディ・ロアナ。


「あなたなら、一日のうちのどんな時間帯でも、絶対に家にいるだろうって分かっていたわ」


彼女はそう言うと、手の甲で口元を隠しながら上品に笑った。


相変わらず、彼女はひどく親しげに振る舞っていた。おそらく彼女自身に悪気はないのだろうけれど、私はその笑顔を見た瞬間、心の中で防壁を一段と高く築き上げていた。


「はぁ……。まあ、ありがとうございます」


「随分とのんびりしたお着きじゃない」


お母さんは肩をぐるぐると回しながら、不満げに声を上げた。その仕草しぐさときたら、これからボクシングのリングにでも上がるファイターのようで、どこか物々しい。


「ごめんなさいね。ほら、この子たちの相手をしていたものだから」


この子たち? 一体誰のことを言っているのだろう。


私の疑問に答えるかのように、その女性――レディ・ロアナはくるりと振り返ると、まるで荷物の箱でも押し出すかのように、一人の少年を前に突き出した。


この男の子……。そうだ、確か、あの……。いや、まあ、どっちでもいいか。


気がつくと、ルイーザが目を細めながら、じりじりと私との距離を詰めてきていた。あっと思う間もなく、彼女の肩が私の肩とぴったり触れ合う。彼女はそんなにこの少年のことが気に入らないのだろうか。


ロアナ様もまた、ルイーザのその警戒するような態度に目を留めていた。彼女の唇に浮かんだ笑みが、みるみるうちに横へと広がっていく。なぜだか分からないけれど、このまま笑みが広がり続けたら、彼女の口元は人間のものではなく、獰猛な肉食獣の「割れ裂けた割れ目」みたいになってしまうのではないか――そんな不気味な錯覚を覚えた。


「ベネフォード、マナーはどうしたの?」


周囲の反応などどこ吹く風で、ロアナ様は完全に自分のペースで話を巻き戻した。まだ二度しか会ったことがないけれど、この強引さはまさに彼女の真骨頂という気がする。私が彼女の側にいるとどうしても居心地の悪さを感じてしまうのは、このせいかもしれない。


当の少年――ベネ……ベンのほうも、彼女の要求に乗り気であるようには見えなかった。彼の首は頑なに横を向いたままで、その瞳はドアを構成している木材の材質でも熱心に研究しているかのようだった。


「……こんにちは。突然、不躾ぶしつけに訪問してしまったことをお許しください」


彼は相変わらずドアを見つめたまま、義務的にそう口にした。正直なところ、ドアのほうが誰かの訪問を待ち侘びていたなんてことは天地がひっくり返ってもあり得ないと思うけれど、まあ、それは突っ込まないでおこう。


「あら、なんてお上品なこと」


皮肉混じりのニュアンスをたっぷり込めて、ロアナ様はまたしても上品に笑いながら、少年の肩をぽんぽんと叩いた。いや、叩いたように見えただけだ。彼女の指先は、まるで風に揺れる花びらのように、彼の衣服に触れるか触れないかの軽さで触れていただけだった。


「母上、やめてください」


少年の肩が一瞬で強張こわばり、その拒絶に押されるようにしてロアナ様は手を引いた。代わりに、彼女はお母さんの方へと向き直る。これほど滑らかに対象を切り替える彼女の変わり身の早さは、もはや拍手を送りたいレベルだった。私にはそれなりに大人と接してきた経験があるけれど、これほど「ザ・大人」という形容が恐ろしいほど似合う人物には、後にも先きにも会ったことがない。もちろん、これはちっとも褒め言葉ではないけれど。


「いつまでも玄関に立ってないで。キッチンへ行きましょう」


「お招きいただき感謝いたしますわ」


ロアナ様は深々とお辞儀をしようとしたところで、ふと動きを止めた。


「――おや、尊き大司教様。これは素晴らしい栄誉ですこと」


ん? ということは、ユーリエルは本当にまだここにいたの?


彼女の視線を追ってリビングの奥を見た瞬間、私の顔は本能的に引きつるんだ。その「尊き」大司教様とやらは、この世で最も涼しい顔をしながら、まるで咀嚼そしゃくという工程を完全に省略しているかのような凄まじいスピードで、クッキーを次から次へと胃袋に放り込んでいた。


「久しぶりだな」


彼はほんの少しだけ顎を動かして会釈をすると、何事もなかったかのようにまたクッキーを食べ進めた。


私は小さくため息をつき、再びロアナ様の方を向いた。直感が告げていた。この人を長い間、放置して目を離すべきではない、と。彼女はまるで「電源の入ったままのアイロン」のような存在だ。ほんの一瞬でも目を離せば、またたく間に大火事を引き起こしかねない、そんな危うさがある。


彼女は、冷徹で真剣な大人の表情と、無邪気な子供のような表情を切り替えるのが恐ろしく上手だった。それが、彼女の内面から溢れ出る豊かな感情のせいなのか、それとも全くの逆で――感情が空っぽだからこそ、完璧に「演技」として演じ分けられているだけなのか、私には判別がつかなかった。


「ところで、クイントはどちらに?」


「もうすぐ戻ってくるはずよ。一分一秒を争うってわけじゃないけれどね」


……お父さんまで帰ってくるの? 一体、何が始まろうとしているのだろう。


ちょっと待って……。まさか、私が彼女の息子のことを「バカ」って呼んだことが、こんな大ごとを引き起こしちゃったの?


顎の筋肉からすうっと力が抜けて、口が間抜けにぽかんと開いてしまうのが自分でも分かった。強い光を長時間見つめすぎた時のように、視界がちかちかと歪み始める。


「イオリ、あなたに私の息子を紹介するって、前に約束していたでしょう?」


「え……?」


その瞬間、ルイーザの両手のひらが私の肩にがっしりと置かれた。まるで、私がこの場から突然どこかへ飛び去ってしまうのを恐れているかのように。蛇の滑らかな動きを模倣するように、彼女の腕が私の首へと絡みつき、その体をぴったりと押し付けてくる。他の人々が、あちこちに心を散りばめてすり減らしている中で、彼女だけは自分の心をたった一つの明確な点に集中させる才能を持っていた。その事実だけで、私の足を狙って這い寄ってきた影のつたが、一歩後ろへと退いていくような気がした。


「もっと早く、この子を引き合わせるべきだったわね」


相変わらず、この女性は周囲の空気を読むことを拒絶し、自分だけのルールをこの場に敷き詰めていく。


「ねえルイーザ、私の息子が、学校の前での無礼な振る舞いをイオリにちゃんと謝罪できるように、少し時間をくれないかしら?」


ロアナ様はそう付け加えると、少年を私の目と鼻の先までぐいと押し出した。


またこれだ。私が一体いつ、彼女の息子と二人きりになることを承諾したのだろう。そもそも、そんなことをして何が始まるというのか。というか、むしろ謝らなきゃいけないのは私のほうでは?


私がそんな混乱に陥っている間にも、ルイーザは自分の意志を明確に、きっぱりと行動で示した。私の首を絞める彼女の腕にぎゅうぎゅうと力がこもり、本気で息が詰まりそうになった私は、慌てて彼女の手の甲をペチペチと叩いた。少し大袈裟に言っている自覚はあるけれど、彼女の抱擁は明らかに加減が行きすぎていた。


まったく、この人たちはどいつもこいつも何が不満なのだろう。


少年が、将来はインテリアデザイナーにでもなるつもりなのか、必死に床の材質を観察している間、ロアナ様はルイーザから一切の視線を外さなかった。何より一番癪しゃくに触るのは、彼女がその完璧な笑みを絶やさないことだ。ずっとあんな風に顔の筋肉を緊張させていて、痛くなったりしないのだろうか。


「……ルイーザには、ここに残ってほしい」


声に、自分でも驚くほどの不安が混じってしまった。いや、私の首を絞めているルイーザの腕のせいで声が震えただけかもしれない。どちらかは分からないけれど、ロアナ様はようやく誰かの意見を受け入れる気になったらしく、満足そうに頷いた。


「いいわ、好きになさい。それじゃあ、子供たちは子供たちだけでお話しさせましょう」


「私たちも、一緒にキッチンへ行っちゃダメなの?」


なぜだか分からないけれど、ルイーザの敵意の矛先が完全にあの少年に切り替わったのが、私には少し気がかりだった。このままだと、彼はデザイナーになる前に、ルイーザの手によって本物の「インテリア(敷物)」に変えられてしまうのではないか。


「大人が子供の会話に口を挟むべきじゃないわ」


お母さんもユーリエルも、彼女の言葉に反論しようとはしなかった。ユーリエルにいたっては、クッキーを食べるのに忙しすぎて話を聞いてすらいなかったし、お母さんはただ背中をポリポリと掻きながら、大きなあくびを噛み殺している。けれど、私の心境は彼らとは完全に真逆の、底知れない不安の淵へと向かっていた。


「……話すことなんて、何もないかもしれないのに」


「その時は、ベネフォードが何か気の利いた話題を考えてくれるわよ」


私に向かって茶目っ気たっぷりにウインクしてみせると、彼女はそれ以上の問答を拒否するように、お母さんの後ろに続いてキッチンへと消えていった。


「……なんて素晴らしい、投げっぱなしの回答なんだろう」


私は心の中でそう毒づいたけれど、それを口に出す度胸はなかった。


他に選択肢も残されていなかったので、私は大人しくソファへと戻ることにした。考えてみれば、ひどく皮肉な話だ。私はまるで、大好きな主人の姿を待ち侘びるあまり、玄関の向こうに人影が見えるたびに全力で飛び出していき、それが全くの別人だと気づいてトボトボと定位置に戻ってくる、一匹の犬のようだった。自分の判断が、見事なまでに間違っていたことを痛感しながら。


皮肉なのは、私が待ち侘びていた当の本人は、もうずっと前からここにいたということだ。彼女は私の真後ろに陣取り、その両足の間に私をすっぽりと収めていた。どうやら私は、完全に彼女のおもちゃに成り下がってしまったらしい。


一方、少年の方は明らかに居心地が悪そうだった。家具の観察をやめた後も、まるで着席の許可でも待っているかのように、ソファの脇に突っ立ったままでいる。


「……座れば?」


「許可なんて求めてない」


なぜ彼がそんなことを言う時に、あんなにも誇らしげな顔をしていたのかは分からない。


「ふーん。じゃあ、立ってれば」


私がそう言うと、彼は結局席に付いた。実際、かなり離れた位置に、だけど。

この子は、わざと私の言うことと真逆の行動をとっているのだろうか。もし私が「床に座って犬の真似をして吠えちゃダメだからね」と命令したら、彼は本当にそれを実行したのだろうか……。そうでないことを祈るし、わざわざ確かめてみる気にもならなかったけれど。


「それで、ええと……何しに来たの?」


私は、正しい言葉を見つけるのが致命的に下手だった。他の人たちが思ったことを何でもすらすらと口にできるというのに、私ときたら、一つ一つの文章をまるでマッチ棒で城でも組み立てるかのように、慎重につむぎ出さなければならない。どうやら私は、「大人」という概念からはまだまだ程遠い場所にいるらしかった。


「……謝りに、来たんだ」


最後の単語を口にする時、彼はこれ以上ないほど大きなため息をついた。彼にとっては、あまりにも複雑な音節が多すぎる言葉だったのかもしれない。


「謝ったら、さっさと帰りなさいよ」


ルイーザは少年に対して、一滴の慈悲も持ち合わせていないようだった。


「お前に用があるんじゃない。そもそも、なんでお前がここにいるんだよ」


「ここは私の家だから」


どういうわけか、「家」という単語を口にするのと同時に、ルイーザは私の両肩をパンと叩いた。まるで、自分が裁判官で、これから判決を下すのだと言わんばかりに。……ただ、私はいつから彼女の「机」になったのだろう。


「だったら、自分の部屋に引っ込んでろよ」


「あんたみたいな奴は一つの場所に縛られてるんでしょうけど、私の家は常に動き回ってるの。……大体はね」


は? 一体どこにキャンピングカーなんて持っているの? そんなに真面目な顔をして、彼に嘘八百を並べ立てるのはやめてほしい。もし彼が本気で信じてしまったらどうするのだ。


けれど、私にはそのツッコミを口に出すだけの度胸がなくて、代わりに窓の外へと視線を逃がした。


気になるのは、学校でも彼らはこんな風に会話しているのだろうか、ということだ。もしそうなら、それは彼らが「友達」だということを意味しているのだろうか。それとも……これが世間で言うところの「恋の火花が散る」というやつなのだろうか。隠しても仕方のないことだけれど――私は、この想像があまり好きではなかった。かといって、そこに首を突っ込む具体的な理由なんて何一つないのだけれど。


「おい、あんた。しっかりしろよ」


気がつくと、私は自分が何か後ろめたいことでもしていたかのように、きょろきょろと不自然にあたりを見回していた。彼が、小さな箱を私の顔のすぐ目の前に突き出していたからだ。


「これ、何?」


「見れば分かるだろ。チョコレートだ。それも、ものすごく高級な店のやつ」


本当に? なんだか、これとまったく同じ箱を、前にお父さんと一緒に食べた記憶があるのだけれど。ということは、実はそんなに高級品でもないのだろうか。


何はともあれ、私はベンから差し出された箱を受け取り、それを自分の膝の上に置いた。


「そんなの食べちゃダメ。絶対に毒が盛られてるから」


「はぁ!? お前何言ってんだよ! 俺がそんな卑劣な真似するわけないだろ!」


「わざわざ盛る必要もないか。あんた自身がもう、底辺に落ちてるんだしね」


ふーん。毒、ねぇ。

ルイーザのはただの大袈裟な言い回しだと信じたかった。その大きな理由は、私の手がすでに、箱を留めていたリボンを引っ張って解いてしまっていたからだ。


危険が潜んでいるかもしれないという警告などどこ吹く風で、私は箱を開け、中からチョコレートを一つつまむと、そのまま口の中へと放り込んだ。すぐさま、乾燥したお菓子が口の中でパキパキと小気味よく砕ける、心地よい音が響く。


結局のところ、もし本当に毒が入っていたとしても、自分で確かめてみるのが一番手っ取り早いのだ。……いや、誰を誤魔化そうとしているのか。私はただ、チョコレートが食べたかっただけだ。


と同時に、ルイーザの放った言葉が、私の頭の中である一つの思考を呼び起こしていた。


「ねえ、ベン。あの女の子のことなんだけど……。どうして彼女が必要だったの?」


私は名残惜なごりおしそうにチョコレートの箱を閉じ、それを脇に置いた。真後ろのルイーザは小さくため息をついたけれど、何も言わなかった。


「あ? 誰のこと……って、あー、あいつか」


彼はソファに両手を突いて、少しだけ上体を浮かせた。その拍子に彼の髪がふわりと揺れ、私はようやく、彼の中に母親との決定的な共通点を見出した。二人の髪は、まったく同じ神秘的なブルーの陰影を帯びていたのだ。


人間の髪の毛が、ここまで完璧に一致することなんてあるのだろうか。もしかして、何か特別な高級シャンプーでも使っているのだろうか。


「貧乏人に、授業をサボる権利なんてないからな」


私には世界の仕組みなんてよく分からないけれど、これだけは確信を持っていえた。きらきらと輝く瞳で遠くを見つめながら口にするにしては、あまりにもお門違いな台詞せりふだ、と。要するに、脈絡がさっぱり見えなかった。


「……は?」


「あんな奴が、名門校に入学できただけでもありがたいと思うべきだろ。何が理解できないんだ?」


「お、おお……」


やっぱり何一つ分からなかった。まあ、どっちでもいいや。


「ところで。……ベンって誰のことだよ?」


一通りの大演説を終えた後、少年はきまり悪そうに振り返ってそう言った。

自分の名前にちゃんと返事をしておきながら、直後にそれを聞き返すなんて、一体どれだけ注意散漫なのだろう。それとも、彼なりのジョークのつもりなのだろうか。


「あんたの名前、そうじゃないの?」


「は? 俺の名前は本当は――」


「合ってるわよ、その通りの名前よ。ベン。うん、間違いなくベンね」


ルイーザが肯定するように何度も首を縦に振った。実際に見えたわけではないけれど、彼女の顎が私の髪に何度もちょこちょこと触れたので分かった。


「黙れ! ル……ル……ルーっ!」


「ほーほっほ、言いたいことはそれだけかしら?」


私は二人の会話から完全に締め出されていたけれど、不思議と疎外感を覚えることはなかった。この二人が物理的に私の両脇をがっちりと固めてくれているおかげで、私がこのグループの一員であり続けるために必要なのは、ただ二人の間の空間を占有していることだけだったからだ。もしかしたら、世間でいう「コミュニケーション」なんてやつは、案外そんなに難しいものではないのかもしれない。


「お前、マジでどうしちまったんだよ? 学校じゃ貝みたいに口を閉ざしてるくせに、ここでは一分一秒も黙ってられないのかよ!」


どうやらルイーザは、完全にこの哀れな少年を限界まで怒らせてしまったらしい。彼の額に青筋が浮かび上がってくるのが、目に見えるようだった。……分からない。この二人は、結局のところ友達なのだろうか、そうではないのだろうか。


ん……? ちょっと待って。

学校で無口なのは誰だって? ルイーザ? 彼は本当に、彼女を誰か別の人間と勘違いしているのではないだろうか。この少年が口にしたすべての言葉の中で、その一言だけが、間違いなく私の心に最も深い衝撃を与えた。彼の話す内容は、まるで別の世界の出来事のようだった。


私はルイーザの顔を見ようと後ろを振り返ったけれど、彼女はただ「何のことかしら」とトボけた表情を作るだけだった。小首を傾げ、眉を寄せ、パチパチと睫毛まつげを揺らすその仕草は、まるで彼と今日初めて会ったと言わんばかりだ。私と彼女の間にこれほどの年齢差(精神的なものも含めて)があるとは到底信じられなかったけれど、彼女のこういう一挙手一投足は、見ていて一向に飽きなかった。彼女はまるで眠っている子猫のようで、自分でも気づかないうちに、たったの一分間で何枚もの愛らしいスナップ写真のアルバムを作り出してしまうのだ。


けれど、残念ながら、その時の私が抱いた感情はそれだけではなかった。二人が何について話しているのかはさっぱり分からなかったけれど、ルイーザがどれほど無関心を装おうとも、二人の間には確かに「共通の波長」が存在しているように見えた。その事実は、私の胸の中に奇妙な感情を呼び起こした。どれほど言葉を尽くそうとしても、決して上手く表現できない、そんな類の感情だ。


普段の私は、一つのことに執着して考え続けるのが苦手な性質たちなのに、今この瞬間は、そのことばかりが頭を支配していた。その感情は喉の奥までせり上がってきて、舌の上に苦い後味となって広がっていくようだった。


ルイーザからこれ以上の回答を引き出すのは無理だと悟り、私は再びベンの方を向いた。私からすれば、これは一種の裏切りのような行為に思えた。たった二回しか会ったことのない少年の言葉に耳を傾け、ルイーザの味方をするのを放棄してしまったのだから。分かっていた。そんなことは分かっていたけれど、どうしても自分を止められなかった。


私は自分の動揺を――少なくとも表面上は――隠そうと努めたけれど、ベンはそれに気づいたようだった。彼の顔に、じわじわと間抜けな笑みが広がっていく。それは彼の母親が見せる、一ミリの狂いもない計算され尽くした微笑とはまるで違うものだった。その点において、彼は母親とは似ても似つかなかったけれど、だからこそ、少しだけ分かりやすい存在でもあった。


「……エリラ・クレアモントが席を外すなら、教えてやってもいいぞ」


彼は風に吹かれる様子でも真似るように、大袈裟な動作で手で髪をかき上げた。

ベンの口から飛び出したその言葉は、私をさらに困惑させるだけだった。自分の想像力を誰かのそれと比較したくはなかったけれど、それにしても彼は、ずいぶんと勿体もったいぶった格好いい名前を躊躇ちゅうちょなく捏造ねつぞうするものだ。


「……誰、それ?」


私の問いかけの何がそんなに悪かったのかは分からない。けれど、ベンはまるで世界がひっくり返ったかのような衝撃を受けた表情を浮かべた。さっきまでの勝ち誇ったようなニヤニヤ笑いは一瞬で吹き飛び、まるで、口いっぱいにレモンでも噛み潰したかのような苦々しい顔に変わってしまった。


「はあ? あんた本気で言ってんのか? 友達のフルネームすら知らないなんて……。お前ら、本当に友達なのかよ?」


「くだらない難癖なんくせはやめなさい。じゃああんたにとってイオリは何なのよ、ベ――ン? あんたの名前の一部すら、ろくに覚えられないっていうのに」


飛び交う名前や肩書き、あるいは身分といったものが、私の頭を完全に混乱させていた。私が盤上の石を目的もなくただ動かしている間に、この二人はまるで本物のチェスの死闘を繰り広げているかのようだった。


エリラ・クレアモント、か……。

どれだけ否定しようとしても、ベンの言葉には一理あった。私はまたしても、自分が一番身近に感じているはずの人間について、基礎的な情報すら何一つ持ち合わせていないという現実に直面していた。


あの時、学校の前にいた女の子の問いかけに、私たちが「友達」だと答えられなかったのは、私たちの関係がそれ以上の特別なものだったからではなく――単に、そのレベルにすら達していなかったからなのかもしれない。


「黙れ! ル……ルサ!」


今度は何だ? これがまた私の知らない、ルイーザの学校での新しいあだ名とかではないことを祈りたかった。


「ずいぶんと独創的な縮め方ね、ベン。さすが、いつも『二番手』なだけはあるわ」


ルイーザは最後の単語を、明らかに強調して放った。ベンは、まるでうっかり椅子の上の針にでも座ってしまったかのように、びくりと激しく身体を震わせた。それにしても、彼の名前の何がそんなに問題なのか、私にはさっぱり分からなかった。自分の名前が気に入らないのだろうか。


もっとも、この時の私にとって、彼の名前もそのリアクションも、どうでもいいことだった。


声に出したものもそうでないものも含めて、私は自分たちの関係を説明するために、これほど多くの大袈裟な言葉を費やしてきたというのに。それなのに今、その言葉たちをどう扱えばいいのか分からなくなっていた。私はまるで、真実へあと一歩のところまで迫っていると盲信しながら、全く的外れな手がかりを追いかけていた、新米の無能な探偵のようだった。


私にできるのは、自分の落ち度を認めて、もう一度最初からやり直すことだけだ。けれど、これからは彼女を何て呼べばいいのだろう。フルネームで呼ぶべきなのだろうか。おそらく、それが正しいのだろう。


「……エリラ……クレアモント」


「ん? そんな奴の言うことを気にしちゃダメよ。親しい間柄で、苗字みょうじで呼び合う人なんていないんだから」


「だけど、知っておく義務はあるだろ!」


ベンが即座に割り込み、自分の主張を曲げずに食い下がった。


ある意味では、二人とも正しかった。「使わないこと」と「知らないこと」は、決して同じではないのだから。


「どうして? イオリだって自分の苗字を知らないわよ」


ルイーザは、ベンの主張が心の底から理解できないという風に首を傾げた。私は彼女のその言葉に、同意せざるを得なかった。だって、よく考えてみれば……。


……いや、待って。


「……私にも、苗字ってあるの?」


「ほら見なさい。イオリは、ただのイオリよ。あんたが物事を難しくしすぎなの」


ルイーザのロジックに身を委ねてしまった方がずっと楽だったけれど、それでも自分が「不確かな存在」であるという感覚を拭い去ることはできなかった迷子。私はまるで、警察官に「お母さんの名前は?」と聞かれて、「お母さん」としか答えられない迷子の子どものようだった。唯一、自分を正当化できる理由があるとすれば――私はルイーザのことなら、その匂いで、温もりで、触れ合った感触で、そして彼女の頭から落ちた、たった一本の髪の毛からだって、間違いなく見つけ出せるということだけだ。


けれど、それだけで十分なのだろうか。それが本当に、私の無知の言い訳になるのだろうか。私には答えが出せなかった。


「……お前ら、二人ともおかしいよ」


「だから言ったでしょう、あんたの来る場所じゃないって」


ルイーザは勝利を確信したようにそう告げると、自分の言葉を証明するかのように、私の頭のてっぺんに自分の顎をちょこんと乗せた。もしお互いの親たちが、子どもたちの他愛のない顔合わせが、こんな戦場のような惨状に化けていると知ったら、一体なんて言うだろう。


どうやら、目の前の話し相手――というか、ルイーザという名の天敵をさとすのは不可能だと悟ったのか、少年はついに白旗を上げた。彼の顔には、完全な絶望の色がにじみ出ていた。


結局のところ、彼はただ、あの日起こったことの謝罪をしにここへ来ただけなのだ。それ以上でも、それ以下でもなく。


ベンの視線が今、私に集中しているのが分かった。まるで、私たちのうち少なくともどちらか一人だけでも自分の陣営に引き込もうと、最後の望みを懸けているかのように。客観的に見れば、この状況はたった一人の有権者を巡って争われる政治選挙のようでもあった。けれど私は、「私には一切関係のないことです」と無言で主張するために、これ以上ないほど不機嫌な顔を作ってみせた。言うまでもなく、私の清き一票がどちらに投じられるかなんて、最初から決まりきっているではないか。


白状すると、ベンの言葉が完全に右から左へ聞き流せるものではなかったのは確かだ。けれど、それを彼の前で直接顔に出して、ルイーザの自信を揺るがすような真似をするつもりは毛頭なかった。一度、彼の前で醜態しゅうたいを晒しただけで十分すぎるほどだった。


しかし、まだ一つだけ未解決の問題が残っていた。そして、いくら今がその話をするのに最も不適切なタイミングだったとしても、この少年と次にいつ二人きりで話せる機会が訪れるか分かったものではない。


私の犯したミスのドミノ倒しは、私自身が最初の駒を突き動かしたあの瞬間から始まっていた。おそらく、すでに始まってしまった崩壊を止めることはできないのだろうけれど、それなら全く別の場所に、新しいドミノを並べ直すことはできるはずだ。崩れてしまった過去とは、切り離された場所へ。


「……あんたのことをバカって言って、悪かったわね。ごめんなさい」


ベンは胸の前で腕を組み、口元をへの字に曲げたまま、私をじっと見つめてきた。


「ふんっ」


一瞬の後、彼はこれっぽっちも気にしていないという態度を全身で表現しようと試みた。けれど、私をまるで「泥のついたキャベツの塊」でも見るかのような目で一瞥いちべつし、ふいっと不機嫌そうに視線を逸らしたその行動自体が、何よりも雄弁に物語っていた――めちゃくちゃ気にしている、と。


「今さら関心のないフリをしても手遅れだよ」と言ってやりたい気もしたけれど、私はそれを胸の内にしまい込み、代わりに本題を終わらせることにした。


「それから、もう一つ。あんたが謝らなきゃいけない相手は、私じゃなくてあの女の子のほうよ。あんたの態度は乱暴すぎたわ」


「「はあ!?」」


ルイーザとベンの意見が完全に一致したのは、おそらくこれが生まれて初めてのことだったに違いない。二人の声があまりにも綺麗なシンクロを遂げて大音量で響き渡ったため、私はその音響兵器から逃れるためにどちらに頭を傾ければいいのか分からなくなった。


一体、何がそんなに意外だったのだろう。


「なんで俺があいつに謝らなきゃいけないんだよ!? 俺の言ったことは正論だろ!」


ベンの言い分は(百歩譲って)理解できなくもないとして、ルイーザは一体何が気に入らないのだろう。私は彼女の顔を覗き込もうと、ぐいと頭を後ろに反らした。すると彼女の方も、私を見つめるために上から顔を覗き込んできた。


彼女は声だけでなく、表情全体で不満をあらわにしていた。そのせいが、私はまたしても自分が何か致命的な選択ミスを犯してしまったような錯覚にとらわれた。けれど、一度始めてしまった以上、ここで引き下がるのはスマートではない。


私は姿勢を正し、再びベンの方を向いた。


「どんなに正しい意図があったとしても、力ずくで押し通そうとすれば、そこには『摩擦』しか生まれないわ」


「あ? 何だって?」


……私の説明の、一体どこに理解しにくい要素があったのだろう。


けれど、ベンの限界まで見開かれた瞳を見て、私はアプローチを変えることにした。


「……はぁ。とにかく、謝りなさいってこと。強制されて、あんたに優しくしてくれる人なんて誰もいないんだから」


「あら、それは素晴らしい名案ね。月曜日に、あなたたち二人であの子のところへ行って来たらどうかしら?」


私がそれ以上の言葉を紡ぐより早く、私たちの会話に容赦なく割り込んできた者がいた。もちろん、その声の主が誰であるかは、すぐに察しがついた。この女性という存在は、たった一度姿を現すだけで、他人の記憶に決して消えない強烈な足跡を残していく。


彼女は一体、どこから私たちの話を聞いていたのだろう。キッチンのドア枠に寄りかかりながら、クスクスと脇腹を揺らしている様子を見るに――最初から全部聞いていたらしい。


「ああ、失礼。……あなたたち、三人でね」


ロアナ様の顔に、またしてもあの微笑みが浮かび上がった。私がどれほど望もうとも、その真意を最後まで読み解くことのできない、底知れない笑顔が。


彼女がなぜ、先ほどの提案をわざわざ「三人」へと修正したのか、その理由を推測する必要はなかった。ロアナ様が近くに現れると、ルイーザの両腕はまるで独自の生命を得たかのように動き出すのだ。率直にいって、今の彼女たちの密着具合は、私に少なからぬ居心地の悪さを提供していた。彼女の腕は、私の首だけでなく、私の身体全体を完全に包み込もうとしているかのようだったからだ。


「母上!」


「『母上』じゃありません。お父様から教わったマナーを忘れてしまったの?」


哀れなベン。母親の存在を前にすると、彼のなけなしの戦意はまるで煙のように霧散してしまうらしかった。彼はロアナ様をおびえた目で見つめながら、今にもソファの隅で丸くなってしまいそうなほど縮こまっていた。そんな息子を前に、彼女はただ楽しそうに微笑んでいる。


「……忘れていません」


「よろしい」


「四人、だ。イオリにとって、その手のお出かけは『モシオン(気晴らしの散歩)』とは呼べないからな」


モシ……何だって? お父さんという人は、本当に私を退屈させない。ロアナ様の後ろから平然とキッチンを出てきたかと思えば、何やら恐ろしく……「大人びた」単語を口にしてみせた。たぶん、そういう意味の言葉なのだろう。


この騒ぎの最中に、お父さんがいつの間にか私たちの側を通り抜けて抜け道を確保していたことには、それほど驚かなかった。それよりも私が警戒したのは、彼がこの会話にそれ以上介入しようとしなかったことだ。まさか彼が、生まれて初めて「大人の配慮」というやつを発揮したのだろうか。


「護衛なら騎士団の者に任せてもよかったのだけれど、あなたがそこまで主張するなら」


ロアナ様は恩着せがましく片手を振ってみせた。


「どちらにせよ、馬車を使ったほうが移動は早いですからね」


「……大袈裟すぎる」


お父さんは、考えるまでもないという風に即座に返した。


「まあ、あなたらしいわね」


はたから見れば、この二人はひどく仲が悪いように映るかもしれないけれど、彼らのやり取りを見ていると、私はその結論にどうしても疑問を抱いてしまうのだった。二人の雰囲気はどちらかといえば、お互いに対して「そのドレス、あなたにはちっとも似合っていないわよ」と言い合うことを義務だと思っている、一対の偏屈な老年の親友同士のようだった。そしてそれは、私のお父さんのキャラクターとしては、実にもっともな振る舞いでもあった。


「……なんで俺が、あんな……」


ベンの口から漏れ出た最後のささやきは、お父さんの豪快な笑い声にかき消されて、最後まで聞き取ることはできなかった。けれど、私の直感が告げていた。彼の不満の原因は、決して一つや二つではないのだろう、と。


それにしても、これから始まるというその大遠征についてだけれど……。実にもったいないことをした。私の人生において、本物の馬車に乗れるチャンスなんて、もう二度と巡ってこないかもしれないというのに。


まあ、何はともあれ――そういうことになったらしい。

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