第2巻 第9章:雪に埋もれたアルバム(後編)
時間が流れるにつれて、日が暮れるのがほんの少しだけ遅くなり始めていた。本当にわずかな変化だったから、時々、それは自分が勝手に作り出した妄想(気のせい)なのではないかとすら思えた。
雪の降る日々が終わる気配はなかったけれど、ごく稀に、白い綿雪が激しい豪雨へと変わることがあった。
それは十分に奇妙な現象だった。冬の最中に雨が降るなんて、今までの人生で一度も見たことがない。それに、ひどく危険なことでもあった。
父の体内から放たれる熱は、雪くらいなら容易に溶かすことができたけれど、どうやら氷が相手では分が悪かったらしい。彼は玄関のポーチのところで、見事に転倒した。まるで見事なオーバーヘッドキックでも決めて、ゴールにシュートを叩き込もうとでもするかのような、あまりにも劇的な転び方だった。
私は一瞬、本気で心配した。けれど彼は、まるで何事も起きなかったかのように素早く立ち上がり……そして、もう一度滑って転んだ。今度は、さっきほど派手ではなかったけれど。
何が原因なのかは分からなかった。単にこれからのパフォーマンス(舞台)のために体力を温存しようとしていたのか、あるいは本当に体調が優れなかったのか、父は珍しくマントまで羽織っていた。彼らしくもないことだった。
結局、彼はカニの動きを真似るようにして、横歩きで移動することを余儀なくされていた。それはひどく無様で、おかしな見世物だった。それなのに、私にはどうしても笑えなかった。
自分でも、なぜかは分からない。
何かが変わりつつあった。それが自分の内側のことなのか、それとも外側の世界のことなのか、判別するのは難しい。おそらく、その両方だろう。
ルイーザからあの上着をプレゼントされたあの日以来、私はそれを一度も身に付けていなかった。全く着たくなかったわけでも、周囲からの嘲笑を恐れたからでもない。ただ単に、ルイーザがそれを取り戻し、自分で着るようになってしまったからだ。
いつものことながら、彼女の思考のプロセスを理解するのは困難だった。よくもまあ、私の口の中からあのチョコレートを引っ張り出そうとしなかったものだと感心する。おそらく、それが塩辛いということを知っていたのだろうけれど。
怪しいほどに、その選別は意図的だった。
けれど、今はそんなことを考えている場合ではなかった。
ルイーザが――病気に罹ったのだ。
部屋の中は普段からそれほど空気が潤沢なわけではなかったけれど、今は特に、息が詰まるほどにドロリと淀んでいた。ルイーザからはいつも通りの匂いがしているような気がしたけれど、あまりにも近づきすぎると、鼻の奥がむず痒くなった。今にもくしゃみが出そうな感覚。
実際のところ、私の記憶にある限り、自分の身近な人間が病気で倒れるというのはこれが初めてのことだった。私は、自分が一体何をすべきなのか、正確には理解できていなかった。
ルイーザのこんな姿を見るのは、初めてだった。何と言えばいいのか、適切な言葉が見つからない。おそらく――無防備、というのだろう。
彼女の両手は、痙攣を伴うようにして毛布の端を固く握りしめていた――それを上に引っ張り上げたり、あるいは下に押し下げたり。まるで、自分が今寒いのか暑いのかすら判断できなくなっているかのようだった。彼女の顔がこれほど長い間真っ赤に染まっているのを、私は見たことがなかった。まるで、絵の具でもぶち撒けられたかのように。
そして、その呼吸――重く、そして熱い。まるで彼女が、休むことなく部屋の中を何周も何周も走り回らされているかのように。
もっとも、そう。それ自体は、珍しいことでもないのだけれど。
「……あの人は、治るの?」
どうして自分が、治らないのではないかなどと考えたのかは分からない。けれど、胸の奥の深いところで、確かな焦燥(焦り)が脈打っていた。なぜだろう。もし三年の間で一度も病人を見たことがなければ、人間は『病気なんてこの世に存在しない』と簡単に思い込んでしまうものなのだ。
残念ながら、その仮説は間違っていたらしい。
「当然だ。ただの風邪だよ」
彼の声には微塵の疑念も混ざっていなかった――そしてその事実は、私を少しだけ安堵させた。
エウリエルは、ルイーザの首元にかかっていた毛布を腹のあたりまで引き下げると、彼女の胸の上にそっと手のひらを当てた。
べっとりと汗にまみれた彼女の肌が、鈍く光を反射していた。その胸は、肺の許容量を超える空気を無理やり吸い込もうとするかのように、ひどく短いスパンで上下を繰り返している。
その少し上方で、光が私の視線を引きつけた。エウリエルの手のひらが、微かに輝き始めていたのだ。眩い光の粒子が空気中から集まり、まるで光の手袋のような形を形成していく。
光の輝きが増していくにつれて、私は本能的に目を細めた。それはまるで、真っ暗な部屋の中で誰かが突然、照明のスイッチを入れたかのような感覚だった。その直後、ルイーザの体内から激しい咳が弾け飛んだ――長く、そして大きな音を立てて。まるでその魔法が、彼女を癒やしているのではなく、体内の澱みをすべて外へと引きずり出そうとしているかのように。
彼女の身体がガタガタと震えていた。両手は、身近にあるあらゆるものに縋り付こうと彷徨っている。彼女の指先が、私のパジャマの生地を強く掴んだ――彼女が私を自分のほうへと引き寄せた瞬間、私は危うくバランスを崩しそうになった。
もし大急ぎでベッドの端に手を突いて堪えていなかったなら、私はおそらく、彼女のお腹の上にそのまま圧し掛かるようにして倒れ込んでいただろう。それが彼女の回復(治療)にとってプラスに働いたとは、到底思えなかったけれど。
激しい咳き込みがようやく収まり、拘束する力が緩むと、ルイーザは大きな息を吐き出した。
エウリエルの手のひらが、彼女の額に向けてゆっくりと上へと滑っていくにつれて、ルイーザの身体からは徐々に緊張が抜けていった。呼吸もまた、正常なリズムを取り戻しつつある。けれど、肌の赤みは相変わらずそのままであった。
彼が手を離すと、その光は消えかけのホタルのように、ゆっくりと光量を落として消滅した。私は彼を見つめ、声に出すことなく『彼女は大丈夫なの?』と問いかけた。彼はただ、短く一度だけ頷いてみせた。
私は安堵のため息を漏らし、ルイーザの額にかかった髪を退けるために手を伸ばした。指先がヘアピンに触れ、それが光の中で鈍くきらめいた。
邪魔にならないようにそれを外してあげようとしたけれど、ルイーザは何かを拒絶するように小さく 唸り、頭を振った。そのせいで、私の手のひらは自然と彼女の額の上へと落ち着くことになった。
……熱い。
手の甲を通じて伝わってくるその猛烈な熱気は、決して、良い兆候を告げるものではなかった。
「……まだ、すごく熱いよ」
エウリエルは鼻の奥で、何か奇妙な音を鳴らした。それが一体何を意味しているのか、私にはまるで見当がつかなかった。
けれど同時に、彼の様子は十分に落ち着いているようにも見えた。それはつまり――心配する必要などどこにもない、ということなのだろう。たぶん。少なくとも、私はそう思いたかった。
「当然だ。今の彼女に必要なのは休息だからね」彼は頷いた。
「……魔法で治したんじゃないの?」
エウリエルはふっと息を漏らし、首を横に傾げながら顎を擦った。彼に髭が生えているのを見るのは珍しかったけれど、不思議なことに、それが無い姿というのも今となっては少し違和感があった。
「魔法を使えば、彼女がすぐに跳ね起きて元気に走り回るとでも思っていたのかい?」
実際のところ、私は大体そんな風に考えていた。魔法というものは、そういう風に作用するものではなかったのだろうか。
「……違うの?」
私のリアクションを見るに、彼は別の答えを期待していたようだった。
彼はしばらくの間、私と部屋の中を交互に見回しながら、言葉を選んでいるようだった。やがて、何か納得のいく思考に突き当たったのか、再び小さく頷いた。
「紙で指を切ったとき、最初は痛みすら感じないだろう? でも、後から脳が『これは危険だ』と判断して、指がドクドクと脈打ち始める」彼は人差し指を突き出し、まるで目の前で実演して見せるかのように動かした。「身体は、その傷口を塞ぐために必死にエネルギーを割かなければならなくなるんだ」
私は彼の顔と、その指先を交互に見つめながら、何度か瞬きを繰り返した。私の手は、相変わらずルイーザの額の上に置かれたままだった。そこから伝わってくる猛烈な熱気のせいで、思考を集中させることができない。おそらくそのせいで、私は彼が何を言わんとしているのか、すぐには理解できなかったのだ。
「……うん」
「理解できてないね?」彼はため息をつき、頭の後ろを掻いた。「魔法は傷口を塞ぐ。けれど、痛みの記憶は身体に残るんだよ」
彼はルイーザを指差し、言葉を続けた。
「これもそれと全く同じさ。ルイーザの病気はもう治っている。でも、身体は戦い終えてクタクタに疲れているんだ」
魔法が万能ではないと聞かされたのは、少し意外だった。けれど冷静に考えてみれば、それが万能であると信じ込むような現実的な根拠もどこにもなかった。
この世界の大人たちは、どうやら病気くらいなら無理をしてでも自分の足で立ち上がって乗り越えてしまうらしい。だからこそ、私は今まで気が付かなかったのだ。けれど、ルイーザはまだただの子供だった。どれほど大人びて振る舞おうと試みていたとしても。
私は、ルイーザという存在をどこか『無敵の強者』のように思い込みすぎていたのかもしれない。あの台風のような自然災害が、ただの風邪ごときにこれほど無様に chair(倒)されるなんて、全くの想定外だった。
いずれにせよ、ルイーザはもう健康なのだ。それこそが何よりも重要なことだった。彼女が少しの間だけでも静かになってくれるのは、私にとっても決して悪い話ではない。
「さて、次はお前を診てみようか」エウリエルが私の額に向けて手を伸ばしながら言った。
「どうして? 私はいつも通り元気だよ」
私は本能的に後ろへと身を引いた。彼の手のひらから放たれる光が、たとえ瞼を固く閉じていたとしても目を眩ませるほどに強烈であることを、私はよく知っていたからだ。
「お前はずっと、その病人のすぐそばにいたんだろう?」
私がそれを拒絶するよりも早く、彼は私の腹のあたりをがっしりと抱え込み、まるで愛想の悪いペットでも扱うかのように自分の方へと引き寄せた。その瞬間、ルイーザが小さく 呻き、私の手から彼女の額が離れたかと思うと、今度は私の手首を強く掴み込んできた。
私は彼女のその突発的な行動に、純粋に驚かされた。エウリエルの方へ視線を走らせると、驚いているのは私だけではないことが分かった。
彼女の手は、今も変わらず熱かった。けれど、その手のひらから伝わってくる温もりが、私の心をどこか落ち着かせてくれていることは否定できなかった。もちろん、私が緊張していたわけでは決してないけれど。
「どうやらお前が、一番の特効薬のようだね」彼は声を立てて笑った。その振動のせいで、彼の腕の中にいる私の身体までガタガタと揺れた。
「……私は錠剤じゃないよ。知ってるでしょ」
「ジョウザイ……って何だい?」彼は私を見つめたまま、一瞬だけフリーズした。私はただ、肩をすくめて見せた。「まあいい、ルイーザを待たせるわけにはいかないからね」
私は大急ぎで両目をきゅっと閉じた。彼も私が光を見るのを嫌がっていることを察したのだろう、私の身体をくるりと回し、自分に背を向けさせた。その瞬間、私は自分がまるで物にでもなったかのような気分だった――彼の気の向くままに、あちこちへと弄り回されている。
けれど、ルイーザが私の手をしっかりと握りしめていてくれたおかげで、エウリエルも私をただの物袋のように乱暴に振り回すことはしなかった。そのことについては、彼女に感謝しないわけにはいかなかった。
光は視界に入ってこなかった。ただ、目に見えない何かが私の後頭部にそっと触れるのを感じた――痛みはなかったけれど、確かな質量を伴って。そのプレッシャー(圧力)は、私の背骨に沿ってゆっくりと下へと滑り落ちていく。まるで、私の身体の耐久性を、注意深く確かめているかのように。
一瞬、耳の奥がひっそりと静まり返った。それから、まるで空気の密度が増したかのような、ごく微かな唸り音が響く。
「ふむ……」彼は声を引いた。「お前は大丈夫だ。そう言えば、お前が病気にかかった姿なんて、一度も見た記憶がないな」
エウリエルは、注射を終えた猫でも床に下ろすかのように、私を地面へと着地させた。ただ、本物の注射とは違って,不快な感覚は一切残っていなかった。全身を包むのは、ただ心地よい軽さだけ。まるで筋肉の隙間から、動きを邪魔していた小石をすべて取り除いてもらったかのような感覚だった。
私は目を開け、息を吐き出した。自分でも気づかないうちに、身体を強張らせていたらしい。
今や、私の手首を掴むルイーザの手のひらからの熱が、さっきよりも鮮明に伝わってきた。どうやら、彼女の容態は本当に深刻なようだった。
「……病気になるのって、すごく面倒くさそうだし」
私自身はそんな経験をしたことがなかったけれど、ルイーザの姿を一目見れば、それがどれほど厄介なことであるかは十分に理解できた。私はもう一度、彼女の額の上に手を戻してやった――すると、彼女の身体からすうっと緊張が抜けていく。私へのホールド(掴む力)も緩んだ。
もしかして、私の手のひらがあまりにも冷たかったせいで、ただ触れているだけでも彼女にとっては気休め(熱を和らげるもの)になっていたのだろうか。
「病気が怠け者を怖がるなんて話は、聞いたことがないがね」
「怖がってなんかいないよ。中に入り込んで、病気の方も一緒に怠け者になっちゃうだけ」
それがひどく不条理な理屈であることは、自分でも百も承知だった。けれど同時に、私にはそれ以外の説明のしようがなかったのだ。『自分はただ頑健(体が強い)なだけだ』と言えれば格好がついたかもしれないけれど、そもそも『頑健』なんて言葉は、私という存在から最も遠いところにあるシロモノだった。
エウリエルは、その答えに妙に納得したかのように、何度か首を縦に振った。
「……お前が記憶を失っているという話を聞いたが」
私は眉をひそめ、彼を見つめた。どうして唐突にそんな話題へとシフトしたのか、私には理解できなかった。
実際のところ、私はそのことすら、もう忘れかけていたのだ。『自分が何かを忘れているという事実』を忘れる。皮肉な話だ。
「お前を診察しているうちに、ふと思い出してね」彼はまるで言い訳でもするかのように付け加えた。
「……それで?」
「……戻したいかい?」
彼が手を持ち上げた瞬間、私は本能的に後ろへとステップを踏んでいた。明確な理由があったわけではない――ただ、足が勝手に動いたのだ。
エウリエルはそれ以上、無理強いはしなかった。彼の手のひらは虚空に浮いたまま静止し、まるで私に選択権を委ねているかのようだった。
記憶を取り戻すというのは、極めて合理的な決断であるはずだった。そうすれば、あの『オムライス』というものが一体何なのかを知る手がかりが得られたかもしれない。私が思い描いていた『猫』という概念が、どうしてこの現実とこれほど乖離しているのか。どうして両親は、あの一日だけあんなにも奇妙な振る舞いをしたのか。そして……どうして私は、ルイーザのことだけを綺麗さっぱり忘れてしまったのか。
誰も私に答えを与えてはくれなかった。だから結局のところ――もうどうでもよくなっていた。
今、そのチャンスが目の前に転がってきたというのに、私はどういうわけか、すべてを知ることを躊躇っていた。否定するのは愚かだ――私は、怖かった。
「私は……その、えっと……」
どうしても、言葉が繋がらなかった。私の唇から漏れ出た唯一の音は、喉の奥をヒリヒリと焼き尽くしていくかのような、熱い空気の塊だけだった。
私は頭へと手を伸ばした――何だか、そこが猛烈に痒いような気がしたのだ。指先で髪の毛を ざっと 梳きあげてみる。それから微笑みを作ろうと試みたけれど、それが上手くいったという確信は持てなかった。口元の筋肉が不自然に緊張した――それだけが、私に理解できた感覚のすべてだった。
どこかで、大切な思い出(記憶)というものは、私たちのアイデンティティ(存在の基盤)を形作る基礎(土台)なのだと聞いたことがある。出来事は、必然的に変化をもたらす。私は変わってしまったのだろうか? 判断するのは難しい。
それでも、私が覚えていないその何かは、ベッドの下の空間のようなものかもしれない。どれほど明かりで照らそうとも、そこには常に、光の届かない暗い隅っこが残されてしまうのだ。
それが私一人だけに影響を与えるものであったなら、話はずっとシンプルだったろうけれど……人間の内面の変容というものは、その人が世界を見つめる眼差しそのものをも、歪めてしまうものだから。
私はため息をついた。それと同時に、自分の唇が微かに震えていることに気が付いた。
「ん……」ルイーザが、私の手のひらに額を擦り付けるようにして、再び 小さく呻いた。
私の中で、ルイーザがヴェスペリアであるということへの疑念は完全に消え去っていた。彼女にとって、周囲の焦燥(不安)なんてものは、自分が甘えて喉を鳴らすための格好の言い訳にすぎないのだ。けれど不思議なことに、その仕草は確かに、私の心を救ってくれていた。
ほんの一瞬前まで私の頭をパンパンに満たしていた思考の濁流が、風船のようにぷつりと弾けて消え去った。あらゆる方向から私を照射していたかのような、あの不快な白い光が、ゆっくりと霧散していく。
まるで彼女に対する感謝を示すかのように、私はその髪を手のひらでそっと撫でた。柔らかく、そして少しだけ湿っている。ウェーブのかかった美しい毛並みが、まるで自らの意志を持つかのように、リアナ(蔓植物)のごとく私の指先に絡みついてきた。
あの台風のような自然災害もまた、大自然の営みの一部(自然現象)なのだ。どうやらルイーザは、破壊の衝動と……そして、この上ない愛おしさ(繊細さ)を同時に内包している、世界で唯一の存在であるらしかった。確信は持てないけれど。
「ううん。私は、今のままでいい」
そしてそれは、紛れもない本心だった。あの瞬間から、あまりにも多くの出来事が積み重なってきたのだから、今更過去へと退行(逆戻り)する理由なんて、どこにも残されていなかった。
私はふと、奇妙な好奇心に駆られた。人間という生き物は、過去を振り返るとき、一体そこに何を見出しているのだろう。
かつての幸福な人生? 汚れを知らない無垢だった頃の自分? それとも、いっそ忘れてしまった方が幸せだったはずのトラウマ(傷跡)?
それらのすべてなら、私にも見えていた。ある意味では、ね。
過去がどうこうという話ではなかった――私自身の意識そのものが、鋭い棘で覆われているのだ。そこへ手を伸ばそうとするたびに、私は自分の、まだ未熟で不完全な人格という名の棘に、いつもチクリと刺される羽目になる。
無理にそれを引き寄せようとすれば――たとえ他人の手助けがあったとしても――私の手のひらはズタズタに引き裂かれてしまうだろう、そんな気がしてならなかった。
自分が忘れてしまった何かが、決して悪いものではなかったと信じたかった。けれど、今の私には、もう一人じゃないという現実がある――それだけで、十分だった。
「時には、知らないままでいることが最善の選択であることもあるからね」彼は頷き、手のひらを下ろした。
椅子から立ち上がりながら、エウリエルは背中を大きく反らせ、背骨をパキパキと鳴らした。その姿は、一日中デスクに張り付いていたオフィスワーカー(事務員)のそれを見ているかのようだった。
……って、え、それだけ? 正気? そんなにあっさりと?
「それに、僕が上手くやれるという保証もどこにもなかったしね」
彼は瞬き一つせずにそう言い放った。まるで、これが何かの実験のほんの一部でしかなかったかのように。もし失敗していたら一体どうなっていたのか、知りたくてたまらなかった。私の記憶は、完全に消滅してしまっていたのだろうか?
言葉の代わりに、私はただ両手を広げてみせた。まるで『はあ?』とでも言いたげに。
すると彼は声を立てて笑い、ポケットからスナック菓子のような小さなパッケージを取り出した。袋を破り、何かを口の中へと放り込む。それが何だったのか、私には見極める隙すら与えられなかった。
「見送りはいいよ。ルイーザを頼んだよ」彼はウインクをして、さらにもう一つのスナックを口に放り込んだ。「まあ、君にできる範囲で、だけどね」
『言われなくたってそうするよ』――そう言ってやりたかったけれど、実際のところ、私は病人の看病に何が必要なのかを最後まで理解していなかった。そしてエウリエルは、何一つ具体的な指示を残すことなく、そのまま風のように去っていった。
そもそも『できる範囲で』って、一体どういう意味なのだろう。変なやつ。私も彼くらい、あんな風にノンシャラン(気楽)に生きられたなら、どんなによかったか。
……いや、待って。やっぱり、どうでもいい。
「……行っちゃった?」
ルイーザが突然声を張り上げたので、私は危うく飛び上がりそうになった。いや、彼女が喋れることは知っていたけれど。もしかして、全部聞こえていたのだろうか?
「……起きてたの?」
「寝てたなんて、誰が言ったのよ?」
彼女は微笑もうと試みたようだったけれど、それがひどく困難な作業であることは見て取れた。
私が彼女の額から手を離した途端、ルイーザはすぐに不満げに頬を膨らませた。どうやら彼女にとって、口角を持ち上げるよりも、頬を膨らませる方がずっと簡単な動作であるらしい。人間の身体のメカニズムというものは、本当に不可解だった。
「……戻して」
それは、ほとんど命令に近い響きを持っていた。私は思わず鼻を鳴らした。
「どうして? もう起きてるじゃない」私は肩をすくめた。
「だから何よ? あなた、私の面倒を見るって約束したじゃない」
「そんな約束、一度もしてないよ」
彼女はさらに何かを言い返そうとしたけれど、言葉の代わりに、ただ大きな息が漏れただけだった。どうやら、本当に消耗しているらしい。
「病人には、もっと優しくすべきよ」
ルイーザはそっぽを向こうとしたけれど、上手くいかなかった。頭を完全に横に向けることすらできないのだ。一体どこまでワガママになれば気が済むのだろう、この男(少女)は。
とは言え、このまま立ち尽くしたまま、彼女の頭に手を置き続けるというのも――私にとっては決して愉快な状況ではなかった。そんな姿勢を長く維持できる自信はなかった。下手をすれば、明日には私とルイーザの立場がそっくり入れ替わってしまっているかもしれない。
私はため息をつき、ベッドの上へと這い上がった。ルイーザは相変わらず膨れている。さっきほど露骨ではなかったけれど、その不機嫌なオーラは確かに伝わってきた。私が隣に横たわると、彼女はまたしても頑なに背を向けようとした。
……本当に、手のかかるやつ。
私は彼女のお腹の上にそっと手を置き、その肩に頭を預けた。彼女の身体から伝わってくる熱が、不思議と心を落ち着かせてくれた。無意識のうちに、私は彼女の温もりの方へと身体を引き寄せ、静かに目を閉じた。
「……今度は、私があなたの上にのっかる番ね」
「……熱い」
「いいの。この方が早く治るから」
後に判明したことだけれど、ルイーザとの静寂の瞬間というものは、決して長くは続かないシロモノだった。たった一晩が経過しただけで、あのいつものルイーザが完全に帰還してしまったのだから。
私は確かに、彼女の上に重なるようにして眠りについたはずだった。それなのに、どうして目が覚めたとき、私は彼女の下敷きになっていたのだろう? 魔法の仕業に違いない、絶対にそうだ。
この図々しい生き物は――この上なく無垢な表情を浮かべながら――まるでワニのように私を見下ろしていた。どうしてワニなのかって? 私の視界には、彼女の目しか映っていなかったからだ。今にもその鋭い歯が、私のお腹にガブリと噛み付いてくるのではないかと、気が気ではなかった。
「……ヨリ」
私の予想通り、彼女のディクショナリー(認識)においては、口の中に寝具(パジャマの生地)を跨いだまま会話を成立させるのは、至ってノーマルなことであるらしかった。それにもかかわらず、私は自分の名前をはっきりと聞き取ることができた。それから――彼女の呼吸も。その熱は、パジャマを透過して私の肌にまで染み込んできた。
「……私だけど」
「……雪」
ルイーザは頑なに頭を持ち上げようとはしなかった。それはつまり――危険地帯からの脱出(安全)はまだ確保されていないということを意味していた。私はこの少女の性質をあまりにもよく知り尽くしていたから、決して警戒を解くわけにはいかなかった。
「……雪が、何?」
察してはいた。けれど、私はあえて尋ねた。
「……遊びに行こう」
どこまで分かりやすいやつなのだろう。あるいは、向こう見ず(無鉄砲)なのか。おそらく、その両方だ。
「あんた、昨日まで風邪で寝込んでたんだよ?」
私は彼女の額に手のひらを当て、まだ熱が残っていないかどうかを確かめるような仕草をした。もちろん、そんなものは綺麗さっぱり消え去っていることは分かっていたけれど。
「だから何よ? 今日はもう、エネルギー全開だし」
ルイーザは唐突に上半身を跳ね上げ、私の身体を跨ぐようにして両膝を突いた。極めてデンジャラス(危険)なフォーメーションだった。
彼女は何の脈絡もなく両腕を曲げ、力こぶを作るように筋肉を誇示してみせた。それが一体何のデモンストレーションなのかは知る由もなかったけれど、そのギチギチとした動きは、まるで油を差すのを忘れ去られたロボットのようだった。
「……どうでもいい。私は疲れてるの」
ルイーザにとって、そのような回答は到底受け入れられるものではなかったらしい。その直後、彼女は突き出していた両手を下ろし、私の両肩をがっしりとホールドした。まるで、私の逃亡を未然に阻止しようとでもするかのように。
私としては、別にどこへ逃げ出そうともしていなかったのだけれど。
「あなたはいつも疲れてるじゃない。でも、それはあなたが『的』になることの妨げにはならないわよ」
「……はあ? あんたね……」押し返してやろうとしたけれど、私は結局、その手を動かすことはしなかった。「……今日の勝負、勝つのは私だからね」
思考が追いつくよりも早く、言葉が口から飛び出していた。自分が、彼女のあまりにも古典的なプロヴォケーション(挑発)にまんまと引っかかってしまったのだと気づいたときには、もう手遅れだった。
「へへへ」
.
台所を出ると、私はすぐに居間のソファへと倒れ込んだ。
正直なところ、私は少しへそを曲げていた。もっとも,、追い出されたのは自業自得だったのだけれど。塩を小さじ一杯分運ぶだけで疲れ果ててしまう今の私にとって、料理というのはそれだけで凄まじい頭痛の種だった。
それにしても、何一つ味見すらさせてもらえないのに、一体どうやって何かを学べというのだろう。
まあ、いいけれど。
私は窓の外へと視線を転じた。向こう側の空は、完全に分厚い雨雲に覆い尽くされて灰色に染まっていた。一体いつの間に、こんな空になっていたのだろう。確か、私が目を覚ましたばかりのときは……。
頭のあたりが妙に熱かった。今が本当に冬なのかと疑いたくなるほどに。それから、耳の奥がどうにもむず痒い。
普段なら枕の代わりに私のお腹を好むルイーザが、今日のところは私という存在を丸ごと私物化(利用)しようと決めたらしかった。おそらく、無意識のうちに。彼女と私との間にある決定的な体格差(身長差)を考慮すれば、どうして彼女が私の身体をベッドよりも快適な場所だと見なしているのか、私にはさっぱり理解できなかった。
彼女の髪の毛が私の口(舌)の中に紛れ込んでくること自体は、決して珍しいことではなかった。けれど今回は、舌の上だけでなく、顔じゅう、おまけに鼻の穴の中にまで毛先が侵入してきていた。さらに彼女の吐息が、まるで私の脳内にダイレクトに酸素を送り込もうとでもするかのように、耳元へと一直線に吹き付けられている。
……重い。
私はため息をついた。それはいつもより、ずっと困難な作業だった。まるで、自分の胸の上に……あ、いや。『まるで』ではなかった。私の胸の上には、紛れもなく物理的な圧力が加わっていた。
その重量に圧迫された私の両手は、まるで骨を抜き取られてしまったかのように、グミのクマ(ジェラチン・ミシカ)の四肢のような感覚になっていた。私はこの感覚があまり好きではなかった。けれど、それに対して抵抗する術も持っていなかった。
もう一度、息を吐き出す。呼吸を繰り返すたびに、枕から微かな塵が舞い上がるのが見えた。昇り始めた太陽の光の中でゆらゆらと踊るその粒子を追いかけるようにして、私の視線は窓へと向かった。ルイーザの髪の毛の隙間から覗く世界は、まるで私のまつ毛にびっしりと苔が生い茂ってしまったかのような錯覚を抱かせた。
私はふっと息を吹き込み、視界を少しでも確保するために、目の前に垂れ下がる彼女の髪を吹き飛ばそうと試みた。
空は赤く染まっていたけれど、私の肌の赤さは、それをも上回っているに違いなかった。
頭を持ち上げるくらいならできたけれど、私の背中は何の力も通じず、完全に無力化されていた。私は一体いつまで、こんな風に横たわり続けなければならないのだろう。そのたびに、私はどうにかして別の答え(結末)を見出そうと必死に思考を巡らせるのだけれど――返ってくる答えはいつだって同じだった。ルイーザが、自らの意志で目を覚ますその瞬間まで。結局のところ、自分がただ非力(弱い)なのか、それとも単に意志薄弱(根性なし)なのか、そんなことはもはやどうでもいい問題だった。
それでも私は果敢に頭を挙げてみたが……結果として、それは大した変化をもたらさなかった。私の顔が、彼女の顔と危うく正面衝突しそうになったという点を除けば。
……近すぎる。
ほんの一瞬前まで私の耳へと注がれていた彼女の吐息が、今度は私の鼻腔をいっぱいに満たしていく。
彼女の表情から、今どんな夢を見ているのかを判別するのは困難だった。おそらく、何も見ていないのだろう。そもそも、他人が夢を見ているかどうかを、一体どうやって証明すればいいというのだ。
私がじっと彼女を見つめ続けていると、ルイーザの口元に、ふっと笑みが浮かび上がった。それは私にとって、小さくない衝撃だった。
「……何してるの?」
彼女は目を閉じたままそう問いかけ、それから大きくあくびをした。それはまるで、私の中から一度すべての空気を吸い尽くした後で、それをそのまま私の顔へと送り返してきているかのようだった。そもそも彼女は、私が自分を見つめていたという事実に、どうやって気が付いたのだろう。
「……いや、その……起き上がろうとしてる、だけ?」
正直なところ、自分自身でも何をしようとしていたのか確信が持てなかった。骨の節々を伸ばしたかっただけだろうか? 理屈としては通っている。
「ふーん、やっぱりね」
その直後、彼女の両腕が私の背中の下へと滑り込み、がっしりとホールド(ロック)された。私はその瞬間、『ベアハッグ(熊の抱擁)』という言葉の真の意味を身を以て理解することになった。首の骨がピキリと鳴り、私の両足は意志に反して宙へと持ち上げられ、そしてただ無様に床へと落下した。
それが状況を劇的に変えてくれたわけではなかったけれど、少なくとも、私の両手両足は自由になった。最低限、ヒトデの真似事くらいはできるスペースが確保されたわけだ。
「……あんた、そろそろ普通の枕を使うって選択肢を覚えたらどうなの?」
「あら。もしかして、妬きもち?」
その言葉と同時に、ルイーザの手が、枕と私の首との間にある僅かな隙間へと滑り込んできた。
……ん?
彼女の言葉の意味を脳内で咀嚼するまでに、少しの時間が必要だった。けれど、その手のひらから伝わってくる温もりが、今ここで何が起きているのかを大急ぎで私に理解させた。
「これで、あなたには『手枕』ができたでしょ。お互い様じゃない」
先ほどの疑問に対して、さらに輪をかけて意味不明な主張が付け加えられた。もしかしたら、彼女は寝言を言っているのだろうか。もしそうなら――これ以上、彼女が普段どんな夢を見ているのか、私は知りたくもなかった。
「……そういう意味で言ったんじゃないんだけど」
ルイーザは頭を持ち上げ、不満げに眉をひそめながら私を凝視した。どうやら、彼女の目を強制的に開けさせることだけには成功したらしい。もっとも、私たちのポジション(体勢)は、何一つとして変わっていないのだけれど。
「つべこべ言わないの」
彼女の頭が私のほうへと下りてき始めたとき、私は本能的に身構えた。これまでのルイーザのあらゆる奇行を考慮すれば――彼女ならどんな突拍子もない行動に出てもおかしくはないのだ。まさか、変なことをしようとしてるわけじゃないよね?
私は生唾を飲み込んだ。
躊躇うことなく、彼女の頭は私の顔のすぐ横を通り過ぎていった。そして、彼女の顎が私の肩の上にずっしりと乗っかるのを感じた。どうやら私は、相変わらず頭の中でくだらない妄想(考えすぎ)を膨らませていただけだったらしい。
彼女の静かな呼吸音が耳元に届いた。まるで、また眠りに落ちてしまったかのように。その穏やかな吐息の合間に、何か小さな呟が彼女の唇から漏れ出て、私の鼓膜を震わせた。気のせいかもしれないけれど、それは確かに『ただの夢』と聞こえたような気がした。
それが一体何を意味しているのかは分からなかったけれど、私はあえて深く追求しようとはしなかった。だから、何も聞こえなかった振りをすることにした。
私たちの間に、しばらくの間沈黙が流れた。私は本当に、彼女が二度寝してしまったのだと信じ始めていた。けれど実際のところ、今の状況はそれほど悪くはなかった。まるで、窮屈だった溝の幅が少しだけ広がったかのように、今では自分の手足を動かすスペースができていたからだ。少なくとも、その一部くらいは。
彼女の頭の重量と、私の肩の痺れが混ざり合い、何とも奇妙な感覚を作り出していた。まるで、私の肌がルイーザの顔をゆっくりと吸収していっているかのような。
「ぶー……」ルイーザは小さく 呻き、私の身体にその振動を伝えてきた。「……これ、なんか落ち着かない」
彼女はすぐさま私の首の下から手を引き抜くと、むくりと身体を起こし始めた。この状況において、よりによってルイーザの側が不満の声を漏らすというのは、実におかしな話だった。
ルイーザがそのまま私の身体から退いてくれるなどと期待するのは、愚かなことだった。彼女は私の困惑などこれっぽっちも気に留める様子もなく、ただ私の身体の上に馬乗りになり、猫のようにぐうっと背中を伸ばした。もしかして彼女にとって、私はただの折りたたみ椅子か何かなのだろうか。
彼女がどこまで図々しくなれるのかという疑問は、もはや霧散していた。疑う余地もなかった――『図々しい(ずうずうしい)』という概念そのものが、そもそもルイーザという存在を形容するためだけに作り出された言葉なのだ。
それでも、どれほどベッドの中に留まっていたいと願おうとも、私は起き上がらなければならなかった。そのためには、ルイーザに私の上から下りてもらわなければならない。けれど、彼女が両手をまるで肉球のように丸めて眠たそうに目を擦っている様子を見るに、彼女に退く意思は微塵もなさそうだった。
私は自分の意志を伝えるために、身体を少しだけもぞもぞと動かしてみた。するとルイーザは、背中を丸めるようにして、私のお腹の上に両手をぽん、と置いてきた。その拍子に、彼女の頬が微かに赤らんだような気がした。彼女の肌の色合いのせいで、その顔の上の小さな変化を捉えるのは、どうしてこうも簡単なのだろう。
それからもう一つ、彼女が私の上に横たわっていたときは、その重量がそれなりに分散されていたのだということに気が付いた。もちろん、その状態でも十分に重かったけれど。けれど、彼女がそこに ちょこん と座り込んだ瞬間、私は理解した――ルイーザは、太ったのだ。
どうやら、お父さんと内緒で繰り返していたつまみ食いのツケが、ここに来て回ってきたらしい。さらに理不尽なことに、その弊害は彼女自身よりも、むしろ私の身体のほうにダイレクトに突き刺さっていた。
「……ねえ、あんた、もう少し食べる量を減らした方がいいんじゃない?」
私はできる限り、それとなく察してもらえるように遠回しなニュアンスで諭してみた。もしこれをストレートに突きつけていたなら、私には神に祈りを捧げる時間すら残されていなかった可能性が高い。
ルイーザは心底不可解そうな顔で私を見つめてきた。その無垢な長いまつ毛がぱちぱちと瞬く様子は、まるで言葉の代わりに『どうして?』と無言で問いかけているかのようだった。対抗して、私は彼女のお腹のあたりへと視線を落としてみせた。
実のところ、彼女のお腹の肉なんて私にとっては一番どうでもいい問題だったのだけれど。けれど、まさかあんたの『ここ』が大きくなったからだ、なんて口が裂けても言えるわけがなかった……くしゅん。
私の視線の先を追いかけるようにして、ルイーザも自分の足元へと目を落とした。彼女の手が脇腹のあたりへと当てられ、その指先がぎゅっと握りしめられた。一瞬、彼女はこれから全力を挙げた自己弁護でも開始するのではないかという面持ちを見せた。けれど結局のところ、彼女はただ鼻を鳴らし、その両手を再び私のお腹の上へと配置し直した。
記憶の限りでは、彼女は私の上に寝そべっているとき、何度も私のことを『柔らかい』と評していたはずだ。今の仕草は、彼女なりの『あんたこそね』という無言のカウンター(お返し)なのだろうか。
私という存在をただの踏み台(支柱)として利用しながら,彼女は素早くその身を持ち上げた。私の両足が、堰を切ったように血液が巡り始めるのを感じてドクドクと脈打ち始める。そのピリピリとした痺れは、決して不快極まりないものではなかったけれど。けれどそれは、間もなく私が再び自由に行動できるようになるという兆候でもあった。
しかし、ルイーザの方には全く別の意見があったらしい。彼女は極めて冷静沈着な、すました表情のまま、再び私の上へとどっかと腰を下ろした。それはまるで、私が飛行機の着陸用ギア(車輪)にでもされてしまったかのような衝撃だった。私の中から空気が一瞬で弾き出され、まるでそれを口から吐き出してしまったかのような格好になった。
「……ちょっと! あんた何を――」私は言葉を言い切るより前に、大急ぎで自分の唇を拭った。
ルイーザはただ、胸の前でふんぞり返るように腕を組み、鼻先をツンと上へと向けた。
「決めた。これからもっと、いっぱい食べてやるんだから」
彼女には普段から一般的な常識というものが著しく欠如していたけれど、今回のはまた一段と斬新な斜め上の発想だった。確かに、私は昔からベッドをこよなく愛する人間であったけれど、だからといって、自分自身がマットレス(敷布団)にクラスチェンジしたいなどという願望を抱いた覚えは、毛頭なかった。
「……はあ?」
「『はあ?』じゃないわよ。自業自得なんだからね」
ルイーザがようやく私の身体から下りた後でさえ、私は自分の身体の可動域(自由)を取り戻すまでに、少なからぬ時間を要することになった。まるで彼女のせいでどこかの神経が完全に圧迫されてしまい、立ち上がるチャンスすら奪われてしまったかのようだった。……言葉を換えれば、要するに単に起き上がるのが面倒くさかっただけで、そこに関してはルイーザは1ミリも関係していなかったのだけれど。
ありがたいことに、彼女は鏡の前でずいぶんと長い間、あちこちへと身体を小突くようにして回転させていた。その姿を眺めながら、私はそもそも『体重』なんてデリケートな話題に触れるべきではなかったと、心の中で猛烈に後悔していた。
「回転させていた」というのは、決して大袈裟な表現ではない。彼女は文字通り、自分の身体をあらゆる角度から執拗に観察していたのだ。果てには服まで脱ぎ捨てて、自分の身体のあちこちを確かめるように触り始める始末だった。そのウェーブがかった髪の毛が円を描いてゆらゆらと揺れる様子は、まるで彼女がこれからどこかの華やかな舞踏会にでも出席するための準備を進めているかのようだった。
実際のところ、ヴィジュアル(見た目)としての変化なんて、どこにも見当たりはしなかった。ルイーザは相変わらず、いつも通りのルイーザのままだった。そしてその触り心地(質感)がどう変化したかについては、まあ……私はあえて自分から進んで検証してみるつもりは毛頭なかった。そんなものは彼女自身に委ねておけばいい。
「……分かったよ」
自分の目が騙されているわけではないことを確かめるために、私は鏡の方へと視線を走らせた。ルイーザは誇らしげな表情を顔に張り付かせたまま鏡の前に立ち、映り込んだ私をじっと見つめ返していた。その両手は腰のあたりに留まっていて、まるで勝利のポーズでも気取っているかのようだったけれど。けれど実際のところ、彼女は相変わらず自分の身体をあちこちと触って確かめているだけだった。
「……何よ?」
「私が太ったんじゃなくて、あなたの方が弱くなったのよ」
正直なところ、彼女の導き出したその結論は、あながち的外れというわけでもなかった。確かに今の私は、自分でも嫌になるほど身体が鈍っているのを感じていたから。けれど、下着姿のままで長いこと鏡の前に突っ立ち、自分の身体を凝視し続けていたような少女から、そんな台詞はこれっぽっちも聞きたくなかった。
「……へえ、そう」
「そうよ。間違いなくね」
「……お好きにどうぞ」
そんな不毛な「おしゃべり(応酬)」が一段落すると、私は彼女に背を向けた。こんな仕打ちを受けた後なら、おそらく私以外の人間なら、彼女の言葉を証明(あるいは否定)するために行動を起こしたことだろう。例えば軽いストレッチ(体操)を始めるとか。一日を生産的にスタートさせるとか。願わくば、その『誰か』が私の代わりにそれを実行してくれることを切に願うばかりだった。
私は再び目を閉じ、もう少しだけ眠りに就けることを期待した。本当なら、こんなことはもっと前に――ルイーザが鏡の前で自分の身体を観察している間に――思いつくべきだったのだ。自分でも、どうして彼女の様子をじっと眺めていたのか分からなかった。それと同時に、どういうわけか、どうしても目が離せなかったのだ。……これこそが、本当の意味でのミステリー(謎)だった。
「……そう言ってやるんだから」
耳元で突然声が響いたので、彼女がいつの間に近づいてきていたのか、私は察知する隙すら与えられなかった。次の瞬間、私の身体がベッドの端の方へと僅かに傾くのを感じた。
両目が勝手にカッと見開かれたけれど、私はあえて彼女のいる方向へと頭を回そうとはしなかった。彼女の顔が、今またしても危険なほど至近距離にあることを確信していたからだ。彼女が言葉を発するたびに、その明確な吐息の温もりが私の肌へとダイレクトに伝わってきた。
どうして彼女は、いつもこうも距離感が近いのだろう。もしかして、彼女はそろそろ眼鏡でもかけ始めた方がいいのではないだろうか。
結局、私は小さくため息をつき、彼女の方へと寝返りを打った。するとルイーザは、大急ぎでその顔を少しだけ後ろへと引いた。それと同時に、彼女は私の両肩をがっしりと掴み、まるでそうでもしなければ私が彼女の存在に気づかないとでも言いたげに、私をベッドへと押し付けた。どうやら彼女は、自分の言葉に耳を傾けようとしない相手に対して、どのように不満をぶつければいいのか、その方法を他に知らないだけらしかった。
「……何?」
「『何?』じゃないわよ」
自分から仕掛けておいて、ルイーザの唇は不満げに歪んでいた。彼女がどうして未だに服を着ようとしないのか、その理由を模索するように私の視線が彼女の身体を彷徨っていると、ふと、彼女の前腕にある赤っぽい痕跡が目に留まった。それはまるで、肌の上に彫刻された花(模様)の輪郭のようだった。……私が頭を乗せていた、あの手枕の代わりにしていた枕のウールの模様だ。
おそらく、その観点から言えば、私の方も彼女にとっては十分に『重い』存在だったのだろう。あるいは、私たち二人が揃いも揃って非力(弱すぎる)なだけか。それが大層な意味を持つ問題だとは、到底思えなかったけれど。
いずれにせよ、それがどれほど不快で窮屈なものであったとしても、彼女はそれを受け入れようとしてくれていたのだ。
「……あんたの言う通りだよ。あんたは何も変わってない」
「それ、一体どういう意味よ?」
私の回答に納得がいかなかったらしく、ルイーザは不機嫌そうに眉を寄せた。彼女の全身から、明らかな緊張が放たれていた。それは顔の表情だけでなく、私の両肩を未だに強く締め付けているその両手からも伝わってきた。……実際のところ、ちょっと痛いくらいだった。
「……そのままだって言ったんだよ」
「だから、その『そのまま』って何よ? 太ってるってこと?」
私の要領を得ないコメントは、状況をさらに悪化させる結果にしかならなかった。もしかして私の言葉は、私がいつも彼女のことを『デブ』だと見なしていたかのように響いてしまったのだろうか。正直、私にはさっぱり分からなかった。
けれど、ルイーザの顔がみるみるうちに膨れ上がっていくのを見て、私はパニック(焦り)に駆られながら、大急ぎで言葉を修正しようと試みた。
「いや、あんたは……その、つまり……」
私のその無益な足掻きは、まるで水の中で会話を試みているかのような有様だった。たとえ――仮定の話として――吐き出された泡の中に個々の音声(言葉)を保存する能力が備わっていたとしても、それが相手の鼓膜に到達することなど決してないのだ。
私は本当に、このようなシチュエーションにおいて一体何を口にすべきなのか、正解を持ち合わせていなかった。もし『ルイーザはいつもスリム(細い)だよ』などと言ったところで、そんな乾燥(味気ない)したセリフで彼女が満足するはずもなかった。かと言って、『あんたは可愛い(ミィ)……』だなんて――いや、逆立ちしたってそんな恥ずかしい言葉は口にできない。おまけに、それは体重の話題とは何の関係もないではないか。
なら、何だ? 私は一体、何て言えばよかったというのだ。
私の狼狽ぶりを察したのか、ルイーザは小さくため息をもらした。私の両肩を拘束していた手の力が、心なしか緩む。
「……あなたって、時々本当に頭にくる(我慢できない)わね」
それ、基本的には私がいつもあんたに対して抱いている感想(台詞)なんだけどね、という事実は、この際そっと伏せておくことにした。
「……時々(たまに)だけでよかったよ」
「ほーらね、そういう口答えだけは早いくせに」
ルイーザは落胆したように頭を横に振った。彼女は一体、私からどんな言葉を引き出そうと期待していたのだろう。私は別に、今の状況が嫌いだなんて一言も言っていない。まあ、実際のところ、その真逆(好きだということ)を肯定したわけでもないのだけれど。
けれど、ルイーザが私よりも重いということ自体には、何の不思議もなかった。結局のところ、彼女の方が背が高く、年齢だって上なのだから。それはまるで、子象と大人の象を比較するようなもので……。
……あ、いや。今の例えは最悪だった。全面撤回(忘れて)しよう。
服を着る代わりに、ルイーザは私のお腹(胸)のあたりへと、顔面からどさりと崩れ落ちてきた。どうやら今日の彼女は、私という存在をトランポリンか何かのクッションとして利用することに決めたらしい。いずれにせよ、彼女の頭の重量というのは、あの……お尻に比べれば、遥かにトラブルの少ないシロモノだったけれど。
「……分かってると思うけど、これで何かが解決したわけじゃないからね」
ルイーザは顔だけをこちらのほうへと向け、上目遣いでそう宣言した。
「……何の話?」
「私、これからもずーっと、いつもと同じようにあんたの上で寝るからね」
今の私にとって、それは想定されるトラブルの中でも最たる(マシな)部類に入るものだった。もし彼女がこれからも私の上に降ってきたおし(倒)し続けるというのなら、遅かれ早かれ、私の身体は今よりもさらに薄っぺらい平らな板になってしまうに違いない。
「……そうだろうと思ったよ」
ルイーザの後を追うようにして、私たちは台所へと向かった。一体いまが何時なのかは分からなかったけれど、私が下に下りてきたというのに、まだご飯の支度が整っていないというのは、おそらくこれが初めてのことだった。
母はテーブルの脇に立ち、今日のメニューを頭の中で品定めでもするかのように、人差し指でトントンと自分の顎を叩いていた。そのボサボサに乱れた髪の毛を見るに、彼女もまた、ついさっき目を覚ましたばかりであるらしかった。どうやら、お父さんが2日ほど巡業に出かけて留族(留守)にしているという事実が、母に心置きなく怠けるための免罪符を与えてしまったらしい。
彼女のだらしない身なりを眺めながら、私は生まれて初めて、私たちの間に流れる強固な血の繋がり(シンパシー)を感じていた。なるほど、もし外見を維持するために彼女と同じくらいの熱量(ミニマムな努力)を注ぎ込みさえすれば、私だってそれなりに小綺麗に見せかけることができるらしい。もちろん、そんな面倒なことを実行に移すつもりは毛頭ないけれど、そういう選択肢(可能性)が世界に存在していると知るだけでも、悪い気分ではなかった。
「……おはよう」
あらかじめ打ち合わせをしていたわけではなかった。けれど、まるで私の思考をテレパシーで読み取ったかのように、私とルイーザの声は完璧なユニゾン(唱和)となって母へと届けられた。
「あら、二人とも、もう起きちゃったの?」
「……まるで、私たちが起きてくるのを期待してなかったみたいだね?」私はテーブルの上の惨状(なにもない空間)へと顎をしゃくってみせた。
一目見れば一目瞭然だった――母は、私たちが昼過ぎまで泥のように眠り続けてくれることを、心から願っていたのだ。私だって、できることならそうしたかった。けれど、自分の身体をマットレスと水平な次元にまで押し潰そうと試みる生き物と同じベッドにいて、安眠を貪り続けるのは至難の業というものだ。
「え? そもそも私が、あなたたちを歓迎(待って)したことなんて一度でもあったかしら?」
母があまりにも真剣なトーンでそう言い放ったので、一瞬、私の両肩がピクリと強張った。視線が真っ向からぶつかり合い、私は言いようのない気まずさ(居心地の悪さ)に包まれる。けれど、その直後に彼女の顔に浮かんだお茶目な笑みが、私の全身の緊張を綺麗に解きほぐしてくれた。
まったく、実の娘に対してこれほど残酷なセリフを吐き捨てられるなんて、一体どれだけタチが悪いのだろう。たとえそれがジョーク(冗談)だったとしても。
「冗談よ、冗談」母は愉快そうに笑いながら、私の肩をポンと叩いた。
一方で、ルイーザのほうはと言えば、ここで何が起きているのかを1ミリも理解していない様子だった。彼女はすでにテーブルの特等席(脇)に陣取り、そこに並んだ食材たちを熱心に凝視していた。
まあ、予想通りの展開ではあったけれど。ルイーザは『待つ』というプロセスを必要としないタイプの人間なのだ――放っておいても、彼女は自らの意志で勝手にやって来るのだから。
「……待ちきれない」
おねだりを待つ犬のような目で食材を見つめながら、その少女はそう宣言した。確かに、飢えというものは人間を獣へと退行させるという話は聞いたことがあったけれど、その実例を目の当たりにするのは、これが初めてかもしれない。私は、今日のルイーザがヴェラリーナのパジャマを着用していないという事実に対して、胸の奥から深い遺憾(悔しさ)の念が湧き上がるのを禁じ得なかった。もしあの衣装を着ていたなら、今頃彼女の尻尾がどれほど激しく左右にシェイク(痙攣)していたか、この目で確かめてみたかったのに。
「だったら、私の手伝いをしてくれる?」
「……本当にいいの!?」
母の突飛なオファー(提案)を耳にした瞬間、私は思わず彼女の顔を凝視した。すると母はこちらを振り向き、親指をグッと立ててみせた。彼女がそのジェスチャー(サイン)で一体何を伝えようとしていたのか、私にはさっぱり見当がつかなかったけれど。
けれど……ルイーザが調理の手伝い(ヘルプ)をするだって? そんな危険な事態、私が見過ごせるはずがなかった。出来上がった料理の中に、大量の唐辛子か何かが混入されている未来が、今からでも容易に想像できたからだ。
いくら単なる『お手伝い』だとしても、ルイーザという地雷(存在)からは、片時も目を離すべきではないのだ。
「……私も手伝う」
私のその決意表明を聞いた後、母の顔に浮かんだ表情を正確に翻訳(解釈)することは、私にとってさらに困難なミッションとなった。彼女の顔は歪んでいるようでもあり、心底困惑しているようでもあり、あるいはその両方が同時にブレンドされているかのようでもあった。
「料理はね、女の子の方が上手くやれるものなのよ」母は唇をすぼめ、私の頭を優しく撫で回した。
いや、あの……ストップ。何だって?
「……一応言っておくけど、私も女の子だよ」
「あら、そうなの?」
母があまりにも完璧な演技力で驚いてみせたので、一瞬、私は自分自身のアイデンティティ(性別)に対して本気で疑念を抱きそうになった。けれど、次の瞬間には彼女がケラケラと笑い出したので、私は少しだけ肩の力を抜いた。
「冗談よ、冗談。あなたは世界で一番可愛い女の子よ。でも、お料理は私たちに任せておきなさい」
間違いなく、彼女はただ私を邪魔者扱いして追い払うために、そんな甘言を弄したのだ。彼女の手のひらが、実に対策的な動きで私の身体を台所の外へと押し出し始めたことが、何よりの証拠だった。
「おまけに、中身はまるでおじいちゃんみたいに偏屈だしね」ルイーザが、私の背中に向けて追撃の弾丸を放ってきた。
「……おばあちゃんだよ」
それが状況を1ミリも好転させないことは分かっていたけれど、私はあえて彼女の言葉を訂正してやった。いずれにせよ、私はそのどちらでもないのだけれど。
「ううん、絶対に頑固な『おじいちゃん』の方!」
「……黙って」
私の声がルイーザの鼓膜に届いたかどうかは分からなかった。なぜなら、その瞬間に台所の扉は冷酷にロック(閉鎖)されてしまったからだ。そして私は、廊下の側にポツリと取り残された。
……まあ、お好きにどうぞ。
――と、そんなことを考えていたのだった。
どうやら、あの過去の記憶(思い出)の海へと深くダイブしてみたところで、この空が一体いつから灰色に染まり始めていたのか、その決定的な瞬間を思い出す役には立たなかったらしい。もっとも、そんなことは今更どうでもいい問題だったけれど。
それにしても、あの二人(母とルイーザ)が中に籠もって調理を始めてから、一体どれほどの時間が経過したのだろう。私は鼻をクンクンと鳴らしてみたけれど、廊下には何の匂いも漂ってこなかった。台所の扉が固く閉ざされているせいかもしれないけれど。
「心配しなくていいよ。もうすぐ出来上がるはずだから」
「……え?」
その声はあまりにも唐突に、背後から鼓膜へと飛び込んできたので、私は危うくその場から跳ね上がりそうになった。大急ぎで声の発生源へと身体を反転させた瞬間、私の顔の筋肉が、驚きのあまり引き攣るのを感じた。
「……どこから? いつからそこにいたの?」
「ん?」エウリエルは、まるでそこに時計の針でも探そうとするかのように、眉をひそめて窓の外へと視線を向けた。「お前がうつろな目をしながら、酷い顔をして顔をしかめているのを、じっくり観察できるくらいには長い間さ」
それは時間を測る方法としては、お世辞にもスマートなものとは言えなかった。けれど、何よりも驚きだったのは、彼が本当に『ずっと前から』ここにいたという事実を私が理解してしまったことだ。一体どうやったら、彼のような存在を見落とすなんて芸当ができるのだろう。
「……まあいいや。で、どうしてここにいるの?」
「まさか、こんな一大イベントを見逃すわけにいかないだろう? ルイーザが一体どんなものを完成させるのか、僕だって興味津々(きょうみしんしん)なんだ」
いや、うん、理屈としては通っている。けれど、私が本当に気になっていたのは別のことだった――そもそも彼は、どうやってその事実を知り得たのだろう。
もっとも、私たちが階段を下りてきたときに単に気がつかなかっただけで、彼は最初からずっとここに座っていたのかもしれない。それなら、私たちの会話がすべて彼の耳に筒抜けだったとしても不思議はなかった。
その説明で、私は納得できるだろうか? ……十分に。
「……今度は、少しはマシな出来栄えだといいんだけど」
「ふむ?」
彼の声は、まるで冬の冷たい風にさらされてカラカラに乾ききったかのように、ひっそりと、そして掠れていた。おまけに彼は、自分のお腹のあたりに手を当てながら、ひどく不快そうに顔を歪めてみせたのだ。それが一体、私に何を伝えようとしての仕草だったというのだろう。
周囲の人間たちが、私に対して謎解きのような回りくどい会話を仕掛けるのを、そろそろ全面的にやめてほしいと切に願うばかりだった。
私がさらに何かを問い詰めるよりも早く、エウリエルはソファから腰を上げた。まるで、あまりにも長いことそこに座り込んでいたせいで、全身が塵の洗礼を受けてしまったとでも言いたげに、自分の上着をパパッと払うと――彼はそのまま2階へと続く階段の方へと足を向けた。
「すぐに戻るよ」
別に訊ねたわけではなかったけれど、私は結局、彼の背中を見送りながら小さく一度だけ頷いてみせた。
私の中のどこかが、彼が一体何を目的にそんな突飛な移動(行動)を開始したのかを知りたがっていたけれど……あいにく、それを深く追求(解明)してやるほどのエネルギーは残っていなかった。それと同時に、私は自分の視線が、無意識のうちに彼の後ろ姿を追いかけ続けていることに気が付いた。正確に言えば、その視線を維持するためには、自分の身体をその場でぐるりと回転させなければならなかったのだけれど。
「……何か問題でも?」階段の途中で足を止め、彼が振り返った。
「ううん、何でもない。ただ、秘技(隠されたテクニック)のトレーニングをしてただけ」
ほんの軽いジョークのつもりだったのだけれど、エウリエルの顔に浮かんだ表情を見るに、彼は私のその言葉を本気で真面目に考察し始めてしまったようだった。
「……テクニック(技)、かい?」
「うん。相手が振り返るまで、その背中をひたすら凝視し続けるっていう技」
頭に浮かんだ最初のデタラメ(言葉)を口にしただけだった。彼を観察し続ける特別な理由なんて、私にはどこにもなかったのだから。おそらく私は、彼が我が家においてこれほどまでに自然体で寛いでいるという事実に、ただ純粋に圧倒されていただけなのだ。もっとも、本当なら、そんなことにはもうとっくに慣れていなければならないはずだったのだけれど。
「なるほど、確かに効果は絶大(ほんとうに機能)のようだね」彼は大真面目に頷くと、そのまま再び上へと登っていった。
……へえ。本当にそうなの?
実際のところ、彼が私の言葉をこれほど文字通り(ストレート)に受け止めるとは夢にも思っていなかった。おそらく、大人という生き物はそういうものなのだろう――子供のくだらない戯言を本物のコイン(真実)として扱ってあげることで、その夢を壊さないように配慮してくれているのだ。認めざるを得ない――それは決して、イージーな職務ではなさそうだった。
エウリエルの姿が2階の闇へと消え去った途端、私はすぐさま元のポジション(脱力状態)へと帰還した。確かに、私は昔からエネルギー(元気)とは無縁の人間だったけれど、まさか一人取り残された瞬間、これほど深い微睡の海へと沈み込んでしまうとは思ってもみなかった。窓の外の景色を眺めているうちに、私の瞼はどんどんその重量を増していく。
なんだか今なら、ルイーザが私のことを『おじいちゃん』と呼んだ理由が、少しだけ理解できるような気がした。どこかで、おじいちゃんという生き物は、椅子に座ったままいつの間にか眠りについてしまうものなのだと聞いた記憶がある。もっとも、それが快適な睡眠スタイル(体勢)であるとは到底同意できなかったけれど。やっぱり、横になって寝る方が、遥かにマシ(快適)に決まっている。
そんな生産性のカケラもない考察に脳の容量を割いていると、突如として、私の視界のど真ん中にルイーザの顔が出現した。一体、いつの間に? どうやって?
目の前に突如として現れた彼女の姿を捉えた瞬間、私は心の中で微かなパニック(焦り)を起こしていた。最初、私は自分がまた夢でも見ているのではないかと疑った。けれど、両手でゴシゴシと目を擦ってみた後でさえ、彼女の存在が霧散することはなかった。
エウリエルが彼女に対して、そのような突発的出現のテクニックを伝授したのかどうかは知る由もなかったけれど、この『神出鬼没(唐突さ)』という悪癖に関してだけ言えば、間違いなく彼からダイレクトに遺伝(継承)したものに違いなかった。
「あなたはいつも空ばかり見てる。そのくせ、外に出ないための言い訳(理由)だけは山ほど思いつくのね」
その二つの出来事に、一体何の関係があるというのだろう。公平に見て、絵画を好む人間が、自ら筆を執って絵を描くことなんて滅多にないのと同じだ。まあ、それはともかくとして。
「……じゃあ、私はどこを見ればいいの?」
「私よ」
彼女は眉一つ動かさずにそう答えた。私はパニックに陥りながらルイーザを凝視したけれど、彼女はただケラケラと楽しそうに笑うだけだった。
「あ、私は……その、えっと……」
「あなた、慌ててるとき本当に可愛い(みりき的)ね」
一体全体、何が起きているのだろう。私は本当に夢でも見ているのだろうか?
ほんの一瞬、私のすべての感覚機能がシャットダウン(麻痺)してしまったかのようだった。それと同時に、自分の顔全体が猛烈に赤くなっていくのを鮮明に自覚した。私はあまりの衝撃に、その場に完全に氷ついてしまったのだ。
私がそうして呆然としている間に、ルイーザは私の頭をがっしりと掴み、そのまま自分の胸の中へと力任せに抱き込んできた。
正気? ……私は一体、道中のどこで何をそんなに見落としてしまったから、私たちの関係がこんな……こんな状況にまで発展してしまったというのだ。
彼女の体温と匂いが私の中へと染み込んできて、そのせいで少し汗ばむのすら感じた。ただのTシャツ一枚という格好ですらこれほど熱い(ジャールこもる)のだとしたら、これから先、私は一体何を着て過ごせばいいというのだろう。
まるでペット(愛玩動物)でも慈しむかのように、彼女の手のひらが私の髪をそっと撫で、その指先がいくつかの毛束を器用に弄り回していた。どうして彼女は、これほど恥ずかしい台詞をこうも平然と口にできるのだろう。彼女という存在は、一体どこまで単純で、同時にどこまで不可解になれるというのだ。
まさにその事実こそが、さっき『可愛い』なんて言われたこと以上に、私の顔を真っ赤に染め上げる原因となっていた。これは本当の話だ。
彼女の腕の中に閉じ込められ、その指先で髪を弄ばれながら、私はルイーザという人間のことをほんの少しだけ理解できたような気がしていた。彼女はいつだって、私よりもずっと誠実だった。何か行動を起こすために、何百もの言い訳や理由をひねり出す必要なんて、彼女にはないのだ。彼女はただ、そうしたいから、そうする。それもまた、私たちの間にある決定的な違いだった。
おそらく、だからこそ私はいつも彼女に負けてしまうのだ。私の動機は、往々にして彼女ほど純粋(無垢)なものではなかったから。
「……どうやらあんた、私のことが好きで好きでたまらないみたいだね」
私はできる限りの皮肉をその声に込めてみせた。彼女のことも同じように動揺させてやろうという、ささやかな抵抗だった。
「うん、そうよ」
……え?
いや、ちょっと、どうしてそうなるの?
たとえお互いに、それが『そういう意味』の「好き」ではないと分かっていたとしても、せめて少しは恥ずかしがる振りくらいしてみせたらどうなのだ。
ちなみに、彼女と母が作ってくれたのは、フルーツのフィリング(果物詰め)を包んだクレープ(ブリヌィ)だった。私の予想に反して、それは驚くほど美味しかった。
もっとも、どちらが作ったクレープなのかを識別するのは、極めてイージーな作業だったけれど。片方は、ごく控えめで上品な甘さだった。そしてもう片方は……、あまりにも、甘すぎた。
ルイーザの味覚のレセプター(受容体)に何か重大な問題が発生しているのか、あるいは単に砂糖の量が足りなくなることを病的に恐れていたのかは知る由もない。けれど、あの忌々しい『塩味のチョコレート』に比べれば、これは遥かにマシで、天国のようなシロモノだった。
エウリエルもまた、その出来栄えにいたく満足したらしかった。彼は、お父さんが巡業から帰ってくるまでに、テーブルの上のクレープを文字通り何一つ残らないほど綺麗に平らげてしまったのだから。
……ふむ。
もしかして、最初からそれが彼の狙い(目的)だったのだろうか。
.
「おや、それは確か、君がヨリにプレゼントした上着じゃないのかい?」
ルイーザの身体がびくりと跳ねた様子を見るに、エウリエルのその問いかけは、完全に彼女の不意を突いたらしかった。
いまさら言うまでもないことかもしれないけれど、私自身も彼の唐突な出現には少なからずショックを受けていた。彼も、うちのお父さんも、女の子が二人で引きこもっている部屋に入る前には、まずノックをするという最低限のマナーを身につけるべきなのだ。私たちが中で一体何に興じているか分かったものではないというのに。
もっとも、私たちはただ本を読んでいただけだったけれど。それ以上でも、それ以下でもない。いつもと全く同じ、あの本だ。ルイーザは読書に関して、それほど熱心に選り好みをするタイプではなかったから。
けれど、今はその話はどうでもいい。
実を言うと、私自身もその件については少し気になっていたのだけれど、本人にダイレクトに尋ねるだけの実直さ(勇気)を持ち合わせていなかったのだ。それに加えて、どこかの本で『いつも他人に質問ばかりしている人間は、自分で考える能力を持たない大人に成り下がる』という説を読んだ記憶があったのも理由の一つだった。
それからもう一つ、私は今になってようやく、ルイーザがかなり頻繁に服を着替える性質であることに気が付いた。そのせいで、彼女がいつその上着を着ていたのか、そのタイムラインを正確に追跡するのは至難の業だったのだ。そう考えれば、私がその事実を綺麗さっぱり忘却していたとしても、何ら不思議なことではないはずだ。そうだよね?
いずれにせよ、エウリエルが私の代わりにその面倒な疑問を引き受けてくれたことには、心の中で密かに感謝していた。
「ほーほーほー」
一体どういう風の吹き回しなのか、彼女はひどく誇らしげな(偉そうな)態度で胸の前で腕を組んでみせた。そのくせ、彼の目線を執拗に避けているのは明白だったけれど。
「ヨリがね、私たちで共同所有にしましょうって提案してきたのよ」ルイーザは、未だに尊大なポーズを崩さないままそう言い放った。
「へえ、本当に?」エウリエルは、物憂げな視線を私の方へと転向させてきた。
……はあ? 言ってない。そんなこと一言も言ってない。
私は意志に反して、自分の身体をその場でわずかに横へと傾けてみせた。まるで、その一連の動作だけで彼女の虚偽を全力で否定しようと試みるかのように。
「間違いなく、その通りよ」
彼女があまりにも大真面目なトーンでそう言い切ったので、それが単なる冗談なのかどうかを見極めるのは困難だった。ルイーザはすぐさま私の方へと向き直ると、至近距離から私の顔をじっと凝視してきた。一瞬、喉の奥に何かがつっかえて、呼吸の仕方を忘れてしまったかのような錯覚に陥る。
それは、控えめに言っても……かなりホラー(不気味)な光景だった。
「……そうよね?」さらに顔を近づけながら、彼女は念を押してきた。
私は1秒の猶予もなく、すぐさまコクコクと激しく首を縦に振った。結局のところ、私の不確かな脳細胞が、その記憶を勝手にゴミ箱へとデリート(消去)してしまっていた可能性だって、常にゼロではなかったのだから。
彼女の表情そのものに劇的な変化は見られなかったけれど、その顎のラインが、ごく僅かに上を向いたことだけは見逃さなかった。私の提出した回答に、彼女がそれなりに満足したのだと推測するのは合理的だった。
私の顔には、微かな――というよりは、完全に歪みきった――苦笑いが浮かんでいた。彼女が私を凝視し続けている間、自分の口角がプルプルと細かく震えているのが、自分でもよく分かった。
「ルイーザ、君は将来、とんでもなく恐ろしい女に成長するだろうね。僕はヨリの未来に、今から同情を禁じ得ないよ」
え? ちょっと待って、どうしてそこで私の名前が出てくるの?
その言葉が終わるや否や、ルイーザの眉は中央へとへし折られ、その唇は不満げに突き出された。けれどエウリエルは、彼女がその手に握りしめた枕を自分の方向へとハイスピードで射出してくるよりも早く、実に見事な手際で扉を閉め切って退場していった。
……それにしても、あのクッション(枕)が一体何の罪を犯したというのだろう。
エウリエルが、ルイーザのあの稚拙な嘘に騙されていなかったのは一目瞭然だった。私は彼女に対して、ほんの少しだけ憐れみ(かわいそう)の感情を抱き始めていた。あれほど全力を尽くして虚勢を張ったというのに、すべては無駄な努力に終わってしまったのだから。
それでも、このシチュエーションについてもう一段階深く考察を進めてみた結果、私はルイーザと『共同所有者』になるという未来について、決して吝かではないという結論に達していた。どうしてかって? その方が、私一人にかかる責任が大幅に軽減されるからだ。
いっそ彼女に対して感謝の言葉を述べてやりたいとすら思ったけれど、そんなことをすれば、間違いなく彼女から『変なやつ』というレッテルを貼られるのがオチだったので、私は結局、何も言わずに口を閉ざしておくことにした。
「……何よ、人の顔をじろじろ見て」ルイーザが突如として視線をこちらへと引き戻し、鋭く吠えた。
「……え?」
「いいから黙って読みなさい」ルイーザは本の手頃なページを指先で強くタッピング(指摘)し、私に読書を再開するよう促した。
自分が一体何の罪を犯して彼女の逆鱗に触れたのかはさっぱり分からなかったけれど、私はあえて彼女の言葉に抗議(反論)しないことを選択した。
黙って読む、ねえ。彼女は私に、心の中で黙読しろとでも言いたかったのだろうか。そのあたりを詳しく問い詰めるべきだったのかもしれないけれど、私にはそれを実行するだけの決断力が決定的に不足していた。だから、私はただ大人しく、頭の中で文字を追い始めることにした。
1分もしないうちに、ルイーザは再び自分の存在を主張してきた。彼女は私の肩を、小突くようにして自分の肩で小突いてきたのだ。まるで、言葉ではどうしても表現しきれない何かを、その一連の動作に込めようとでもするかのように。
「……聞こえないんだけど」
ルイーザは再び、胸の前でがっしりと腕を組んだ。けれど今回の彼女は,、さっきのような尊大な態度というよりは,、どちらかと言えば不機嫌(怒っている)そうに見えた。どうやら、エウリエルの言葉が彼女のプライド(自尊心)を激しく傷つけてしまったらしい。
私個人の意見を言わせてもらえば、ルイーザが将来どんな女に成長しようが、そんなことは心底どうでもいい問題だった。彼女の容姿が変わろうが、性格が変わろうが、匂いや声が変わろうが――私にとって、彼女はいつだって『ただのルイーザ』でしかないのだから。
もっとも、その事実が、今日の彼女が著しく面倒くさい(プロブレマティックな)存在であるという現実を否定してくれるわけではなかったけれど。
「……黙って読みながら、同時にあんたに聞こえるように音読するなんて、一体どうやったら可能なの?」
「そんなの、私が知るわけないじゃない」
ルイーザはふんと鼻を鳴らすと、私の頭を力任せに抱え込んできた。私の身体は、まるであらかじめ衝撃(パン치)に備えるかのように、一瞬でガチガチに強張った。けれど、身構えていた痛みはやってこなかった。彼女はただ、へそを曲げた子供が大切なお気に入りのぬいぐるみでも抱きしめるかのように、私を自分の胸へとぎゅっと押し付けただけだった。
自分勝手な言い分であることは百も承知だけれど、こういう瞬間くらい、ルイーザにはもう少しだけ周囲の人間(つまり私)に対する配慮というものを持ち合わせてほしいものだ。私が今置かれているポジションは――控えめに言っても――お世辞にも快適とは言えないものだったから。私の右の脇腹は限界まで引き伸ばされ、そこには不快極まりない緊張がかかっていた。あいにく、私は器械体操のファンではなかったのだ。
私は手に持っていた本をベッドの上へとそっと手放し、身体を支えるためのよるべ(サポート)を求めて、彼女の手首のあたりを慎重に掴んだ。その瞬間、彼女の腕が微かに震えたような気がした。理由はさっぱり分からなかったけれど。もしかして彼女は、私がその拘束を無理やり引き剥がそうとしているとでも誤解して、怯えたのだろうか?
私は彼女の顔を観察するために、ぐいと首を捻ってみた。今の不自然な姿勢でそんなアクロバティックな動きをするのは、決して賢明な判断とは言えなかったけれど。視界に捉えたルイーザの顔は、心なしか少しだけ傷ついている(落ち込んでいる)ように私には見えた。
もしかしたら、問題の本質は彼女のプライド(自尊心)なんかではなかったのだろうか。ルイーザはただ、誰かから自分のことを悪く思われる(否定される)という、その概念そのものが耐え難いほど嫌いなだけなのかもしれない。
時々、私は人間の心のメカニズムというものを、もう少しだけ正確に理解できたらいいのに、と思わずにはいられなかった。
「……ねえ、その上着、私なんかよりもあんたの方がずっと似合ってるよ」
それがこのシチュエーションにおいて適切な切り口であったかどうかは甚だ疑問だったけれど、私はとにかく、この話題の方向性を無理やりシフト(転換)させようと試みた。そもそも私たちの間にまともな会話(対話)が成立していたかと言われれば怪しいものだったけれど、まあ、それはそれとして。
そしてそれは、私の偽らざる本心(真実の思考)でもあった。たとえピンクとグリーン(緑)という色の組み合わせが、お世辞にも相性抜群とは言えないシモノだったとしても――私は本当にそう思っていたのだ。主な理由は、彼女の肌の色合い(ライン)にあった。彼女の頬は頻繁に熱を帯びて赤くなるのだけれど、その色彩の変化が、その上着と驚くほど調和して見えるのだ。
どこか呆気に取られたような様子で、ルイーザは頭を持ち上げ、その長いまつ毛をぱちぱちと数回瞬かせた。どうやら彼女は、私がどうして唐突にそんな話題を放り込んできたのか、その意図を脳内で咀嚼するまでに少しの時間が必要だったらしい。もっとも、彼女のその鈍さを責めるのは酷というものだけれど。
その直後、彼女は自分の頬を私の頭のてっぺんへとゴシゴシと擦り付け始めた。まるで、そこに溢れた涙でも拭い去ろうとするかのように。……不思議なことに、彼女の瞳は完全に乾燥しきっていたのだけれど。なら一体、何のためにそんなことをしているのだろう。
「……あなたにだって、ちゃんと似合ってるわよ」
私は彼女のその観察眼に対して、逆立ちしたって同意することはできなかった。今この瞬間、その上着を身に纏っていない状態でさえ、部屋の隅にある鏡を視界の端で捉えるだけで――私は自分がそれを着たときに、どれほど滑稽で不恰好な姿を晒していたかを一瞬で思い出すことができたからだ。まるで鏡という物質そのものが、私の不完全さ(醜さ)を記憶していて、それを私の顔面に向けてダイレクトに突きつけてきているかのようだった。
どうやら、ルイーザの視力には何かしらの重大な欠陥が存在しているのは間違いなさそうだった。奇妙な話だ。エウリエルは何度も彼女の身体を診察してきたはずなのに、どうしてその異常に気づかなかったのだろう。
「……ありがと。でもやっぱり、あんたの方が何倍も似合ってるよ。だから私は、あんたと共同所有にするの、別に嫌じゃないよ」
ルイーザは唐突にケラケラと笑い出し、私の髪の毛の中にその顔面を埋めてきた。それは何とも奇妙な、独特の感覚だった。まるで、頭皮の上でバリカン(散髪機)がただブーイン(振動)と音を立てて震えているだけで、実際には髪を1本も刈り取っていないときのような、そんな振動。
けれど、その微かな震動のおかげで、私は一つの事実を明確に理解(理解)することができた。
たとえ、他人の思考(頭の中身)というものが私にとって永遠に到達不可能な領域(未知)のままであったとしても――その人間が今抱いている感情の揺らぎだけは、こうして肌を通じて、驚くほど簡単に感じ取ることができるのだと。
……ところで、私が今置かれているこの窮屈な体勢(不快感)について、そろそろ彼女に「いい加減にして」と抗議(申告)を伝えるべきタイミングなのだろうか?
……うーん、いや。きっと、今ではない(ノー)。
.
春は確実に近づいていたけれど、夜の手前の夕暮れ(ヴェーチェル)は、未だにほとんど真夜中のような暗闇を連れてきた。周囲に遮るものが何もないせいか、それは夏の真夜中よりもずっと暗く、視界のすべてを容赦なく塗りつぶしていた。あちこちにぽつりぽつりと、いかにも地方(田舎)の集落らしく散らばる数本の街灯が頼りなく灯っているものの、市場へと続く小道は果てしなく遠く、まるで身をくねらせた蛇の背中のように曲がりくねって見えた。
「田舎の集落」とは言ったけれど、私たちの家がある場所は一応、法律上は都市(街)ということになっていた。自分でもどうしてなのかは分からなかったけれど、家と家との距離がこれほどまでに離れているという構造そのものが、私にはどうにも馴染めない(不自然な)ものに感じられてならなかった。およそ人間が「都市」という言葉を脳内に思い描くとき、最初に浮かび上がるイメージは、あの過密な「蟻塚」のような光景のはずだ。けれどここの現実は、そんな一般的な定義からは著しく逸脱していた。
まるで、中心部だけが辛うじて都市の体裁を保っていて、そこから一歩でも外れれば、あとはすべて村(田舎)のような何かに退化してしまうかのような。何とも奇妙な、歪な組み合わせ(コントラスト)だった。
ずいぶんと長い時間の経過の中で、雪も雨も降っていない夕暮れを迎えたのは、これが初めてのことだった。そして、私がこの時間帯の空を、我が家の分厚い窓ガラス越しではなく、こうして生の空気の中で直接見上げるのも、おそらくこれが初めてかもしれない。もっとも、そうして見上げてみたところで、ガラスの有無による決定的な違いなんて、どこにも見当たりはしなかったけれど。
私は昔から、一年のこの時期(季節)にわざわざ外を徘徊(散歩)するというアイディアそのものが大嫌いだった。その嫌悪感の根深さと言ったら、時折『一体どこの大馬鹿者が、世の中の主要な祝祭をあえて冬の真っ只中に配置しようなどと考えついたのだろう』と、本気で世界のシステムを疑いたくなるほどだった。けれど、ルイーザの意見は私とは真っ向から対立していた。
彼女は両手を後ろに組みながら、じっと空を見上げていた。ニット帽の隙間から溢れ出たウェーブがかった髪の毛が、意地悪な風に煽られて彼女の顔を覆うたびに、彼女はそれを鬱陶しそうに手で払っては、再び帽子の奥へと押し込んでいた。時折、彼女の唇から灰色の小さな煙(ため息)の塊が吐き出され、その足元からは、踵からつま先へと体重を移動させるたびに、雪を踏みしめるキュッ、キュッという微かな乾いた音が響いていた。
どういうわけか、私にとってその彼女のシルエット(姿)は、冬という季節の概念に恐ろしいほど完璧にシンクロ(適合)して見えた。冷徹で、そしてひどく孤独な。けれど、それだけではなかった。その凍てついた光景の中から、明らかに一つだけ、何かが突出して違和感を放っていたのだ。それは……どこか、温かいもの。
突如として吹き荒れた強烈な突風が、私の露出した肌を容赦なく引っ叩き、そこに残っていた僅かな体温を瞬時に奪い去っていった。私は本能的に両目を閉じ、 пальто(パルトー)の大きな襟の奥へと顔を埋めて隠した。この瞬間だけは、この上着が数サイズ上の、あからさまな「成長期を見越した(大きすぎる)」仕立てであるという事実に、心から感謝せずにはいられなかった。
「あなた、冬生まれのくせに、どうしてそんなに寒がりなのよ?」
「……それ、何の関係があるの?」
頭を持ち上げて言葉を返したその瞬間、私は自分の選択を猛烈に後悔することになった。冷たい冷気が容赦なく肺の奥深くまで侵入し、その刺激で全身がガタガタと激しく震え始めたからだ。
……ああ、どうしてお母さんみたいに、熱いお茶をなみなみと注いだマグカップを片手に持って外に出る、という提案に同意しなかったのだろう。
いや、分かっている。……あの時の私は、寒さで強張った自分の指先が、その器を長い時間維持し続けることなんてできっこないという現実を、あらかじめ察知していたのだ。
それにしても、その会話の拍子に、私はふと奇妙な好奇心を抱いていた――ルイーザは、一体いつ生まれたのだろう。十中八九、夏に違いない。彼女を構成するすべての要素が、その季節の存在を明確に指し示していたから。けれど、そんな風に自分勝手な憶測を積み重ねるくらいなら、一番確実でスマートな解決策は、本人にダイレクトに質問してみることだ。
確かに、私たちが知り合ってからの時間はそれほど長いものではなかったけれど、彼女に関するそんなベーシック(基本)な情報すら、自分が何一つ把握していないという事実は、どこか不健全で間違っているような気がしたのだ。
「……ねえ、あんたの誕生日は、いつなの?」
普段の私は、同じエラー(失敗)を何度も繰り返すようなマヌケな真似はしない人間だったけれど、今回のムーブ(行動)に関しては、少しは知性的に立ち回れたのではないかと思う。厚い生地に遮られてくぐもった私の問いかけが、どうかルイーザの鼓膜にまで無事に到達していることを願うばかりだった。
ルイーザは両目を大きく見開いたまま、こちらへと向き直った。僅かに開かれた彼女の唇から、驚きのサインを示すかのように、短い白煙の塊がふっと吐き出される。けれどその直後、彼女の目が不機嫌そうに細められ、その下唇が不満げにキュッと歪んだ。まるで、へそを曲げた子供のように。
……理解に苦しむ。私は何か、口にしてはならない地雷でも踏んでしまったのだろうか。
「……不作法(ねえ、信じられない)」
「……え?」
私は眉をひそめながら、手持ち無沙汰に自分の頭(髪)を軽く掻いてみた。寒空の下に突っ立っていたせいで、指先の感覚はすでに麻痺(凍結)しかけていて、自分の髪の手触りすらまともに知覚できなかったけれど。
いや、違う。そういう問題じゃない。
どこかの本で『女性に対して年齢を尋ねるのは著しく不作法な行為である』というマナーを読んだ記憶はあったけれど、私の発した質問は、決して彼女の年齢を暴こうとするものではなかったはずだ。彼女が今いくつなのか、そんなことは訊ねるまでもなく把握している。本当に、さっぱり分からなかった。
「……どうしてよ?」
「今頃になってそんなことを訊くなんて。もし、その日がもうとっくに過ぎ去ってしまっていたら、一体どうするつもりだったのよ?」
私という人間がどれほど致命的な散漫を抱えていようとも、流れていくカレンダーの中で、そのような重大なイベントを完全に見落としてスルー(忘却)してしまうなどということは、到底あり得ないと思いたかった。それに、もし本当にそんな日が近づいていたなら、他ならぬルイーザ自身が、世界に向けて大々的にその事実をアナウンス(宣言)して回る姿が容易に想像できたし。
……待って。もしかして彼女は、本当に過去にその事実を私に伝えていて、私がそれを綺麗さっぱり忘却してしまっていたから、あえてお祝いの席(祭り)が開催されなかった、なんていう最悪のプロット(可能性)があり得るのだろうか?
その思考は一瞬だけ私の脳裏を愉快に掠めたけれど、私はすぐさまそれを頭の中から叩き出した。幸いなことに、この世界という舞台は、特定のたった一人の人間(彼女)を中心に回転しているわけではないのだから。
「……もしそうなら、私だって流石に気づくよ」
ルイーザはただ、無言で両肩をすくめてみせた。彼女は私のことを、一体どれほど信用ならない不確かな存在だと見なしているのだろう。自分にとって小さくないウェイトを占める存在(大事な人)から、そんな風に存在価値を疑われるというのは、思っていたよりも少しだけ、胸の奥がチクリと痛む経験だった。
私は彼女に対して、いくらでも反論を組み立てることができたはずだった。けれど結局のところ、私の用意するどんな言い訳も、客観的な事実の前には無力で根拠のないものに成り下がる運命だった。ルイーザは私という人間について、私が彼女について知っていることよりも、遥かに多くの事象を把握していたからだ。もっとも、その知識の大部分は、彼女が日常的に繰り返すあの奇妙な実験の副産物によるものではあったけれど。けれどその事実は、彼女の私に対する関与の深さを否定するものではなく、むしろ逆に、その純度の高さを際立たせる結果となっていた。
その観点から見れば、私の方こそが、圧倒的に『出来の悪い不誠実なコンパニオン(相棒)』であることは明白だった。誰かが向こうから勝手にやってきて、面接のシートを埋めるみたいに自分の全データを開示してくれるなどと期待する方が、そもそも虫のいい話(甘え)なのだ。
「……ごめ――」
彼女はすぐさま首を横に振ると、私の言葉を遮るようにして、その人差し指を私の пальто(パルトー)の襟元へと突きつけてきた。私は首のあたりに片手を置いた格好のまま、動きを完全にフリーズ(停止)させ、彼女の指先をただ呆然と見つめることしかできなかった。
数瞬の後、私はその持ち上げていた手を、力なく下ろした。その手はすっかり冷え切っていて、まるで皮膚のすぐ下を、無数の微細な氷の粒子がパチパチと音を立てて侵食(侵入)していっているかのような感覚に包まれていた。
「あなた、いつも謝る必要のないところでばかり謝るのね」
かすかな衣擦れの音を伴って、彼女の指先がするりと上方に滑り、私の鼻先を軽くピンと弾いた。それは決して強い衝撃ではなかったけれど、あまりの唐突さに、私の頭は無意識のうちに少しだけ上を向いた。 пальто(パルトー)の生地に隠されていた温かい肌が、剥き出しになった途端、冬の冷気によって不快極まりない冷たさに晒される。
私が何かを言い返すよりも早く、ルイーザの人差し指の先が、今度は私の唇へとピタリと押し当てられた。親指だけをピンと立てたその彼女の手の形は、まるで小ぶりな拳銃の銃口を突きつけられているかのように見えた。
おそらく、そのせいであったのだろう。私の心臓が、いつもよりほんの少しだけ騒がしく(強く)脈打ち始めたのは。
「……春休みの、終わる前よ」
春休み? 一体何の話をしているのだろう。
私は思考を巡らせながら、思わず首を傾げた。それに追随するようにして、ルイーザの手も私の動きに合わせて傾いた。まるで、私が言葉を発することを未だに厳重に禁止しているかのように。ということは、彼女の話はまだ終わっていないのだろうか?
互いの顔を至近距離で見つめ合いながら、私たちは二人揃って身体を硬直させていた。誕生日の話題という、ごくありふれた日常の会話が、どうして私たちをこんな場所へと連れてきてしまったのか、私にはさっぱり理解できなかった。私たちの間に流れる空気さえもが、急激に澱み、重苦しく濃密なものへと変化していくかのような錯覚。あるいは、冬という季節がもたらす夜の空気は、最初からいつもこうだったのかもしれない。私には、それを正確にジャッジ(判断)することはできなかったけれど。
「……ちゃんと、一緒にお祝いしてくれるわよね? 私が、学校に通い始める前に」
最後のパート(台詞)は、まるで消え入りそうなほどの囁き声だったけれど、吹き荒れる風の雑音の邪魔を以てしても、私の鼓膜がそれを聞き逃すことはなかった。彼女の指先が私の唇からゆっくりと滑り落ちていったけれど、私はただ、その場に言葉を失ったまま棒立ちになることしかできなかった。
ルイーザがこれから学校に通う予定であるなどということは、今の今まで一度だって耳にしたことがなかった。確かに、年齢を考えればそれは極めて論理的(当然)な選択ではあったけれど……。
『一体いつの間に決めたの?』『お父さんは反対しなかったの?』『本当に準備はできてるの?』『あんたに、本当にそんな場所が必要なの?』
私はそれらの疑問をすべて、彼女に向けて言葉として投げ返さなければならなかったはずだ。けれど、私の喉は完全にロック(凍結)されていて、ただの1文字すら外へと吐き出すことができなかった。私は完全にスタック(停止)してしまい、ただ目の前にある彼女の存在をじっと見つめることしかできなかった。
私の脳内時計の計測で、優に数時間が経過した頃、ルイーザは首を少しだけ前に突き出してきた。まるで、私がまだちゃんと呼吸(生命維持)をしているかどうかを確かめようとするかのように。分かっている、現実の時間としては、おそらく数十秒程度の極めて短い空白に過ぎなかったはずだ。けれど、その瞬間の体感速度は、限りなく永遠に近いものだった。
今の私にできた精一杯の抵抗は、ただ顔の筋肉を動かして、微かな微笑(笑み)を作ってみせることだけだった。それだって、自分の顔が本当に正しい形を維持できているのかどうか、全く確信は持てなかったけれど。寒さのせいで、私の顔の筋肉はとうに死滅(麻痺)してしまっているかのように感覚がなかったから。
私は一体、彼女になんて言葉を返せばいいのだろう……。
どういうわけか、世の中の大半の人間は、虫という生き物を忌み嫌う傾向にある。けれどそのくせ、人間という存在は、呆れるほどにあの灯火に群がる「蛾」の生態に酷似しているのだ。
光が自分たちに対して慈悲(優しさ)を注いでくれることなんて決してないと分かっていながら、それでも彼らは、その眩さ(ライト)に向かって盲目的に飛び込み続ける。そして、ひとたびその熱で自らの羽を焼き焦がされてしまえば、あとに残されるのは、地を這う無様な芋虫と何ら区別のつかない無惨な姿だけだ。けれど、そんな醜悪な生き物であったとしても、自らが燃え尽きるその最後の瞬間には、世界の片隅をほんの僅かに照らす、微弱な光を放つことができる。
もし、世界を生きるということの全貌(意味)が、ただそれだけのシステムなのだとしたら……。
人間に与えられた『世界を観察する』という能力を、彼らはただ、他人の家の窓の隙間を覗き見るためだけに浪費している。他人が残した足跡をなぞりながら進むこと自体は、決して恥ずべきエラーではない。重大な問題が発生するのは、その足跡を、最初から自分自身のものであったと錯覚し始めたその瞬間だ。
けれど、もしその既定のルート(足跡)から外れてしまったら? 針路を逸脱したその先で、私たちは、どれほど強烈な光であっても決して届かないような、完全な暗黒の領域へと迷い込むことになる。
おそらく、私の脳はまたしても物事を大袈裟にウトリローヴァチ(誇張)しすぎているのだろう――これはただの、単なる『学校への進学』という極めて平凡なイベントに過ぎないのだから。それなのに、どういうわけか、私の胸の奥は不快なシグナル(焦燥)を刻み続けていた。彼女を制止するための客観的な理由なんて、どこにも存在しないというのに。
その不安の真のソース(原因)は、おそらく学校そのものにあるのではなく、私がただの『取るに足らない凡人』であるという事実に起因していた。私は、自分の目の前でリアルタイムに展開されていない事象を観測することはできないし、そこに存在しないものに直接手を触れて確かめることもできない。もし……もしもルイーザが、私の存在(居場所)が1ミリも介入できないような、そんな未知のセカイへと巻き込まれていってしまったら? そして私は、その事実を認知することすら叶わないのだとしたら。
それと同時に、私は彼女のその歩みに同伴して、一緒にそのセカイへと飛び込んでいくことなんて、絶対に嫌だし、できっこないことも自覚していた。
だとしたら……私は一体、何を望んでいるというのだろう。
おそらく――どれほどエゴイスティック(利己的)に響こうとも――私はただ、ルイーザがいつまでも、ずっと私の手の届く地平(隣)に留まっていてくれることだけを願っているのだ。もちろん、そんなプロットが不可能なことくらい、私にだって分かっている。同じ一つ屋根の下で生活を営む家族であっても、扉を一歩出れば、そこには家の外の独立したそれぞれの人生があるのだから。ましてや、私たちは……ただのヨリとルイーザだ。それ以上でも、それ以下でもない、ただの二人に過ぎないのだから。
けれど、今問題にすべきなのは、そんな大層な話ではなかった……。
「……うん、もちろん」
私のその返答に満足したように、ルイーザは小さく頷いた。その瞬間、彼女が私との距離を詰めるべく、こちらに向けて一歩足を踏み出そうとしたような気がした。けれど、結果として彼女が選んだのは、後ろへと一歩退くステップ(後退)だった。
そうやって彼女は、自らの目的が達成され、このフェーズにおける私の役割(機能)が終了したことを示したかったのだろうか? 自分の担うロール(役回り)が、これほどまでに微々たる軽量なものであったという現実を突きつけられるのは、心なしか少しだけ寂しい(切ない)経験だった。
私は再び пальто(パルトー)の大きな襟の奥へと顔を埋め、自らの凍てついた肌を、自分の吐き出す呼気(息)の熱だけで必死に温めようと試みた。
結局、ルイーザの正確な誕生日を知ることは叶わなかった。けれど、不思議ともうそのことについて、私の脳が焦燥を訴えることはなかった。どうやら、どれほど不確かに見える口約束であったとしても――それは、私の胸の奥にほんの僅かな希望の粒子(光)を宿すには、十分すぎる強度を持ち合わせていたらしい。たとえ、来年の今頃には、彼女がもう……。
……まあ、そんなことは誰の知ったことでもないけれど。
それよりも、私たちはそろそろ我が家へと引き返すべき時間なのではないだろうか?
私の両肩はズキズキと悲鳴を上げていたし、頭の芯は鉛のように重かった。その感覚は、まるでトレーニングジム(フィットネス)で、普段は存在すら忘れているようなマイナーな筋肉を酷使した後の疲労感に酷似していた。ただ、私の身体において引き攣っているのは肉体ではなく、脳内のあらゆる『焦燥・不安』を司る未知のセクター(領域)だった。もしも脳内に、本当にそんな不快なパーツが存在しているのだとしたら、の話だけれど。
「……もう、あなたたちを待つの、すっかりくたびれちゃったわよ」
お母さんのそのお馴染みの苦情が鼓膜に届いた直後、私の頭のてっぺんに、彼女の顎がぴったりと乗っかるのを皮膚が感知した。さらに彼女の両肘が私の両肩へと容赦なく荷重されたせいで、ただでさえ悲鳴を上げていた私の肩の痛みは、一気にその深度を増すことになった。けれど、それよりも何よりも問題なのは……。
重い。
「……だったら、どうして声をかけてくれなかったのよ?」
彼女のその全体重は、私の疲弊したコンディションに対して何一つポジティブな作用をもたらさなかったけれど、私は自分の背中が、無意識のうちに彼女の身体へとぴったり密着しにいっていることに気づいていた。理由をハッキング(推測)するのは容易だった――お母さんの身体は、呆れるほどに温かかったからだ。
「待ってたのよぉ。冷たい階段のせいで、もうお尻が痛くなっちゃったわ」
「……お母さん!」
耐え難い。今のこのシチュエーション(光景)を正確に描写するためのワードがあるとすれば、きっとその一択(一言)に尽きるだろう。
もしも今の台詞を吐き出したのがお父さんであったなら、私はこれっぽっちも驚きはしなかったはずだ。けれど、まさか他ならぬお母さんの口から、このような公衆の面前で『お尻』などという破廉恥な単語が飛び出すなんて、完全に想定外だった。
けれどその一方で、私たちの間には、何かしらの決定的なイベント(クラッシュ)が必要だったのも確かだ。そうでなければ、私たちの頭上には、いつまでもあの重苦しく澱んだ空気が居座り続けていたに違いないのだから。
どうやら、お母さんの持つあの『場の空気を強制的に中和する』という特殊能力は、今回もまたジャストのタイミングで発動してくれたらしい。
「……なによぉ?」
彼女はまるであからさまな被害者のように、情けない声を引き延ばしてみせたので、私は不覚にももう少しで吹き出して(笑って)しまうところだった。けれど、その瞬間に頬を掠めた冷たい風の刺激が、私に『ここで緊張を緩めてはならない』という警告を思い出させてくれた。
「……なんでもない」




