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第二章 得意なこと、苦手なこと

「違う」


「えぇ〜」


「今のは低い」


「ぺぃぴー的には完璧だったんだけど」


「ぺぃぴー判定じゃなくて、音程の話してる」


「莉歌しゃんせんせー厳しいぃ」


「もう一回」


「はぁい……」


レッスンルームの隅。


ピアノアプリの音が鳴る。


莉緒はそれに合わせて声を出した。


「あー……」


「違う」


「あー……」


「まだ低い」


「あー……!」


「今」


「え?」


「今の」


「どれ!?」


莉歌が吹き出した。


「自分で分かってないの?」


「分かんないから練習してるんでしょ!」


「それはそう」


「もう!」


莉緒は頬を膨らませた。


あの夜から、二人の交換練習が始まった。


莉歌が歌を教える。


莉緒がダンスを教える。


最初は、そんな軽い約束だった。


でも。


「もう一回やる」


莉緒はすぐに真顔へ戻った。


莉歌が音を鳴らす。


歌う。


外す。


もう一度。


また外す。


「莉緒」


「なに?」


「今日はここまででもいいんじゃない?」


「やだ」


即答だった。


「でも、もう結構やってるよ」


「あと一回」


「さっきも言った」


「じゃあ、あと三回」


「増えてるじゃん」


莉緒は笑った。


でも、やめなかった。


できないことが嫌いだった。


正確には――


できないまま終わることが嫌いだった。


     ◇


「じゃあ次、莉歌しゃん」


「はい」


今度は立場が逆になる。


音楽が流れた。


莉歌が踊る。


莉緒は鏡越しに見る。


「ストップ」


曲を止めた。


「ここ」


「どこ?」


「サビ入る前。莉歌、上半身だけで踊ってる」


「……分からない」


「こう」


莉緒が隣に立つ。


一度踊ってみせる。


「足で踏むんじゃなくて、ここから」


自分の腰を指す。


「重心を落として、その反動で上がる」


「こう?」


「違う」


「え?」


「こう」


もう一度。


「……こう?」


「そう! 今の!」


莉歌が鏡を見る。


「何が違うの?」


「え?」


「最初と今」


莉緒が固まった。


「……なんとなく?」


「教えるの下手じゃん」


「うるさい!」


二人で笑った。


でも。


何度か繰り返すうちに、莉歌の動きが変わっていく。


「そうそう!」


莉緒の声が大きくなる。


「今めっちゃいい!」


「ほんと?」


「うん! そこから腕を出したらもっと綺麗!」


莉歌がもう一度踊る。


「そう!」


莉緒は嬉しそうに笑った。


「できてる!」


教えるのが好きだった。


誰かができるようになる瞬間を見るのも好きだった。


それに。


ダンスを教えているときだけは、


自分が何をすればいいのか、全部分かった。


     ◇


数日後。


新曲の全体リハーサルが始まった。


16人が並ぶ。


今回の曲には、途中に短いダンスブレイクがある。


振付の先生が言った。


「ここ、莉緒を中心にしようと思います」


莉緒が顔を上げる。


「私ですか?」


「うん」


嬉しかった。


素直に。


「お願いします!」


曲が流れる。


その部分だけ、莉緒が前へ出る。


身体を落とす。


一気に踏み込む。


回る。


止める。


鏡の中で、15人が後ろにいる。


センターに立つ莉緒。


怖くなかった。


むしろ。


ここなら、もっと見てほしいと思えた。


曲が止まる。


「いいね」


先生が言った。


「やっぱりここは莉緒だな」


胸の奥が熱くなった。


「ありがとうございます!」


「みんなも莉緒のニュアンス見て」


「はい!」


何人かが莉緒の周りへ集まる。


「ここの足どうなってる?」


「莉緒、ゆっくりやって」


「はいはい、順番ね〜」


「ぺぃぴー先生!」


「先生じゃないってば!」


笑い声。


嬉しい。


本当に嬉しい。


これが、私の場所だと思った。


     ◇


その日の最後。


歌いながら、全員で通すことになった。


「本番想定でいきます!」


音楽が流れる。


莉緒は踊った。


歌った。


サビ。


移動。


間奏。


そしてダンスブレイク。


身体が勝手に動く。


楽しい。


音の中に入っていく。


そのまま次の歌唱へ。


息を吸った。


――声が出ない。


「……っ」


出遅れた。


慌てて歌う。


音が揺れる。


次のフレーズ。


また息が足りない。


曲は進んでいく。


止まってくれない。


「はい、ストップ!」


音楽が止まった。


「莉緒」


「はい」


「ダンスブレイクのあと、歌える?」


「……はい」


反射的に答えた。


「かなり息上がってるね」


「大丈夫です」


「一回、そこだけ確認しよう」


「はい」


もう一度。


踊る。


歌う。


やっぱり苦しい。


「もう一回」


「はい」


踊る。


歌う。


声が揺れる。


「……もう一回お願いします」


今度は莉緒から言った。


振付の先生とスタッフが顔を見合わせる。


「一回休もうか」


「大丈夫です」


「莉緒」


「できます!」


少しだけ、声が強くなった。


空気が静かになる。


そのとき。


「莉緒」


後ろから莉歌の声がした。


「一回休も」


「でも」


「今やっても同じになる」


莉緒は振り返った。


その言葉が、少しだけ刺さった。


「……分かってる」


「なら」


「分かってるよ!」


思ったより強い声が出た。


莉歌が黙る。


莉緒はすぐに後悔した。


「……ごめん」


誰も悪くない。


分かっている。


できない自分が、悔しいだけだった。


     ◇


休憩。


莉緒は一人、廊下に座っていた。


ペットボトルの水を飲む。


まだ心臓が速い。


ダンスブレイク。


そこまでは完璧だった。


みんなが見てくれた。


頼ってくれた。


「ここは莉緒だ」


そう言ってもらえた。


なのに。


その直後。


歌った瞬間に、できなくなる。


莉緒は膝を抱えた。


「……なんで」


ダンスならできるのに。


その言葉が、初めて嫌いになった。


     ◇


「はい」


頭の上から声がした。


莉緒が顔を上げる。


莉歌が立っていた。


スポーツドリンクを差し出している。


「水ある」


「知ってる」


「じゃあいらない?」


「……いる」


受け取った。


莉歌が隣に座る。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


先に口を開いたのは莉緒だった。


「さっき、ごめん」


「いいよ」


「八つ当たりした」


「うん」


「そこは否定してよ」


「八つ当たりではあったからね」


「もう」


少しだけ笑った。


でも、すぐに笑えなくなった。


「ねえ、莉歌しゃん」


「なに?」


「歌いながら踊るのって、どうやってる?」


莉歌が考える。


「私も苦しいよ」


「嘘」


「ほんと」


「莉歌しゃん、普通に歌ってるじゃん」


「普通に見せてるだけ」


莉緒が莉歌を見る。


「……そうなの?」


「そうだよ」


莉歌は少し笑った。


「莉緒だってそうじゃない?」


「何が?」


「難しいダンス、簡単そうに踊るじゃん」


莉緒は黙った。


考えたことがなかった。


「できる人って」


莉歌が続ける。


「できるようになるまでのところ、見えないから」


その言葉に、莉緒は目を伏せた。


自分だってそうだった。


何百回も踊った。


転んだ。


できなくて泣いた。


でもステージではそんなものは見せない。


できるところだけを見せる。


だから、簡単そうに見える。


「……莉歌も練習してるの?」


「するよ」


「どれくらい?」


「それ聞く?」


「気になる」


「秘密」


「けち」


また少し笑った。


     ◇


翌日。


莉緒はいつもより早くレッスンルームへ来た。


誰もいない。


音楽を流す。


ダンスブレイクから。


踊る。


そして歌う。


声が揺れる。


止める。


「……違う」


もう一度。


今度は全力で踊らなかった。


少しだけ力を抜く。


歌う。


さっきより声が出た。


「……あ」


もう一度。


ダンスの見せ場だからと、


全部を100パーセントで踊る必要はない。


抜くところ。


呼吸するところ。


歌へ繋ぐところ。


ダンスだけなら、そんなことは考えなくてもよかった。


でも、アイドルとして踊るなら。


その先には、歌がある。


莉緒は鏡を見た。


もう一度。


踊る。


息を吸う。


歌う。


まだ上手くない。


でも、昨日より少しだけ声が出た。


「……よし」


誰も見ていない。


だから、もう一回。


     ◇


それから莉緒は、練習の仕方を少し変えた。


歌だけ。


ダンスだけ。


ではなく。


踊って、歌う。


歌って、踊る。


莉歌に呼吸の位置を聞いた。


自分でも動画を撮った。


走りながら歌った。


階段を上ったあとに歌った。


それでも急には上手くならなかった。


音を外す日もある。


声が出ない日もある。


「今日だめだぁ〜」


床に転がる。


「ぺぃぴー、もう無理でちゅ」


「じゃあ終わる?」


莉歌が聞く。


莉緒は天井を見る。


三秒。


「……あと一回」


「やるんじゃん」


「だって」


莉緒は起き上がった。


「できないままなの、やだもん」


     ◇


数週間後。


また全体リハーサル。


ダンスブレイク。


莉緒が前へ出る。


踊る。


以前より、ほんの少しだけ力を残して。


それでも、見せるところは見せる。


止める。


次のフレーズ。


息を吸う。


歌った。


完璧ではない。


少し揺れた。


でも、


最後まで声が出た。


曲は止まらなかった。


そのまま最後まで進んだ。


「はい、オッケー!」


スタッフの声。


莉緒は息を切らしながら、膝に手をついた。


「はぁ……はぁ……」


隣に莉歌が来る。


何も言わない。


ただ、親指を立てた。


莉緒も返す。


嬉しかった。


たった一フレーズ。


まだ、莉歌みたいには歌えない。


それでも。


昨日できなかったことが、今日は少しだけできた。


その感覚を、莉緒は知っている。


ずっとダンスで、何度も味わってきた感覚だった。


だったら。


歌だって。


まだ、ここからだ。


     ◇


リハーサルが終わったあと。


莉緒は一人、鏡の前に立った。


そこには、汗だくの自分がいる。


ダンスなら、誰にも負けたくない。


それは変わらない。


これからも、一番でいたい。


でも。


歌が苦手だからといって、歌わなくていいわけじゃない。


苦手だからこそ、逃げたくなかった。


莉緒は鏡の中の自分に、小さく笑った。


「ぺぃぴー、まだまだでちゅね」


それから、少しだけ真面目な顔になる。


「……でも」


昨日よりは、できた。


好きになる理由を増やしたい。


そう思った。


でも、そのためには。


まず自分自身が、まだ知らない舞崎莉緒を

ひとつずつ見つけていかなければならない。


ダンスだけじゃない。


歌だけでもない。


まだ知らない何かも。


莉緒はスマートフォンを手に取った。


曲を最初に戻す。


「もう一回」


鏡の中の少女が、同じ言葉を返した。



ーー続く

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