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第一章 りおぺぃぴー

「むりぃ〜」


レッスンルームの床に、莉緒がぺたんと座り込んだ。


「もう動けない。誰か莉緒を運んでぇ」


「はいはい、また始まった」


「りおぺぃぴーがおねむでーす」


「まだ寝ちゃだめでちゅよ〜」


「赤ちゃんじゃないもん!」


莉緒が頬を膨らませると、笑い声が起きた。


Rain Crownの中で、莉緒はよく赤ちゃん扱いされる。


年齢の話ではない。


甘え方。


話し方。


すぐ頬を膨らませるところ。


疲れると誰かにくっつくところ。


いつの間にかファンからも、


「りおぺぃぴー」


と呼ばれるようになった。


本人も、まんざらではない。


配信でも、


「今日もぺぃぴーでちゅ」


なんて言えば、コメント欄が一気に流れる。


『今日もばぶい』


『かわいい』


『保護します』


「ほんと? 保護してくだちゃーい」


『自分で歩いて』


「なんでぇ!」


コメントがまた流れる。


莉緒は笑った。


こういう時間が好きだった。


自分の言葉で誰かが笑ってくれる。


かわいいと言ってくれる。


名前を呼んでくれる。


アイドルになったんだな、と思う。


ずっと画面のこちら側から見ていた世界に、


今は自分がいる。


     ◇


けれど。


音楽が流れた瞬間、


空気が変わる。


「じゃあ、頭から通します!」


振付の先生の声。


莉緒は立ち上がった。


鏡を見る。


五、六、七、八。


一歩目から、別人だった。


鋭く止める。


柔らかく流す。


沈む。


跳ねる。


音を拾う。


ただ振付をなぞるのではない。


どこを大きく見せるか。


どこで力を抜くか。


どの角度なら綺麗に見えるか。


身体が知っている。


曲が止まった。


「莉緒」


「はい」


「今のサビ前、もう一回やってみて」


「はい!」


一人で前へ出る。


踊る。


「そう。それ」


先生がほかのメンバーを見る。


「ここの重心、莉緒を見てみて」


視線が集まる。


でも、怖くない。


ダンスなら。


見られることが怖くない。


「莉緒、あとで教えて」


「私も!」


「いいよ。一緒にやろ」


「さっきまで赤ちゃんだったのに」


「りおぺぃぴー、急に先生じゃん」


「先生じゃないもん!」


また笑いが起きる。


莉緒も笑った。


でも。


少しだけ、嬉しかった。


頼られるのが好きだった。


自分が何年も積み重ねてきたものが、


誰かの役に立っている。


それだけは、胸を張っていいと思えた。


     ◇


その日の午後は、新曲のレコーディングだった。


ダンスレッスンを終えた莉緒は、スタジオへ移動した。


「じゃあ莉緒、いこうか」


「はい!」


ヘッドホンをつける。


目の前にはマイク。


さっきまでとは違う、鏡のない部屋。


イントロが流れた。


莉緒は息を吸う。


歌う。


「……はい、一回止めよう」


「はい」


ディレクターの声は優しかった。


「悪くないよ。もう一回、音程を意識してみようか」


「はい!」


もう一度。


「うん。今度は語尾がちょっと下がったかな」


「はい」


もう一度。


「そこ、力まなくて大丈夫」


「はい」


もう一度。


「惜しい」


「……はい」


何度目か分からなくなった。


ダンスなら、一度言われれば直せる。


身体の角度。


重心。


タイミング。


言われたことを、自分の身体に落とし込める。


でも、歌は違った。


分かっている。


音が少し低い。


力んでいる。


息が足りない。


頭では分かる。


なのに、思った通りに声が出ない。


「ちょっと休憩しようか」


「……はい」


ヘッドホンを外す。


ブースを出ると、スタッフが笑った。


「大丈夫。最初より全然よくなってるよ」


「ありがとうございます!」


莉緒も笑った。


いつもの笑顔で。


「ぺぃぴー、歌もがんばりまちゅ!」


スタッフが笑う。


「その調子」


「はい!」


明るく返した。


それでいい。


そういう自分でいたかった。


     ◇


次の順番は、白藤莉歌だった。


莉緒は帰ろうとして、少しだけ足を止めた。


ブースの中に莉歌が入る。


ヘッドホンをつける。


「お願いします」


曲が流れた。


そして――


歌った。


莉緒は動けなくなった。


同じマイク。


同じ曲。


同じ部屋。


なのに、さっきまでとはまるで違った。


声がまっすぐ伸びる。


音程なんて言葉を意識しているようには見えない。


歌詞が、そのまま感情になって飛んでくる。


歌い終わる。


数秒、誰もしゃべらなかった。


「……いいね」


ディレクターが言った。


「もう一回だけ、ニュアンス変えてもらっていい?」


「はい」


莉歌が答える。


それだけだった。


莉緒は手元の歌詞カードを見た。


同じ紙。


同じ文字。


なのに。


自分が歌ったときとは、


全然違う。


「……すご」


思わず、小さく漏れた。


悔しい。


――より先に、


羨ましいと思った。


私も。


あんなふうに歌えたら。


     ◇


夜。


レッスンルームには、もう誰もいなかった。


電気が半分だけ点いている。


鏡の前に、莉緒が一人立っていた。


スマートフォンから、自分の歌声が流れる。


止める。


戻す。


聴く。


「……低い」


もう一度。


「ここ、苦しそう」


戻す。


歌う。


「違う」


もう一度。


歌う。


「……違う」


何度も繰り返した。


ダンスなら、できないことがあれば踊る。


百回やって駄目なら、もう百回。


だったら。


歌だって同じだ。


「もう一回」


誰もいない部屋で、莉緒は歌った。


上手くない。


自分でも分かる。


だから、もう一回。


声が裏返った。


「……もう一回」


音を外した。


「もう一回」


喉が疲れてきた。


それでも、スマートフォンを止めなかった。


表では、「りおぺぃぴー」と呼ばれて笑っている。


赤ちゃんみたいと言われるのも、


かわいいと言ってもらえるのも、


本当に嬉しい。


あれも自分だ。


無理をして演じているわけじゃない。


だけど。


それが、舞崎莉緒の全部ではない。


何度オーディションに落ちても踊った。


できないステップを何百回も繰り返した。


誰も見ていなくても、ずっとそうしてきた。


だったら。


歌だって。


「……もう一回」


莉緒が息を吸った。


そのとき。


「それ、何回目?」


「ひゃっ!」


莉緒が振り返った。


入口に人が立っていた。


「……莉歌しゃん?」


白藤莉歌だった。


「びっくりしたぁ……」


「ごめん。忘れ物取りに来た」


「もう、心臓止まるかと思ったぁ」


頬を膨らませる。


「ぺぃぴーを驚かせた罰で、抱っこして帰って」


「それは無理」


「なんでぇ!」


莉歌が笑った。


でも、帰らなかった。


床に置かれた歌詞カード。


スマートフォン。


書き込まれたメモ。


莉歌の視線が、そこへ落ちる。


「……ずっと練習してたの?」


「え?」


「歌」


莉緒は一瞬だけ黙った。


それから、いつものように笑った。


「ちょっとだけだよ」


莉歌は何も言わなかった。


その沈黙が、なぜか嫌だった。


「ほんとに、ちょっとだけ」


「うん」


「……なに?」


「別に」


莉歌は莉緒を見る。


「ただ」


少し間を置いて言った。


「莉緒って、ちゃんと悔しがるんだなって」


莉緒の笑顔が止まった。


「……なにそれ」


「いつも楽しそうだから」


「楽しいよ」


「うん」


「アイドル、楽しい」


それは本当だった。


莉緒は少しだけ視線を落とした。


「でも……」


言うつもりはなかった。


誰にも。


こんなこと。


けれど、昼間に聴いた莉歌の歌声が、

まだ耳の奥に残っていた。


「私さ」


歌詞カードを見つめる。


「ダンスなら、負けたくないって思えるの」


莉歌は黙って聞いている。


「みんなが聞きに来てくれるのも嬉しいし、振付の先生に見本やってって言われても怖くない」


「うん」


「でも、歌になると……」


言葉が止まる。


莉緒は少し笑った。


今度の笑顔は、ぺぃぴーの笑顔ではなかった。


「自分が、すっごく小さくなる」


莉歌の目を見ることができなかった。


「今日、莉歌しゃんの歌聴いてたの」


「え?」


「めちゃくちゃ上手かった」


「……ありがとう」


「ずるいなって思った」


莉歌が少し驚く。


莉緒は慌てて続けた。


「いい意味でね!」


「どんな意味」


「分かんないけど!」


二人とも少し笑った。


それから、莉緒は小さな声で言った。


「私も、歌えるようになりたい」


莉歌はすぐには答えなかった。


「莉歌しゃんみたいには無理かもしれないけど」


その瞬間。


「なんで?」


莉緒が顔を上げた。


「え?」


莉歌は当たり前のように言った。


「なんで今、無理って決めるの?」


莉緒は何も言えなかった。


「莉緒、ダンス何年やってる?」


「……ずっと」


「じゃあ歌も、今日一日で決めなくてよくない?」


その言葉が、胸の奥に落ちた。


できなければ百回。


それでも駄目なら、


もう百回。


自分がずっと、ダンスでやってきたことだった。


莉歌が歌詞カードを拾う。


「ここからやる?」


「……え?」


「さっき何回も止めてたところ」


莉緒は莉歌を見る。


「教えてくれるの?」


「その代わり」


「なに?」


「今度、ダンス教えて」


莉緒は目を瞬いた。


「莉歌しゃんに?」


「うん」


「莉緒が?」


「うん」


「……ほんとに?」


「なんでそんな驚くの」


莉緒は少し考えて、笑った。


「いいよ!」


今度は、ぺぃぴーでも、ダンスの先生でもない。


ただの舞崎莉緒として。


「じゃあ、教えて」


歌う少女と、舞う少女。


その夜。


二人は初めて、お互いの苦手なものを交換した。



ーー続く

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