プロローグ アイドルになりたい
テレビの前には、いつも同じ場所が空いていた。
ソファとテーブルの間。小さな女の子が、両手を広げて踊るにはちょうどいい場所だ。
「ママ、見て!」
舞崎莉緒は、テレビの中のアイドルに合わせて腕を伸ばした。
右。左。くるりと回る。
少し遅れた。
「あっ」
曲を戻し、もう一度。
右。左。くるり。
今度は、ぴったりだった。
「できた!」
振り返ると、母が拍手をしてくれた。
「上手、上手」
「もう一回!」
莉緒はすぐに曲を最初へ戻した。
キラキラした衣装。大きなステージ。眩しいライト。
歌って、踊って、大勢の人に名前を呼ばれる女の子たち。
莉緒は、その世界が大好きだった。
「私ね、大きくなったら、これになる」
「アイドル?」
「うん」
母が笑う。
「なれるかなあ」
莉緒は頬を膨らませた。
「なるの!」
なれたらいいな、ではない。
なりたい、でもない。
なる。
幼い莉緒にとって、それは夢というより、未来の予定だった。
◇
ダンスを習い始めた。
最初は、アイドルのように踊りたかっただけだった。けれど、すぐに踊ることそのものが好きになった。
先生の振付を見て、真似をする。
もう一度見て、細かいところを直す。
昨日できなかったことが、今日はできる。音と身体がぴたりと重なる。その瞬間が、たまらなく好きだった。
「莉緒、もう覚えたの?」
「うん」
「早いなあ」
続けるうちに、年下の子へ教えることも増えた。
「莉緒ちゃん、ここ分かんない」
「じゃあ、一回ゆっくりやるね」
莉緒が踊ってみせると、相手の顔がぱっと明るくなった。
「分かった!」
「ほんと?」
「莉緒ちゃんの見たら分かった!」
嬉しかった。
ダンスなら、自分を信じられる。
――これだけは、誰にも負けたくない。
いつしか、そう思うようになった。
◇
中学生になり、アイドルのオーディションを受け始めた。
落ちた。
また受けた。
また落ちた。
「ダンス、いいね」
そう褒めてもらえることはあった。
それでも、最後に名前が呼ばれることはなかった。
悔しくて泣いた日も、莉緒は踊った。
ダンスは、やった分だけ返してくれる。
できなければ百回。それでも駄目なら、もう百回。
「まだ受けるの?」
母に聞かれた。
「うん」
「また落ちるかもしれないよ?」
怖くないわけではなかった。
不合格の文字には、何度見ても慣れない。
それでも、答えは変わらなかった。
「だって、アイドルになりたいもん」
◇
やがて、大きなオーディションを受ける機会が訪れた。
書類を通った。
次も通った。
その次も。
夢が、少しずつ現実に近づいていく。
今度こそ。
そう思った。
最終審査の日、莉緒はできることをすべて出した。
踊った。
笑った。
ステージに立つ自分を思い描いた。
そして――名前は呼ばれなかった。
帰りの電車で、窓に映った自分の顔を見た瞬間、涙がこぼれた。
あと少しだった。
本当に、あと少しだった。
やっとアイドルになれると思ったのに、また届かなかった。
家に帰っても、いつもの鏡の前で音楽を流す気にはなれなかった。
「……何が足りないんだろ」
ダンスなら負けたくない。
自信だってある。
それでも、選ばれなかった。
答えは出なかった。
◇
それからしばらくして、もう一度話が来た。
新しいグループとして活動する道があるという。
莉緒は迷わなかった。
一度閉じたと思った扉が、再び開いた。
今度は、自分から飛び込んだ。
◇
――時は流れ。
「莉緒! 次、ダンスブレイク!」
「はい!」
歓声。眩しい照明。身体の奥まで響く低音。
莉緒はステージの中央へ走った。
音が落ちる。
一瞬の静寂。
そして、踊る。
鋭く、強く、しなやかに。
指先も、視線も、髪の揺れさえも、すべてを音に重ねる。
歓声が大きくなった。
ダンスだけは。
この瞬間だけは、自分を疑わない。
「莉緒ー!」
客席から名前を呼ばれた。
その声に、昔の景色が重なる。
テレビの前で踊っていた、小さな自分。
――私、大きくなったら、これになる。
莉緒は笑った。
なれたよ。
ちゃんと。
あの頃の私が、世界で一番なりたかったものに。
私は今――
アイドルだ。
◇
ステージを降りると、メンバーが駆け寄ってきた。
「莉緒、さっきの間奏教えて!」
「私も!」
「あとで動画撮らせて!」
「いいよ。みんなでやろ」
振付で迷ったら、莉緒。
リズムが取れなかったら、莉緒。
いつの間にか、みんなが頼ってくれるようになっていた。
それが嬉しかった。
Rain Crownの中で、莉緒には誰にも負けたくないものがある。
「莉緒ー!」
今度はスタッフに呼ばれた。
「はい!」
「次、新曲のレコーディング確認するよ」
「あ……」
一瞬、言葉が詰まる。
「……はい」
テーブルの上には、新曲の歌詞カードが置かれていた。
莉緒はそれを手に取る。
ダンスなら、誰にも負けたくない。
胸を張って、これが自分の武器だと言える。
だけど――
歌は。
歌詞カードを握る指に、力が入った。
夢は叶った。
私はアイドルになった。
でも、アイドルは踊るだけではない。
誰よりアイドルが好きだった莉緒自身が、それを一番よく知っている。
ダンスが好きだと言ってもらえるのは嬉しい。
けれど、いつか。
それだけではなく、もっとたくさん、私を好きでいてくれる理由を増やしたい。
ひとつずつ。
ひとつずつ。
その先にいる私は、どんなアイドルになっているのだろう。
莉緒はまだ、その答えを知らなかった。




