第8話 月下の真空波
深夜の境内は、静かだった。
月が高い。雲がなく、杉の木々が月明かりに長い影を落としている。石畳が青白く光り、本殿の屋根の反りがくっきりと夜空に浮かんでいた。
和臣は素振りを続けていた。
影から霊弓を出し、弦を引く。引き絞り、解く。何度も繰り返す。昼間の玄との攻防で掴んだ感覚——土地の気配が手のひらに伝わってくる感覚——を、身体に刻み込むためだ。弦が空気を裂く音が、静かな神域に規則正しく響く。
「まだやってんの?」
社務所の縁側から、声がした。
夏葉が縁側に腰かけていた。短パン姿で、手のひらに小さな炎を灯しながら退屈そうに和臣を眺めている。
「邪魔するなよ」
「してないし。陽秋姉に頼まれた。あんたが一人で夜中に動くなら近くにいてやれって」
夏葉は炎を指先でくるくる回した。
「まあ、姉貴が心配するのはわかるし」
「……それにしても、なんで夏葉は味方するんだ?」
和臣は素振りを止めて、夏葉を見た。夏葉は少し驚いたような顔をした。直球で聞かれると思っていなかったらしい。
「……別に、あんたの味方ってわけじゃないし」
「じゃあなんで?」
「私は陽秋姉の味方」夏葉は炎を消した。「あの人、誰かのために泣けても、自分のためには泣けないタイプだから。あんたがいなくなったら、また一人で全部抱えて、笑ってるだけになる」
和臣は何も言わなかった。
「お姉ちゃんに幸せになってほしいんだよ」
夏葉はあっさりと言った。照れも躊躇もない、真っ直ぐな声だった。
「それだけ、だよ」
「……そうか」
「なに、感動した?」
「してない」
「嘘くさ」
夏葉は足をぶらぶらさせながら、夜の境内を眺めた。月明かりが石畳に落ちている。
「ねえ、ひとつ教えといてやるよ」
「なに?」
「あたしたち、いわゆる妖狐なんだよ」
和臣は手を止めた。
「……狐、か」
「そう。九尾の狐の血を引く一族。陽秋姉は七尾、あたしは五尾、冬華姉さんは九尾、小春はまだ三尾。尾の数が力の強さだと思えばいい」
「七尾というのは?」
「陽秋姉が出してたやつ。光ってたやつ。見たろ」
「ああ、あれか……たしかに見た」
「あれが本来の姿。尻尾が出てる間は力も本気になる」夏葉は自分の背中を親指で指した。「あたしはこれでも抑えてるけど、本気出したら炎で山ひとつ焼ける」
「……物騒だな」
「そりゃ、妖狐だから」
あっけらかんとした声だった。自分たちが何者かを、夏葉はまったく気にしていない。ただの事実として話している。
「ついでに言っとくと」夏葉は縁側から足を下ろした。「お父さんとお母さんの話もしといた方がいいかな。他の3人は言わないだろうから」
「義光さんと咲さんが?」
「神社の狛犬の化身。あの2人は狛犬として、何百年もこの神社を護ってきた。あたしたちの親じゃなくて、護り手。まあ、あたしたちにとっては親も同然だけど」
和臣はしばらく黙っていた。
「じゃぁ、義光さんが冬華さんのことを『お嬢さん』って呼んでたのは?」
「そういうこと。狛犬が妖狐の当主を立てる時の呼び方。義光さんはああ見えて、礼儀はちゃんとしてる」
「……なるほど」
「驚かないの?」
「これでも驚いてるさ。でも、……もうだいぶ慣れてきた」
夏葉が短く吹き出した。
「そりゃよかった」
笑い声が消えた。
次の瞬間、頭上の杉の巨木から、何かが落ちてきた。
◇◆◇◆◇
音がなかった。
気づいた時には、漆黒の翼が和臣の真上に広がっていた。鞍馬だ。
「人間風情が2日も生き延びるとはな」
巨大な団扇が振られた。真空波が石畳を抉る。和臣は転がった。
「夏葉!」
「わかってる!」
夏葉が立ち上がった。手のひらに炎が生まれる。境内が明るくなった。
「右から来る!」
和臣は右へ転がった。真空波が左を砕く。
「次、真上!」
和臣は伏せた。衝撃で髪が浮いた。
「夏葉、消せ」
「え?」
「炎を消してくれ、それを狙われている。大丈夫、俺はやつらの音を耳で追うから」
言われるがまま、夏葉が炎を消した。暗くなる。眼をつぶる。風を聴く。
鞍馬が動くたびに、翼が空気を動かす。その風が杉の葉を揺らし、石畳や本殿の壁に反射して、音の波紋を作っている。弓道で風を読む感覚と同じだ。どの杉の葉が、どの順番で揺れたか。
そこだ!
振り返った。霊弓を引き絞り、射た。
◇◆◇◆◇
白銀の矢が、暗闇を走った。
真空波と正面から衝突した。光が弾けた。衝撃が空気を揺らし、和臣の体に押し波として届いた。
杉の梢が、一斉に揺れた。
鞍馬だけではない。木々の上に、複数の気配があった。漆黒の翼が、月明かりの中でいくつも広がっている。鞍馬の配下の烏天狗たちだ。囲まれている。
「人間ひとりに手こずるとは思わなかったが……」
鞍馬が上から和臣を見下ろした。
「数で押すだけだ!」
そこへ、縁側の方から別の気配が来た。
陽秋だ。白い寝間着姿のまま、本殿の縁側に立っている。背後で、黄金の七尾がゆらりと広がった。眼が、琥珀から冷えた金色に変わっている。
そして、社務所の屋根の上に小春が現れた。白銀の髪が夜風に揺れて、指先に薄く霜が結んでいる。その足元から、石畳に白い結晶が広がり始めていた。
梢の烏天狗たちが、ざわりと動いた。
鞍馬が、三人を見回した。漆黒の翼を大きく広げたまま、動かない。陽秋の七尾の光が境内を照らし、小春の霜が空気を冷やしていく。夏葉の炎が、その間で静かに揺れていた。
「……妖狐が三人、揃ったか」
低く呟いた。
「これは分が悪いな」
夏葉が肩をすくめた。
「最初からそう言ってるじゃないですか!?」
「黙れ、五尾」
配下に向けて、鞍馬が短く何かを言った。梢の気配が、一つずつ消えていく。撤収だ。
鞍馬は最後に和臣に視線を戻した。赤い目が、細くなる。
「人間。今夜は引いてやる」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。姫が三人が揃っていなければ、こうはいかなかった」
それだけ言って、鞍馬は夜空へと飛び上がった。漆黒の翼が月を横切り、杉の梢の向こうへ消えていく。
静寂が戻った。
陽秋が縁側から降りてきた。七尾は収まっている。和臣の顔を見て、頬の傷に気づいた。
「血出てる!」
「擦り傷だよ」
「ダメ、手当てする。来て」
「俺が自分でやるから」
「来て!」
語気が強かった。和臣は素直についていった。
縁側に腰かけながら、手当てしてもらいながら、和臣は陽秋を見た。
「あのさ、聞いたんだけど、陽秋って妖狐なんだって?」
陽秋の手が、一瞬止まった。夏葉に、鋭い視線が飛んだ。夏葉は「まあまあ」と手を振った。
「話すべきだって。どうせ変な誤解されるより」
陽秋はしばらく夏葉を見ていた。それから、ため息をついた。
「……そうだよ」
「さらっと言ってくれたけど」和臣は続けた。「妖狐って、何百年も生きるんじゃないのか」
「あー」
陽秋は消毒液を含ませたガーゼを和臣の頬に当てながら、少し考えた。
「私はそんな歳じゃないよ。普通に20歳」
「でも妖狐は、何百年もかけて妖力とかを上げていくって聞いたことあるけど……」
「あー、それは違うのよ。能力が受け継がれていくの。個体は普通に生きて、普通に死ぬ。私の前に七尾がいて、その前にも七尾がいた。力の系譜が続いてるだけで、私自身は……普通の人間と同じくらいしか生きられない」
和臣は少し考えた。
「じゃあ冬華さんも?」
「同じ。お姉ちゃんも普通の寿命」
「それを知ってて、代々この土地を縛られてきたのか?」
陽秋は答えなかった。
「……私のこと、オバサンだと思った?」
「お、思ってない」
「本当にぃ?」
「に、20歳だと言ったのは陽秋だろ」
ガーゼが、きつく押された。
「痛い!」
「ちょうどいい圧です」
小春が縁側の端で膝を抱えて、二人のやり取りを黙って見ていた。口元が、かすかに緩んでいる。
夏葉が縁側に座り込んで、「まあ、そういうもんだから」と短く言った。それ以上は続けなかった。
境内に、虫の音が響いていた。コオロギの声と、もっと細い鈴虫の音が重なって、昼間の蝉時雨とはまったく違う、静かな夜の音を作っていた。
和臣は本殿の屋根を見上げた。冬華の姿は、もうそこにない。
陽秋が、最後にそっとガーゼを離した。




