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第9話 入道雲と白き竜神

 その日の朝は、特別に暑かった。


 朝食のきつねそばを食べながら、和臣は縁側の外を見ていた。御神木の杉が、すでに陽炎の中に揺れている。空の青さが深く、雲ひとつない。蝉の声が境内の外で重なり合い、境内の内側ではその声が一段低く聞こえた。結界の境目で、音の質が変わっている。それにも少しずつ慣れてきた自分がいた。


「今日も暑いね」


 陽秋が向かいで丼をすすりながら言った。


「この辺、毎年こんなに暑いのか?」

「盆地だから。でもお祭りの頃になると少し涼しくなるんだよ。あと10日くらいで、夕方の風が変わる」

「10日か……」


 和臣は地質図を思い浮かべた。龍脈の調査、弓の鍛錬、茂助の幻術迷宮——やることは山積みだった。


 入道雲が、湧き上がっていた。


 朝から空は青かった。しかし昼前から、天竜川の谷底の方角に、巨大な雲の柱が立ち始めた。夏の積乱雲とは明らかに違う。上に伸びるのではなく、谷底から這い上がってくる。まるで地面から何かが溢れ出しているかのように。


 和臣は縁側から、その雲を眺めていた。


「……あれ、普通の雲じゃないよな」

「うん」


 隣に座っていた陽秋の声が、硬かった。


 雲が、境内まで届いた。


 音が消えた。風が止まった。蝉が鳴きやんだ。鳥居の内側だけではない——八守町全体が、息を止めたように静まり返った。


 白い靄の中から、それが現れた。


◇◆◇◆◇


 蛇に似ているが、蛇ではない。


 全身が白い。鱗が翠色に光り、鹿の角が霧の中で輝いている。爪のある四肢。たてがみが白く、尾の先まで翠の光が走っていた。龍だ。体の太さだけで境内の杉を軽く超えている。その巨体が本殿の上空でとぐろを巻き、境内の中央に降りてきた。


 着地の衝撃は、なかった。


 あれほどの巨体なのに、何も揺れない。まるで最初からそこにいたかのように収まった。それ自体が、普通の生き物ではない証拠だった。


 家の中から足音が来た。冬華、陽秋、夏葉、小春が縁側や庭に出てきた。四人全員が、その巨体に向かって深く頭を下げた。


 義光と咲が縁側の端で地に額をつけていた。豪快な義光が、声もなく、身を折っていた。


 和臣は立ちすくんでいた。冬華がひれ伏している。この冬華が。狛犬の化身である義光と咲が額を地につけている。この土地で最も格の高い存在が、さらにその上の何かに頭を下げているのだと、理解するより先に体が固まった。


「冬華よ」


 口が開いた。声は音ではなく振動だった。地面を伝わり、骨の中まで響いてくる。


「外の人間をここへ引き込んだとは、どういうことか?」


 冬華は頭を下げたまま答えた。


「申し訳ありません、翠玉すいぎょく様」


 翠玉。冬華がその名を呼んだ瞬間、和臣は輪郭のない何かが、名前を得て確かになったような感覚を受けた。


「申し訳では済まぬ。この地の結界は四姉妹の血で保たれている。祭りまで日もない。なぜこの時期に外の者を?」

「……弓が、認めました」


 短い沈黙があった。


 翠玉の翠色の目が、境内を動いた。冬華から、陽秋へ。義光へ、咲へ。そして——和臣へ。


 和臣は、翠玉の目と向き合った。


 縦に裂けた瞳孔。翠の虹彩の中に、何百年という時間が沈んでいるような深さがある。冬華の銀色の目も、鞍馬の赤い目も、この目に比べれば薄い。


 これは——格が違う。


「ほう、人間よ。その弓を見せよ」


 和臣は影から霊弓を出した。


 白銀の光が広がった。いつもより強い。翠玉の翠の光と呼応するように、弓の光が揺れている。


 翠玉の目が、細くなった。


「……ほう、ほう」


 その一言に、空気の質が変わった。叱責の重さが、別の何か——興味、に変わった。


「これは面白い。弓が本当に認めたか」


「はい。試練も、すでにいくつか」


「そうか」


 翠玉はしばらく弓を見ていた。


「この弓は、かつて私がこの神社に預けたものだ。次の主が現れた時、弓が自ら知らせるようにしてあった。それが光ったとあらば、里に下りてくるのは当然のこと」


 冬華の頭が、さらに深く下がった。


「……存じませんでした」

「知らせていなかったからな。必要な時に必要なことが起きる。それだけのことだ」


 翠玉が和臣を見た。


「名は?」

「天城和臣といいます」

「うむ、和臣よ。なんじはなぜここにいる」


「……この土地の地脈を読んで、祭りの奉納を成功させるためにいます」

「ほう」

「それが俺にできることだと思っています」


 翠玉はしばらく和臣を見ていた。それから、低く笑った。音ではなく振動だったが、それが笑いだとわかった。


◇◆◇◆◇


「では、役目を果たすために、ひとつ試練を与えよう」


 翠玉の声が、また重さを帯びた。


「連日の騒動で、この地の龍脈りゅうみゃくが乱れている。夏祭りまでに、その歪みを解いてみせよ」


 和臣は答えた。


「やります」

「待て!」


 翠玉の目が、鋭くなった。


「軽々しく答えるな。失敗すれば、この町は土砂に飲まれる。龍脈の歪みが臨界を超えれば、天竜川の山が崩れる。八守町は消える。それを承知の上で引き受けるか?」


 境内が静まり返った。


 陽秋が、和臣の方を見た。止めたそうな顔だった。夏葉が、珍しく表情を固くしていた。小春が、指先に霜を結ばせたまま動かなかった。


 和臣は少し考えた。


 町が消える。人が死ぬ。それは冗談ではないとわかった。翠玉の目が、そういう目をしていた。地質学者として言えば、龍脈の歪みが引き起こす地滑りや土石流は、現実に起き得る。天竜川流域の急峻な地形は、そのまま大規模崩落の条件を満たしている。


 逃げる選択肢は、ない。


 逃げれば町は消える。逃げなければ、失敗した時に同じことが起きる。ならば逃げずに成功させる以外に道はない。それだけのことだ。


 それでも。


「……引き受けます」

「理由を言え」

「地質学者として、地層の歪みを放置することはできません。それに--」


 和臣は陽秋を見た。


「この町に、残りたい理由ができました」


 陽秋の目が、大きくなった。


「……ふむ、よかろう」


 翠玉が、また低く笑った。


「弓が認め、竜神が認めた。冬華よ、この人間を粗末に扱うでないぞ」

「……はい」


 冬華の声が、かすかに変わった気がした。


 翠玉の巨体が浮き上がった。境内の上空でとぐろを解き、入道雲の中へ戻っていく。翠の光が雲に滲んで、消えた。






 光が戻ってきた。

蝉の声が戻ってきた。風が吹いた。


 義光が地面から顔を上げ、和臣を見て、でかい声で笑った。


「よく言った婿殿!」

「義光さん、うるさい」

「この町に残りたい理由ができたって、婿殿、それ陽秋のことだろ!?」

「義光さん」


 冬華の声が、一段低くなった。義光がさっと口を閉じた。


 夏葉が縁側の柱に寄りかかって、腕を組んでいた。


「弓、翠玉様のだったんだー」

「知らなかったのか」

「知らなかった。お姉ちゃんすらも知らなかったみたいだし」


 夏葉は少し考えてから、「まあでも」


「そういうこと、あの方はよくやる。知らせずに置いといて、必要な時に動く。うちの神社、そういうのに振り回されてばっかりだよ」

「振り回されてばっかり、って言い方するんじゃありません」


 冬華が静かに言った。夏葉が肩をすくめた。


「小春はどこ?」


 和臣が見回すと、小春が御神木の根元にしゃがんでいた。両手を組んで、翠玉が消えていった空を見上げている。


「小春ちゃん?」

「……綺麗だったなあ」


 小春がぽつりと言った。


「翠玉様。でも、何度見ても、慣れない」

「何度も見たことあるの?」


「3回目。でも毎回怖い」小春は立ち上がって、和臣を見た。「お兄ちゃんは怖くなかった?」


「怖かった」

「でも引き受けたんだ」

「怖くても引き受けるしかない時はあるんだよ」


 小春はしばらく和臣を見ていた。それから、こくりと頷いた。


 陽秋が和臣の隣に立っていた。耳が、少し赤かった。


「ちょっと、聞きたいんだけど、さ。……残りたい理由、って?」

「聞こえてたか」

「聞こえてたよぉ」


 和臣は少し考えて、「まあそういうことだ」


 陽秋は俯いて、小さく笑った。


 石畳の上に、入道雲の影がゆっくりと流れていった。祭りまで、あと10日。


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