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第7話 九重淵の攻防

 朝食を終えると、冬華が地図を持って縁側に現れた。


「今日はここを調査してきてほしいの」


 広げた地図の上、神社から山道を30分ほど下った場所に指が置かれた。『九重淵』と書いてある。


「天竜川の支流が石灰岩の崖に食い込んでできた淵です。地脈の歪みが最も強く出ている場所のひとつ。水脈の分布と結界の歪みがどう対応しているか、あなたの目で確かめてきなさい」


「一人で、ですか?」

「そうです」

「フィールドワークは基本、単独行動を避けるんですが……」

「何かあっても--」


 冬華は和臣の手元、弓が仕舞われている影をちらりと見た。


「その弓が護るはずです」


 それだけ言って、引き戸の向こうへ消えた。


 和臣はしばらく地図を見ていた。


(つまり、弓を信じて一人で行けるかどうか、ということか)


 試練の意味が、じわりと見えた。地脈の調査と、弓への信頼。両方を同時に試している。そういうことなら、納得だ。


「和臣くん」


 縁側の端から、義光が顔を出した。


「その弓、背負ったままじゃ山は歩きにくいだろ」

「はい、それは思ってました」


「教えといてやる」義光は弓を指さした。「依代が認められた弓はな、主が念じれば影の中に仕舞える。出す時も念じるだけだ」


「影の中に!?」

「そういうもんだ。咲に確認したから間違いない」


 和臣は半信半疑のまま、弓を持って目をつぶった。〈仕舞う〉と念じた。


 弓が、消えた。


 手のひらから、すうっと抜けていくような感覚があった。足元の影が一瞬だけ濃くなり、それで終わりだ。弓はどこにもない。


「出す時は?」

「〈出す〉でいい」


 念じると、影から弓が戻ってきた。手のひらに、あの振動が戻る。


「……便利ですね」


「最初に教えてやれよって咲が言ってたんだが」義光が頭を掻いた。「お嬢さんが何も言わないから、わざとかと思って」


「……お嬢さん?」


 和臣は聞き返した。義光はさらりと続ける。


「冬華のことだ。気にすんな」

「気になりますが……」

「気にすんな」


 義光はそれ以上何も言わず、「気をつけろよ、婿殿」と手を振って縁側の奥へ消えた。

 和臣は弓を再び仕舞った。両手が空いた。


「行ってきます」


 九重淵ここのえふちは、神社から山道を30分ほど下った先にあった。


 天竜川の支流が、石灰岩の崖の間に食い込んで作った深い淵だ。水は鳥居の内側の川面と同じエメラルドグリーンで、底まで透き通っている。岸から覗き込むと、白い岩盤が水中に沈んでいるのが見えた。石灰岩の亀裂が、そこかしこに走っている。


 和臣はクリノメーターを取り出して、岸の露頭ろとうに当てた。傾斜角は55度。走向は南南西。この亀裂の入り方は、地下水脈がこの場所に集中していることを示している。


(結界の歪みと、水脈の分布が一致してる)


 和臣はクリノメーターを取り出して、岸の露頭ろとうに当てた。


「来たな、都会の若造」


 淵の対岸から、声がした。


 玄が立っていた。役場のポロシャツ。金色の目。近づいてよく見ると、頭の頂にわずかに凹んだ皿のようなものがある。肌は青みがかった灰色で、湿った光を帯びている。喉の奥で低く鳴らすような声で、笑っている。


(河童、か!?)


「お嬢の命令だ。水難事故で帰ってもらうぞ」


 和臣は立ち上がり、影から霊弓を引き出した。


◇◆◇◆◇


 玄が喉を鳴らした瞬間、淵の水面が盛り上がった。


 渦だ。淵の中央から水が螺旋状に立ち上がり、次の瞬間には壁のような水塊が和臣へ向かって押し寄せた。鉄砲水だ。水量が、淵の大きさからは考えられないほど多い。地下水脈を全部引き込んでいる。


 和臣は横に転がった。水塊が岸をえぐって飛び過ぎる。衝撃で石畳が吹き飛び、弾け飛んだ石片が頬に当たった。


「お兄ちゃん!」


 背後から声がした。小春だ。


 いつの間にか、山道の入り口に小春が立っていた。白銀の髪が乱れている。「ついてきちゃった」と言わんばかりの、バツの悪そうな顔だ。しかし目は真剣だった。


「陽秋お姉ちゃんに頼まれて……こっそり見てるだけのつもりだったんだけど」


 小春は淵と玄を見て、顔色を変えた。


「お兄ちゃんは逃げて!」

「大丈夫、後ろで見てて。それに、小春ちゃんも……そう簡単にやられないだろ」


 第二波が来た。今度は左右から挟み込むように、水が二股に分かれて迫ってくる。和臣は岸の岩陰に飛び込み、身を縮めた。水塊が頭上を越えて、岩に叩きつかる。冷たい飛沫が顔を打つ。


 息が上がっていた。


 落ち着け。


 和臣は岩陰で呼吸を整えながら、水の動きを観察した。第一波は直進。第二波は二股。どちらも、玄が立っている淵の中央から発生している。水術の起点は、あそこだ。


 問題は、距離と角度だ。


 淵の幅はおよそ8メートル。対岸に立つ玄まで直線で届く角度では、水面が邪魔になる。水中に向けて射つなら、水の屈折率を計算に入れなければならない。水の屈折率は1.33。空気中の入射角と水中の透過角の差——スネルの法則。高校物理の話だ。


 しかし数値だけではない。実際の水中では、流れがある。玄の術で水が動いているから、屈折の計算が複雑になる。


 和臣は透き通った水の底を見た。白い岩盤。亀裂の走り方。


あそこだ!


 水面から3メートルほど下、淵の中央よりやや南寄りに、他の亀裂より太い一本がある。そこだけ、岩盤の色が違う。鉄分が染み出しているのか、わずかに赤みを帯びていた。あそこを射抜けばいい。


「まだ粘るか!?」


 玄の声がした。第三波の気配がした。

 水面が大きく盛り上がる。今度は今までより規模が大きい。


 その瞬間。


 水面が、凍った。


 一部だけだ。淵の端、和臣が身を隠している岩陰の手前2メートルほどの範囲が、薄い氷の膜に覆われた。第三波の勢いが、そこで一瞬だけ殺される。


「あ!」


 小春の声がした。振り返ると、小春が自分の指先を見て、驚いた顔をしていた。意図してやったのではないらしい。怖くて感情が高ぶって、力が漏れ出した。


 しかしその一瞬が、和臣には十分だった。


◇◆◇◆◇


 和臣は岩陰から身を乗り出した。


 霊弓を手に取る。弦を引く。高校時代から何万回と繰り返してきた動作だ。しかし今日の呼吸は違う。弓道場の静寂ではなく、水飛沫と川の轟音の中で、それでも和臣の意識は研ぎ澄まされていく。


 水面の角度。目標までの距離。水の屈折率。


 射た。


 白銀の矢が、水面を切り裂いて沈んでいった。


 一拍の間があった。


 淵の底で、何かが砕ける音がした。低くて重い音だ。その直後、水面が一度大きく波立ち、それから静かになった。渦が、収まっていく。玄の鉄砲水が、霧散した。





 静寂が戻った。

 川のせせらぎだけが残っている。


 玄が対岸に立ったまま、淵を見ていた。それから、ゆっくりと和臣に視線を向けた。金色の目が、細くなった。


「……まさか水中の亀裂を、射抜いたか!?」

「結果的に、角度の計算が合ってよかった」

「あの氷は?」


 玄の視線が、小春に移った。


「小春嬢ちゃんがやったのか?」


 小春が肩をすくめた。


「……知らない。勝手に出た」

「ははは、そうか。さすがですな」


 玄は少しの間、和臣を見ていた。それから、首の後ろを掻いた。


「……お前もただの人間じゃねえな」

「それはどうも」

「褒めてねえよ」


 玄はそう言って、また小春をちらりと見た。


「二の姫がぞっこんらしいのは聞いてたが、四の姫の小春嬢ちゃんまでこっちか。冬華お嬢が浮かばれねえな」

「玄さん……」


 小春の声が、一段低くなった。水色の目が、すっと細くなる。


「余計なこと言わなくていいです」

「……はいはい」


 玄は首の後ろを掻きながら、川の上流へと歩いていった。水面を、足が沈まないまま渡る。それから、ふと振り返った。


「一応言っとくがな」


 金色の目が、和臣を見た。


「俺は、まあ……悪くねえと思ってる。今日のことはな」

「ありがとうございます」

「礼はいらん。ただ--」


 玄の目が、少し険しくなった。


「次は鞍馬だ。あいつは俺ほど甘くないぞ。本気で気をつけろ」


 それだけ言って、玄はポロシャツの背中を向けて、木々の間に消えた。


 和臣は霊弓を下ろした。手が、少し震えていた。今気づいた。


「お兄ちゃん!」


 小春が駆け寄ってきた。和臣の腕に抱きついて、上を見上げる。水色の目が、今にも泣きそうだ。


「怪我した?」

「ちょっと擦り傷だけ」

「ごめんね、私、ついてきちゃって」

「いや、むしろ助かった」

「え?」

「さっきの氷。あれで一瞬止まってくれたから、射てた」


 小春は目をぱちぱちさせた。それから、指先を見て、また和臣を見た。


「……役に立てた?」

「ああ、役に立った」


 小春は、ぱっと顔を輝かせた。それからすぐに真顔になって、「でも、勝手についてきたのはごめんなさい」と頭を下げた。


 和臣は淵を振り返った。水面はもう穏やかで、エメラルドグリーンの底に、白い岩盤が静かに沈んでいた。亀裂は、砕けている。


 地質図に、新しい数値を書き込んだ。


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