第6話 甘いきつねそばと決意
縁側で目が覚めた。
布団ではない。昨夜、座ったまま眠ってしまったらしい。首が痛い。体の節々が、板張りの硬さを正直に訴えていた。
空が、白んでいた。
東の稜線の向こうから、朝の光が少しずつ滲み出している。杉の梢が、その光を受けて緑から金へと変わっていく。鳥の声がした。ひとつ、またひとつ。蝉はまだ鳴いていない。
和臣はしばらく、その光景をぼんやりと眺めた。
昨日のことが、頭の中に順番に並んでいる。蔵。座敷童の矢印。宗次郎の古書店。珠子の二本の尾の影。駅の前の星空。石段を登り返したこと。御神木の下の会議。冬華の「鍛錬に付き合いなさい」。夏葉の「望むところ」。小春の顔。
夢ではなかった。全部、昨日の現実だ。
境内は静かだった。鳥居の外からだけ、遠い川の瀬音が聞こえてくる。
◇◆◇◆◇
甘い匂いがしてきたのは、空が完全に明るくなった頃だった。
陽秋が割烹着姿で縁側に現れた。盆の上に丼をひとつ。湯気が立ち昇っていて、その匂いで中身はわかった。
「起きてたんだ」
「ここで寝てた」
「……ごめんね、ちゃんと布団に案内すればよかった」
「俺が勝手に寝たんだから気にしなくていい」
陽秋は和臣の隣に腰を下ろして、丼を差し出した。きつねそばだ。また分厚い油揚げが2枚、どっしりと沈んでいる。
「今日も甘いやつ?」
「うん、めっちゃ甘いやつ!」
和臣は箸を取った。油揚げを一口噛んだ瞬間、出汁の旨みと砂糖の甘さが口の中で爆発した。むせた。2日目でも慣れない。
しかし、不思議と、今日も疲れた身体に染み渡る味だった。
二人でしばらく黙って食べた。鳥の声が増えてきた。杉の梢の向こうで、空が青くなっていく。これ以上ないほど穏やかな朝だ。昨日あれだけのことがあったとは思えない。
思えないのに、頭の中には全部残っている。
「陽秋」
「うん?」
「昨日の会議、見てた」
陽秋の箸が止まった。
「……どのくらい?」
「全部」
陽秋は少し間を置いて、「そっか」 それから、丼を盆の上に戻して、膝の上で手を組んだ。
◇◆◇◆◇
陽秋は、しばらく何も言わなかった。
目線が膝の上に落ちている。朝の光が横顔を照らしていた。いつものおっとりとした顔が、今日は少しだけ違う。唇が、何かを言おうとして、止まっている。
「……和臣くん」
「うん」
「私、和臣くんが人間界に帰るって言っても、止めないよ」
和臣は陽秋を見た。陽秋は顔を上げなかった。
「お姉ちゃんに酷いことされる前に、逃げて」
声が、静かだった。泣きそうな声ではなかった。それが逆に、重かった。泣きそうになりながら言っているのではなく、覚悟を決めて言っている声だ。
「鞍馬も玄も、本気だから。昨日はああ決まったけど、彼らはまだ和臣くんのことを信用してない。これから先、本当に危ない目に遭わせると思う」
「知ってる」
「知ってて、それでも--」
「知ってて、それでも逃げない」
陽秋が顔を上げた。琥珀色の目が、和臣をまっすぐに見た。
「……どうして?」
「どうして、って聞かれたら……」
和臣は少し考えた。きつねそばの丼を手に持ったまま、朝の境内を眺めた。御神木の杉が、朝日を受けて長い影を石畳に落としている。
「地質図を持ってここまで来た。この土地の地層がおかしい理由を知りたかった。その理由が結界だとわかった。じゃあ、その結界に俺の弓が使えるなら、使いたい」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど、さ」
「……私のため、ってわけじゃないの?」
探るような目だった。
「陽秋のためでもある」
「むむー。でもある、ってことは、全部じゃないんだ」
「ごめん、全部じゃない」
「正直だね」
「……嘘ついても仕方ない」
陽秋は少し黙った。それから、縁側の外に視線を向けた。石段の下の草むらの方を。
「昨日の夜、蛍が出てた」
「蛍?」
「この辺は山が深いから、7月の末でもまだちょっとだけ出るんだよ。鳥居の外の川沿いの草むらに」
和臣は視線の先を見た。昼間の光に照らされた草むらには、当然今は何もいない。
「見たの?」
「うん。縁側から、和臣くんのことを待ってたら、遠くにちらちらしてて」
陽秋の声が、少しだけ和らいだ。
「この辺の蛍は光が強いんだよ。地脈が関係してるのかって、お父さんが言ってた」
「地脈が蛍の発光量に影響する、か……」
「和臣くんならそういうとこが気になるよね」
陽秋がくすっと笑った。それから、すぐに笑顔を引っ込めて、また膝の上に視線を落とした。
「……私のためだけだったら、止めてたんだけどな」
ぽつり、と言った。
「私のためだけで危ない目に遭わせるのは、嫌だから。でも、和臣くん自身がやりたいって思ってるなら」
陽秋は言葉を切った。
「止める理由が、なくなっちゃった」
和臣は何も言わなかった。
蛍の話をしながら川沿いを見ていた陽秋の横顔が、頭に残っていた。縁側からひとりで和臣を待ちながら、草むらの蛍を眺めていた陽秋の夜が、想像の中に浮かんだ。
それだけじゃない部分、というのが何なのか。和臣は自分でも、まだうまく言葉にできていなかった。ただ、言葉にできなくてもいい気がした。今はまだ。
◇◆◇◆◇
朝食を終えてから、和臣は蔵へ向かった。
扉の錠は、昨夜のうちに外されていた。中へ入ると、黴と墨とオゾンの匂いが迎えてくる。昼間の光が換気口から差し込んでいて、昨夜よりは明るい。
棚の奥。桐箱の前にしゃがみ込む。
蓋を開けた。
漆黒の弓が、そこにあった。
和臣はその弓を手に取った。
昨夜と同じ振動が、手のひらに伝わってくる。地層の鼓動。この土地の脈。しかし今日は、それがもう少し強い。昨夜より、はっきりと伝わってくる。
弓が、光った。
白銀の光が弓全体に広がった。昨夜は「じわり」と滲むような光だったが、今日は違う。輪郭がはっきりしている。明確だ。まるで、和臣の決意を読んだかのように。
(弓道を始めたのは中学の時だ)
和臣は光を見ながら、思い返していた。
顧問に勧められて、特に深い理由もなく始めた。的に当てることに面白さを感じた。毎日繰り返した。大学でも続けた。それだけのことだ。地質学を選んだのも似たようなものだ。見えない地層の構造を、露頭や傾斜から読み解く。見えないものを、見えるものから逆算する。
その積み重ねが、今ここで意味を持っている。
弓の弦を張れば、弦は張力を蓄える。地層に力がかかれば、岩盤は歪みを蓄える。どちらも、限界を超えた時に解放される。その解放の方向と大きさを読む目は、弓道も地質学も変わらない。
(そうか。俺にできることは、最初からひとつだったんだ)
白銀の光が、手のひらから腕へと広がっていく。
蔵の外から、蝉の声が聞こえ始めていた。
和臣は弓を持ったまま立ち上がった。首から下げた10倍ルーペを、左手で軽く握る。弓は右手に。地質学者の道具と、依代の証。どちらも、この土地を読むためのものだ。
夏の朝が、本格的に始まろうとしていた。




