第4話 古書店と影を渡る猫
夜中の2時を過ぎた頃、和臣はようやく動く決意をした。
弓を持ったまま、蔵の中を一周した。扉は錠が下りている。換気口は小さすぎる——と昼間は思っていた。だが、もう一度近づいてよく見ると、換気口の枠がわずかに浮いていた。内側から外せる構造になっている。
そして。
換気口の外側、木枠の端に、泥で何かが描かれていた。
矢印だ。細くて小さい。子供の指で描いたような。
(……ありがとう、本当に)
和臣は換気口の枠を外した。開口部は肩幅ギリギリだった。弓を先に通し、身体を横にして、息を吐ききって、ねじ込んだ。皮膚が擦れて痛かったが、出られた。
境内は、静かだった。
虫の声と、遠い川の瀬音。月が出ていて、石畳が青白く光っている。本殿の灯籠がひとつだけ揺れていた。
和臣は立ち上がり、鳥居へ向かって歩き始めた。
その時、後ろから視線を感じた。
振り返ると、本殿の縁側に人影があった。冬華だ。スーツではなく、白い寝間着姿。腕を組んで、和臣をじっと見ていた。
止めるかと思った。声をかけられるかと思った。
冬華は何もしなかった。
ただ見ていた。目が合ったまま、動かない。
その銀色の目が、暗闇の中でかすかに光っていた。
和臣は一秒、冬華を見返した。それから、鳥居に向かって歩き続けた。
後ろでは結局何も起きなかった。
◇◆◇◆◇
八守町の商店街は、深夜には別の顔をしていた。
シャッターの下りた店が並ぶ路地に、街灯がまばらに立っている。光の届かない場所が多く、自分の足音だけが妙に響いた。虫の声が、不自然なほど大きい。耳に貼りつくような、低くて連続した鳴き声だ。
和臣は弓を小脇に抱えたまま歩いていた。逃げるために降りてきたのか、真実を知るために降りてきたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、深夜の商店街を古びた弓を持って歩く人間というのは、どう見ても不審者だ。それはわかっていた。
「おい、そこの若いの」
いきなり声をかけられた。
古い木造の建物の引き戸が開け放たれ、中から黄色い灯りが石畳に落ちていた。看板に『葛葉古書店』とある。店先に、男が立っていた。50代か60代か、よくわからない。丸眼鏡に、洗いざらしの作務衣。白髪交じりの頭を掻きながら、和臣を見てにやりと笑った。
「その格好で商店街をうろうろするな。目立つ」
「……深夜に開いてる古書店も目立ちませんか」
「いいから入れ。早く」
有無を言わさず腕を掴まれ、和臣は店の中に引き込まれた。
◇◆◇◆◇
古書店の中は、壁という壁が本棚になっていた。天井まで届く棚に、背表紙の色あせた本が隙間なく詰まっている。カウンターの隅に猫がいた。三毛猫だ。和臣が入ってくると、つまらなそうに目を細めて、視線を外した。
「座れ座れ。茶くらい出す」
男の名は宗次郎と言った。カウンターの奥で急須を傾けながら、和臣の手元をちらりと見る。
「その弓、九重の蔵のやつだな。出会っちまったか」
「……知ってるんですか?」
「知っとるよ。あの蔵のものは大抵知っとる」
湯呑みが差し出された。和臣は受け取って、一口飲んだ。煎茶だ。普通においしかった。
「あなたも、人間じゃないですか」
宗次郎は眼鏡を押し上げ、楽しそうに目を細めた。
「正解。ま、お嬢に睨まれたら地獄まで凍りつくぞ、都会の若造。今頃あの方はお前さんが出てきたのを見て、どうするか考えとる」
「見てました。止めなかった」
「そうか」
宗次郎は少し黙った。それから、独り言のように言う。
「……わざと出られるようにしてある、と思わなかったか?」
和臣は湯呑みを置いた。
「思いました。それで、教えてもらえますか。この町が何なのか。九重神社が何なのか」
宗次郎は立ち上がり、棚から古い地図を引き抜いた。広げると、八守町の周辺地形が描かれていた。等高線の密度が、尋常ではない。
「お前さん、地質をやっとるんだろ。ここの地層の歪みは気になっとったか?」
「ずっと気になってました。褶曲の走向が理論値と全然合わない」
「その歪みの原因がな」
宗次郎は地図の中心、九重神社の位置を指で叩いた。
「この土地の地下には、巨大な霊的断層がある。放っておけば、霊気が地表に漏れ出して、妖怪どもが際限なく溢れかえる。九重神社はその蓋だ。四姉妹が結界の要石になって、断層を抑え込んでいる」
「要石、というのは?」
「要石というのはな、年に一度、夏に行われる鎮魂の祭りで、四人が揃って結界を張り直す。それが何より大事だ。あの祭りを欠かせば、結界が綻び始める」
「つまり、普段は離れていてもいい?」
「普段はな。ただし祭りだけは絶対に戻らなければならん。どんな事情があっても、どこにいても。陽秋が毎年この時期に帰ってくるのも、そういうことだ」
和臣は少し考えた。
「陽秋が東京の大学に来たのも……」
「祭りさえ外さなければ、お嬢も止めんよ。あの子が外の世界を見たかったのも知っとるしな」
宗次郎は湯呑みを手の中で回した。
「ただ、お前さんを連れてきたのは別の話だ。祭りの前に外の人間を引き込むのは、あの方には許しがたかったんだろう」
和臣は地図から目を上げた。
「縛られてる? 陽秋も?」
「四人全員。生まれた時からそういう役割を持っとる」
「本人たちは納得してるんですか?」
「納得するしかないからな」
宗次郎は淡々と言った。和臣は口を閉じた。陽秋が「難しいことはわかんないけど」と笑っていた声を思い出した。わかっていたのか、あの時。全部。
「妖怪どもが溢れかえると言いましたが、この町にはもう妖怪がいるじゃないですか。あなたも含めて」
「おる。おるが、お嬢の管理下にある。勝手に暴れたり、人に害をなしたりはせん。さっきの狂い熊みたいに、外から入り込んだ制御の利かんものとは別だ」
「冬華さんがこの町の妖怪を統べている」
「そういうことだ」
和臣は地図を見た。神社を中心に、地形が放射状に広がっている。山の褶曲の方向が、すべて神社を中心にした力の流れと一致していた。
「だから地層が歪んでいるのか。結界の力が地盤そのものを変形させている」
「お、わかるか!?」
「……霊的な力が物理的な地層に影響を与えるとは思っていませんでしたが……」
「思っとる間もなく現実になっとるわけだがな」
宗次郎はくつくつと笑った。三毛猫がカウンターから降りて、和臣の足元をすり抜けていった。
◇◆◇◆◇
古書店を出ると、商店街の奥に光があった。
コンビニだ。看板に『二尾』とある。変わった名前だ。深夜でも煌々と明るく、自動ドアが和臣の前で開いた。冷えた空気が出てきた。
飲み物を1本取って、レジに向かった。
レジ打ちの少女は、気怠そうに和臣を見た。20歳前後か。黒髪を無造作に結んで、制服の第一ボタンを開けている。名札に『珠子』とある。
「いらっしゃ……あ」
バーコードを手に取りかけて、珠子の動きが止まった。
和臣を、じっと見た。目が細くなる。
「……陽秋ちゃんが連れてきた人間?」
「知ってるんですか」
「ん〜」
珠子は気怠そうに首を傾けた。
「なんか匂うから。あの子の気配がついてる」
和臣は言葉に詰まった。匂う、という表現が、人間のものではなかった。
「178円です」
珠子は何事もなかったようにバーコードをスキャンした。
和臣はふと、防犯カメラのモニターを見た。レジの後ろのモニターに、和臣自身が映っている。しかし、珠子の姿がない。カメラには、何も映っていなかった。
そして……。
珠子の背後に、影が揺れていた。体の影ではない。体とは別の、2本の尻尾の形をした影が、床に落ちていた。
「お釣り22円」
珠子が硬貨を差し出した。相変わらず、気怠そうに。
「……ありがとうございます」
「どうも」
それから、珠子は小声で付け足した。
「陽秋ちゃんのこと、よろしく。あの子が泣くの、見たくないから」
自動ドアが開いた。夜の空気が、また顔に当たってきた。
◇◆◇◆◇
駅は、商店街を抜けた先にあった。
始発まで時間はある。ここで待っていれば、豊橋まで出られる。新幹線に乗れば、夕方には東京に帰れる。
和臣は駅の前に立った。
この町全体が、妖怪の棲み処だ。冬華がそれを統べている。四姉妹は結界の要石で、陽秋はその1人で、生まれた時からこの土地に縛られている。
手の中の弓が、低く振動していた。
(よろしく、か)
珠子の言葉が、頭の中で繰り返された。あの気怠そうな声で、あっさりと言った。陽秋ちゃんのこと、よろしく。妖怪に「よろしく」と頼まれた人間というのは、なかなかいないだろう。
陽秋の顔が浮かんだ。泣きそうなのに笑おうとしていた、あの不器用な顔。片手で熊を止めた衝撃音と、それでも和臣を見た琥珀色の目。
(俺が逃げたら--)
和臣は空を見上げた。星が出ていた。明かりの少ないこの町では、東京では見えない星まで見える。
(彼女はずっと、あんな顔でここに縛られるのか……)
答えはすぐに出なかった。
しかし、足は先に動いていた。
踵を返して、和臣は歩き始めた。
街灯の少ない商店街を抜けて、林道を登って、石段の下まで来た時、冬華がまだそこにいた。縁側ではなく、石段の途中に座って、膝を抱えていた。白い寝間着が、月明かりに浮かんでいる。
和臣が石段に足をかけると、冬華が顔を上げた。
銀色の目が、和臣を見た。
何も言わなかった。和臣も何も言わなかった。
ただ、和臣はそのまま石段を登り続けた。冬華の横を通り過ぎる時、冬華は視線を外さなかった。
石段の上、本殿の縁側に、陽秋が座っていた。
和臣の姿を見た瞬間、陽秋の目が大きくなった。
「……和臣くん」
「ただいま」
陽秋も何も言わなかった。ただ、膝の上で両手を強く握りしめた。
虫の声が、さっきより静かになっていた。




