第3話 蔵の匂いと目覚める霊弓
陽秋は答えなかった。
正確には、口を開きかけて、閉じた。琥珀色の目が揺れて、視線が和臣から外れる。その横顔が、泣きそうなのに笑おうとしているさっきの顔とは別の、もっと困り果てた表情になっていた。
「……帰ろう。お母さんが心配する」
それだけ言って、陽秋は山を下り始めた。
和臣はしばらくその場に立ったまま、封じられた熊と、陽秋の背中を交互に見た。ロックハンマーは、まだ手の中にあった。
◇◆◇◆◇
神社に戻ると、冬華が待っていた。
境内の石段の下。スーツ姿のまま、腕を組んで立っている。和臣たちが鳥居をくぐるのを見て、ゆっくりと近づいてきた。陽秋の顔を一瞥して、熊に向かったと察したのだろう——目を細めた。
「やっぱり出たのね」
「……ごめんなさい、お姉ちゃん」
「謝るのはいい。それより」
冬華の視線が、和臣に移った。
「見てしまったわね」
「見たというか、目の前で起きたんですが……」
和臣は努めて冷静に言った。それから、ふと思った。
「……冬華さん、朝は出かけてましたよね。なんで……」
「感じたから」
冬華は短く答えた。それ以上の説明をするつもりはない、という声の質だ。陽秋と咲は何も言わなかった。当然のことのように、目を伏せていた。
「そもそも、あの熊は何だったんですか。普通の熊じゃなかった。陽秋も、あの光も、木の根も。俺は説明を聞く権利があると思うんですが」
冬華は答えなかった。和臣を見たまま、表情を動かさない。
「陽秋。君から話してくれないか」
陽秋は、唇を噛んで俯いた。
「……ごめん。私からは--」
「話せない?」
「うん、話せない。ごめんなさい」
和臣は息を吐いた。
「じゃあ、せめて。あの弓みたいな光は何で、記憶を消すってどういう意味で、俺はいまここで何をどう判断すれば――」
「天城和臣さん」
冬華の声が、一段低くなった。
「あなたは今日、見てはいけないものを見た。それはあなたにとって、不幸なことです」
「不幸かどうかは俺が決めます」
「いいえ」
冬華は静かに、しかし完全に和臣の言葉を遮った。
「あなたのために、今日の記憶を消します。それがあなたにとって最善です」
「勝手に決めないでください。俺は――」
「陽秋を巻き込まないためでもあるの!」
その一言で、和臣は言葉が止まった。
冬華は続ける。
「あなたが今日のことを外に持ち出せば、陽秋が危険にさらされる可能性がある。わかりますか? これはあなたへの罰ではありません。あなたと陽秋の、両方を守るための措置です」
銀色の目に、感情の波がなかった。怒ってもない、憐れんでもない。本当に、ただ事実を告げているだけの目だ。
「……陽秋、それでいいのか」
和臣は陽秋を見た。陽秋は顔を上げなかった。
「陽秋」
「……ごめん」
絞り出すような声だった。
奥から咲が出てきた。いつも通りの静かな顔で、和臣を一度見て、冬華に視線を移した。何かを訴えるように、目が動く。冬華は首を、わずかに横に振った。
咲は目を伏せた。
それで和臣は、ここに味方はいないとわかった。
「準備に少し時間がかかります。それまで、蔵をお借りします」
◇◆◇◆◇
扉が閉まる音がして、錠が下りた。
黴と古い墨の匂い。それに、電気系統がショートした時のようなオゾンに似た刺激臭が混じっている。窓はない。天井近くの細い換気口から、光が1本だけ差し込んでいた。
スマホを取り出した。圏外。画面にノイズが走って、ロック画面すら正常に表示されない。
「……最悪だ」
声が、思ったより小さく出た。
壁に背をつけて、ずるずると座り込む。頭の中がうるさい。あの衝撃音。岩盤が割れる音。陽秋の「ごめん」という声。咲が目を伏せた顔。
(俺は何のためにここに来たんだ)
地層を調べるために来た。それは本当だ。だがそれだけじゃなかった、というのも本当だ。陽秋のいる場所を見たかった。陽秋がどんな場所で育ったのかを。
その陽秋が、今日のことを忘れてほしいと言った。
忘れろ、と言ったのではない。ごめん、と言った。違いがあるかどうか、いまはよくわからなかった。
落ち着け、と自分に言い聞かせて、和臣はゆっくりと立ち上がった。立っていないと、余計なことを考える。
蔵の中を見回した。棚に並ぶ古い木箱。丸めた掛け軸。錆びた農具。隅に積まれた岩石の標本。和臣は一つ手に取った。結晶片岩。この辺りの基盤岩だ。
蔵の基礎石組みを観察し始めると、少しだけ頭が静かになった。石の積み方。目地の幅。この蔵は古い。少なくとも百年以上。基礎の安山岩は、おそらくこの山から直接切り出したものだ。
そのとき、気配がした。
蔵の隅、暗がりの中に、小さな人影があった。
「小春ちゃん?」
反射的にそう言った。子供だ。10歳くらいの女の子。だが近づくにつれ、違うとわかった。小春より幼い。おかっぱ頭に赤い着物。昨夜の夕食に現れた小春は、セーラー服を着ていた。
目が合うと、にこりと笑った。声もなく、ただ笑っただけだった。
「……君は誰? どこから入ってきたの?」
子供は答えなかった。
和臣は蔵の扉を振り返った。錠は下りたままだ。換気口は猫も通れない幅しかない。
「別の入り口でもあった?」
笑顔のまま、首を傾けた。
「小春ちゃんのさらに下に妹がいるとか……いや、昨日義光さんは4人姉妹って言ってたな」
子供は何も言わない。ただ、ずっと笑っている。人の子の笑い方ではない、とうっすら気づき始めていた。
「俺、ここに閉じ込められてるんだけど。知ってる?」
子供はすっと立ち上がり、蔵の奥へと歩き出した。一度振り返って、また笑う。
「案内してくれてるの?」
返事はない。ただ、また少し奥へ進む。
和臣はその後をついた。
◇◆◇◆◇
棚と棚の間の細い通路を抜けると、壁際に古い桐箱がひとつ、他のものとは別にして置かれていた。縦に長い。子供はその前で立ち止まり、和臣を見上げた。それから、するりと暗がりに溶けるように消えた。
和臣は桐箱の前にしゃがみ込んで、しばらく動かなかった。
(開けていいのか、これ?)
他人の家の蔵だ。勝手に開けるべきではない。だが閉じ込めたのはあちらで、案内したのもあちら側の何かで。
「……どうせ記憶ごと消すんだ。いいだろ……」
誰にも届かない声が、蔵の中に落ちた。
蓋を開けた。
漆黒の弓が、収められていた。弦は張られていない。塗りは剥げ、木目が露わになっている。それでも形は正しく、均整が取れていた。
触れる前から、わかった。振動している。地鳴りに似た低くて細かい振動が、箱から伝わってきた。この土地そのものと繋がっているような感覚。
和臣はその弓を、手に取った。
握った瞬間、光った。
白銀の光が弓全体に広がり、手のひらに何かが流れ込んでくる。地層の鼓動だ。クリノメーターで測っていた傾斜角の数値が、身体の感覚と直接結びついていくような、奇妙な確かさ。
和臣はしばらく、その光を見ていた。
ふと気づいて、顔を上げた。
あの子供が、いない。
来た通路を振り返っても、暗がりのどこにも気配がない。するりと消えた、とさっき思ったが、あれは本当に消えたのだ。扉が開いた音も、足音も、何もなかった。
「……ありがとう」
誰もいない蔵の奥に、和臣は言った。答えは返ってこなかった。当然だ。
記憶を消す、と冬華は言った。この光も、陽秋の七尾も、あの衝撃音も、あの子供の笑顔も、全部消えてしまう。
「俺にも--」
和臣は、静かに言った。
「何か、できるのか」
白銀の光は、答えない。ただ、弦のない弓が、淡く光り続けていた。




