第2話 狂い熊と黄金の七尾
神社の朝は、騒がしかった。
目が覚めた時、すでに廊下の向こうから人の声がしていた。
「夏葉! 制服のリボン曲がってる!」
「うるさい、自分でできる!」
「できてないから言ってんでしょ。ほら、じっとして」
「痛っ、引っ張りすぎ!」
和臣は布団の上で半身を起こし、しばらく天井を見つめた。昨日の出来事が、夢だったかどうか確かめるように。
違う。夢ではない。
縁側の外に目を向けると、朝の山が光を受けて静かに輝いていた。杉の梢の向こうに空が広がり、澄んだ青が昨日よりも深い。鳥の声。風の音。そして台所の方から、出汁の甘い匂い。
あの匂いの正体は、すぐにわかった。
◇◆◇◆◇
廊下を抜けて居間へ出ると、九重家の朝が全力で動いていた。
台所では咲が黙々と鍋をかき混ぜている。言葉の少ない人だと昨夜の夕食でわかっていたが、今朝も口元を静かに閉じたまま、手だけが流れるように動いている。
和臣が入ってきたのに気づくと、目だけで微笑んで、すぐに鍋へ視線を戻した。代わりに、卓袱台の上の小鉢をすっと和臣の方へずらした。おはようの代わりだと、なんとなくわかった。
居間では夏葉が制服姿で仁王立ちしていた。
「だから引っ張りすぎだってば!」
「あなたが動くから……」
冬華がリボンを直している。濃紺のスーツはもう着込んでいて、今日も朝から役場へ行くつもりらしい。夏葉の首元を無表情で整えながら、ちらりと和臣に視線を向けた。
「おはようございます」
「……おはよう」
昨日の銀色の目と同じ目だ。値踏みするような、冷えた視線。和臣は思わず背筋を伸ばした。
「夏葉、終わり。行きなさい」
「ありがと、お姉ちゃん」
夏葉は振り返りざまに和臣を見て、一瞬だけ足を止めた。赤褐色の目が、値踏みとは違う、もっとストレートな興味で和臣を上から下まで眺める。
「陽秋姉の彼氏?」
「天城です、よろしく」
「ふーん。ガタイは普通だね」
「夏葉!!」
冬華の声が、温度を一度下げた。夏葉はさっと視線を逸らし、「行ってきまーす!」と玄関へ走った。廊下の奥から、続けてぱたぱたと小さな足音が来る。
「お兄ちゃん!」
足元に何かがぶつかった。
見下ろすと、白銀の髪の少女が和臣の腕にしがみついていた。四女の小春だと、昨夜紹介されていた。淡い青い目が和臣を見上げている。
「朝ごはん、一緒に食べたかったのに。もう時間で……」
「小春も行きなさい。バスが出る」
「はーい……」
小春は名残惜しそうに和臣の袖を放し、夏葉を追って玄関へ消えた。どたどたと靴を履く音。扉が閉まる音。それから、静寂。
冬華が、和臣の方を向いた。
「今日、陽秋が裏山へ案内すると言っていたわね」
「……はい」
「山に入ったら、陽秋の言う通りに動くこと。あなたが思っているより、この山は危ない」
それだけ言って、冬華は鞄を持って玄関へ向かった。廊下の途中で一度だけ立ち止まり、振り返らずに言う。
「……無事に帰ってきなさい」
扉が閉まった。
台所から、咲が丼を持って静かに現れた。卓袱台に置かれた丼から、甘い湯気が立ち昇っている。
◇◆◇◆◇
きつねそばは、暴力的に甘かった。
拳ほどもある分厚い油揚げが2枚、どっしりと沈んでいる。つゆは濃い飴色で、一口飲んだだけで口の中が砂糖に埋まった。
「……甘っ」
「足りなかった?」
「いや、多い。甘さが……」
「何が! 最高じゃないか! 婿殿、全部食えよ!」
義光が卓袱台の反対側で、すでに2杯目の丼をかき込んでいた。作業着姿で、椀を持ち上げてつゆまで飲み干している。朝からこの人は全力だ。
「お父さん、和臣くんに圧をかけない」
「圧じゃない、歓迎だ! なあ婿殿、今日は裏山に入るんだろう? 山菜も採ってこい、夕飯に使う」
「調査が目的なので……」
「両立できる! なんせ婿殿は――」
「お父さん!!」
陽秋の声が、ひとつだけ低くなった。義光がさっと口を閉じる。巨体の男が、娘の一言で静かになる光景は、なかなかに見応えがあった。
「えー、お父さんにはいつも好評なんだけどなあ、このそば」
陽秋が向かいに座って、自分の丼をのんびりとすすっている。義光の基準は参考にならない、と和臣は思った。しかし不思議と、疲れた頭に染み渡る味だった。昨日の冬華の銀色の目と、バックミラーの中の人影と、鳥居の中の静寂。重なった緊張が、この暴力的な甘さに少しずつほぐれていく。
縁側の外では、今日も山が光っていた。蝉の声。木漏れ日。これ以上ないほど穏やかな夏の朝だ。
和臣は黙って、もう一口食べた。
◇◆◇◆◇
食後、陽秋の案内で裏山へ向かった。
斜面を登るにつれ、空気の密度が変わっていく気がした。木漏れ日が地面に鋭いコントラストを描き、日向と日陰の境目がくっきりと分かれている。岩肌が露出した箇所でしゃがみ込み、クリノメーターを当てる。やはりおかしい数値が出た。この山の地脈は、何かを無理やり押さえ込んでいるような構造をしている。
陽秋は少し離れた岩の上に腰かけて、和臣を眺めていた。調査の邪魔をしない距離を自然に保っている。いつも通りのおっとりとした笑顔で、膝の上に手を置いて、ただ和臣が岩を叩くのを見ていた。
「なぁ、陽秋」
「なに?」
「昨日の冬華さんの話、器って何?」
陽秋は少し間を置いた。
「それは、もう少し待って。今日、山が答えを出すって言ってたじゃない」
「冬華さんが」
「うん」
答えになっていない。和臣はそれを指摘しようとして、口を閉じた。陽秋の横顔が、いつもよりわずかに張り詰めて見えたから。
猛烈な陽炎が、岩盤の上に立ち昇っている。真夏の山の正午前。木陰を外れると、照り返しが直接肌を叩いてくる熱さだ。
そのとき、風が止まった。
唐突に。蝉の声が、遠ざかる。
和臣はクリノメーターを持ったまま顔を上げた。
なんだ、この匂いは……
腐臭だ!
動物の、何か腐ったものが混ざったような強烈な獣の臭気が、風上から流れてきた。それと同時に、30メートルほど先の藪が内側から激しく揺れ始める。
揺れ方が、おかしい。
熊は、藪を押し分けて現れた。
大きい。普通の熊ではない。体高は2メートルを超えている。
だが、それよりも和臣の目を引いたのはその瞳だった。赤い。充血ではなく、内側から発光するように燃えている。体の各所の毛が逆立ち、動きのひとつひとつに不規則な痙攣が混じっていた。
狂っている、たぶん。
「和臣くん、下がって!」
陽秋の声が、背後から聞こえた。静かな、しかし有無を言わさない声だった。
和臣は反射的に動いていた。陽秋の腕を引いて、自分の後ろへ回す。
「逃げろ! 俺が――」
「ダメ!!」
「でも――」
「逃げても追いつかれる。あれは……普通じゃないから」
熊が低く唸った。地面を伝わってくる振動で、胃の底が揺れるような重低音だ。前脚を大きく踏み込み、こちらへ向かって疾走を始める。
和臣はロックハンマーを構えた。意味がないとわかっていても、身体が勝手に動いた。
◇◆◇◆◇
熊が、跳んだ。
巨体が地面を蹴り、和臣めがけて宙を飛んでくる。前脚が振り上げられ、爪が空気を裂く音がした。
陽秋が、前に出た。
和臣の前に割り込んだのではない。すり抜けた、という表現が正確だ。気づいた時にはもう、陽秋は和臣とは反対側、熊の正面に立っていた。
「和臣くんには、指一本触れさせない!」
静かな声だった。おっとりとした、いつもの声と同じ声だった。ただ、その温度だけが違った。
そして、片手を上げた。
熊の突進を、片手で受け止めた。
音がした。岩盤が割れるような、くぐもった衝撃音だ。しかし陽秋の体は一歩も動いていない。2メートルの巨体が全力で飛び込んできた力を、小柄な女の子の片腕が、地面に根を張った木のように受け止めていた。
熊がもがく。前脚を振り回し、もう片方の爪で陽秋の腕を引き裂こうとする。
「痛いなあ、もう」
陽秋が溜め息をついた。本当に、ただ迷惑そうに。
「あなたに憑いてるもの、祓ってあげるから。ちょっとじっとしてて!」
熊は当然じっとしない。さらに激しくもがき、低く咆哮する。
「……じっとしてって言ったのに」
陽秋が、静かに指先を地面へ向けた。
岩盤が、割れた。
ドウ、という低音とともに、地面の下から太い木の根が無数に噴き出した。根は熊の四肢に絡みつき、一瞬で縫い付ける。さらに岩盤ごと隆起した土が熊を包み込み、動きを完全に封じた。
全部で、5秒とかかっていない。
陽秋はそのまま熊に向き直り、両手を合わせて小さく頭を下げた。
「ごめんね。苦しかったね」
静寂が戻る。
陽秋がゆっくりと振り返った。スカートにも腕にも、土ひとつついていない。背後で、黄金色の揺らめきがゆっくりと収まっていく。
炎に似た、しかし炎ではない光。
7本の尾の形を成した揺らめきが、陽秋の背に吸い込まれるように消えていった。
琥珀色の瞳が、和臣を見た。
いつもの、暖かいタレ目だ。しかし今は、その奥に別の何かが灯っている。
「……ごめんね」
陽秋が小さく言った。
「隠してたこと、いっぱいあって……」
和臣は答えなかった。
手の中のロックハンマーが、汗でぬるついている。今朝の居間の賑やかさが、脳裏に浮かんだ。制服のリボンを直してもらっていた夏葉。袖にしがみついてきた小春。台所で黙って鍋をかき混ぜていた咲。甘すぎるきつねそば。縁側から見えた、穏やかな夏の山。
それと、片手で受け止めた衝撃音。岩盤を割った木の根。黄金の、七尾。
「陽秋……」
和臣は、ようやく口を開いた。
「君たちは……何者なんだ?」
陽秋の唇が、微かに震えた。泣きそうなのに笑おうとしている、不器用な顔だった。
頭上で、蝉がまた鳴き始めた。




