第1話 エメラルドの峡谷と冷徹なお嬢
窓の外を、世界が崩れていくように流れていく。
岩盤。断層。急峻な崖の顔面。
天城和臣は額をガラスに押しつけたまま、車窓に次々と現れる露頭を食い入るように見つめていた。首から下げた10倍ルーペに無意識に手が伸びるが、車内でそれを引っ張り出すには少し気が引けた。となりで眠っている彼女が笑うから。
「……おかしい」
声が漏れたのは独り言のつもりだったが、言葉は空気になった。
おかしいのだ、この地層が。
天竜川の峡谷に入った辺りから、車窓の岩壁がおかしくなってきた。地層の縞模様が水平ではなく垂直に近い角度で立ち上がり、途中でグニャリと折れ曲がる褶曲が、一帯の崖に連続して出現している。
(なんだ、あの捩れ方は)
和臣は眉根を寄せたまま地質図をめくった。説明がつかない。この辺の地層がここまで歪むのは、理屈の上ではあり得なかった。
川面がエメラルドグリーンに光っている。切り立った崖と崖の間を縫うように流れる天竜川は、ここまで来ると底まで透き通っていた。白い岩盤が水中に沈んでいるのが見える。石灰岩か。太陽が高く、川の照り返しが列車のガラス越しでも熱い。
ローカル線は軋む金属音を立てながら、その川面に沿って大きくカーブした。
◇◆◇◆◇
肩に、重さがかかる。
陽秋が寝返りを打ち、和臣の肩口に頭を預けてくる。栗色の髪が広がって和臣の腕の上にかかった。穏やかな柑橘系の匂い。
地質図をめくる手が止まる。
九重陽秋と出会ったのは大学2年の春だった。同じ地層科学の講義に出ていた彼女は、「褶曲って、地球がうーんって唸ってる跡みたいで素敵ですよね」と言った。その発言に和臣が「……学術的にはそういう表現はしませんが」と返したのが会話の始まりだ。
的確な表現とは言えなかった。でも、いまはなぜかその言葉が好きだと思っている。
大学院進学の内定が出てから、陽秋の故郷への調査旅行が決まった。写真で見た実家付近の地層が面白そうで、「ここに行きたい」と言ったのは和臣だ。
陽秋はその時、少しだけ笑みを深めた。何かを確かめるような目で和臣を見ていた。あの目の意味が、いまになって少し引っかかっている。
「か、ず、お、み、くん」
掠れた声が、思考の糸を切った。
「起きてたの?」
「ちょっとだけ」
「ずっとガラスに張りついてたから、頬が赤いよ」
陽秋は欠伸を噛み殺しながら身体を起こす。
「あのさ、あの崖、地層の向きがおかしい。あんな角度で立つのはちょっとあり得ないんだよな」
「難しいことはわかんないけど、昔からああいう崖ばっかりなんだよ。あとね、山がときどき夜に光るの」
和臣は陽秋を見た。彼女は何でもないことのように車窓の向こうを眺めている。
「熱ルミネッセンスかな。岩石が放射線エネルギーを――」
「知らないよぉ。お父さんが言うには、山の神様が深呼吸してる音なんだって」
陽秋はくすっと笑う。窓の外で、蝉の声が遠くなった。列車がトンネルに入ったのだ。一瞬だけ車内が暗くなり、また光が戻ってくると、今度は緑の匂いが濃くなっていた。山が、深くなっている。
◇◆◇◆◇
秘境駅に降り立った瞬間、熱が叩きつけてきた。
山に囲まれているのに、風がない。照り返しと湿気が混ざった、盆地特有の蒸し暑さだ。Tシャツの背中がすぐに汗で張りつく。蝉の声が四方から降り注いでいて、音というより圧力に近い。
ホームというより、崖と川に挟まれた細い石畳の上に、木造の待合室がぽつりと置かれているだけの場所だ。駅名の書かれた看板は錆びたホーロー製で、文字の半分が消えかかっていた。待合室の軒先に、風鈴がひとつ下がっている。風がないから、鳴らない。
和臣は荷物を手に降り、思わず深呼吸をした。
緑の匂いがする。正確には、苔と腐葉土と、遠い川の水気が混ざった濃密な植物の気配。都内では嗅いだことのない種類の空気が肺に入ってくる。
待合室の脇に、年季の入ったSUVが停まっていた。
「陽秋ー!」
運転席から降りてきた男は、和臣の視界の上のほうから出現した。188センチはある。角刈りの頭に、日焼けした太い腕。穿き古した作業ズボンから地面を踏みしめる足まで、全身に無駄な肉が見当たらない。
九重義光。陽秋の父。
「婿殿! こっちこっち!」
「なんで婿……」
「いや嬉しいなあ! 陽秋が男連れてくるなんて初めてだぞ。ほら、乗れ乗れ、荷物は俺が持つ」
有無を言わさず鞄をひっつかまれ、和臣は助手席に押し込まれた。陽秋は後ろの座席に乗り込みながら、「お父さん、バレバレだから」
SUVのクーラーが全力で動いていた。カーステレオからは演歌が陽気に鳴り響いている。林道に入ると両脇の樹木が空を覆い、木漏れ日が助手席の膝の上をゆっくりと移動していく。
「夕飯は岩魚を焼くぞ。婿殿は食えるか?」
「ありがとうございます。楽しみです」
「よし! それと咲が五平餅を作るって言ってたな。たっぷり食わせてやる!」
「咲さんって、お母さんですか?」
「そうそう。静かな人だが料理は絶品だぞ!」
「他にもご家族が? 確か妹さんが2人……」
「4人姉妹の下2人な。夏葉と小春! 元気すぎてうるさいくらいだ!」
「あ、陽秋には上にお姉さんもいましたっけ」
車内の空気が、ほんの少し変わった気がした。
「……うん。長女の冬華姉さんが」
陽秋の声が、わずかにトーンを落とした。
「その話は……」
「家に着いてからでいいよな!」
義光が明るく遮った。カーステレオの音量が、なぜか少し上がった。
和臣は助手席の窓へ目を向けた。林道の外、緑の切れ間から川面が一瞬だけ見えた。エメラルドグリーン。深くて、きれいな色だった。
会話が途切れた一瞬。
和臣はバックミラーを見た。
特に理由はない。単に、視線がそこに向いた。
林道の後方。木々のトンネルの奥。
……いた。
人影? ……だと思う。二足歩行。
しかし、SUVと同じ速度で走っている。いや、それよりも速い。
大きい。あれは?
(猿……?)
日本猿が林道に出ることはある。だが、あの体格は。二足歩行で走る猿は。
「義光さん」
「ん? どうした婿殿」
「後ろに何かいますよ。かなり大きい、二足歩行の……」
義光の肩が、一瞬だけ固まった。ほんの一瞬。すぐに豪快な笑い声が車内に響く。
「ははは! そりゃでかい猿だ! この辺は猿が多くてなあ」
「二足で、この車と同じ速度で?」
「た、たぶん陸上部の猿なんだよ。な、陽秋!」
「そ、そう。きっと運動会で入賞するくらいの猿なんだよ!」
陽秋の声が、和臣のほうを向いていなかった。
和臣は再びミラーを見た。林道の曲がり角の先に、影がもう見えない。消えている。
和臣は前を向き、膝の上の地質図をゆっくりと折り畳んだ。
◇◆◇◆◇
鳥居は、想像より大きかった。
SUVを降りた瞬間、また熱が戻ってきた。林道より日差しが強い。木々の隙間から差し込む午後の光が、参道の石畳を白く焼いていた。蝉の声が、ここでも四方から降り注いでいる。
朱が半分以上剥げた石造りの大鳥居。傍らに樹齢何百年もありそうな杉の巨木が屹立し、その根元は苔むした石垣と一体化して、もはやどこが木でどこが石なのかわからない。石段は参道の奥の暗がりへと続いている。
和臣は鳥居の前に立った。
蝉が鳴いている。激しい、真夏の蝉時雨。首筋を汗が伝う。
1歩、鳥居をくぐった。
音が消えた。
文字通り、消えた。鳥居を境にして、あれほど轟いていた蝉の声がピタリと途絶えた。代わりに、深い水底のような静寂が和臣の耳を満たす。
そして、寒い。
さっきまで汗が滲んでいた肌に、鳥肌が立つ。7月の午後2時に、Tシャツ一枚では肌寒いと感じるほどの冷気が、鳥居の内側に満ちていた。外との気温差が、3度や4度ではない。和臣は思わず腕をさすった。
(なんだ、この気温差は?)
霊的な何か、という発想は和臣の辞書にはない。樹木が日光を遮断し、谷間の冷気が溜まっている——そう説明できる、はずだ。だが、蝉の声が境界線の手前で止まる理由だけが、どうしても説明がつかなかった。
「天城和臣さん、ですね」
声が降ってきた。石段の上から。
和臣は顔を上げた。
長い石段の中ほどに、女が立っていた。濃紺のスーツ。白いシャツに細いネクタイ。この暑さの中で、その服装に汗の染みひとつない。だが、服装への視線は一瞬で終わった。
長い黒髪。腰まで届くストレートの毛先が、銀がかった光を帯びていた。太陽が当たっているわけでも、染めている様子もない。ただ、光の加減がおかしい。
何より、目だ。
銀色の瞳が、石段の上から和臣を見下ろしていた。
身体が、動かない。
「九重冬華です。陽秋の姉。この神社と、この町の……管理をしています」
管理、という言葉の重さが、和臣の耳に引っかかった。
冬華は石段を降り始めた。近づいてくるにつれ、周囲の空気の温度がさらに下がっていく。和臣の吐く息が、白くなりかけている。7月に。
1メートルの距離で、冬華は足を止めた。銀色の目が真っ直ぐに和臣を見ていた。
「目を逸らさずに、私を見て」
和臣は冬華の銀色の目を見た。瞬きをすると負けな気がして、目を開けたまま見た。頭の奥に、何か冷たいものが押し込まれていくような感覚。思考を見透かされているような不快感が、数秒続いた。
冬華が視線を外す。
「よく見つけてきたわね、陽秋もご苦労様」
「あの、冬華姉さん。和臣くんは悪い人じゃ……」
後ろから陽秋の声がした。
「知ってるわ」
冬華の声は動じない。
「でも、排除すべき不純物か、器になれる可能性があるか。それはまだわからない」
銀色の目が、再び和臣を捉えた。
「明日、山に入ってもらいます。山が答えを出すわ」
それだけ言って、冬華は踵を返した。濃紺のスーツの背中が、冷えた石段の奥へと消えていく。毛先の銀が最後まで光っていた。
直後、義光が和臣の肩を関節が外れそうな勢いでバシンと叩いた。
「よしよし! 目ェ逸らさなかったじゃないか婿殿! 合格合格!」
「義光さん、肩が……イタイ」
「夕飯に岩魚焼くからな! 腹ぺこで来い!」
境内に義光の笑い声だけが響いた。
和臣は石段の上をもう一度見た。冬華の姿は、もうそこにない。
排除? 不純物? 器?
意味のわからない言葉が頭の中に残っている。鳥居の外では蝉がまだ鳴いていた。今も、さっきと同じ熱さで、同じ音量で。なのに鳥居の内側だけが、真夏から切り取られたように冷えて、静かだった。
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