第26話 飯田線、上り
夏休みの最終日の朝は、あっという間に来た。
荷物は昨夜のうちにまとめていた。地質図、フィールドノート、クリノメーター。それに、宗次郎からもらったキツネの置物と、小春のお守りと、咲が最後に持たせてくれた干し柿。荷物が来た時より増えていた。
霊弓は、影の中にある。東京に持ち帰っていいのかどうか迷ったが、「依代に付いてくるものだ」と冬華に言われた。影の中にある限り、人目には触れない。
縁側に出ると、全員がいた。
義光が作業着姿で、でかい声で「婿殿、達者でな!」と言った。咲が静かに頭を下げた。夏葉が「東京でも鍛えろよ」と言いながら、視線は横を向いていた。小春が和臣の袖にしがみついて、「来年の夏、絶対来てね」
「来るよ。でも、春にも来る」
「春も?」
「冬華さんに調査を頼まれたんだ」
小春がぱっと顔を輝かせた。冬華は縁側の端に立って、それを聞いて視線を外した。
「……データをしっかりまとめてきなさい」
「はい」
「来春までに龍脈の変動を予測できれば、調査が効率的になる」
「わかりました。宿題ですね」
冬華は和臣を一度だけ見た。それから、本殿の方へ歩いていった。
見送りはそれだけだった。
しかし、それが冬華らしかった。
◇◆◇◆◇
陽秋が、神社の石段の下まで荷物を持って来た。
「歩いていかないか?」
「うん、そうしよ。林道、二人で歩いたことなかったから」
義光が「婿殿、達者でな!」と大声で見送った。咲が静かに頭を下げた。
鳥居をくぐると、蝉の声が戻ってきた。
林道を、二人で歩いた。
駅までは優に1時間くらいはかかる。
木漏れ日が揺れていた。8月の末だ。蝉の声に、ひぐらしが混じっている。
朝の空気に、秋の気配が混じり始めていた。来た時の夏真っ盛りとは、少しだけ違う。
「来た時、この林道で変なものを見たんだよな」
「変なもの?」
「バックミラーで。二足歩行で、SUVと同じ速度で走ってた」
陽秋が少し笑った。
「あれ、鞍馬さんの部下のカラス天狗だよ。最初から監視してたって」
「やっぱりそうか」
「ごめんね、あの時は言えなくて。ごまかしっちゃった」
「最終的に仲間になったから問題ない」
陽秋がくすっと笑った。
◇◆◇◆◇
秘境駅のホームに、二人で立った。
来た時と同じホームだ。崖と川に挟まれた細い石畳。錆びたホーロー看板。軒先の風鈴が、今日は少し鳴っていた。秋の気配を含んだ風が、谷を抜けていた。来た時は、風がなくて鳴らなかった。
ローカル線が来た。扉が開いた。
二人で乗り込んだ。
窓側の席に並んで座った。列車が動き始めた。
窓の外に、エメラルドグリーンの川面。切り立った崖。木々のトンネル。そして、岩盤の露頭。
和臣はルーペを取り出した。車窓越しに、露頭に当てた。傾斜角が、来た時と違う。龍脈が安定した影響だ。岩盤の走向が、わずかに変化している。
「またガラスに張りついてるよ」
陽秋が隣で言った。
「張りついてない」
「張りついてる。来た時と同じ顔してる」
「来た時と違う数値が出てる。論文に使える」
「……やっぱり地質学者の卵だなあ」
陽秋がまたくすっと笑った。和臣は構わずノートに数値を書き込んだ。
しばらく走ったところで、陽秋が和臣の肩に頭をもたせかけた。来た時と同じように。
違うのは、今度は和臣がノートを閉じたことだった。
◇◆◇◆◇
9月の最初の週、和臣は大学のキャンパスにいた。
地質学の研究室の廊下。夏休み明けで、同期が戻ってきていた。「どこ行ってたんだ、連絡つかなかったぞ」と山田に言われた。「フィールドワーク」と答えたら「圏外って怖いな」と言われた。
廊下の向こうから、人が来た。
陽秋だ。
いつもの栗色の髪。おっとりとした顔。大学の廊下を歩く陽秋は、八守町の陽秋とまったく同じだった。違うのは、浴衣ではなく普通の服を着ていることだけだ。
目が合った。
陽秋がにっこりと笑った。八守町で見た笑顔と、まったく同じだった。大学の廊下でも、あの神社の縁側でも、陽秋は陽秋だった。
「和臣くん、講義、お疲れ様」
「陽秋もお疲れ」
「ねえ、今夜、ご飯どこか行く?」
「行く」
「じゃあ決まり。来週、和臣くんのご実家に挨拶に行く件も、あとで確認させて」
「わかった」
陽秋はそのまま廊下を歩いていった。振り返り際に、少しだけ笑った。
山田が横から来た。
「お前、陽秋ちゃんの実家に行ってたんだろ」
「そうだよ」
「どのくらいいたんだ」
「夏休み中ずっと」
「ずっと?」山田の目が大きくなった。「それもう同棲じゃないの?」
「いやいや、彼女の実家に泊まってただけ」
「実家に! ご両親に挨拶したのか?」
「した……」
「妹さんたちにも?」
「した。4人姉妹の家だ」
「え、4人全員に?」山田が頭を抱えた。「そっちのお父さんには何て呼ばれてるの」
「……婿殿」
山田が固まった。額に手をあてて天を仰いだ。
「……冗談だよな」
「冗談じゃないんだ、これが」
「本物だ」山田がぼそっと言った。「で、来週は天城のご実家に挨拶? 話が進みすぎてないか」
「陽秋が来週行くと言ったので、決定事項だな」
「すでに、色々押し切られてるじゃないか」
「まあ……」
「……お前、実家に戻る選択肢とかはなかったのか。確か北のほうだろ? もしくは陽秋ちゃんのところで田舎暮らしとか」
和臣は少し考えた。
「あった。一瞬だけ」
「なんで帰ってきたんだ」
「陽秋に、東京で卒論書いてから考えろと言われた。せっかく大学院受かってるんだから、って」
山田がため息をついた。
「完全に尻に敷かれてるな」
「そうかもしれない」
「自覚あるのか」
「ある」
山田は首を振った。
「フィールドワーク、どこに行ってたんだお前は……」
「飯田線の先だ」
「普通の場所じゃないな」
「普通じゃなかった」
和臣は研究室に戻って、フィールドノートを開いた。八守町で書いたデータが、びっしりと並んでいた。龍脈の振動値。走向と傾斜角の変化。要石安定前後の数値の差。
これを、どう論文にするか。
和臣はしばらく考えて、タイトルだけ書いた。
「天竜川流域における霊的地脈変動と岩盤走向の相関について」
指導教授の顔が浮かんで、和臣は苦笑した。
窓の外に、秋の空が広がっていた。春になったら、また飯田線に乗る。




