第25話 夏の終わりと、また来る約束
翌朝の八守町は、静かだった。
境内の後片付けが、夜明け前から始まっていた。妖怪たちと人間たちが入り混じって、砕けた石畳を運び、倒れた屋台の骨組みを片付け、散らばった枝を集めた。昨夜の混乱が嘘のように、てきぱきと動いていた。
和臣は地質図を持って、境内の状態を確認して回った。龍脈の振動が、昨日までと明らかに違った。弓から伝わってくる波が、穏やかで、均一だった。1800年分の歪みが消えて、この土地の地脈が初めて正しく流れている。
数値を記録しながら、和臣は少し笑った。
この地質図、卒業論文に使えるかもしれない。指導教授が信じるかどうかは、別の話だが。
◇◆◇◆◇
昼前に、各々が和臣のところへ来た。
玄が最初だった。川沿いを歩いていたら、後ろからついてきた。
「次の祭りまでに、水脈のデータをまとめておけ」
「来年も俺が来る想定で言ってますよね?」
「当然だろ。要石の安定を確認するのはお前の仕事だ」
「……わかりました」
「あと」玄は川の方を向いた。「まあ、お前が来て、悪くなかった」
それだけ言って、川の方へ歩いていった。水面を渡りながら、振り返らなかった。
鞍馬は御神木の上から声をかけてきた。
「弓の腕は、まだ粗削りだ」
「そうですね」
「来年、また鍛えてやる」
「はは、お手柔らかにお願いします」
鞍馬は何も言わずに、翼を広げて飛んでいった。それが、鞍馬なりの別れだった。
宗次郎が古書店の前で待っていた。
「婿殿、地質学の論文を書く時は、相談に来なさい」
「どうにも参考文献にできない情報ばかりですが……」
「それがいい研究というものじゃ」
宗次郎は薄く笑って、古書店の中へ消えた。
珠子がコンビニのエプロン姿で、境内の掃除をしていた。和臣が近づくと、ほうきを止めて振り返った。じっと和臣を見た。
「……あんたなら、陽秋ちゃんを任せられるね」
「急に、なんだよ」
「急じゃない。ずっと見てた」珠子はほうきを再び動かした。「さっさと陽秋ちゃんを連れて出かけなよ。2週間あるんでしょ」
「まだ昨日の後片付けが……」
「あたしたちがやる。あんたの仕事は終わった」
珠子が顎で鳥居の外を示した。
◇◆◇◆◇
陽秋を連れて、町に出た。
真夏の日差しが、商店街に降り注いでいた。昨夜の嵐が嘘のように、空は青くて高かった。壊れた屋台はほとんど片付いていて、いくつかはもう営業を再開していた。
玄が通りかかった。和臣を見て、それから陽秋を見た。軽く顎をしゃくった。行ってこい、という意味らしかった。最初に会った時の、あの値踏みするような目とは全然違う。
鞍馬の配下のカラス天狗が、電柱の上に止まっていた。和臣が気づくと、小さく羽を動かした。昨夜、一緒に戦った仲間だ。
「みんな、態度が変わったね」
陽秋が言った。
「そうか?」
「全然違う。最初はあなたのことを値踏みしてたのに、今は……なんか、家族みたいな目で見てる」
和臣は商店街を歩きながら、その言葉を噛みしめた。
宗次郎の古書店の前を通ると、引き戸が少し開いて、眼鏡が覗いた。「お、熱々じゃな」という声がして、引き戸が閉まった。
「今のは余計だ」
「宗次郎さんらしい」
陽秋がくすっと笑った。
川沿いの道に出た。天竜川の支流が、エメラルドグリーンに輝いていた。昨夜の濁りが嘘のように、底まで透き通っていた。白い岩盤が、水中に静かに沈んでいた。
和臣は川を見た。
飯田線の車窓から初めてこの川を見た時のことを思い出した。褶曲がおかしい、と思った。理屈が合わない、と思った。その理屈の合わなさが、全部この町の1800年分の歪みだった。
「何考えてるの?」
陽秋が隣に並んだ。
「最初にこの川を見た時のことを」
「飯田線の中で、ガラスに張りついてたやつね」
「張りついてなかった!」
「張りついてたよ~」
陽秋が和臣の腕に手を絡めた。さらっと、自然に。
和臣たちはそのまま歩いた。
真夏の日差しが、川面に反射して眩しかった。陽秋の栗色の髪が、光を受けて輝いていた。
神社に戻ると、ちょうど夏葉が部活から戻ってきた。汗だくのまま、和臣を見つけると手を振った。
「和兄、まだいるんだ」
「そ、夏休みが終わるまで」
「じゃあまだ鍛えられるな」
「ほどほどで勘弁してほしい」
「嫌だ」夏葉はさらりと言った。「……昨日のこと、よくやった。ほんとに」
「それは、夏葉が夏葉でいてくれたおかげだ」
「どういう意味?」
「炎で押し続けてくれたから、俺が計算する時間が作れた」
夏葉は少し鼻の頭を掻いた。照れているらしかった。
「まあ、それが役割だから」
小春が廊下の奥から駆けてきた。和臣の腕に抱きついた。
「お兄ちゃん、まだ帰らないよね?」
「夏休みが終わるまではいる」
「よかった」小春は離れて、和臣を見上げた。水色の目が、真剣だった。「来年も来る?」
「来るよ」
「約束?」
「うん、約束」
小春がぱっと顔を輝かせた。それからすぐに、「大事なことだから指切りして」と小指を差し出した。
和臣は指切りをした。
◇◆◇◆◇
義光が縁側で待っていた。作業着姿に戻っていた。和臣が近づくと、立ち上がって、盛大にバシンと肩を叩いた。
「婿殿、よくやった! あとはもう婿入りだな!」
「義光さん」
「なんだ!」
「いつも婿殿と呼んでいたのは、まさかこのためですか」
「そりゃそうだ! 最初から婿殿だと思っとった!」
和臣は苦笑した。義光はまた笑って、今度は優しく肩に手を置いた。
「真面目な話、お前さんに感謝してる。冬華が、久しぶりに肩の荷を下ろした顔をしてた」
「義光さんたちが1800年守り続けてきたおかげです」
「俺たちは護り手だ。守るのが仕事だ」義光は御神木を見た。「でも、守るだけじゃ変えられないこともある。お前さんが来て、変わった」
台所から咲が出てきた。盆を持っていた。冷えたトマトと、きゅうりだ。
盆を縁側に置いて、和臣を見た。
「……また来なさい」
咲が、はっきりと言った。いつもの無言でも、紙に書くのでもなく、声で言った。
「……はい」
◇◆◇◆◇
夕方、冬華が本殿から出てきた。
スーツ姿だった。出勤してきたのか、これから出かけるのか。和臣を見て、少し立ち止まった。
「もうすぐ帰るの?」
「夏休みが終わるまではいます。あと2週間ほど」
「そう」
冬華は視線を境内に向けた。後片付けが進んで、石畳の修繕が始まっていた。
「……要石の安定を、定期的に確認する必要があるわ」




