第24話 星空の浄化雨
雨が降ってきた。
一粒、また一粒。和臣の頬に当たって、温かかった。真夏の夜の雨なのに、温かい。それどころか、体の中まで温もりが伝わってくる気がした。
見上げると、空が変わっていた。
黒かった雲が、端から光を帯び始めていた。暗かった空に、白い光が滲んで広がっていく。雨粒ひとつひとつが、光を含んでいた。光る雨が、境内に降り注いでいた。
義光と咲の石化が、溶け始めた。
二体の狛犬の体から、黒い染みが消えていく。光る雨が触れるたびに、石が肌に戻っていく。義光が、完全に人の姿に戻った瞬間、その場に膝をついた。咲が隣に静かに座った。二人とも、何も言わなかった。
玄の体に染み込んでいた黒も、雨が落ちるたびに薄くなっていった。玄は川の方を向いて、目を閉じていた。
鞍馬の配下のカラス天狗たちが、上空でゆっくりと旋回していた。雨を受けながら、翼が濡れて光っていた。
珠子が空を見上げていた。雨粒が頬を伝った。二尾の影が、穏やかに揺れていた。
茂助が菅笠を空に向けた。雨が菅笠を叩いた。にっこりと笑った。それだけだった。
宗次郎が眼鏡を拭いた。濡れた眼鏡越しに、空を見ていた。何百年も生きてきて、初めて見るものを見ている顔だった。
◇◆◇◆◇
和臣の足が、震えていた。
翠玉の力を通したことで、体の芯から力が抜けていた。弓から伝わる振動が、さっきより弱い。霊弓の光が、ほとんど消えかかっていた。
膝が折れた。
石畳に膝をついた。弓を支えにしようとしたが、それも難しかった。そのまま、手をついた。
「和臣くん!」
陽秋が駆け寄った。和臣の肩を抱いた。七尾の力を使いすぎた体で、それでも支えようとした。
「大丈夫、大丈夫だから」
「顔色が悪い……」
「そうかもしれないけど、だ、大丈夫だから!」
夏葉が反対側に来た。和臣の腕を引いて、立たせようとした。
「和兄、立てるか」
「少し待ってくれ」
「待てない、雨に濡れてる。風邪ひいちゃう」
「俺より陽秋が消耗してる」
「あたしは大丈夫だって」
「大丈夫じゃない顔してるんだよ」
足音がした。
静かな足音だった。雨の音に混じって、一歩一歩、近づいてくる。
冬華だった。
九尾は収まっていた。白衣が雨で濡れていた。黒く染まっていた袖は、雨が落ちるたびに白さを取り戻していた。消耗しているはずだった。それでも、真っ直ぐに歩いてきた。
陽秋と夏葉が、少し後ろに下がった。
冬華は和臣の前に立って、そのまましゃがみ込んだ。
それから、和臣を抱きしめた。
力強くはなかった。震えていた。
しかし確かに、和臣を抱きしめていた。
和臣は動けなかった。
冬華が、ゆっくりと言った。
「……文句なしの、私たちの主様」
雨が、二人の上に降り注いでいた。
光る雨が……。
◇◆◇◆◇
しばらくして、冬華は立ち上がった。
陽秋が泣いていた。声を出さずに、ただ涙が流れていた。夏葉が陽秋の肩を叩いた。「泣くな」と言いながら、夏葉自身の目も赤かった。小春が和臣に飛びついた。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と繰り返しながら、雨の中で抱きついていた。
義光が立ち上がった。咲が隣に立った。
「婿殿、よくやった」
義光の声が、少し掠れていた。
「義光さんも」
「いやいや、俺は石になってただけだ」
「踏ん張ってくれてたから、みんなが戦えたんです」
義光は何も言わなかった。ただ、でかい手で和臣の頭を一度だけ撫でた。
咲が、傘を差し出した。いつの間に用意したのかわからない。小さな和傘だ。
「……濡れすぎると風邪をひくわ」
咲が、珍しく声に出して言った。
和臣は傘を受け取った。
「ありがとうございます」
雲が、切れ始めた。
雨の向こうに、星が見え始めた。一つ、また一つ。雨が止んでいくにつれて、星が増えていく。やがて満天の星空が現れた。
境内の惨状が、明らかになってきた。
石畳が何枚も砕けていた。屋台の骨組みが傾いていた。やぐらの一角が崩れて、太鼓が石畳に転がっていた。提灯はほとんど消えていた。御神木は揺るがなかったが、周囲の木々の枝が折れて散乱していた。
そこへ、鳥居の外から人が来た。
消防団の法被を着た男たちが、懐中電灯を持って走り込んできた。役場の腕章をつけた女性が、バインダーを抱えながら状況を確認している。商店街の人間たちも、バケツや工具を手に集まってきていた。
「冬華さん! 大丈夫ですか!」
消防団の男が冬華に駆け寄った。冬華は濡れた白衣のまま、静かに頷いた。
「怪我人の確認を。屋台の業者さんたちも」
「了解です!」
男は当然のように、冬華の指示で動いた。
役場の女性が、玄に近づいた。
「玄さん、川の水位は?」
「問題ない。地震の揺れで濁ったが、じきに収まる」
「わかりました。下流に連絡します」
宗次郎が商店街の人間に声をかけていた。「屋台の片付けは明日でいい、今夜はまず安全確認じゃ」という声が聞こえた。茂助が倒れた骨組みを素手で起こしていた。カラス天狗たちが、散乱した枝を集め始めていた。
和臣は、その光景をぼんやりと見ていた。
妖怪と人間が、当然のように混ざって動いていた。誰が妖怪で誰が人間か、見分けようともしていない。お互いに名前で呼び合いながら、役割分担して動いている。これが、1800年この土地が続いてきた形だ。人間も妖怪も、同じこの町の住人として。
「和臣くん」
陽秋が隣に来た。肩が触れた。雨で濡れた栗色の髪が、星明かりに光っていた。
「終わったね」
「終わったな」
「……ありがとう、和臣くん」
「俺一人じゃなかった」
「わかってる」陽秋は星を見た。「でも、来てくれてありがとう」
和臣は星を見た。
飯田線の車窓から見えたエメラルドの川が、遠い昔のことのように思えた。
翠玉が、ゆっくりと降りてきた。境内の惨状を見渡して、それから空を見上げた。
「……この1800年で、初めて見る空だ」
静かな声だった。
「要石が安定した空は、こんなに星が見えるのか……」
誰も何も言わなかった。消防団も役場の人間も、妖怪たちも、一瞬だけ手を止めて空を見上げた。
満天の星が、八守町の上に広がっていた。




