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第27話【番外編】 また、この川

 飯田線は、相変わらず遅かった。

 遅いというか、谷間を抜けていくのでゆったりと走っているのだ。


 和臣は窓の外を眺めていた。天竜川の峡谷が、窓を流れていく。エメラルドグリーンの川面。切り立った崖。岩盤の露頭。何度見ても、この景色は飽きない。


 隣で、陽秋が眠っていた。


 栗色の髪が、和臣の肩にかかっていた。変わらない柑橘系の匂い。数年経っても、この人は変わらない。あのおっとりとした笑顔も、甘すぎるきつねそばも、大切なことを話す時の少し張り詰めた横顔も。


 大学を卒業して、和臣は大学院に進んだ。


 研究テーマは、最終的に「天竜川流域における地脈変動と地質構造の相関」に落ち着いた。指導教授に「どうやってこのデータを取ったんだ」と何度も聞かれた。「フィールドワーク」と答え続けた。


 陽秋も卒業して、東京で就職した。二人で部屋を探して、引っ越した。山田に「やっぱり同棲してるじゃないか」と言われた。


 去年の春の調査の時に、指輪を渡した。神社の石段の下で、御神木を背景に。義光に「婿殿ついにやったか!」と境内中に響く声で言われた。


 そして今日、改めて正式な挨拶のために、この飯田線に乗っている。冬華にはすでに話をしていた。春の調査で二人だけの場で話したら、「……わかった」と一言だけ言って、少し間を置いてから「陽秋を頼むわよ」 それが冬華なりの最大の祝福だと、もうわかっていた。


「……起きてた?」


 陽秋が目を開けた。


「少し……」

「またガラスに張りついてた?」

「張りついてない」

「いやいや、ちょっと張りついてた。真っ赤な痕ついてるよ」


 陽秋がいつものようにくすっと笑った。



◇◆◇◆◇


 秘境駅に降り立つと、SUVが待っていた。


 運転席から降りてきた義光は、あの夏と変わらなかった。角刈りの頭に、日焼けした太い腕。作業着のまま、和臣を見るなり声を張り上げた。


「婿殿! ついに来たな!」

「お久しぶりです」

「久しぶりじゃない、去年の祭りにも来ただろう!」

「それはそうですが……」


「いや、今日は違う意味で来たんだよな!? ついに本当の婿殿だ!」

「義光さん、まだ何も言ってない」

「顔に書いてある!」


 「お父さん」 義光がさっと口を閉じた。この構図は何年経っても変わらない。


 林道を走りながら、和臣は窓の外を見た。木漏れ日が、あの夏と同じように揺れていた。バックミラーには、何も映っていなかった。当然だ。今はもう、監視される立場ではない。



◇◆◇◆◇


 神社は、少し変わっていた。


 石畳が新しくなっていた。要石が安定してから、少しずつ修繕が進んだのだという。御神木はそのままだったが、根元の苔が青々としていた。境内の空気が、あの夏より穏やかだった。結界が正しく機能している証拠だ。和臣には、弓を通じてそれがわかった。


 宗次郎が古書店の前で手を振っていた。


「婿殿、ようやくじゃな」

「宗次郎さん、なんで知ってるんですか?」

「この町に秘密はないのじゃよ」


 珠子がコンビニのレジから顔を出した。


「あ、来た。陽秋ちゃんおかえり~」

「ただいま、珠子ちゃん」


「今日は特別な日でしょ」珠子は和臣を見た。「顔に書いてある」


「義光さんと同じことを言う」

「この町の人間は大体わかるんだよ」


 珠子は気怠そうに言って、レジに戻った。しかし二尾の影が、穏やかに揺れていた。


 縁側に、冬華がいた。


 巫女衣装だ。夕方の祈りを終えたところらしかった。和臣たちが鳥居をくぐるのを見て、立ち上がった。


「いらっしゃい」


 その一言だけで、あの最初の「不純物か器か」という声との違いがわかった。


「お邪魔します」

「もう邪魔ではないわよ」


 冬華は少し視線を落として、陽秋の左手を見た。指輪が光っていた。


「……来たわね、やっと」

「やっと、ですか」

「春に話を聞いてから、ずいぶん待ったんだから」


 冬華は踵を返した。本殿の方へ歩いていく。


「式の日程は早めに教えなさい。この神社で挙げることになるでしょうから」

「決まりなんですか?」


「決まりではないわ」冬華は振り返らずに言った。「でも、間違いなくそうなるでしょう」


 その背中が、確かに笑っていた。



◇◆◇◆◇


 夕飯は、賑やかだった。


 夏葉が「やっぱり来た」と言いながら、当然のように席に着いた。小春が和臣の腕に飛びついて、「お兄ちゃん、ついに!」 咲が台所で、いつもより少し品数の多い夕飯を作っていた。


 そして卓袱台の上に、きつねそばがあった。


 分厚い油揚げが2枚。飴色のつゆ。甘すぎる、あの味。


「また甘いやつか?」

「いや特別な日のきつねそばは特別に甘いのよ」

「倍甘いのか!?」

「うん」


 一口食べた。むせた。甘い。

しかし、数年経っても、この暴力的な甘さは疲れた体に染み渡る。


 義光が膳を持って、でかい声で言った。


「婿殿、今日こそ正式に婿入りの話を——」

「「お父さん」」


 冬華と陽秋が同時に言った。


 義光がさっと口を閉じた。



 和臣は上着のポケットに手を入れた。指先に、小さな箱が触れた。

 少し後で、渡そうと思った。きつねそばを食べ終えてから。



 縁側の外で、虫の声がしていた。夜の八守町は、あの夏と変わらず静かだった。御神木が、月明かりに揺れていた。


 和臣はもう一口、きつねそばを食べた。


 やっぱり甘い。でも、悪くない。


 来年の夏、またここに来る。次は式の準備を持ってくることになるだろう。この神社で挙げることになるのなら、冬華が言ったように、きっとそうなる。


 御神木の下で、座敷童子が見ているかもしれない。鞍馬が上から眺めているかもしれない。玄が川沿いでぼやいているかもしれない。


 この町は、これからもずっとそういう場所だ。



 陽秋が和臣の肩に頭をもたせかけた。縁側の外に、虫の声がしていた。



 月明かりの中で、御神木がゆれていた。



(おしまい)


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