第21話 溢れ出す九重の忌み
地震は、収まらなかった。
最初の揺れから30秒が経っても、地面が鳴り続けていた。石畳の間から黒い霧が噴き出して、境内に広がっていく。霧が触れた提灯の火が消えた。篝火が揺れて、消えかかった。
「屋台の人間を逃がせ!」
義光の声が境内に響いた。
宗次郎が動いた。古書店の主の顔ではなく、何百年もこの土地に生きてきた者の顔で、鳥居の方へ向かっていた。「外に出ろ! 祭りは終わりじゃ、急げ!」と人波をさばきながら、人間の客を鳥居の外へ誘導していく。
珠子が屋台の客を引っ張って走っていた。二尾の影を揺らしながら、「こっちこっち! 走って!」と声を張り上げていた。コンビニ店員の顔ではなく、この町を守る妖怪の顔をしていた。
黒い霧の中から、それが現れた。
形がない。あるのに、ない。黒い煙のような、泥のような、液体のような何かが、地面から這い上がって来ていた。腕のような突起が伸びて、石畳を叩いた。石畳が砕けた。
「忌みだ」
冬華が低く言った。
「1800年分の歪みが凝固した存在。本来なら要石が押さえているはずのものが——」
「矢のせいじゃないのか!?」
「あなたのせいではない」冬華は和臣を見た。「もともとズレていた。矢を射たことで封じていた圧力が開放されて、表に出てきた。順番が違っただけよ」
◇◆◇◆◇
義光が境内の中央に出た。
咲がその隣に立った。二人が向き合って、目を合わせた。何も言わなかった。長い年月を共にしてきた者同士の、言葉のいらないやり取りだった。
義光の体が、大きくなった。
二倍、三倍、五倍。人の形が崩れて、石の質感を帯びていった。狛犬だ。神社の入り口に鎮座する、あの形だ。体高3メートルを超える石の狛犬が、忌みの前に立ちはだかった。咲も同様に変化して、義光の隣に並んだ。
二体の狛犬が、忌みに向かって吠えた。
その咆哮が、境内の空気を揺るがした。忌みの動きが、一瞬止まった。
「鞍馬!」
冬華が上を見た。
鞍馬が御神木から飛び降りた。漆黒の翼を広げて、忌みの上空から真空波を叩き込んだ。忌みの形が崩れて、黒い霧が散った。しかしすぐに集まって、また形を作り始めた。
「切れない」鞍馬が着地した。「物理攻撃が通らない」
「わかってる」冬華の九尾の片鱗が、さらに広がった。「玄!」
川の方から玄が来た。水流を引き連れていた。天竜川の支流の水が、蛇のように境内へ向かってくる。
「水で押し流します!」
「試してみろ!」
水流が忌みを直撃した。忌みが分裂した。分裂した破片が、それぞれ動き始めた。
「増えた!?」夏葉が舌打ちした。「じゃぁ、一気に炎で焼く!?」
「待て、三の姫」
宗次郎の声が、するどかった。
「あの忌みは分裂する。物理で攻撃するほど増える。封じなければ意味がない」
「封じるって、どうやって?」
「要石を正しい位置に戻すしかない。しかし要石の核がズレている今、どこを射ればいいのか——」
全員の視線が、和臣に集まった。
◇◆◇◆◇
和臣は地面を見ていた。
霊弓が振動していた。地脈の流れが、乱れていた。整然としていた龍脈が、忌みの出現によってまた歪んでいる。しかし、弓から伝わる振動の中に、何かがあった。
さっきとは違う感触だ。さっきの急所は、表面的な亀裂の交点だった。しかしその下に、もっと深い何かがある。本当の核だ。1800年ずっと、そこがズレていた。
「わかるか?」
冬華が聞いた。
「わかるかもしれない。でも深すぎる。今の弓の力では届かないかもしれない」
「どのくらい深い?」
「30メートル以上。地表から打っても、矢の霊力が途中で拡散する」
忌みが、また大きくなっていた。義光と咲の狛犬が押し返していたが、体の表面に黒い染みが広がり始めていた。石化が始まっている。
「お父さん!」
陽秋が叫んだ。義光の狛犬の体に、忌みの黒が侵食していた。
「大丈夫だ!」義光の声は、狛犬の形になっても豪快だった。「まだ動ける! さっさとやれ婿殿!」
夏葉が炎を展開した。忌みを焼こうとするが、燃えない。触れた炎が消えていく。
「物質じゃない……!」夏葉が歯を食いしばった。「何なんだこれ」
「1800年分の怨念よ」冬華が静かに言った。「物理でも、属性でも、単純には倒せない」
小春が霜の壁を作った。忌みの動きを一時的に遅らせる。しかし壁は少しずつ溶かされていく。
陽秋が地面に手を置いた。大地の力を引き出して、岩盤の壁を作ろうとした。しかし忌みは壁を貫通した。龍脈の歪みを利用しているのか、大地の力そのものを侵食していた。
「……深すぎる」
宗次郎が、眼鏡を押し上げた。
「この規模は、わしの想定を超えとる。要石一つの問題ではない。1800年の歪みが、この土地の龍脈全体に染み込んでいる」
その時、空が変わった。
雲が来たのではない。光が来た。
翠の光が、天竜川の谷の方角から、境内へ向かって一直線に伸びてきた。
全員が空を見上げた。
光の中から、白い龍が降りてきた。
翠玉だ!
しかし、今日の翠玉はいつもと違った。体が大きい。初めて来た日の倍はある。翠の鱗が、怒りで光っていた。
「——この歪みは」
声が、地面を揺らした。
「私の失態だ」
翠玉の目が、境内全体を見渡した。義光と咲の石化した体を見て、忌みを見て、四姉妹を見て、最後に和臣を見た。
「1800年、私は要石のズレに気づかなかった。九重の家に、不当な重荷を負わせてきた」
境内が静まった。忌みでさえ、翠玉の気配に一瞬動きを止めた。
「和臣よ」
翠玉の声が、和臣に向いた。
「お前に頼みがある……」




