第20話 奉納の儀とズレた要石
祭りの三日目は、静かに始まった。
朝から雲ひとつなかった。真夏の空が、これ以上ないほど青く広がっていた。風もない。蝉も、今日はまだ鳴いていない。境内全体が、何かを待っているように静まり返っていた。
和臣は早朝から御神木の前に立っていた。
白衣袴。霊弓を影から出して、両手に持った。昨夜の神楽の余韻が、まだ境内の空気に残っていた気がした。篝火の跡が石畳に黒く残っていて、その向こうに御神木がそびえていた。
目を閉じた。
高校の弓道部で、試合前に必ずやっていたことがある。射場の静寂に入る前に、全部を手放す。結果を考えない。観客を意識しない。ただ、弓と自分と、的だけがある場所に入る。
この夏に起きたことが、頭の中を通り過ぎていった。
飯田線の車窓から見えた、おかしな褶曲。秘境駅で会った義光。林道のバックミラー。鳥居をくぐった瞬間の静寂と冷気。冬華の銀色の目。陽秋が熊を片手で止めた衝撃音。蔵の暗がりと座敷童子の矢印。古書店の宗次郎。コンビニの珠子と二本の尾の影。翠玉の「面白い人間だ」という声。茂助の幻術の中で見た研究室。陽秋の「止める理由がなくなっちゃった」。神の背での告白。冬華の雪嵐。「主様」という言葉。
全部が、この一矢のためにあった気がした。
今日の的は、地面の下にある。しかし感覚は同じだ。弓から伝わる地脈の振動が、急所の場所を教えている。方角、距離、深度。全部、わかっている。あとは体が動くだけだ。
深く息を吸った。吐いた。
もう一度。
もう一度。
もう一度。
頭が、静かになった。
◇◆◇◆◇
奉納の刻は、夕方だった。
日が傾き始めた頃、境内に人が集まった。人間と妖怪が入り混じって、鳥居の内側を埋めていた。子供たちの声が、少しずつ静まっていく。玄が川沿いに立った。鞍馬が御神木の上に降りた。宗次郎が古書店を閉めて来ていた。珠子が二尾の影を揺らしながら、人込みの後ろに立っていた。茂助が菅笠の下から、静かに見ていた。
冬華が本殿から出てきた。巫女衣装だ。その後ろに陽秋、夏葉、小春が続いた。四人が和臣の前に並んだ。
「準備はいい?」
陽秋が聞いた。
「ああ……」
「緊張してる?」
「……してる」
「どのくらい?」
「10倍ルーペで初めて結晶片岩を見た時と同じくらい」
陽秋が少し笑った。
「それ言えるなら大丈夫だ!」
「うん、やってくるよ」
夏葉が和臣の背中をバシンと叩いた。
「やれ、和兄」
小春が「頑張って、お兄ちゃん」と言って、お守りを握らせた。
冬華は何も言わなかった。ただ、和臣を見た。銀色の目が、真っ直ぐだった。
和臣は頷いた。
◇◆◇◆◇
射場は、石段の下から7メートルほどの地点に設けられた。
白い注連縄が張られ、その内側に和臣一人が立った。鳥居の方角に向いて、足を肩幅に開く。霊弓を影から引き出した。白銀の光が、夕日の中に広がった。
境内が、完全に静まった。
和臣は弓を構えた。
地脈の振動が、手のひらから腕へと伝わってくる。昨夜の神楽で整えられた龍脈が、一本の線になって流れていた。急所は、足元の岩盤の下7メートル。亀裂の交差点。そこに矢を通せば、結界が固定される。
弦を引いた。
白銀の光が、弓全体に広がった。
夕日と混ざって、境内が金色に染まった。
風が来た。
鞍馬が御神木の上で翼を動かしていた。霊気の風だ。
矢の軌道を整えるための、鞍馬なりの最後の援護だった。
和臣は風を感じた。
弓が、自ら方向を教えていた。
迷わず—
射た。
白銀の矢が、夕空を裂いた。
螺旋の光跡を引きながら、石畳を貫いて地中へ消えていった。
一瞬の静寂。
地面が、光った。
石段の下から、白い光の筋が広がった。龍脈に沿って、境内の端まで走っていく。光が消えた瞬間、境内にいた全員がほっと息を吐いた。
成功だ!
和臣は弓を下ろして、注連縄の外へ出た。
陽秋が駆け寄ってきた。
駆け寄りながら、小さくガッツポーズをしていた。「やった」と口が動いていた。声には出ていなかった。
和臣の前まで来て、それに気づいたのか、さっと表情を戻した。
「……お疲れ様」
「見てたよ」
「え?」
「(小声で)ガッツポーズ」
陽秋の耳が赤くなった。
「見てないでよ」
「そんなこと言われても……」
「もう……。恥ずかしいなぁ」
陽秋が和臣の腕をぽんと叩いた。
それから、小さく笑った。いつものおっとりとした笑顔だった。
その時。
地面が揺れた。
小さくない。建物が軋む音がした。石畳の間から、黒い霧が噴き出してきた。
「……なに?」
夏葉の声が、固まった。
「地脈が」宗次郎が古書店の方から叫んだ。「矢のせいではない! もともと、要石の核がズレていた!」
地震が大きくなった。御神木が揺れた。提灯が落ちた。
黒い霧が、境内に満ちていく。霧の中から、何かが形を作り始めていた。巨大な何かが、地面の下から押し上がってくる音がした。
「和臣くん!」
陽秋が和臣の前に出た。背後で七尾が開いた。黄金の光が、黒い霧を押し返そうとする。
黒い何かが、腕を伸ばした。
その腕を、白い壁が遮った。
冬華だ。巫女衣装のまま、九尾の片鱗を解放していた。白銀の光が、冬華の周囲に広がっていた。
「みんな下がりなさい!!」
冬華の声が、静かだった。怒っていない。ただ、揺るがない声だった。
「これは想定外だったけれど……」
銀色の目が、和臣を見た。
「あなたのせいではない。1800年分の歪みそのものよ」
黒い霧がさらに濃くなった。
八守町の夏祭りの夜に、1800年眠り続けた何かが、目を覚ましていた。




