第18話 夏祭りの朝
祭りの朝は、早かった。
夜明け前から境内に人の気配がした。妖怪たちが、それぞれの準備を始めているのだろう。和臣は白衣袴に着替えて、しばらく鏡を見た。
似合っているかどうかは、わからない。ただ、地質図とルーペの代わりに霊弓を持つ自分が、鏡の中にいた。
縁側に出ると、境内の様子が一変していた。
昨日まで準備中だった提灯が全部灯っていた。夜明けの薄明かりの中で、赤と白の提灯がゆらゆらと揺れている。参道の石段の両脇、鳥居の向こうの広場まで、光が連なっていた。やぐらの上の太鼓は布で覆われて、今日の夜を待っている。屋台の骨組みが広場に並び、それぞれの妖怪たちが朝早くから仕込みを始めていた。焼きそばの匂いが、まだ涼しい朝の空気に混じった。
鳥居の向こうの空が、明るくなってきた。
今日が来た。
◇◆◇◆◇
朝食は、賑やかだった。
夏葉が珍しく早起きして、台所を手伝っていた。咲と並んで、黙々と卵焼きを焼いている。小春は夏葉の邪魔をしながら、それでも何か役に立とうとしていた。
全員が白衣袴姿の和臣を見て、少し静かになった。
「……かっこいい」
小春が言った。耳まで赤い。
「そうかな」
「そう!」
「小春、うるさい。でも、まあ」
夏葉は和臣をじっと見た。
「悪くない」
「ありがとう」
「褒めてない、って」
「夏葉はいつもそれを言うな」
夏葉が少し口角を上げた。それから、卵焼きの皿を和臣の前に置いた。
「食べて。緊張してても腹は減る」
きつねそばではなかった。普通の朝ごはんだ。ご飯と味噌汁と、卵焼き。
「夏葉が作ったのか?」
「咲さんと。あたしは切っただけ」
陽秋が笑いながら席についた。
「夏葉が朝から台所に立つなんて、珍しい」
「別に」夏葉は箸を手に取った。「今日くらいはって思っただけ」
小春が和臣の隣に座った。腕に少しだけ触れて、そっと離した。
「……お守り、持ってきた?」
「持ってる。ありがとう」
「役に立てるといいなぁ」
小春は陽秋を見た。それから和臣を見た。また陽秋を見た。
「ねえ、陽秋お姉ちゃん」
「うん?」
「和臣くんのこと、好き?」
居間が、一瞬静かになった。
陽秋の頬が赤くなった。
「……こm小春、きゅ、急に何を!?」
「だって見てたら、わかるから」
夏葉が卵焼きを口に運びながら、「まあな」
「あたしたち、ずっと見てたし」
「夏葉まで!」
「陽秋姉が誰かのことを、そんなふうに見るの——初めて見た」夏葉は少し声を低くした。「……いいなと思った。正直」
「何が?」
「そういうの、全部。隣に誰かいて、その人のこと心配して、笑って。……あたしにはまだよくわからないけど」
夏葉は視線を落とした。珍しく、少し照れているようだった。
小春がうんうんと頷いた。
「あたしも。なんか、そういうの、憧れる。お姉ちゃんとお兄ちゃんを見てると」
陽秋は真っ赤になって俯いた。
「もう、二人とも——」
「はは、照れてる」
「照れてない!」
「照れてる」と小春も相乗りした。
和臣は黙って卵焼きを食べた。いつも以上においしかった。
◇◆◇◆◇
食後、縁側に出ると、義光が待っていた。
作業着ではなく、白い着物を着ていた。今日は祭りだ。
「婿殿」
「義光さん」
「緊張してるか?」
「……してます」
「正直でよろしい」義光はどかりと隣に座った。「俺も最初の祭りは緊張した」
「義光さんも祭りに参加するんですか?」
「狛犬として、ずっとな。結界の外から見守るのが俺たちの役割だ」
義光は境内を眺めた。御神木の杉が、朝の光を受けて緑を輝かせていた。
「婿殿、ひとつだけ言っとく」
「はい」
「この土地はな、お前さんを選んだ。弓が認めた。竜神様が認めた。冬華も認めた」
義光は和臣を見た。
「あとはお前さん自身が、自分を信じるだけだ」
「……そうですね」
「難しいことは考えるな。地層を読む時と同じでいい。見えないものの流れを、見えるものから逆算する。それがお前さんの得意なことだろ」
和臣は少し驚いた。義光がそんなことを言うとは思っていなかった。
「よく知ってますね」
「長く見てきたから」
義光はにかっと笑った。
「さあ、咲が来る前に逃げるぞ。泣かれると俺が困る」
「逃げるってどこへ!?」
「縁側から縁側だ!」
引き戸が開いた。咲が出てきた。和臣の顔を見て、一瞬だけ目が揺れた。何かを言おうとして、言わなかった。代わりに、和臣の袂に小さな紙を差し込んだ。
折りたたまれた紙だった。開くと、細い字で一行だけ書いてあった。
---いってらっしゃい—
和臣は紙を袂に戻した。
「ありがとうございます」
咲はわずかに頷いて、台所へ戻っていった。
◇◆◇◆◇
出発の前、陽秋が和臣を呼び止めた。
境内の隅、御神木の陰だ。周りに人はいない。
「和臣くん」
「うん」
「緊張、してる?」
「してる」
「どのくらい?」
和臣は少し考えた。
「10倍ルーペで初めて結晶片岩を見た時くらい」
「うん? それは緊張なの、興奮なの?」
「両方、かな」
陽秋はくすっと笑った。
「じゃあ大丈夫だ」
「どうして?」
「興奮してる時の和臣くん、すごく集中するから」
陽秋が和臣の手を取った。しっかりと、両手で包んだ。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「終わったら、また一緒にきつねそば食べよう」
「……甘いやつか?」
「そ、甘いやつ」
和臣は陽秋の目を見た。琥珀色の目が、真っ直ぐに和臣を見ていた。怖いくらい綺麗だ、と思った。
手を離して、歩き始めた。
朝の光の中、鳥居が見えた。その向こうに、八守町の夏が広がっていた。




