第17話 祭りの前夜
残り2日は、あっという間に過ぎた。
鞍馬との風の特訓を毎朝続けた。宗次郎の古書店に夜に通い、奉納の所作を体に叩き込んだ。玄が水脈の最終データを持ってきた。陽秋と裏山を歩いて、龍脈の急所を何度も確認した。
小春が「お守り作ったよ」と言って、白い布に何かを縫ったものを持ってきた。夏葉が「役に立つかわからないけど」と言いながら、護符のようなものを渡してきた。義光は毎朝「調子はどうだ婿殿!」と声をかけてきた。咲は毎夕、冷えたきゅうりかトマトを差し入れてくれた。
その間、八守町の準備も進んでいた。
1日目の朝、神社の参道に提灯が吊り始められた。赤と白が交互に並ぶ提灯が、石段の両脇にずらりと連なっていく。玄と鞍馬の配下たちが、人間のような顔をして手際よく作業していた。
2日目の午後には、境内の外の広場にやぐらが組み上がった。盆踊りのやぐらだ。太い丸太が組まれ、四方に提灯が下がり、頂上に大きな太鼓が据えられた。夕方、義光が試しに一打ちすると、その音が谷間に響いて山に返ってきた。
屋台の準備は夜になって始まった。商店街から妖怪たちが次々と品物を運んでくる。焼きそば、たこ焼き、金魚すくい、射的。珠子がコンビニのエプロンのまま、「うちも出店するから」と言いながら荷物を運んでいた。
和臣は特訓の合間にその様子を眺めながら、この町が祭りに向けて一つになっていくのを感じた。人間も妖怪も、区別なく動いている。この町はずっと、そういう場所だったのだろう。
前日の夕方、境内を歩いていると、蔵の前に座敷童子がいた。
おかっぱ頭に赤い着物。和臣が近づくと、にこりと笑った。蔵の外で会うのは初めてかもしれない。いつもは蔵の中か、境内の暗がりにいる。
「明日、うまくやれそうかな?」
座敷童子は何も言わなかった。ただ、こちらを見て、にこりと笑った。
それから、くるりと一回転した。赤い着物の裾が広がった。嬉しそうに。
「……ありがとう。蔵で助けてもらった時から、ずっと気にかけてくれてたんだな」
座敷童子はまた笑った。それから、するりと蔵の陰に消えていった。
縁側に戻ると、陽秋が夕飯の支度をしていた。
「あの子、何者なんだ?」
和臣が聞くと、陽秋は少し考えた。
「座敷童子はね……わからないんだよね、正直」
「妖狐でも狛犬でもないのか?」
「違う。竜神様でもない。ずっと昔からここにいる、って冬華姉さんが言ってたけど、詳しいことは誰も知らない。この神社が建てられる前からいるんじゃないか、って話もある」
「この神社より古い存在が……」
「うん」陽秋は少し首を傾けた。「でも、悪いものじゃないのはわかる。蔵の弓を守ってきたのもあの子だって言われてるし。誰かが主になる時に、必ず力を貸してくれる」
和臣は蔵の方を振り返った。もう座敷童子の姿はなかった。
この神社には、まだ知らないことがたくさんある。祭りが終わっても、和臣はここにまた来るだろう。それだけは確かだと思った。
◇◆◇◆◇
祭りの前夜。
空が紫から群青へと変わっていく時間、和臣は部屋で地質図の最終確認をしていた。
龍脈の急所。射る角度。風の補正値。全部、頭の中に入っている。あとは当日の感覚で微調整するだけだ。
障子を叩く音がした。
「はい」
「……入るわよ」
冬華の声だった。
和臣は少し驚いて、「どうぞ」
障子が開いた。
冬華が立っていた。巫女衣装だ。しかし今日は、白衣の上に何かを持っていた。
白い衣装だ。白衣袴。丁寧に折りたたまれた、上質な布が、冬華の腕に抱かれていた。
和臣は立ち上がった。
「それは?」
「歴代の弓役が纏う衣装よ。明日の奉納で着てもらう」
冬華は部屋の中に入って、衣装を和臣の前に置いた。白い光沢が、行灯の灯りに照らされてゆっくりと揺れた。
和臣はその衣装を見た。古い。しかし丁寧に手入れされていて、損傷はない。これを着て、歴代の弓役が奉納を行ってきた。朝倉も、これを手に取ろうとしたのかもしれない。
「……ありがとうございます」
「礼は成功してから」
「わかりました。成功してから言います」
冬華が、わずかに目を細めた。
それから、少し間があった。
「高校まで弓を引いていたのよね」
「はい」
「弓道部で、どのくらいやっていたの」
「3年間です。一応県大会では優勝経験があって、大学でも少し……」
「そう」冬華は白衣袴を見た。「……サイズは合うかしら?」
「着てみないとわかりませんが……」
「合わなければ今夜中に直すから。試しなさい」
和臣は白衣袴を手に取った。広げると、想像より大きかった。肩幅が合うかどうか微妙なところだが、着てみると丈はほぼぴったりだった。
「どう?」
「丈は合っています。肩が少し……」
冬華が近づいた。肩のあたりを確認して、少し直した。その手が、素早く正確だった。何度もやってきた動作だとわかった。
「……問題ないわね」
「ありがとうございます」
冬華は一歩下がった。白衣袴を着た和臣を、少しの間、見ていた。その目に何かが浮かんで、すぐに消えた。
窓の外を見た。暮れていく空が、障子の向こうに見えた。
「……明日は」
低い声だった。
「怖い?」
和臣は少し考えた。
「怖くないとは言えない、です」
「そう」
「でも、やると決めたので」
冬華はしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「……明日は頼むわよ」
一拍。
「私たちの、主様」
わずかに頬が染まっていた。視線は窓の外に向いたままだった。
和臣は何も言わなかった。言葉より先に、その一言の重さを受け取っていた。
冬華は踵を返した。障子を閉める前に、一度だけ振り返った。
「……よく眠りなさい。明日に備えて」
障子が閉まった。
和臣は白衣袴を見た。行灯の灯りが揺れて、白い布の光沢が動いた。
主様。
この町に来てから、いくつもの言葉をもらった。不純物。器。婿殿。和兄。お兄ちゃん。和臣くん。
主様、というのは初めてだった。
廊下の向こうから、陽秋の足音が近づいてきた。障子越しに言った。
「……冬華姉さん、出てったけど、大丈夫だった?」
「大丈夫だ」
「なんか言われた?」
「主様、って言われた」
少し間があった。
「……お姉ちゃん、言えたんだ」
陽秋の声が、笑っていた。泣きそうなまま笑う、いつもの声だった。
「和臣くん」
「うん」
「明日、うまくやってね」
「うまくやる」
「うまくいくといい、って言ったの」
「うまくやるから、うまくいく」
陽秋が、小さく笑った。
「……おやすみ、和臣くん」
「おやすみ」
障子の向こうから、足音が遠ざかっていった。
外では虫が鳴いていた。明日が来る。




