第16話 祭りの準備と代役の抜擢
朝の境内に、風が吹いた。
鞍馬が御神木の上から降りてきた。
今日も団扇は持っていない。和臣の前に立って、腕を組んだ。
「昨夜、宗次郎から所作の話を聞いたな」
「はい。奉納の方角と、射のタイミングについて」
「あの古狐が話せることは話した。風については俺が教える」
鞍馬は境内を見渡した。
「祭りの夜、龍脈の急所を射る時、この谷には特有の風が吹く。毎年同じ方角から、同じ頃合いに」
「祭りの夜だけ?」
「この土地の霊気が高まる時間がある。翠玉様が結界に力を通す瞬間だ。その気流が、谷の地形と合わさって独特の風を生む」
和臣は地質図を広げた。谷の形状。岩盤の走向。冷気が溜まりやすい場所と、風が抜ける場所。
「風向きが変わると、矢の軌道が——」
「ずれる。だから読む必要がある」
鞍馬は和臣を見た。
「どうだ。弓道で風を読んだことはあるか?」
「屋外の試合では……」
「うむ。それとは根本的に質が違う。霊気を帯びた風は、物理的な風と挙動が異なる場合がある。感覚で覚えろ」
鞍馬が団扇を取り出した。
「まず、これを受けろ」
団扇を軽く扇いだ。風の塊が来た。和臣はかわした。体で感じた風の圧力と、霊弓から伝わってくる地脈の振動が、わずかにずれている。
(これが、霊気の風か!?)
続けて、もう一度。今度は角度を変えて。
和臣は転がった。石畳に手をついて、立て直す。
「遅い!」
「わかってます!」
「もう一度!」
10回繰り返した頃、霊弓の振動と風の圧力のずれが、少しずつわかってきた。物理的な風が矢に与える影響と、霊気の風が矢に与える影響は、確かに違う。霊弓が振動する方向が、霊気の流れを教えていた。
「……なるほど」
「何がわかったか?」
「弓が、風の霊気の方向を教えてくれてる。物理的な風の補正は経験でやる。霊気の補正は弓に任せる」
鞍馬が、少し間を置いた。
「……正解だ」
褒められているのか、確認しているのかわからない声だった。しかし鞍馬は続けた。
「祭りの夜は、通常より強い霊気の風が吹く。その時、弓を信じろ。弓道の経験は使え。だが最後は、弓に従え」
◇◆◇◆◇
特訓が一段落した頃、冬華が本殿から出てきた。
巫女衣装だ。今日は役場が休みらしい。
和臣を見て、少し間を置いてから、近づいてきた。
「少し、いいかしら?」
「はい」
鞍馬が静かに羽を広げて、御神木の上へ戻っていった。気を使ったのかもしれない。
冬華は石畳の上に立ったまま、境内を見渡した。
「祭りまで3日ね」
「そうですね」
「弓役の方が、今年は動けない。あなたも陽秋から聞いているでしょう」
「はい。聞いています」
「正式に言う必要があるから言います」
冬華は和臣を見た。銀色の目が、真っ直ぐだった。
「天城和臣さん。今年の鎮魂の奉納を、あなたに頼みたい。弓役の代として、龍脈の急所を射抜いてください」
和臣は少し間を置いた。
「受けます」
「……即決ね」
「翠玉様に引き受けると言った時から、決まっていたことですから」
冬華の目が、わずかに動いた。
「竜神様があなたを認めた。弓が認めた。私も……」
一拍、止まった。
「……認めます。あなたを、この祭りの弓役として」
和臣は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早いわ。成功してから言いなさい」
冬華は踵を返して、本殿へ戻っていった。その背中が、少し前より、軽く見えた。
◇◆◇◆◇
その日の夜、和臣は部屋に地質図を広げた。
祭りまで3日。障子を少し開けると、夜の空気が流れ込んできた。昼間の熱が抜けて、山から降りてくる涼しさが混じっている。虫の声が近い。鈴虫とコオロギが重なって、境内の夜を満たしていた。縁側の向こうに御神木の杉の黒い影が見えて、その梢の向こうに星が出ていた。
龍脈の最適ポイントを特定しなければならない。毎日の調査で積み上げてきたデータが、ここで全部繋がる。
弓から伝わってくる振動と、クリノメーターの数値。宗次郎から聞いた過去の奉納記録。鞍馬から教わった霊気の風の方向。玄が教えてくれた水脈の分布。茂助の幻術の中で感じた地脈の流れ。
全部、この地図の上にある。
和臣は鉛筆で線を引いた。龍脈の流れが、一点に収束していく。
御神木の北側、石段の下から7メートルほど。岩盤が薄くなっている場所。翠玉が試練で示した急所と、ほぼ一致していた。
(ここだ)
確信があった。しかし確信は、当日の風が変われば崩れる。最後は、感覚で補正する必要がある。
障子の向こうから、陽秋の声がした。
「和臣くん、まだ起きてる?」
「起きてるよ」
「お茶、持ってきた」
障子が開いた。陽秋が盆を持って入ってきた。地質図と鉛筆の散乱した部屋を見て、少し笑った。
「いつもの?」
「そ、いつもの」
陽秋は和臣の隣に座って、お茶を差し出した。湯呑みを受け取りながら、和臣は地質図を見た。
「冬華さんに正式に頼まれたよ」
「聞いた。お姉ちゃんが言いに来たって」
陽秋は膝の上で手を組んだ。
「……ありがとう」
「俺に言わなくていいよ」
「言いたいから言うの!」
陽秋はまっすぐに和臣を見た。
「お姉ちゃんが認めてくれた。それがどれだけ——」
言葉が途切れた。
陽秋は俯いて、少し間を置いてから、続けた。
「嬉しいかわからないけど、嬉しい」
「わかる」
「和臣くん、あのね」
「うん」
「祭りが終わったら、いつ東京に戻るの?」
「……まだ決めてない」
「そっか」陽秋は少し間を置いた。「もう少しいてほしいな、とは思ってる」
「もう少し、って?」
「夏休みが終わるまで、とか」
和臣は陽秋を見た。陽秋は膝の上を見ていた。耳が赤い。
「……いていいなら、いる」
「いていいよ」
「じゃあいる」
陽秋がくすっと笑った。
「あっさりしてる」
「複雑にする理由がない」
「そういうとこ」陽秋は和臣の腕に頭をもたせかけた。「……好き」
和臣は何も言わなかった。言わなくてよかった。
虫の声が、障子の向こうから続いていた。星が、梢の間に光っていた。3日後の夜が、少しずつ近づいてきていた。




