第15話 氷解する長女の心
翌朝、和臣が縁側に出ると、冬華がいた。
巫女衣装ではなく、スーツ姿だ。出勤前なのだろう。縁側の端に腰かけて、境内を眺めていた。和臣に気づいても、視線を向けなかった。
和臣は少し離れた場所に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
蝉の声が境内の外から届いていた。御神木の杉の根元に、昨夜の雪の跡はもう残っていない。真夏の朝の熱が、何事もなかったように石畳を焼いていた。
「……昨夜のことは」
冬華が口を開いた。視線はまだ境内の方を向いていた。
「謝りません」
和臣は少し意外に思った。
「謝らないんですか」
「あなたが余計なことをしたのよ。ノートを持ってきたのも、吹雪の中で動かなかったのも」
「それはそうですね」
「……でも」
冬華の声が、少しだけ変わった。
「昨夜、久しぶりに泣いた」
和臣は何も言わなかった。
「陽秋たちに囲まれて——10年ぶりに、泣いた。みっともないことをしたとは思っている」
「みっともなくはないと思いますが……」
「そう思うのはあなたの勝手よ」
◇◆◇◆◇
しばらく、また黙った。
咲が台所から顔を出して、お茶の入った湯呑みをそっと縁側に置いた。冬華と和臣の分。何も言わずに戻っていった。
冬華が湯呑みを手に取った。
「朝倉は--」
静かに、話し始めた。
「彼は、竜神様のお告げでここに来た。あなたと同じように。地質学を学んでいて、弓道の経験があった」
「ノートで読みました」
「弓には認められなかった。それでも調査を続けたいと言った。私は……止めなかった」
冬華の指が、湯呑みを少し強く握った。
「崖の調査に行くと言った朝。私は、行くなとは言えなかった。言えばよかった。でも、言えなかった」
「なぜ?」
「……あの頃の私には、人間を引き止める言葉がなかった。今もあるかどうか、わからないけれど」
和臣は冬華を見た。横顔が、昨夜の巫女衣装の冬華と、少し重なった。
「だから陽秋を、大学まで送り出した?」
「あの子が外に出たがっていたのは知っていた。竜神様のお告げがあったこともある。でも……陽秋が人間と関わることが怖かった。ずっと怖かったわ」
冬華は湯呑みを置いた。
「それでも、あなたは来た。弓が光った。竜神様が認めた。私が怖がっても、物事は動く」
「俺は--」
和臣は少し考えた。
「冬華さんが10年間守ってきたものは、わかった気がします。陽秋を守ること。この土地を守ること。一人でそれを続けてきた」
冬華は何も言わなかった。
「でも、一人で背負わなくていい。それを言いたい。ずっと一人でやってきた人に軽々しく言える言葉じゃないのはわかってますが……」
冬華が、初めて和臣の方を向いた。
「……何が言いたいの?」
「俺がいる間は、俺も背負う。それだけです」
冬華はしばらく和臣を見ていた。銀色の目が、昨夜の涙の跡をわずかに残していた。
「……大きなことを言うのね、相変わらず」
「ははっ、昨日も同じことを言われました」
「言われるだけのことを言っているからよ」
しかし、その声は昨日より少しだけ、柔らかかった。
冬華は立ち上がり、鞄を手に取った。出勤の時間らしい。
鳥居の方へ歩き始めて、少しだけ立ち止まった。振り返らずに言った。
「……陽秋を、頼むわね」
それだけ言って、鳥居をくぐっていった。毛先の銀が、朝の光の中で揺れた。
和臣はその背中を見ていた。昨日の「転ばないように」とも、また違う言葉だった。
◇◆◇◆◇
台所から、義光が出てきた。
いつもの作業着だ。大きな体で、和臣の隣にどかりと座った。しばらく鳥居の方を眺めていた。
「冬華が、あんなふうに泣いたのはな」
義光の声が、いつもより低かった。
「10年前に一回と、昨日と、二回しかない」
「……それって、朝倉さんがいなくなった夜ですか?」
「ああ」義光は御神木を見た。「咲と二人で、境内の隅でずっと泣いてた。俺たちは狛犬だ。護り手だ。だから黙って傍にいることしかできなかった。それしか、できなかった」
和臣は義光を見た。この豪快な男が、声を低くしている。
「でも昨夜は」義光は和臣を見た。「陽秋たちに囲まれて泣いた。ちゃんと、家族の中で泣いた。それは、お前さんが来てからのことだ」
「俺は大したことは……」
「大したことだ」義光がバシンと和臣の背中を叩いた。「婿殿、よくやった」
台所の引き戸が少し開いた。咲が顔を出した。目が、少し赤かった。
昨夜、泣いていたのかもしれない。咲は何も言わずに、ただ和臣を見て、静かに頷いた。それから引き戸を閉めた。
◇◆◇◆◇
昼前に、夏葉が陸上部の練習から戻ってきた。
汗だくのまま縁側に倒れ込んで、和臣の隣に転がった。
「冬華姉さん、今朝、どんな感じだった?」
「普通だったよ。普通に出勤してた」
「そっか」
夏葉は天井を見た。
「あたし、お姉ちゃんが泣くところ、昨日初めて見たな」
「陽秋は10歳の頃に一回あったと言ってたな」
「あたしは8歳か。覚えてないな」
夏葉は腕で目を覆った。
「……覚えてないけど、なんか、昨夜はずっと胸が痛かった」
和臣は何も言わなかった。
「和兄、お姉ちゃんのこと、嫌いになった?」
「なってないよ」
「そっか」夏葉はむくりと起き上がった。「なら、いい」
それだけ言って、着替えに行った。
廊下の奥から小春が駆けてきた。トロンボーンの楽器ケースを抱えたまま、和臣に飛びついた。
「お兄ちゃん! お姉ちゃん、今朝ちゃんとご飯食べてた?」
「食べてたよ」
「よかった」小春は胸を撫で下ろした。「昨日ね、あたしね、冬華お姉ちゃんが泣いてるの見て、ずっと怖かった。なんか、世界が終わるみたいで」
「終わらなかったけどな」
「うん」小春は和臣を見た。「お兄ちゃんが止めてくれたから」
ちょうど陽秋が台所から顔を出した。
「お昼できたよ。みんな集まって」
縁側に、夏の光が降り注いでいた。
◇◆◇◆◇
昼食を終えて外に出ると、鳥居の前に人影があった。
丸眼鏡に作務衣。宗次郎だ。腕を組んで、何かを待っていたような顔で和臣を見た。
「婿殿」
「む、婿殿って。宗次郎さん、まで……。で、何か?」
「奉納の所作について、もう少し詳しく話せる。今夜、店に来なさい」
いつもと同じ飄々とした声だった。しかし、昨日までとは少し違う空気があった。「試している」のではなく、「教える」という意思がそこにあった。
「昨日のことがあって、気が変わりましたか?」
「変わっとらん。ただ、お嬢があれほど泣いたのを見て——わしも、少しは本腰を入れるべきかと思っただけじゃ」
宗次郎は眼鏡を押し上げた。
「お前さんがいなくなったら、あの方はまた一人になる。それはわしも、望まん」
川沿いで玄に会った。目が合うと、玄は少し間を置いてから、「次の調査、水脈が乱れてる場所を教えてやる」
「昨日のことがあって?」
「関係ない」玄は首の後ろを掻いた。「お嬢が泣いたのを見たのは初めてだ。お前が来てからのことだから、まあ——悪い方向じゃないと思っとるだけだ」
「ありがとうございます」
「だから、礼はいらん、って」
翌朝、境内に鞍馬が降りてきた。
いつもの漆黒の翼。赤い目。しかし今日は、団扇を持っていなかった。
「弓の奉納前に、風の読み方を教えると言った」
「はい、以前そう聞いていました」
「今から始める。来い」
有無を言わさない声だったが、それが鞍馬の「歓迎」だと、和臣にはわかってきていた。
境内の御神木の下で、座敷童子がくるくると回っていた。和臣が通ると、にこりと笑って、また回った。よく来てくれた、と言っているのか、頑張れと言っているのか、その子は相変わらず何も言わなかった。
昨夜の雪の跡は完全に消えていた。
しかし何かが変わっていた。この神社の、空気の質が。重さが、違う。冬華の10年分が少し溶けて、境内全体が、わずかに軽くなった気がした。
陽秋が縁側から手を振っていた。
和臣は鞍馬の後について、山の方へ歩き始めた。




