第14話 冬華の雪嵐
冬華を見つけたのは、夕方の本殿だった。
スーツ姿ではなかった。白衣に緋袴の巫女衣装だ。長い黒髪を後ろで結い上げて、神棚の前に静かに立っていた。
陽秋に聞いたことがある。冬華は毎日、役場から戻るとすぐに着替えて、夕方の祈りを欠かさないのだと。この土地の当主として、結界の安寧を神に報告する日課だ。
和臣は扉の前で少し待った。
夕日が本殿の格子から差し込んで、巫女衣装の白を橙色に染めていた。冬華の横顔が、日常とは違う、静かな表情をしていた。
冬華が目を開けた。振り返らずに言った。
「何か用?」
「見てほしいものがあります」
間があった。
「入りなさい」
◇◆◇◆◇
和臣はノートを冬華の前に置いた。
冬華はそれを見た。一瞬だけ、動きが止まった。
「これを、どこで?」
「北斜面の岩盤の下から。金属の筒に入っていました」
冬華は何も言わなかった。
ノートを手に取った。ページをめくった。
几帳面な字を、銀色の目が追っていった。
和臣は黙って待った。
冬華のページをめくる手が、途中で止まった。
止まったまま、動かなくなった。
本殿の中が、静かだった。
外から蝉の声が届いていた。
夕方の蝉は朝より少し音が低い。
「……捨てておきなさい」
冬華の声が、いつもより低かった。
「捨てられません」
「なぜ?」
「大事な記録だから、です」
「大事!?」
冬華がノートを置いた。和臣を見た。その目が、いつもの銀色ではなかった。何か別のものが混じっていた。
「この人間の記録が、あなたに何の関係があるの?」
「あります!」
「どう関係があるの!?」
「このノートは、俺と同じ状況で、この土地に来た人間の記録です。同じ竜神のお告げで、同じように地質を調べて、同じように弓に引き寄せられた。無関係ではいられない」
冬華は立ち上がった。
「関係ない!」
「冬華さん!!」
「か、関係ないと言っているの!!!」
声が、震えていた。
冬華はノートを閉じた。和臣の方を見なかった。
「あなたは知らなくていい。捨てて、忘れなさい」
「忘れられません」
「なぜ、なぜ!?」
「この人は同じ道を歩いた。俺より先に。それを知った以上、なかったことにはできない」
冬華の肩が、わずかに震えた。
「……あなたには、関係のないことよ」
「だから、あります」
和臣は立ち上がった。
「俺も同じ弓に引き寄せられた。同じ土地に来た。それだけで十分、関係がある」
◇◆◇◆◇
冬華が逃げるように本殿の外へ出た。
和臣も後について出た。
境内の夕空に、雲が出ていた。
普通の夕雲ではない。真夏の空に、白くて重い雲が急速に広がっていく。
「冬華さん!」
「黙って!!」
「俺は——」
「黙れと言っている!」
冬華が振り返った。
銀色の目に、涙が光っていた。
次の瞬間、猛烈な吹雪が来た。
真夏の境内に、白い雪が吹きつけた。7月の夕方に、本物の雪だ。
温度が一気に下がった。和臣の吐く息が白くなった。御神木の杉の葉に、雪が積もっていく。
縁側から陽秋が飛び出してきた。
「お姉ちゃん!」
しかし陽秋は吹雪の壁に阻まれて、冬華に近づけなかった。夏葉が炎を出したが、吹雪の勢いに押し戻された。小春が氷を出そうとしたが、冬華の雪嵐の方が格が違いすぎた。
和臣の周囲だけ、吹雪が渦巻いていた。
「人間は脆い!」
冬華の声が、吹雪の中から届いた。
「いつ突然いなくなるかわからない。あの人も、朝倉もそうだった——崖から落ちて、あっという間に。予告もなく、覚悟もなく。そういうものなの、人間は!」
雪が激しくなった。石畳が白く染まっていく。
「陽秋はあの時10歳だった。大切な人がいなくなる意味も、まだわからない年だった。だから私が記憶を薄めた。あの子に二度と同じ思いをさせたくなかった。それなのに——またあの子の隣に人間が立っている!」
吹雪がさらに激しくなった。視界が白い。
「あなたがいなくなったら、陽秋はどうなるの。また私が記憶を消す? 何度消せばいい? 何度繰り返せばいい? いつか消せなくなる。いつか、間に合わなくなる!」
声が、途切れた。
吹雪の中で、冬華が両手で顔を覆っていた。
和臣は吹雪の中に立っていた。
雪が頬に当たって、痛い。視界が白くなっている。しかし和臣は動かなかった。
冬華は、自分のためではなかった。陽秋のために、ずっと人間を遠ざけてきた。10年間、妹を守るために。
(だから、最初から俺を排除しようとしていたのか……)
和臣は影から霊弓を引き出した。
◇◆◇◆◇
静かに弓を構えた。
目標は冬華ではない。吹雪の中心だ。冬華の感情が凝縮している、吹雪の核心。弓から伝わってくる地脈の振動が、その場所を教えていた。
陽秋が雪の向こうから叫んだ。
「和臣くん! 何をするつもり!?」
「陽秋は下がってて!」
弓を引き絞った。白銀の光が、吹雪の白さの中で輝いた。
迷いなく、射た。
白銀の矢が吹雪を切り裂いた。螺旋状に光の帯を描きながら、吹雪の核心に向かって飛んでいく。
衝突した。
光が弾けた。吹雪が、中心から崩れていく。
渦が、ほどけていく。
雪が、ゆっくりと、止まった。
夕方の空が戻ってきた。積もった雪が、みるみる溶けていく。7月の熱が、石畳に戻ってくる。
冬華が、境内の中央に呆然と立っていた。
白衣が、雪で濡れていた。緋袴の裾が、溶けた雪で滲んでいた。
長い黒髪が、乱れていた。毛先の銀が、夕光に光っていた。
銀色の目が、和臣を見ていた。
涙が、流れていた。
「……なんで?」
冬華の声が、かすれていた。
「なんで、そっとしておいてくれないの?」
和臣は霊弓を下ろした。
「陽秋を一人にしない。それは約束する」
「そんなこと、約束できるわけが!?」
「できるかどうかはわからない--」
和臣は冬華を見た。
「でも、約束しない理由もない。陽秋の記憶を消す回数を、俺が減らす。そのためにここにいる」
冬華の唇が、かすかに震えた。
何かを言おうとして、言葉が出なかった。
そのまま、崩れ落ちるように膝をついた。
陽秋が吹雪の跡を駆け抜けてきた。冬華の隣にしゃがんで、肩を抱いた。夏葉と小春も来た。冬華を囲むように、四人が集まった。
和臣はそこから少し離れて立っていた。
冬華の肩が、小さく震えていた。声は聞こえなかった。しかし、震えていた。
夏葉が和臣を見た。目で「ありがとう」と言っていた。
御神木の杉の葉に残っていた雪が、夕光の中でゆっくりと溶けていった。




