第12話 神の背での告白
朝食の後、冬華が縁側に現れた。
いつものスーツ姿だ。出勤前らしく、鞄を持っている。和臣の前を通り過ぎながら、ちらりと視線を向けた。
「今日は陽秋と出かけるそうね」
「はい。神の背の方を調査しようかと……」
「そう」
冬華は少し立ち止まった。それから、和臣を見ないまま言った。
「……転ばないように」
それだけ言って、鳥居の方へ歩いていった。
和臣は冬華の背中を見ていた。「転ばないように」。昨日までの「役に立たなければ記憶を消す」という声とは、明らかに違う。言葉の重さが、違う。
「すごい!」
台所の方から陽秋が顔を出した。
「お姉ちゃんが気にかけてくれた」
「よくあることじゃないのか?」
「全然ない!」
陽秋は少し嬉しそうに笑った。
「珍しいんだよ」
居間では夏葉が部活のバッグを肩にかけていた。
「陸上の朝練があるから先に出るねー」
「いってらっしゃい」
「和兄、陽秋姉によろしく頼むよ」
夏葉はにやりと笑って、玄関へ消えた。
廊下の奥から、小春が楽器ケースを抱えて出てきた。吹奏楽部の練習だ。
「お兄ちゃん、今日は陽秋お姉ちゃんと二人だね」
「そうなるな」
「いいなあ」小春は少し頬を膨らませてから、「楽しんできてね」と付け足した。「転ばないように!」
「冬華さんと同じことを言うんだな」
「へへへ。お姉ちゃんに似てるって言われる」
小春は嬉しそうに笑って、玄関へ駆けていった。
「神の背」は、神社から1時間ほど歩いた先にあった。
天竜川の支流が長い年月をかけて岩盤を削り、垂直に近い崖が数百メートルにわたって続いている場所だ。崖の縁に出ると、眼下に深い谷が広がり、その奥に八守町の集落と、天竜川の銀色の流れが見えた。
空が、広い。
和臣はクリノメーターを岩盤に当てた。傾斜角88度。ほぼ垂直だ。この辺りの岩盤は結晶片岩で、龍脈の歪みが地表に出てきやすい地質だ。調査ポイントとしても意味があって来たのだが、景色の規模に少し言葉を失っていた。
「綺麗でしょ!」
陽秋が崖の縁に腰かけていた。脚を宙にぶらぶらさせながら、谷の向こうを眺めている。高所をまったく恐れていない。
「おいおい、そんな端っこ歩くなよ。落ちないのヒヤヒヤする」
「落ちないよー。ここ、子供の頃からよく来てたから」
和臣も隣に腰かけた。谷底まで数百メートル。足がすくむが、陽秋の横顔が落ち着いているので、なんとか保てた。
しばらく、二人で景色を眺めた。
入道雲が遠くに湧いている。翠玉が来た日の雲とは違う、普通の夏の積乱雲だ。夕立が来るかもしれない。
「ねぇ、和臣くん」
陽秋の声が、少し違う質になった。
「うん」
「話があるの。ずっと、言わないといけないと思ってたこと」
◇◆◇◆◇
陽秋は脚を崖の内側に戻して、膝を抱えた。
谷の方を向いたまま、話し始めた。
「私が東京の大学に行ったのはね」
少し間があった。
「偶然じゃなかったの。竜神様のお告げで……あなたを『スカウト』しに行ったの」
和臣は陽秋を見た。陽秋は谷を向いたままだ。
「霊弓の次の主になれる人間が、東京の大学にいる、って。地質学を学んでいて、弓道の経験がある人間だって。だから私、その大学の地層科学の講義に潜り込んで……和臣くんを探した」
「探した?」
「うん」
和臣は少し黙った。
「最初から、俺を狙って近づいたのか?」
「……うん」
陽秋の声が、小さくなった。
「ごめんなさい。ずっと騙してた」
谷底から風が上がってきた。陽秋の栗色の髪が、ゆっくりと舞い上がった。
和臣は崖の下を見た。数百メートルの空白。岩盤が、遥か下で川と交差している。
(最初から、か)
大学の講義室で「褶曲って、地球がうーんって唸ってる跡みたいで素敵ですよね」と言った声。その時の陽秋の目。何かを確かめるような目だ、と思っていた。
確かめていたのだ。自分が、スカウト対象として合格かどうかを。
「俺は--」
声に出したら、少し震えていた。
「地質学を勉強してる人間として、弓道経験者として、使いやすいから選んだのか」
陽秋が振り返った。
「違う!」
「でも、最初はそうだったんだろ?」
「……最初は、そうだった」
陽秋は和臣を見ていた。琥珀色の目が、揺れていた。
「でも」
「でも?」
「『地球がうーんって唸ってる跡みたいで素敵』って言った時、和臣くんが『学術的にはそういう表現はしません』って言って。それが、なんか……」
陽秋は膝をさらに強く抱えた。
「最初に感じた感情は、本物だったと思う。利用するつもりとか、道具だとか、そういうのじゃなくて」
しばらく、二人とも黙っていた。
遠くの入道雲が、少し近づいてきた。空の色が、青から紫がかった色に変わり始めている。
和臣の頭の中で、いくつかのことが整理されていた。
この町に来たのは、陽秋のスマホに残っていた写真の地層が面白そうだったからだ。それは本当だ。しかし、それだけだったかと問われると、正直わからない。陽秋がいる場所を見てみたかった、というのも確かにあった。
だとすると。
竜神のお告げで選ばれた。地質学者で弓道経験者という条件で探された。それは事実だ。しかし和臣は、その条件があったからここにいるのではなく、自分の意志でここに来て、来てからこの土地が面白くなって、結界を直したいと思った。
選ばれた理由と、自分がここにいる理由は、別物だ。
「陽秋」
「……うん」
「お告げがなかったら、俺と会わなかった?」
陽秋は少し考えた。
「わからない。でも、あったから会えた」
「じゃあ」
和臣は、陽秋の膝の上で固く組まれた手を見た。白くなるほど強く握っている。震えていた。
「お告げがあってよかったな」
陽秋が顔を上げた。
「……え?」
「会えたんだから」
陽秋の目が、大きくなった。
「妖狐だったことも黙ってたし、スカウトだったし、普通なら怒るとこかもだけど……」
和臣は少し間を置いた。
「残念ながら惚れちゃってるから、気にすんな」
陽秋が固まった。
数秒、完全に固まっていた。それから耳まで赤くなって、膝の上に顔を埋めた。
「……急に言わないでよ」
「今しか言えないと思って」
「急すぎるよぉ」
「そうか」
陽秋は顔を埋めたまま、肩が小さく震えていた。笑っているらしい。
陽秋の手が、震えたまま、和臣の手を握り返してきた。
その時、空が光った。
遠くで落雷があって、数秒後に低い雷鳴が届いた。大粒の雨が、一瞬にして降り始めた。夕立だ。
「走って!」
二人は立ち上がって、来た道を駆け戻った。岩盤が濡れて、滑る。陽秋が先を走り、和臣がその後を追った。繋いだ手は、離さなかった。
木々の下に駆け込んだ頃には、全身がずぶ濡れだった。
雨が、あっという間に上がった。
雲の切れ間から、夕日が差し込んできた。谷の向こう、天竜川の上空に、虹が架かっていた。
巨大な、二重の虹だ。
陽秋が息を切らしながら、虹を見た。それから和臣を見た。まだ繋いだままの手を見た。
「……怒ってないの?」
「怒ってない、とは言えない」
「そうだよね」
「でも」和臣は虹を見た。「それより先のことを考えてる」
陽秋は少しの間、和臣を見ていた。それから、ずぶ濡れのまま、小さく笑った。
虹が、谷を渡っていた。




