第11話 夏葉の特訓と小春の氷
朝から境内が騒がしかった。
「腕立て、あと10回!」
「もう腕が……」
「ん? 腕が何だって?」
夏葉が和臣の背中に容赦なく足を乗せた。体重をかけてくる。和臣はそのまま地面に潰れた。
「……限界です」
「限界って言葉、あたしの辞書にない!」
「俺の辞書にはあるんだ!」
夏葉が足をどけた。和臣は石畳の上に大の字になった。空が青い。蝉がうるさい。全身が痛い。
特訓が始まったのは朝食の直後だった。「軽く体を動かすだけ」と言われて境内に連れ出されたが、走る、飛ぶ、担ぐ、避けるの四点セットを2時間やらされた。弓道は体幹が命だが、こういう動きは別の筋肉を使う。
「茂助の幻術にハマったのはさ」
夏葉が和臣の隣にしゃがんだ。
「体が弱いのも一因だと思う。精神力って、体力と比例するから」
「……そういうことか」
「玄と鞍馬は力技で切り抜けた。でも茂助のは精神攻撃。そこが弱かった」
和臣は起き上がった。夏葉がペットボトルを投げてくる。受け取って、一口飲んだ。
「軟弱なあんたに陽秋姉は任せられない」
「それが本音か」
「そ、本音」
夏葉はあっさり言った。
「陽秋姉はね、ずっと一人で全部やってきた。この土地のために、結界のために、家族のために。だから、隣に立つ人間は、同じくらい丈夫じゃないと困る」
和臣は夏葉を見た。夏葉は正面を向いていた。
「わかった。続けよう」
「え、本当に?」
「本当に。まだ動ける」
夏葉が口の端を上げた。
「やるじゃん」
その時、縁側から地響きのような声がした。
「婿殿! 俺も混ぜろ!」
義光が作業着のまま、石畳に飛び降りてきた。
「義光さん、仕事は!?」
「午後からでいい! 鍛えるなら俺が本気でやってやる!」
「お父さんの本気は骨が折れる案件なので。やめて」
「夏葉、つれないなあ!」
義光は肩をすくめてから、和臣の方を向いてバシンと叩いた。
「婿殿、鍛えるのはいいが、根性だけで乗り越えようとするな。この土地には仲間がいる。それを使え」
夏葉が、少し意外そうな顔で義光を見た。
「……驚いた。お父さん、珍しくまともなこと言うね」
「失礼な。俺はいつもまともだ」
◇◆◇◆◇
昼前に特訓が終わり、和臣が縁側で汗を拭いていると、背後の空気が冷えた。
振り返ると、小春が立っていた。お盆に冷たいお茶を載せている。白銀の髪が、わずかに逆立っている気がした。
「お兄ちゃん、お茶」
「ありがとう」
「……夏葉お姉ちゃんと、ずっと一緒だったね」
「特訓だからな」
「そう……」
小春はお盆をそっと置いて、和臣の隣に座った。しばらく黙っていた。縁側の端の方から、じわじわと霜が広がり始めた。
「小春ちゃん」
「……なに?」
「霜、出てる」
小春がはっとして自分の指先を見た。薄く結晶が張り付いていた。
「あわわ。ご、ごめんなさい」
「怒ってないから大丈夫。何か言いたいことがあるなら聞くよ」
小春はしばらく黙った。それから、少しだけ声を低くした。
「夏葉お姉ちゃんばっかりずるい」
「え、何が?」
「お兄ちゃんと一緒にいる時間。昨日は陽秋お姉ちゃんと小春が助けに行ったのに、今日はずっと夏葉お姉ちゃんで」
和臣は少し考えた。
「じゃあ今日の午後、小春ちゃんに教えてもらいたいことがある」
「え?」
「祭りのことを教えてほしい。陽秋からはまだ詳しく聞いていない」
小春の目が、ぱっと明るくなった。霜が引いていく。
「教えてあげる! 全部!」
台所の引き戸が静かに開いた。咲が盆を持って現れた。井戸水で冷やしたきゅうりが数本、塩を振っただけの皿と、冷えたトマトが並んでいる。小春と和臣の前にそっと置いて、何も言わずに戻っていった。
小春がきゅうりを一本取って、ぽりっと噛んだ。
「お母さん、いつも気づいてくれるんだよね」
和臣もきゅうりを手に取った。冷たくて、塩気が汗の抜けた体に染み渡った。
◇◆◇◆◇
縁側に陽秋も加わって、四人で祭りの話をした。
「三日間あるんだよ。一日目は屋台と花火。町の人たちと妖怪たちが一緒に過ごす夜」
「二日目は神楽」と小春が続けた。「私たち四人で舞うの。それぞれの力を使って、この土地に一年分の霊力をかけ直す儀式」
「三日目が本番」と陽秋。「鎮魂の奉納。弓で龍脈の急所を射抜いて、結界を更新する。これが一番大事」
「なるほど。その弓を射るのが俺の役割か?」
「正確には、弓の主が射る。歴代はこの土地の弓役を担う妖怪がやってきたんだけど……その方が今年は体を壊してしまって。だから和臣くんになる」
「弓役の妖怪が、か?」
「うん。霊弓に認められた者なら人間でも担えるって、翠玉様の言葉があるから」
「いつ決まったんだ?」
「竜神様が認めた時点で、実質決まってた。冬華姉さんもわかってるはず」
「なるほど……。射る場所は決まっているのか?」
「龍脈の急所が毎年少しずつ動く。だから直前に計算しないといけない。和臣くんの仕事はそこ」
和臣は地質図を思い浮かべた。毎日の調査で積み上げてきたデータが、あの奉納の一矢に繋がっている。
「あと、弓の所作は--」
「宗次郎さんが古文書から調べてくれてる。鞍馬さんも風の読み方を教えてくれるって」
「鞍馬が?」
「意外かな?」
「意外だ」
「あの人、不器用なだけで悪い人じゃないから」
陽秋がくすっと笑った。
「あと何日だっけ?」
「今日入れて8日だね」
和臣は縁側から境内を眺めた。御神木の杉が、夕方の光を受けて長い影を石畳に落としていた。
「間に合うかな?」
「間に合わせる。和臣くん一人じゃないから」
小春が和臣の腕に抱きついた。
「あたしも一緒に練習する!」
「小春は特訓しなくていい」と夏葉の声がどこかから飛んできた。「和兄の足を引っ張るから」
「夏葉お姉ちゃん、どこにいるの!?」
「屋根の上だよー」
和臣が見上げると、本殿の屋根に夏葉が腰かけていた。炎を指先でくるくる回しながら、夕空を眺めている。
台所から夕飯の匂いが漂ってきた。
縁側に、義光の豪快な笑い声が響いた。




