閉まったままの鍵
不意に響いたその声に足元を掬われ、僕は崩れ落ちるようにしてドアノブへ手をかけた。
金属の塊はやけに重く、震える指先は空を切り、目の前に転がるはずの『対話』を拾い上げようと、僕はただ必死に、ガチャガチャと無機質な音を立て続けた。
「先輩! 鍵、閉まってます!」
ドアの向こうから届く声。そこで初めて、僕は訪問者が誰であるのかを、そして自分がこの部屋に鍵をかけて閉じこもっていたことを認識した。
全身から力が抜け、這うような動作でようやく解錠する。僕一人の力ではどうしても開けることのできなかった扉が、外側からの力でゆっくりと開いていく。
流れ込んできた眩い光を最後に、僕はその場に倒れ込んだ。
重い瞼を再び押し上げたとき、僕はベッドの上に横たわっていた。
起き上がろうと頭を上げた瞬間、肌を撫でる風の冷たさに驚く。
部屋の湿っぽかった空気は、いつの間にか乾いて澄んだものに変わっていた。
僕がずっと守り続けてきた沈黙の代わりに、かつて嗅ぎ慣れていた珈琲の香りが漂っている。
慌てて横を探すが、そこに「彼女」の姿はない。
僕一人の生活には存在し得ない、けれど記憶の底に眠っていたその香りの出元を探す。
迷子の子供のように覚束ない足取りで、胸に渦巻く不安と、微かな期待を抱えながら。
「もう起きたんですか?!」
出元を突き止めるより先に、すぐ近くから声が飛んできた。
振り向いた視線の先にいたのは、幼馴染の後輩、冬芽だった。
ああ、そうか。
あのドアの前で倒れたのは、僕だったんだ。
そこにいたのが「彼女」ではなかったことへの深い失意。
それが、極限の睡眠不足と重なり、再び身体から力が抜けかける。
「ほら、さっき倒れたばかりなんですから! 少なくともその酷いクマが取れるまでは、大人しく寝ておいてください!」
冬芽にしては強い口調で、叱責するように言う。
彼女は崩れかけた僕の身体を、その小さな肩で支えてくれた。
そのとき、ふと香った柔軟剤の爽やかな匂い。
微かに聞こえる衣擦れの音。
そして、僕を支える彼女自身の柔らかさ。
冬芽のまとう空気はあまりに生命力に満ちていて、その『生身』の感覚は、今の僕にはあまりに眩しく、そして毒々しかった。
荒くなりそうな呼吸を押し殺し、聞きたいことをすべて飲み込む。
自覚させられた体調の悪さに、僕はただ黙って彼女に従うことにした。
「……仕方ない人ですね」
溜息混じりに、けれど手際よく僕をベッドまで介抱してくれる。
冬芽は僕たちの幼馴染で、一つ下の後輩だ。
幼い頃、公園で泣きそうになっていた彼女を真琴が心配し、親御さんが迎えに来るまで一緒に遊んだ。
そんな出会いから今日まで、彼女はいつだって『後輩』として僕たちの側にいた。
体調を崩すたびに、真琴と一緒に世話を焼いてくれたあの日々が脳裏をよぎる。
「大学でもどこでも顔を見かけなかったので、心配だったんです。……訪ねてみれば、こんな部屋で、こんなに酷い顔をして。真琴さんだって、心配しますよ」
伏せ目がちに放たれたその言葉に、僕は返す言葉を持たなかった。
ベッドに僕を押し込み、彼女は仕方のない子供をあやすような顔で告げる。
「しばらく大人しく寝ておいてください。私が諸々、片付けておきますから」
優しい声。
それに安心したのか、それとも身体が限界を迎えたのか。
遠のいていく意識の底で、僕が最後に認識したのは。
短く響いた一つの通知音と、
それを見た彼女の、今にも泣き出しそうな顔だった。
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