第4章「王都からの使者、そして竜騎士の怒り」
夜明け前の厨房は、静寂と冷気に包まれていた。
石造りの床から這い上がってくる冷気が、足首を容赦なく刺す。
アカリは眠い目を擦りながら、かまどの前に立った。
分厚い鉄扉を開け、昨日から熾しておいた種火に乾いた薪をくべる。
ふいごで風を送ると、パチパチという小気味よい音と共に、オレンジ色の炎が勢いよく立ち上がった。
炎の熱が、冷え切った空気をゆっくりと押し出していく。
アカリは腕まくりをして、大きな木鉢に向かった。
中には、昨晩から発酵させておいた小麦粉の生地が、ふっくらと膨らんでいる。
指先で軽く押すと、赤ちゃんのほっぺたのように柔らかく沈み込み、ゆっくりと元の形に戻った。
打ち粉を振った調理台に生地を取り出し、両手で空気を抜くように練り直す。
体重を乗せて押し込み、折り畳んではまた押し込む。
トントン、トントンと、リズミカルな音が厨房に響き渡る。
小麦の甘く素朴な香りが、鼻腔を優しくくすぐった。
生地を小分けにして丸め、天板に並べていく。
オーブン代わりの石窯の温度が十分に上がったのを確認し、天板を滑り込ませた。
パンが焼き上がるまでの間、スープの準備に取り掛かる。
今日は、雪の下で甘みを蓄えた白菜に似た野菜と、塩抜きした干し肉のクリームスープだ。
砦で絞られた濃厚な羊乳をたっぷり使い、冷えた体を芯から温める一品にするつもりだった。
鍋にバターを溶かし、細かく刻んだ根菜と干し肉を炒める。
ジューッという音と共に、濃厚なバターの香りと肉の旨味が混ざり合い、強烈な食欲をそそる匂いが立ち昇った。
野菜がしんなりとしたところで少量の小麦粉を振り入れ、粉っぽさがなくなるまで焦がさないように炒め合わせる。
そこに温めた羊乳を少しずつ注ぎ、ダマにならないよう木べらで丁寧に手早くかき混ぜた。
グツグツと静かに煮立つスープの表面に、小さな気泡が浮かんでは消える。
味見をすると、野菜の甘みと肉の塩気が絶妙に絡み合い、まろやかで深いコクがあった。
「うん、美味しくできた」
小さくつぶやき、アカリは満足げに微笑んだ。
その時、背後から足音が近づいてきた。
振り返るよりも早く、肩に厚手で重い何かが掛けられる。
「……こんな朝早くから、ご苦労なことだ」
頭上から降ってきたのは、地響きのように低く、それでいて心地よい声。
振り返ると、寝起きの無防備な姿のクロードが立っていた。
黒髪は少し乱れ、シャツの胸元がはだけて、引き締まった筋肉が覗いている。
アカリの肩に掛けられたのは、彼がいつも羽織っている黒狼の毛皮の外套だった。
「クロードさん。おはようございます」
「ああ。……今日もまた、暴力的な匂いをさせているな」
クロードは呆れたように言いながら、石窯の方へ視線を向けた。
ちょうどパンが焼き上がり、香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がっているところだった。
「焼き立てのパンと、温かいスープがありますよ。味見、しますか?」
「……毒見は俺の役目だからな」
クロードは素直に頷かないが、その青い瞳は完全にスープ鍋に釘付けになっていた。
アカリは苦笑しながら、木製のカップにスープをよそい、小さなパンを添えて彼に手渡した。
クロードは行儀悪く調理台に寄りかかり、パンをちぎってスープに浸す。
そのまま口に運ぶと、彼の動きがピタリと止まった。
喉仏が大きく動き、ゴクリと飲み込む音が静かな厨房に響く。
クロードは無言のまま、次々とパンをスープに浸しては口に運んだ。
瞬く間にカップを空にすると、彼は深いため息をついた。
「……内臓が、溶けそうだ」
「ふふっ、美味しいならよかったです」
アカリが微笑むと、クロードは空になったカップを置き、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
無骨で大きな手が、アカリの頬にそっと触れる。
指先から伝わる彼の体温は、かまどの火よりも熱く感じられた。
「お前の飯を食うたびに、俺の体が俺のものではなくなっていく気がする」
「そんな、大げさな……」
「大げさではない。……お前がいないと、もう元の味気ない生活には戻れない」
クロードの親指が、アカリの唇の端を優しくなぞる。
その視線は、獲物を逃さない肉食獣のように鋭く、それでいて酷く甘い熱を帯びていた。
アカリの心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
「あの……クロードさん、皆さんが起きてきちゃいますよ」
「構わない。ここは俺の砦だ」
クロードの顔がゆっくりと近づいてくる。
彼の微かなミントの香りがアカリを包み込み、逃げ場を塞ぐ。
目を閉じた瞬間。
「キュイィィィッ」
足元から、空気を切り裂くような甲高い鳴き声が上がった。
同時に、白い毛玉がアカリの足首に激突する。
「ルル!」
「……チッ、またお前か」
クロードが忌々しそうに舌打ちをする。
足元では、ルルがアカリの足に必死にしがみつきながら、クロードに向かって牙を剥いて威嚇していた。
小さな羽を精一杯広げ、自分がアカリを守っているのだと主張しているようだ。
「ルル、おはよう。お腹すいたの?」
アカリがしゃがみ込んでルルを抱き上げると、ルルは一瞬で甘えた声に変わり、アカリの顎にスリスリと顔を擦り付けた。
そのあからさまな態度の違いに、クロードは額に青筋を浮かべている。
「その毛玉、一度丸焼きにして食ってやろうか」
「駄目ですよ、ルルは大事な家族でしょう?」
「俺とお前の邪魔をするなら、話は別だ」
クロードの大人げない態度に、アカリは思わず吹き出してしまった。
極寒の辺境の地。
死と隣り合わせの過酷な環境。
それなのに、この厨房だけは、どこよりも温かく、幸せな空気に満ちていた。
◆ ◆ ◆
昼が近づくにつれ、砦は活気を帯びてきた。
食堂には、朝の鍛錬を終えた騎士たちが続々と集まってくる。
雪焼けした屈強な男たちが、アカリの料理を前に子供のように目を輝かせていた。
「アカリさん! 今日も最高に美味いっす!」
「このパン、どうやって作ったらこんなにフワフワになるんだ? 王都の高級店でもこんなの食ったことないぞ」
茶髪の青年騎士が、パンを頬張りながら感動の声を上げる。
他の騎士たちも、口々にアカリを称賛しながら、猛烈な勢いで食事を平らげていく。
アカリの料理を食べた騎士たちの顔には、疲労の色は微塵もなく、みな健康的な赤みを帯びていた。
「皆さんが元気になってくれて、本当に嬉しいです」
アカリが空になった皿を片付けながら微笑むと、騎士たちは一斉に顔を赤らめ、胸を押さえた。
「くそっ、女神の微笑みだ……」
「団長がいなけりゃ、俺がアカリさんに求婚するのに……」
「馬鹿野郎、命が惜しくないのか。団長のあの執着ぶりを見ろよ」
騎士たちが小声でささやき合っていると、食堂の奥の席で一人黙々と食事をしていたクロードが、冷たい視線を向けた。
「……何か言ったか、お前ら」
「い、いえ! 何も! 飯が美味いなって話してました!」
騎士たちは蜘蛛の子を散らすように自分の席へ戻り、背筋を伸ばして食事を再開した。
その光景がおかしくて、アカリはくすくすと笑いを漏らす。
砦の皆は優しく、クロードは不器用だが誰よりもアカリを大切にしてくれる。
ここが、私の居場所なんだ。
アカリは、温かい感情で胸が満たされるのを感じていた。
その平穏が、無惨に打ち砕かれるとも知らずに。
突然、砦の重厚な正門が叩き割られるような轟音が響いた。
食堂の空気が一瞬で凍りつく。
騎士たちが食事の手を止め、一斉に腰の剣に手をかけた。
「魔物の襲撃か!?」
「いや、門の方向だ! 外壁を破られた形跡はない!」
怒号が飛び交う中、食堂のオーク材の扉が、外から乱暴に蹴り開けられた。
吹き込んでくる猛烈な吹雪と共に、数人の人影が食堂に足を踏み入れる。
先頭に立っていたのは、この極寒の辺境にはおよそ似つかわしくない、金糸の刺繍が施された豪華な絹の外套をまとった小太りの男だった。
その後ろには、王家直属の近衛騎士と思われる、銀色の甲冑を着込んだ兵士たちが控えている。
「チッ、なんだこの豚小屋のような臭いは。野蛮人どもは飯の食い方も知らんのか」
小太りの男が、鼻をハンカチで覆いながら吐き捨てるように言った。
その甲高い声には、辺境の人間を底辺のゴミと見下す、強烈な侮蔑の感情が込められていた。
アカリの心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように縮み上がった。
あの服の紋章。
あの見下すような視線。
間違いない。
王都の人間だ。
私をこの雪原に捨てた、あの老人と同じ気配のする男。
「誰の許可を得て、この砦に足を踏み入れた」
空気が、ビリビリと震えた。
クロードが、椅子からゆっくりと立ち上がる。
彼の全身から放たれる圧倒的な殺気に、王都の近衛騎士たちでさえ、一瞬怯んで後ずさった。
しかし、小太りの男だけは、王威という後ろ盾を信じきっているのか、傲慢な態度を崩さない。
「私は国王陛下の特使だ! 竜騎士団団長クロードよ、辺境の守備に就くお前が、王の使いにそのような口を利いてよいと思っているのか!」
「俺の問いに答えろ。誰の許可を得たと言っている」
クロードの低い声は、激怒を押し殺した極寒の氷のようだった。
食堂の温度が、急激に下がっていく錯覚すら覚える。
「ふん、蛮族には礼儀というものが分からないらしい。まあよい、今日は貴様らのような下劣な者の相手をしに来たのではない」
使者の男は、食堂内を傲慢な視線で見回した。
そして、厨房の入り口で顔を青ざめさせて立ち尽くすアカリの姿を捉えると、その豚のような目をいやらしく細めた。
「おお、いたいた。探したぞ、逃亡者め」
「っ……」
アカリは思わず一歩後ずさった。
男の視線が、自分を物として値踏みしているのがはっきりと分かる。
吐き気がするほどの不快感。
「逃亡者、だと……?」
クロードの声が、さらに一段低くなる。
「いかにも。その薄汚れた女は、王都から逃げ出した重罪人だ」
使者は懐から、王家の紋章が入った羊皮紙を取り出し、見せつけるように広げた。
「王都は今、未曾有の危機に瀕している。突如発生した瘴気により、民が次々と倒れているのだ。本物の聖女として迎え入れたセーラ様には、なぜか浄化の力が発現せず……いや、あの方はまだ覚醒の途中なのだ。だが、事態は急を要する」
使者はアカリを指差し、嘲笑するように口角を歪めた。
「そこで、王立魔術院の賢者様が再調査を行った結果、召喚の儀式において、稀に聖女の力の残滓が巻き添えになった者に宿ることが判明したのだ。おい、そこの女。貴様、ここに来てから奇跡のような治癒の力を使ったであろう? それは、本来セーラ様が持つべき聖女の力が、貴様の体に一時的にこびりついているだけのことだ」
男の言葉に、アカリは耳を疑った。
私が聖女の力を盗んだ?
巻き添えで呼び出しておいて、ゴミのように捨てたのはそっちなのに。
都合が悪くなれば、今度は泥棒扱いして連れ戻すというのか。
「さあ、おとなしくこちらへ来い。お前は王都へ戻り、その体に宿った力を全て吐き出して、王都の瘴気を浄化するのだ。それが、聖女様の力を不当に持ち出した泥棒に与えられた、唯一の贖罪の機会だと思え」
使者の言葉の裏にある意味は、明白だった。
王都へ戻れば、瘴気を浄化するための道具として、死ぬまで魔力を搾り取られる。
いや、それだけではない。
偽聖女のセーラを守るため、事態が収束した後は、すべての責任を押し付けられて処刑されるに違いない。
「……嫌、です」
震える声が、アカリの唇からこぼれ落ちた。
恐怖で膝がガクガクと笑い、立っているのもやっとの状態だった。
「なんだと? 下賎な女が、王命に逆らうというのか!」
「勝手に呼び出して、雪山に捨てたのは……あなたたちです。用済みだと言ったのに、どうして……っ」
「黙れ! お前のような虫けらに、発言権などない!」
使者が怒号を上げ、背後の近衛騎士たちに顎でしゃくった。
「連行しろ! 抵抗するなら、手足の一本や二本切り落としても構わない。生きて王都にたどり着けばそれでよい!」
銀の甲冑を着た騎士たちが、無機質な目で剣を抜き、アカリに向かって歩みを進めた。
冷たい刃の輝きが、アカリの網膜を焼く。
過去の記憶がフラッシュバックし、呼吸が浅くなる。
また、あの暗い石室に。
また、冷たい雪の中に。
『誰か、助けて……っ』
アカリが強く瞼を閉じた、その瞬間。
耳をつんざくような風切り音と共に、銀の騎士たちの足元に、巨大な黒い刃が突き刺さった。
「……ひっ!?」
騎士たちが間一髪で立ち止まり、顔面を蒼白にして後ずさる。
石畳を粉砕して突き刺さっているのは、身の丈ほどもある漆黒の大剣だった。
それは、クロードの愛剣。
気がつけば、クロードがアカリの前に立っていた。
その広い背中が、アカリの視界から、王都の使者たちを完全に遮断する。
「……俺の女に、気安く近づくな」
静かな、だが腹の底を震わせるような恐ろしい声だった。
クロードの全身から立ち昇る殺気は、もはや隠しようがないほどに実体化し、食堂内の空気を物理的に重くしている。
呼吸をするだけで、肺が凍りつくような極寒の威圧感。
「き、貴様っ……狂ったか! 王の使者である我々に刃を向けるとは、反逆罪だぞ!」
使者が顔を引きつらせ、裏返った声で叫ぶ。
「王命だと? 笑わせるな」
クロードが、ゆっくりと大剣の柄に手をかける。
彼が軽く剣を引き抜くだけで、石畳がメキメキと音を立てて砕け散った。
「俺は、辺境の守護を任された竜騎士団団長だ。この地に足を踏み入れたからには、俺の許可なく草の根一本持ち出すことは許さない」
「な、何を馬鹿な! 王の言葉は絶対だ!」
「ここは最前線だ。王都でふんぞり返っている豚の言葉など、この雪原では無意味だ」
クロードが剣先を、使者の鼻先に突きつける。
わずか一寸。
その距離で止まった漆黒の刃から、死の冷気が使者の顔面に直接吹き付けた。
「ヒィィッ……」
「アカリは、俺のものだ」
クロードの声は、一切の揺らぎがない、絶対的な宣言だった。
「俺の飯を作り、俺の傷を癒やし、俺の砦に光をもたらした。彼女を傷つけた者、彼女を奪おうとする者は、たとえ一国の王であろうと、俺が全て斬り捨てる」
使者は恐怖のあまり腰を抜かし、無様に床にへたり込んだ。
背後の近衛騎士たちも、最強の竜騎士が放つ圧倒的な暴力の前に、剣を握る手すら震え、一歩も動くことができない。
アカリは、クロードの背中を見つめていた。
恐怖で震えていた心臓が、今は別の感情で激しく高鳴っている。
彼は、私のために。
国を敵に回すことすら躊躇わず、私を守ると言ってくれた。
「帰れ、豚ども」
クロードの冷酷な瞳が見下ろす。
「二度と、俺の領地にその汚い足を踏み入れるな。次にアカリの名を口にすれば、王城ごと貴様らを灰にするぞ」
その言葉には、一切の誇張がないことが、誰の目にも明らかだった。
最強の武力を持つ男の、理不尽なまでの執着と怒り。
使者たちは這いつくばるようにして食堂を飛び出すと、石造りの冷たい回廊を転がるようにして、猛吹雪の吹き荒れる屋外へと逃げ去っていった。
王の権威など、辺境の絶対者の前では、あまりにも無力だった。




