第3章「もふもふ幻獣と強面騎士たちとの、甘くて温かいスローライフ」
分厚い石壁の向こう側から、吹き荒れる風が刃のように空気を切り裂く音が絶え間なく聞こえてくる。
北の果て、魔の山嶺の麓に位置するこの砦は、一年の大半を凍てつく雪と氷に閉ざされている。
外の世界の過酷さを証明するように、はめ殺しの小さな窓ガラスには、幾重にも霜の結晶が張り付いていた。
しかし、厨房の中だけは別世界だった。
石造りのかまどの中で、乾燥した薪が熱に耐えきれず弾け、赤々とした炎が生き物のように揺らめいている。
炎が放つ熱波が冷え切った空気を押し上げ、部屋全体を春の陽だまりのような温もりで満たしていた。
アカリは、自分の背丈ほどもある大きな木製の調理台の前に立っていた。
正式に竜騎士団の料理番として迎えられてから、数日が経過している。
王都から追放され、雪原で行き倒れそうになっていたのが嘘のように、今の彼女の居場所はこの温かい厨房にしっかりと根付いていた。
足元では、白い毛玉のような幻獣、ルルが丸くなっている。
アカリの足首に柔らかな背中を預け、短い呼吸に合わせて小さな体が規則正しく上下している。
指先でその耳の付け根を撫でると、喉の奥を鳴らすような低い振動が伝わってきた。
シルクのように滑らかな毛並みは、触れているだけで心が解れていく不思議な力を持っている。
アカリは微笑みながら手元の作業に戻る。
まな板の上にあるのは、今朝の巡回部隊が雪を掘り起こして見つけてきたという、辺境特有の根菜だった。
大人の拳二つ分ほどもある無骨な見た目だが、土を落として薄く皮を剥くと、中は透き通るような薄紅色だった。
鋼の包丁を握り、根菜に刃を落とす。
硬質な繊維を断ち切る小気味よい感触が、柄を伝って手のひらに響く。
刃を入れるたびに、果実のように甘く瑞々しい香りが鼻腔をくすぐった。
傍らには、塩漬けにされていた分厚い獣肉の塊がある。
数日間、清らかな雪解け水に浸して塩抜きをし、繊維を何度も叩いてほぐしてある。
アカリは切り分けた肉の表面に、すり鉢で細かく挽いた山椒に似た香辛料を丁寧にすり込んでいった。
熱した分厚い鉄鍋に、獣の脂を落とす。
脂が溶けて透明な液体に変わった瞬間、香辛料をまとった肉を放り込んだ。
激しい音と共に、肉の表面が瞬時に焼き固められ、香ばしい煙が立ち昇る。
野生特有の臭みは香辛料の刺激的な香りに上書きされ、ただ純粋な食欲をかき立てる匂いとなって厨房を満たした。
肉の表面に焦げ目がついたところで、先ほど切り分けた薄紅色の根菜を投入する。
木べらで鍋底からすくい上げるように混ぜ合わせ、全体に油が回ったのを見計らって、琥珀色の果実酒をひと回しかけた。
炎が鍋肌を舐め、アルコールが一気に気化して熱気を孕んだ蒸気となる。
甘く深みのある香りが、部屋の隅々まで染み渡っていく。
そこにたっぷりの水を注ぎ、かまどの火力を落として蓋をした。
後は時間が美味しくしてくれるのを待つだけだ。
アカリは額に浮かんだ汗を前掛けの端で拭い、小さく息を吐き出した。
◆ ◆ ◆
昼時になり、砦の食堂に重武装の騎士たちが次々と雪崩れ込んでくる。
彼らの顔には疲労の色が濃く滲んでいる。
辺境の魔物は冬の寒さに乗じて活発になり、巡回任務は命を削る過酷なものだった。
鎧には魔物の返り血や泥がこびりつき、兜を脱いだ髪は汗と雪で額に張り付いている。
長机に腰を下ろした騎士たちの前に、アカリが湯気を上げる大きな木深皿を運んでいく。
「お疲れ様です。今日は、雪下根菜と獣肉の煮込みですよ」
アカリが微笑みながら皿を置くと、騎士たちの疲労に満ちた瞳に、一瞬で強い光が宿った。
「おおっ……! この香りだけで、凍った指先が動く気がする」
「アカリさんの飯を食うために、俺は今日の魔物討伐を生き抜いたんだ……」
大柄な男たちが、まるで飢えた子供のように木製のスプーンを握りしめ、一斉に煮込みにがっつく。
熱いスープを口に含んだ瞬間、彼らの動きがピタリと止まった。
太い喉仏が大きく上下に動き、咀嚼が繰り返される。
やがて、感極まったような深いため息が、食堂のあちこちから漏れ始めた。
「うまい……。肉が、舌の上で崩れる。それに、この赤い芋の甘さといったら……」
「腹の底から、熱い力が湧いてきやがる。肩の生傷が、もう痒くなってきたぞ」
アカリの料理には、食べた者の魔力を回復させ、肉体の損傷を急速に修復する力がある。
魔法の光を伴うわけではない。
ただ、温かい食事と共に胃の腑に落ちた熱が、血管を巡って全身の細胞を叩き起こすような、生々しい肉体の感覚としてそれは現れる。
青ざめていた騎士たちの顔色に赤みが差し、重く引きずっていた足取りが嘘のように軽くなっていく。
彼らは次々とおかわりを求め、巨大な鍋の中身はあっという間に底をついた。
「アカリさん、あなたは俺たちの命の恩人だ。いや、女神だ」
茶髪の若い騎士が、空になった皿を両手で拝むように持ち上げながら熱弁を振るう。
「王都の連中は、あなたのような宝を辺境に捨てるなんて、どうかしている。俺たちが一生守り抜きますから、ずっとここにいてくださいね」
他の騎士たちも、口々に同意の声を上げる。
むさ苦しくも真っ直ぐな彼らの好意に、アカリは気恥ずかしさを覚え、頬を薄く染めて視線を泳がせた。
「大げさですよ。私はただ、あるものを煮込んでいるだけですから」
「いや、大げさじゃない。アカリさんが来てから、この砦の負傷者の死亡率がゼロになったんだ。これは奇跡以外の何物でもない」
騎士たちが口々にアカリを称賛し、食堂の熱気が最高潮に達しようとした、その時だった。
重厚なオーク材の扉が、ゆっくりと開かれた。
入り口に現れた影に、食堂の空気が一瞬にして冷水に浸されたように引き締まる。
長身を漆黒の毛皮の外套に包んだ男。
竜騎士団団長、クロード。
彼の鋭い青い瞳が、食堂の様子を冷ややかに一瞥する。
群がっていた騎士たちは蜘蛛の子を散らすように自分の席へと戻り、背筋を伸ばして硬直した。
クロードは静かな足取りでアカリの前まで歩み寄る。
外套の表面には新雪が降り積もり、彼の周囲だけが極寒の冷気を帯びていた。
「……あまり、こいつらに近づくな。臭いが移る」
低い声でそう言い放つと、クロードはアカリと騎士たちの間に割って入るように立ち塞がった。
その広い背中は、まるで貴重な宝を隠す竜のようだった。
「団長、ひどいですよ! 俺たちはただ、アカリさんの料理の感想を伝えていただけです」
茶髪の青年が恐る恐る抗議の声を上げるが、クロードは振り返ることもなく言い捨てる。
「食事が済んだなら、早く武器の手入れに戻れ。次の吹雪が来る前に、外壁の補強も終わらせておくのだな」
絶対的な命令に、騎士たちは肩を落とし、すごすごと食堂を後にしていった。
嵐が過ぎ去ったように静まり返った食堂に、アカリとクロード、そして彼の足元にまとわりつくルルの三者だけが残される。
アカリは、クロードの外套の袖口から、赤いものが滴っているのに気づいた。
「クロードさん、怪我を……っ」
血の気を引かせたアカリが歩み寄ろうとすると、クロードは一歩後ろに下がり、自分の腕を隠した。
「俺の血ではない。……少し、奥の氷谷まで行ってきただけだ。これを」
彼は外套の内側から、麻布に包まれた何かを取り出し、調理台の上にそっと置いた。
布が解かれると、そこから現れたのは、見たこともないほど巨大で、青白い光を放つ鳥の肉だった。
「それは……?」
「氷鳥の胸肉だ。魔力含有量が高く、疲労回復に効く。普通の刃では皮すら裂けない代物だが、下処理は済ませてある」
クロードは淡々と説明するが、その鳥がどれほど危険な魔物であるか、アカリにも容易に想像がついた。
彼の頬には、細い刃物で切り裂かれたような新しい傷跡が刻まれている。
「私のために、わざわざ危険な場所へ……?」
「違う。俺が食いたかっただけだ」
即座に否定するクロードだが、視線は不自然なほどアカリから逸らされている。
彼の耳の裏が、ほんのりと熱を帯びたように赤くなっているのを、アカリは見逃さなかった。
不器用で、言葉足らずで、それでいて誰よりも深くアカリを気遣ってくれる。
胸の奥がじんわりと温かくなり、アカリは自然と笑みをこぼした。
「ありがとうございます。クロードさんのために、とびきり美味しく料理しますね」
アカリの笑顔を見た瞬間、クロードの喉仏が小さく動いた。
彼は無言のまま、ゆっくりとアカリとの距離を詰める。
一歩、また一歩。
長靴が石畳を踏みしめる音が響く。
見上げるほどの長身がアカリの眼前に迫り、彼がまとう冷たい外気の匂いと、微かなミントの香りがアカリを包み込んだ。
「……アカリ」
低く、甘い響きを帯びた声が、頭上から降ってくる。
クロードの大きな手が持ち上がり、アカリの頬に触れようと――。
「キュイィッ」
その瞬間、ルルがアカリの足首から跳ね上がり、クロードとアカリの間に割り込むように空中で羽ばたいた。
真っ白な毛玉が、邪魔をするようにクロードの顔面に突撃する。
「ぐっ……! ルル、お前、また邪魔を……」
クロードは顔に張り付いたルルを引き剥がそうと悪戦苦闘し始める。
先ほどまでの重く甘い空気は一瞬で霧散し、アカリは思わず吹き出してしまった。
「ふふっ……。ルルは、クロードさんが羨ましいんじゃないですか?」
「戯れ言を。こいつはただ、お前を独り占めしたいだけだ」
ようやくルルを顔から引き剥がしたクロードが、恨めしそうに白い毛玉を睨みつける。
最強の竜騎士が、小さな幻獣相手に本気で嫉妬を露わにしている姿は、どうにも滑稽で愛らしかった。
◆ ◆ ◆
夜の帳が下り、砦は深い静寂に包まれていた。
外の吹雪はいっそう激しさを増し、窓ガラスを叩き割らんばかりの勢いで雪を吹き付けている。
アカリの私室として与えられた小部屋には、温かい暖炉の火が赤々と燃えていた。
ベッドの上では、お腹いっぱい氷鳥の肉を食べたルルが、幸せそうに腹を出して眠りこけている。
アカリは暖炉の前の揺り椅子に座り、膝に厚手の毛布を掛けていた。
手には、温めた羊乳に蜂蜜と微かな香辛料を加えた、特製の飲み物が入ったマグカップが握られている。
扉を叩く音がして、クロードが姿を現した。
鎧を脱ぎ、ゆったりとした白いシャツに黒い長ズボンという、無防備な部屋着姿だ。
「起きているか」
「はい。クロードさんも、温かいもの飲みますか?」
アカリがマグカップを持ち上げると、クロードは無言のまま揺り椅子の横に置かれた木の丸椅子に腰を下ろした。
狭い部屋の中、二人の距離は手が届くほどに近い。
クロードは、アカリの膝に掛けられた毛布の端を掴むと、彼女の肩まですっぽりと覆うように引き上げた。
その動作は乱暴に見えて、ひどく慎重で優しい。
「ここは底冷えがする。体を冷やすな」
「ありがとうございます。でも、少し暑いくらいですよ」
アカリが苦笑すると、クロードは眉間にしわを寄せた。
「お前は自分の弱さを自覚していない。王都の温室育ちの女が、この極寒の地で生きられるわけがないのだ」
「もう温室育ちじゃありません。それに、私には料理の力がありますから」
「それでもだ」
クロードの声が、一段と低くなる。
彼の青い瞳が、暖炉の炎を反射して揺らめいていた。
「俺の目の届かないところで、倒れられたら困る」
それは、ただの部下を気遣う言葉ではない。
もっと深く、重く、執着に満ちた響きを含んでいた。
クロードの手が伸びてきて、アカリの頬に触れた。
今度は、ルルの邪魔は入らない。
硬いタコのある指先が、火照ったアカリの頬をゆっくりと滑り、耳たぶからうなじへと抜けていく。
触れられた場所から、火傷しそうなほどの熱が全身に広がっていくのを感じた。
アカリは息を呑み、マグカップを握る手に力を込めた。
心臓の音が、自分でも分かるほどに激しく早鐘を打っている。
「クロード、さん……」
震える声で名前を呼ぶと、クロードはわずかに目を細め、さらに顔を近づけてきた。
彼の呼吸が、アカリの前髪を揺らす。
「お前が作る飯は、不思議だ」
吐息が混ざり合うほどの距離で、クロードが囁く。
「怪我が治るだけではない。氷のように冷え切っていた俺の内側が、無理やり溶かされていく気がする。……ひどく、心地悪い」
「心地、悪い……?」
「ああ。今まで一人で戦うために殺してきた感情が、お前のせいで暴れ出しそうになる」
クロードの親指が、アカリの唇の端を優しくなぞった。
「お前を、俺の鎖で縛り付けて、どこへも逃げられないようにしたくなる」
その言葉は、恐ろしいほどの独占欲に満ちていた。
本来なら恐怖を感じるべきなのに、アカリの胸の奥は、彼に必要とされているという強烈な歓喜で震えていた。
追放され、誰からも必要とされなかった自分。
それを拾い上げ、絶対的な力で守り、ここまで激しい感情を向けてくれる男。
アカリは逃げることなく、クロードの青い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「私は……逃げませんよ。クロードさんが、美味しいと言ってくれる限り」
「……馬鹿な女だ」
クロードは低くため息をつき、その大きな手でアカリの後頭部を引き寄せた。
広い胸板に額が押し付けられる。
厚い胸の筋肉の奥から、彼自身の激しい心拍音が伝わってきた。
窓の外では、世界を白く染め上げる猛吹雪が吹き荒れている。
しかし、アカリを包み込んでいるのは、猛獣の縄張りのように安全で、気が遠くなるほど熱く甘い空間だった。
辺境に捨てられたはずの彼女の日常は、今や最強の竜騎士からの、逃れようのない深い愛情によって完全に塗り替えられていた。




