第2章「騎士団の胃袋を掴んだら、最強の団長に囲い込まれました」
石造りの天井から、冷たい隙間風が音を立てて吹き込んでくる。
アカリは分厚い毛布の海からそっと顔を出した。
鼻先を掠める空気は氷のように冷たいが、毛布の中は驚くほど暖かい。
腹の上には、丸々とした白い毛玉――ルルが、規則正しい寝息を立てて丸まっていた。
そっと体を起こし、寝台を降りる。
足の裏から伝わる石畳の冷たさに、肩がビクッと跳ねた。
窓の外は相変わらずの猛吹雪で、視界は真っ白に塗り潰されている。
『昨日のスープ、美味しかったな』
クロードが全て飲み干してくれた空の皿を見つめ、アカリは小さく微笑んだ。
助けてもらった恩返しに、せめて美味しい食事を作りたい。
アカリはルルを起こさないよう静かに部屋を抜け出し、厨房へと向かった。
◆ ◆ ◆
薄暗い厨房には、朝霜が降りたように冷たい空気が滞留していた。
木箱の中には、昨日の若い騎士が言っていた辺境の掟を象徴するような食材が転がっている。
干からびた根菜、塩漬けにされて石のように硬くなった肉の塊、そして水分を完全に失った黒パン。
アカリは腕まくりをすると、大きな鉄鍋に水を張り、かまどに火を入れた。
パチパチとはぜる薪の音が、静寂に包まれた厨房に響き渡る。
炎の熱が顔を照らし、凍えていた指先にゆっくりと血が巡っていくのを感じた。
まずは、硬い塩漬け肉の下処理からだ。
ナイフの柄で肉を丹念に叩き、繊維をほぐしていく。
トントン、トントンとリズミカルな音が石壁に反響する。
細かく刻んだ肉を、熱した鍋に放り込んだ。
ジューッという激しい音と共に、香ばしい獣の脂の匂いが立ち昇る。
そこに、水で戻して乱切りにした根菜を加える。
鍋肌に触れた野菜が焦げる前に、木べらで素早くかき混ぜた。
食材の表面にテリが出たところで、たっぷりの水を注ぎ込む。
グツグツと煮立つ音が重なり合い、厨房の温度が徐々に上がっていく。
アカリは棚の奥から見つけた数種類の乾燥ハーブを手のひらで揉みほぐし、鍋に散らした。
肉の臭みが消え、食欲を刺激する爽やかで深い香りが蒸気となって部屋中に充満し始める。
最後に、カチカチの黒パンを一口大に砕き、スープの中に沈めた。
硬いパンが旨味たっぷりの肉汁を吸い込み、ふっくらと膨張していく。
「よし、完成」
額に滲んだ汗を手の甲で拭い、アカリは満足げに鍋を見下ろした。
黄金色に輝くスープの表面には、細かな脂がキラキラと浮いている。
その時、背後の扉が乱暴に開け放たれた。
「な、なんだこの匂いは……っ」
血走った目をした若い騎士が、ふらつく足取りで厨房に転がり込んできた。
昨日アカリに食事を運んできた、あの明るい茶髪の青年だ。
しかし今の彼は、夜通しの見張り任務明けなのか、目の下には濃い隈ができ、鎧は泥と雪で汚れきっている。
「あ、おはようございます。朝ご飯、作ってみたんですけど……」
アカリが木べらを持ったまま振り返ると、青年の後ろから、同じようにボロボロの姿をした騎士たちが次々と雪崩れ込んできた。
屈強な男たちが、飢えた狼のような目でぐつぐつと煮える大鍋を見つめている。
「食っても、いいのか……」
「はい、たくさんありますから」
アカリが木皿にたっぷりとスープをよそい手渡すと、青年は震える手でそれを受け取った。
彼はスプーンを使うのももどかしい様子で、皿に直接口をつけてスープを流し込む。
「…………っ」
青年の動きがピタリと止まった。
見開かれた瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「う、うまい……。なんだこれ、肉が溶ける……パンが、甘い……っ」
彼は泣きながら、狂ったような勢いでスープを飲み干した。
周囲の騎士たちも我先にと皿に群がり、次々とスープを胃袋に流し込んでいく。
ズズッ、ゴクッという生々しい咀嚼音と嚥下音が厨房を満たす。
誰も一言も発しない。
ただ一心不乱に、命を繋ぐように食事に没頭している。
やがて、異変が起き始めた。
「おい……嘘だろ。肩の痛みが、消えたぞ」
一人の騎士が、信じられないという顔で自分の右腕を回した。
魔物との戦闘で負った古傷が、音を立てて塞がっていく。
鉛のように重かった足取りは羽のように軽くなり、凍えきっていた顔色には健康的な赤みが差している。
「俺もだ……。徹夜明けのひどい頭痛が、嘘みたいにすっきりしてる」
「魔力もだ。空っぽだった魔力炉が、全開まで回復している……っ」
騎士たちが次々と自身の体の変化に気付き、驚愕の声を上げる。
彼らの視線が一斉に、お玉を握りしめたアカリへと向けられた。
それは畏敬と、熱狂的な好意の入り混じった、強烈な視線。
「アカリさん、あなたは女神か」
「俺たちと結婚してくれ。いや、一生この砦から出さないぞ」
興奮した騎士たちが、アカリを囲み込むようにじりじりと距離を詰めてくる。
大柄な男たちに迫られ、アカリは思わず後ずさり、背中を石壁にぶつけた。
『ど、どうしよう……』
戸惑うアカリの肩がすくんだ、その瞬間。
「――俺の所有物に、気安く近づくな」
地を這うような低い声が、厨房の空気を一瞬で凍りつかせた。
振り返るまでもない。
入り口に立っていたのは、漆黒の軍服をまとったクロードだった。
彼の青い瞳は、極北の氷河よりも冷たい光を放っている。
放たれる威圧感は凄まじく、さきほどまで熱狂していた騎士たちが、一瞬で顔面を蒼白にして道を開けた。
クロードは静かな足取りでアカリの前に進み出ると、彼女を背中に庇うように立った。
「団長、これは……その、彼女の作ったスープが凄まじくて……」
言い訳をしようとした茶髪の青年を、クロードは鋭い一瞥で黙らせる。
「お前ら、自分の立場を忘れたか。彼女は俺が保護した客だ。群がって怯えさせるなど、許されない」
冷徹な声の響きに、騎士たちは一斉に姿勢を正し、敬礼の姿勢をとる。
「申し訳ありません」
「食事が済んだら、直ちに吹雪の被害状況を確認してこい。持ち場に戻れ」
クロードの命令が下ると、騎士たちは逃げるように厨房から去っていった。
嵐が過ぎ去ったような静寂の中、かまどの火の音だけがパチパチと鳴っている。
「……怪我はないか」
振り返ったクロードの声は、先ほどの冷たさが嘘のように穏やかだった。
アカリはコクッと頷く。
「はい。ただ、皆さんがスープを食べて、傷が治ったって……」
「やはりな」
クロードは難しい顔をして、空になった大鍋を見つめた。
「昨日の夜、俺の古傷が完全に塞がっていた。ルルの翼も、一晩で跡形もなく治癒している。お前の料理には、食べた者の生命力と魔力を爆発的に回復させる力がある」
「私の、料理に……?」
アカリは自分の手のひらを見つめた。
ただ美味しくなれと念じながら作っただけだ。
魔法の呪文など一つも知らない。
「王都の連中は、聖女の定義を間違えているらしいな」
クロードが鼻で笑う。
「派手な光を放つだけの小娘より、お前のその力の方が、よほど国を救う。……だが、これを王都に知られれば、お前は間違いなく道具として幽閉されるだろう」
幽閉。
その言葉に、冷たい石室に放り込まれた記憶が蘇り、アカリの肩が小さく震えた。
その震えに気づいたのか、クロードは眉間にしわを寄せ、アカリの肩にポンと大きな手を置いた。
「安心しろ。ここはお前の国ではない。王都の法など、この最前線では紙切れ以下の価値しかない」
クロードはゆっくりと手を滑らせ、アカリの冷えた指先を大きな手で包み込んだ。
驚いて顔を上げると、至近距離に彼の整った顔があった。
「俺は、お前を手放す気はない。王都が兵を差し向けてこようが、全て斬り捨てる。お前は、ここで俺の側にいればいい」
それは、甘いプロポーズなどではない。
絶対的な力を持つ強者の、有無を言わさぬ宣言だった。
だが、その声の底にあるのは、アカリを絶対に傷つけさせないという、不器用で強烈な庇護欲。
顔がカッと熱くなる。
繋がれた手から伝わる彼の体温が、アカリの芯まで溶かしていくようだった。
「あ、あの……クロードさん、顔が、近いです……」
アカリが目を泳がせながらつぶやくと、クロードはハッとしたように身を引き、そっぽを向いた。
その耳の裏が、ほんのりと赤く染まっている。
「……冷えるな」
彼はごまかすようにそう言うと、自分が羽織っていた分厚い黒狼の毛皮の外套をバサリと脱ぎ、アカリの肩にぐるぐると巻きつけた。
長身の彼が着ていた外套は、小柄なアカリには大きすぎ、すっぽりと足首まで隠れてしまう。
「わっ、前が見えません」
「そのまま着ていろ。風邪を引かれたら困る」
毛皮からは、クロードの微かなミントの香りと、男らしい低い体温の匂いがした。
アカリは毛皮の襟元に顔を埋め、小さく頷く。
「……ありがとうございます」
その時、足元から元気な鳴き声が上がった。
いつの間にか起きてきたルルが、アカリの足首にスリスリと顔を擦り付けている。
クロードはルルを見下ろし、呆れたようにため息をついた。
「こいつめ。すっかりお前に懐きやがって。本来は気位の高い幻獣のはずなのだがな」
「かわいいですよ。もふもふで、温かいし」
アカリがしゃがみ込み、ルルを両手で抱き上げると、ルルは嬉しそうに短い尻尾をちぎれんばかりに振り、喉の奥でコロコロと愛らしい音を鳴らした。
その様子を見て、クロードの口元が微かに緩む。
冷徹な竜の牙の団長が、決して他人には見せないであろう、穏やかで優しい顔。
「アカリ。お前が来てから、この砦の空気が変わった」
クロードの低い声が、静かな厨房に落ちる。
「俺たちは戦うことしか知らない。生き延びるためだけに、味のしない飯を食い、冷たい床で眠る。それが当たり前だと思っていた」
彼は一歩、アカリに近づいた。
長靴が石畳を鳴らす音が、なぜか心臓の鼓動と重なる。
「だが、お前の作ったスープは……俺たちの凍った内臓を、無理やり叩き起こすような熱があった。生きていて良いのだと、そう言われているような気がした」
クロードの大きな手が、アカリの頬にそっと触れた。
硬いタコのある武骨な指先が、雪のように白い肌を、壊れ物を扱うように優しく撫でる。
「……大げさですよ。ただの、余り物で作ったスープです」
「お前にとってはそうでも、俺たちにとっては奇跡だ。だから……」
クロードの青い瞳が、アカリを真っ直ぐに射抜く。
そこにあるのは、獲物を見つけた捕食者のような、だがどこまでも甘く重い独占欲。
「お前の居場所は、ここだ。他の誰にも渡さない。……わかったな」
逃げ場など、最初からなかった。
彼の熱を帯びた声と、毛皮から香る彼の匂いに包まれ、アカリはただ小さく頷くことしかできなかった。
外では猛烈な吹雪が荒れ狂っているというのに、アカリの体は、頭の芯までとろけそうなほどの熱気に包まれていた。
冷遇された元会社員の異世界生活は、最強の竜騎士による過剰な溺愛によって、甘く、そして逃げられないものへと変わり始めていた。




