第1章「用済み聖女は吹雪の果てに最強の騎士と出会う」
登場人物紹介
◇アカリ
ある日突然、異世界の聖女召喚に巻き込まれてしまった平凡な会社員。
用済みとして辺境に追放されるが、持ち前の前向きさと料理の腕で生き抜こうとする。
無自覚だが、彼女の愛情を込めた手料理には対象の魔力や傷を劇的に癒やす特別な力が宿っている。
心優しく、誰に対しても分け隔てなく接する。
◇クロード
辺境を治める最強の竜騎士団の団長。
黒髪に鋭い氷のような瞳を持つ長身の青年だが、無愛想で冷徹な性格から周囲に恐れられている。
しかし実際は不器用で責任感が強いだけ。
怪我をした相棒の竜を癒やしてくれたアカリの手料理と温かい微笑みに救われ、次第に彼女に対して常軌を逸した過保護さと不器用な溺愛を見せるようになる。
◇ルル
クロードの相棒である幻獣。
本来は巨大な竜の姿だが、魔力を温存するため普段は手のひらサイズの白くて丸いもふもふの毛玉のような姿をしている。
怪我で行き倒れていたところをアカリの料理に救われ、以来アカリにべったりと甘えて離れない。
視界が、真っ白な光に塗り潰された。
網膜を焼くような強烈な輝きに、思わず瞼を強く閉じた。
耳の奥でキーンという高い金属音が鳴り響き、平衡感覚が砂のように崩れ去った。
足元にあったはずのアスファルトの感触が消える。
代わりに、ひんやりとした硬い石の質感が、パンプスの底越しに伝わってきた。
鼻を突くのは、古びた紙と、どこか焦げ臭い香料が混ざったような重苦しい空気。
『え、なに……? 会社、帰ってたはずじゃ……』
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
そこは、天井が霞むほど高い、石造りの広大な広間だった。
壁には複雑な紋様が刻まれた銀の燭台が並び、不気味な青白い炎を揺らしている。
目の前には、刺繍の入った真っ白な法衣をまとった男たちが、ひざまずいて何事かをつぶやいていた。
その中心で、一人の美少女が呆然と立ち尽くしている。
透き通るような銀髪に、吸い込まれそうなほど大きな碧の瞳。
まるで名画から抜け出してきたかのような彼女の隣に、アカリは場違いなリクルートスーツ姿で立っていた。
「おお……! ついに、ついに聖女様が降臨されたぞ」
法衣の男たちのリーダー格らしき老人が、歓喜に震える声で叫ぶ。
その視線は、真っ直ぐに隣の美少女――セーラへと向けられていた。
彼女の全身からは、目も眩むような黄金の粒子が溢れ出している。
対して、私の周りは、ただの埃が舞っているだけ。
「……待て。隣にいる、あの薄汚れた格好の女は何だ」
老人の声から、一瞬で熱が引いた。
氷でも押し付けられたような、冷酷な響き。
男たちの視線が、一斉にアカリへと突き刺さる。
それは、高価な絨毯の上に落ちた泥汚れを見るような、あからさまな不快感に満ちていた。
「魔力の残滓も感じられない……。ただの巻き添えか」
「チッ、聖女召喚の儀式に不純物が混ざるとは。縁起でもない」
「おい、誰かその女を外へ連れ出せ。聖女様への拝謁の邪魔だ」
説明も、謝罪も、何一つなかった。
ただ、大柄な兵士たちに両脇を抱えられ、引きずられるようにしてその場から排除される。
『待って、ここはどこなの? 私はどうなるの……っ』
声を出そうとしたが、喉が恐怖でこわばって、掠れた吐息しか漏れない。
背後で、豪華な扉が重低音を響かせて閉ざされた。
◆ ◆ ◆
冷たい石の壁に囲まれた、窓一つない小部屋。
そこに放り込まれてから、どれほどの時間が経っただろうか。
空腹で胃がシクシクと痛み、喉はカラカラに乾いている。
スーツの肩に残る兵士の手の跡が、痣になって疼いた。
不意に、扉の鍵が外れる音が室内に響く。
現れたのは、先ほどの老人と、数人の武装した男たちだった。
「……あの、私はいつ元の世界に帰れるんでしょうか」
絞り出すような私の問いに、老人は鼻で笑った。
「帰る? 一度開いた門を逆行させるなど、国を滅ぼすほどの魔力が必要だぞ。お前のような無能な女に、そんな価値があると思うか」
老人の瞳には、一欠片の慈悲も宿っていない。
ただ、面倒なゴミを片付けるような、事務的な冷たさだけがある。
「本物の聖女様は、すでにお力を見せ始められた。それに引き換え、お前は飯を食うだけの穀潰しだ。王都に置いておくわけにもいかない」
「そんな……勝手に連れてきておいて、それはないじゃないですか」
「黙れ。不浄な口を利くな」
老人が合図を出すと、男たちが私を無理やり立たせた。
抵抗する間もなく、目隠しをされ、後ろ手に縛られる。
そのまま馬車へと押し込まれ、ガタガタと激しく揺られる時間が始まった。
車輪が跳ねるたび、縛られた手首が擦れて熱を持つ。
どれくらい走ったのか。
周囲の温度が、急激に下がっていくのが分かった。
隙間風が、薄いスーツの生地を容易に通り抜け、肌を切り裂くような冷気となって襲いかかる。
やがて馬車が止まり、乱暴に外へと引きずり出された。
目隠しが外される。
「……っ」
そこに広がっていたのは、見渡す限りの銀世界だった。
空はどんよりとした鉛色で、絶え間なく雪の礫が吹き付けてくる。
「ここは……」
「北の果て、魔の山嶺の麓だ。運が良ければ数日は生きられるだろう」
御者の男が、冷たく言い放つ。
足元に、小さな麻袋が放り投げられた。
中には、カビ臭いパンが数個と、錆びたナイフが一丁。
「じゃあな。死体は魔物が食ってくれるだろうさ」
馬車は、雪煙を上げて走り去っていった。
後に残されたのは、凍てつく静寂と、震えが止まらない私だけ。
『嘘……嘘でしょ、これ。夢じゃないの』
頬を叩いてみるが、痛みは現実のものだった。
刺すような寒さが、体温を容赦なく奪っていく。
指先はすでに感覚がなく、白くかじかんで動かない。
雪の上に座り込み、膝を抱える。
ここがどこかも、どちらへ行けばいいかも分からない。
ただ、空から降り積もる雪が、少しずつ自分の体を埋めていくのを感じるだけ。
『帰りたい……。お母さん、お父さん……』
溢れ出た涙が、頬を伝う前に凍りついていく。
意識が、冬の眠りに誘われるように、ゆっくりと遠のいていく。
その時だった。
――ドォォォォンッ。
大気を震わせるような、凄まじい轟音が響いた。
雪煙が舞い上がり、地響きが足元から伝わってくる。
反射的に目を開けると、そこには信じられない光景があった。
視界を埋め尽くすほどの、巨大な黒い影。
それは、漆黒の鱗を輝かせた、伝説の生き物――竜だった。
竜の背には、一人の男が跨っている。
闇を凝縮したような黒い鎧をまとい、背中には身の丈ほどもある大剣を背負っている。
竜がゆっくりと地上に降り立ち、力強い羽ばたきが周囲の雪を吹き飛ばした。
男が、しなやかな動作で鞍から飛び降りる。
ザッ、ザッ、と雪を踏みしめる音が近づいてくる。
恐怖で体が石のように動かない。
男は私の数歩前で立ち止まった。
フードの奥から覗く瞳は、凍てつく冬の湖のような、澄んだ青色。
「……こんなところで、何をしている」
低く、地響きのように響く声。
彼は私のボロボロになった格好と、雪に埋もれた麻袋を一瞥した。
「追放者か。それとも、魔物の餌か」
「あ……う……」
声にならない。
極限の寒さと恐怖で、歯の根が合わずカタカタと鳴る。
男はふんと鼻を鳴らすと、私に背を向けた。
「勝手にしろ。死ぬのも生きるのも、お前の自由だ」
切り捨てるような言葉。
だが、その背中に向かって、私は必死に手を伸ばした。
男が立ち去ろうとした瞬間、彼の足元で何かが小さく鳴いた。
「キュゥ……」
男の足元に、真っ白な毛玉のような生き物がうずくまっていた。
小さな羽が生えているが、その翼は無残に折れ、真っ赤な血が雪を汚している。
男の手が、微かに震えた。
「ルル……。くそ、深手を負わせすぎたか」
無愛想だった男の顔に、苦渋の色が浮かぶ。
彼は膝をつき、壊れ物を扱うような手つきで、その小さな生き物を抱き上げようとした。
だが、傷ついた魔獣は痛みに怯え、鋭い牙を剥いて威嚇する。
「……痛いのか。すまない、俺では触れることも叶わないか」
最強の騎士を思わせる男が、弱りきった小さな命を前に、途方に暮れている。
その不器用な姿に、私の心の中の何かが動いた。
気づけば、私は這いずるようにして彼らに近づいていた。
「……させ、て」
「何だ」
「その子、触らせて。……痛いの、取ってあげられるかも」
根拠なんてなかった。
ただ、この世界に来て初めて見た悲しみに、触れたかっただけ。
男は怪訝な顔をしたが、私の必死な形相に気圧されたのか、黙って脇に退いた。
震える指先で、白い毛玉に触れる。
毛並みは驚くほど柔らかく、だが命の灯火が消えかけているように冷たい。
「大丈夫だよ……。痛いの、飛ばしてあげるからね」
無意識に、子供の頃に母がしてくれたように、傷口を優しく撫でた。
その瞬間。
私の手のひらから、淡い桜色の光が溢れ出した。
内側から湧き上がる、温かな感覚。
それは血流に乗って指先へと集まり、傷ついた魔獣へと流れ込んでいく。
折れていた翼が、パキパキと音を立てて繋がっていく。
溢れていた血が止まり、新しい皮膚がまたたく間に再生していった。
「キュ……ッ」
魔獣が力強く鳴き、私の胸の中に飛び込んできた。
もふもふとした感触が、凍えた私の肌を温める。
「な……っ」
男が驚愕の声を上げ、私を凝視した。
「お前……今、何をした? 傷を、完全に塞いだとでも言うのか」
「わかりません……ただ、治ってほしくて……」
光が消えると同時に、凄まじい疲労感が襲ってきた。
視界がぐにゃりと歪み、雪の地面が迫ってくる。
だが、今度は硬い地面に叩きつけられることはなかった。
鉄のように硬く、だが確かな体温を感じさせる腕が、私の体を抱きとめた。
鼻を突くのは、革の匂いと、爽やかなミントのような香り。
「おい、しっかりしろ! 名は何という」
「あ……あか、り……」
名前を告げたところで、私の意識は深い闇へと沈んでいった。
◆ ◆ ◆
パチパチと、小気味よい音が耳に届く。
鼻をくすぐるのは、香ばしい薪の匂い。
背中には、適度な弾力のある柔らかな感触。
……暖かい。
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、そこは暖炉の火が赤々と燃える石造りの部屋だった。
壁にはいくつもの槍や盾が飾られ、質素だが手入れの行き届いた家具が並んでいる。
私が寝かされていたのは、分厚い毛布が何枚も重ねられた寝台だった。
「目が覚めたか」
部屋の隅に置かれた椅子に、あの男が座っていた。
鎧は脱いでおり、ラフな黒いシャツ姿だ。
隆起した肩の筋肉が、生地越しにもその強靭さを物語っている。
「ここは……」
「俺の砦だ。北の果ての最前線、通称『竜の牙』。死に損ないを運んでくる趣味はないのだが……ルルがお前を離さなくてな」
彼の視線の先を見ると、私の腹の上で、あの白い毛玉が丸くなって眠っていた。
私が動くと、ルルはキュイと可愛らしく鳴いて、私の顎をぺろりと舐めた。
「……元気になったみたいで、よかった」
ルルの柔らかい背中を撫でると、心の底から安堵が込み上げてきた。
「感謝する。あいつは、俺の唯一の家族だ」
男が不器用に視線を逸らしながら、小さくつぶやいた。
あんなに冷徹そうだった男が、今は耳の裏を少し赤くしている。
「私は、クロード。この竜騎士団の団長を務めている」
「……アカリ、です。ありがとうございます、助けていただいて」
改めて名乗ると、クロードは鋭い瞳で私を射抜いた。
「アカリ、単刀直入に聞く。あの力は何だ? 王都の魔術師でも、あのような高純度の治癒魔法は使えまい。お前、聖女なのか」
聖女。
その言葉に、あの冷たい石造りの広間と、私をゴミのように捨てた男たちの顔がフラッシュバックした。
「……いいえ。私は聖女なんて立派なものじゃありません。ただの、巻き添えで喚ばれただけの……用済みの女です」
膝の上で、ギュッと拳を握りしめる。
悔しさと虚しさが、喉の奥を熱く焼いた。
「そうか。王都の連中がやりそうなことだ」
クロードは吐き捨てるように言うと、立ち上がって窓の外を眺めた。
吹き荒れる雪は、さらに勢いを増している。
「この雪だ。数日は外に出ることも叶わない。……腹は減っているか」
言われた途端、私のお腹が盛大に鳴った。
「……っ」
顔が火が出るほど熱くなる。
クロードは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに口元を微かに緩めた。
「待っていろ。何か用意させる」
彼はそのまま部屋を出ていった。
しばらくして、一人の若い騎士が、トレイに乗った食事を運んできた。
「アカリさん、でしたっけ? いやあ、団長が女の人を連れてくるなんて、砦始まって以来の事件ですよ」
明るい茶髪の青年は、人懐っこい笑みを浮かべてトレイを置いた。
だが、そこに乗っていたものを見て、私は思わず絶句した。
「え……これ、食事、ですか」
「はい。特製の騎士団飯ですよ。栄養満点だ」
置かれていたのは、どろどろとした灰色の煮込みらしきものと、石のように硬そうな黒いパン。
煮込みからは、何とも言えない独特の野性味溢れる臭いが漂っている。
恐る恐るスプーンで掬ってみるが、正体不明の繊維が糸を引き、口に運ぶ勇気が出ない。
「……団員たちは、みんなこれを」
「ええ。ここは最果てですからね。新鮮な食材なんて入ってきません。味より腹が膨れればいい、それが辺境の掟です」
青年は爽やかに笑って去っていったが、私の胃は拒絶反応を示していた。
『無理。これ、絶対に無理なやつだ……』
日本で食べていた、出汁の効いたお味噌汁や、炊き立てのご飯、ふんわりとしたオムレツの味が、猛烈に恋しくなる。
ふと、部屋の片隅に小さな調理スペースがあるのが見えた。
クロードが自炊でもしているのか、いくつかの鍋と、見たこともない乾燥野菜や肉の塊が置いてある。
不思議なことに、それらの食材を見ていると、頭の中にスラスラとレシピが浮かんできた。
どの野菜をどう切ればいいか、どのスパイスを組み合わせれば臭みが消えるか。
『やってみようかな……。どうせ、このままじゃ餓死しちゃうし』
私はふらつく足取りでベッドを抜け出し、キッチンへと向かった。
◆ ◆ ◆
クロードが部屋に戻った時、そこには異様な光景が広がっていた。
死に体だったはずの女が、鼻歌を交じりに鍋を振っている。
部屋中に満ちているのは、これまでの砦では一度も嗅いだことのない、脳を溶かすほどに美味そうな香り。
「……何をしている」
クロードの声に、私はビクッと肩を揺らして振り返った。
右手にはお玉、左手には謎の黄色い果実を握っている。
「あ、えっと……あまりに美味しそうじゃなかったので、つい作り直しちゃいました」
「作り直した? あの廃棄物一歩手前の食材をか」
クロードは信じられないといった様子で、鍋の中を覗き込んだ。
そこにあったのは、透き通った琥珀色のスープに、柔らかく煮込まれた肉と野菜が踊る絶品料理だった。
上には、どこで見つけてきたのか、鮮やかな緑のハーブが散らされている。
「どうぞ。クロードさんの分もありますよ」
私は、おずおずと彼にスープの皿を差し出した。
クロードはしばらく不審そうに皿を見つめていたが、抗えない香りに負けたのか、一口、スプーンを口に運んだ。
「…………っ」
彼の目が見開かれた。
手に持ったスプーンが、微かに震えている。
「何だ、これは……。味が、層になっている。ただの塩気ではない、深いコクと、この爽やかな後味は……」
彼は何かに取り憑かれたように、無言でスープを口に運び始めた。
すると、異変が起きた。
クロードの全身から、重苦しい鉛のようなオーラが剥がれ落ちていくのが見えた。
酷使されていた筋肉が弛緩し、頬に赤みが差し、その瞳から険が消えていく。
「……体が、軽い。長年の古傷の疼きが、完全に消えた……?」
彼は自分の大きな手を見つめ、握ったり開いたりしている。
その時、ルルが私の足元でキュゥゥと催促するように鳴いた。
私はルルにも、細かく刻んだ肉入りのスープを差し出す。
ルルは夢中でそれを平らげ、食べ終わる頃には、その白い毛並みがピカピカと発光し始めた。
「アカリ、お前……」
クロードが、スープを最後の一滴まで飲み干し、真剣な眼差しで私を見据えた。
「王都の連中は、目腐れか。これほどの奇跡を成す女を、ゴミだと」
「え……」
クロードはガシッと私の両肩を掴んだ。
その手の熱さが、ダイレクトに伝わってくる。
「決めた。アカリ、お前を王都には絶対に返さない」
「えっ、ええっ」
「お前は今日から、この俺が――いや、我が竜騎士団が全力で保護する。不服か」
彼の顔が、すぐ近くにある。
整いすぎた顔立ちに、心臓が跳ねた。
「不服じゃ、ないですけど……私、ただの会社員ですよ」
「関係ない。俺がお前を必要としている。それだけで十分だ」
クロードの不器用で、だが真っ直ぐな言葉。
その瞳には、私を二度と放さないという、強い意志が宿っていた。
雪に閉ざされた辺境の砦。
そこで私の、美味しくて甘い異世界生活が、静かに幕を開けた。




