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ノクスの身体から滲み出る黒い魔力が彼を包み込むと、それは渦を巻きながら急速に膨らんでいく。
「おいおい……」
これはバトル漫画で定番の「私はまだ全然本気ではありません」的なやつじゃないか……、勘弁してくれよ……。
膨らみきった黒い魔力の球体が弾ける。
直後発生した乱気流のように暴れ狂う突風のせいで目も開けられない。
程なくして魔力の嵐は次第にそよ風へと変わるが、その次に部屋を支配したのは肌に感じる程の威圧感と途轍もない殺気。
瞼を開き急ぎノクスに視線をやれば、奴の姿はもう人型ではなくなっていた。
その見た目は簡単に言えば、ホッキョクグマよりデカい巨狼。
全身からは黒い魔力が蜃気楼のように沸き立ち、それは美しい漆黒の毛並みを黒い炎のように揺らめかせている。
そして肩高二メートル近くある巨体。
地球で例えるなら黒いフェンリル、そんな感じだ。
「この姿に戻るのは本当に久しぶりです、この国の人間共を制圧した時以来ですか。ふふ、せっかく久々に全力を出すのですから、すぐには死なないでくださいね?」
くそっ、それはお前の匙加減次第だろ……。それにしてもこれがこいつの魔族としての本来の姿か。腕も傷も全部元通りかよ……。
「クロ君下がって! ──っが!」
「牌谷さん!」
「貴女には散々な目に会わされましたからね、借りは返しますよ」
一瞬で距離を詰めてきたノクスは、身を翻し強靭な尾で牌谷さんを薙ぎ払う。
「大丈夫……!」
数メートルほど打ち飛ばされはしたけど、彼女が負ったのは掠り傷程度。血の長剣で上手く防御したようだ。
でもヤバいな、大きくなったぶん人型の時よりパワーが桁違いだ。流石にモンスターハントは想定外だよ……。
「舐めんなよ!」
啖呵を切って操血球を飛ばす牌谷さん。
こんな埒外の化け物を相手にしているというのに、まるで闘志を失わない彼女の勇気は本当に凄いと思う。
俺なんてすでにへたり込んでしまっている……。
しかしその遠隔の刃や棘は、魔力に覆われたノクスの堅牢な黒毛にはまるで歯が立たない。
牌谷さんですら通用しないのだから俺みたいな凡人はすでに蚊帳の外だ。こんな奴に手を出すべきじゃなかったのか……。
これは、俺なんかじゃ、無理だ……。
『オイ』
──! エル!?
『なんだ、どうした』
『お前、まさかモウ諦めてルンじゃナイだろうナ』
『これは、諦めるとかじゃないだろ……。俺みたいなのが入る余地がないの、見て解らないか……?』
『そういうとこだゾ、昨日僕が言ったノハ。さっきの作戦、上手くいったダロ。おまえは土壇場でけっこう頼れる奴なんダヨ。キヅナちゃんが何でまだ諦めてナイか解らないノカ?』
『いや、牌谷さんは……凄い人だから……』
『よく見るんダヨ』
牌谷さんはノクスに距離を詰められながらも、近接用の長剣でなんとか応戦している。
しかし服は所々引き裂かれ、手足や身体からは出血が目立ち始めている。
どうやらノクスは爪や牙だけでなく、その体毛すら魔力によって鋭い刃物のように硬質化できるらしい。
血液摂取によるブーストがあってもなお、彼女が圧倒的劣勢なのは明白。
そりゃそうだ、変身前からノクスの方が個の力量では上だったんだから……。
「小男の方は観念したようですね。存外つまらない奴でしたか」
「はぁ? 今からだよクロ君は! たぶん今あんたをボコボコにする作戦考えてるとこだから!」
──! 牌谷さん、この状況でまだ俺なんかに期待してくれているのか……。
「解ったダロ、キヅナちゃんはおまえがなんとかシテくれるって信じてるから戦えてるんダヨ。解ったら──」
「すまん、ビビり過ぎて悪い癖が出てた。手段を選ばないなら……やってみたい事はあったよ」
「よし、やってみるんダヨ」
「焚き付けたのエルだからな、何しても怒るなよ?」
「? いいカラやってヤレ」
「オッケー」
そうだ、受けた恩には必ず報いる。
牌谷さんだけは死なせない。
まずは、ノクスを止めないと……。
「おいノクス、これ、なにか解るっすか?」
鞄から紫のスキルポーションを取り出し見せつけてみる。
コイツらの目的はそもそもコレの行方の捜索がメインだったんだから反応ゼロではないはずだ。
案の定、ノクスの攻撃の手は止んだ。
「それは、ソウルソーマ……ですね。なるほどそうでした、闘技場荒らしの人物が盗人の第一容疑者でしたね。戦いに夢中で忘れていましたよ」
ノクスの気がこちらに逸れた隙に攻撃……、ができるほど牌谷さんも余裕は無さそうだ。息を荒げて剣を構えるのがやっとらしい、でもそれでいい。
「なんです、それと交換に命乞いでもしますか? それは無理な──」
「いいや、こうするっすね」
瓶を逆さに向けて一気に口へ流し込み、飲み込む。
飲まなきゃ死ぬなら迷いなく飲む、だ。
まさか同じ場所で同じ事をまたやる羽目になるとは夢にも思わなかったな。
「貴方、それがどういうものか解っていないようですね、自殺ですよそれは。まあ貴重な死体がもう一つ出来上がるだけですか」
「さあどうすっかね。……牌谷さんこっちへこれますか?」
「──! 大丈夫!」
呼び掛けに、一息で風の様にこちらへと駆け寄ってきた牌谷さん。よかった、大怪我はしていないらしい。
ノクスは強者の余裕か、呆れつつもこちらの様子を興味深そうに眺めている。
「なにか、思い付いた?」
「はい、一応。でもこれは牌谷さんに負担がかかる可能性が無きにしもあらずといいますか……」
「やるから言って!」
「解りました。じゃあもう一度、俺の血を飲んでください」
紫スキルポーションの効果は既に現れている、全身に魔力が漲っているのがその証拠。
これからやる作戦の胆は俺だ。
というか俺の身体かな。
ヒントを得たのはこの異世界の歴史で見たアレ、人間を材料にしたスキル強化剤。
エルの情報から考えるなら、このスキルポーションはその上位互換であり、紫はさらに最上位にあたる。
その猛毒を中和し、強化剤とは比べ物にならない強力な効能を溢れるほど身体に宿した状態の俺は、まさに生きたスキル強化剤と言える。……はず。
正直、強化剤の悲惨な歴史を知っているからこれはあまりやりたくは無かったんだけど……。
牌谷さんに頼ってばかりで本当に申し訳ないな……。
「いいの?」
「ガブッといっちゃってください。俺の事は気にしなくていいですから」
「ごめん! では、いただきます!」
差し出した首筋に、牌谷さんの牙が突き刺さる。
痛っ……たくない。それどころか頭がぼんやり蕩けそうになる。やっぱり牌谷さんの唾液にはなんかそういう成分が含まれているんだろうか。
吸血鬼って相手を魅了する能力を持ってたりすることが多いけど、美女やイケメンに気持ちよくなる麻酔を流し込まれながら首をチューチューされたらそりゃ魅了されるよ。
こ、これはドMの変態じゃなくてもクセになるわぁ……ってそんな場合じゃないな……。
「ど、どうですか?」
「ん! ありがと、血は止めといたから」
動脈から直飲みだったからさっきよりもだいぶ多く飲まれたはずなんだけど、貧血のような症状はない。溢れる魔力が足りなくなった血液を急速に生成しているんだろうか。
だとしたら牌谷さんは……。
「凄い、力が溢れるみたい……。こんなの作れちゃうよ」
そう言った彼女が血で象ったのは、身の丈よりも巨大な深紅の大剣。
自身のスキルで作成するから重さのような概念はあまり関係ないのだろうか、牌谷さんはそれを小枝でも振るかのようにブンブン振り回している。
「なんと、どういう絡繰か知りませんがソウルソーマを直接飲めてしまう人間ですか……。それに小娘のほうも先程よりは楽しめそうですね。では待つのも飽きましたし、そろそろ続きを始めましょうか」
抽出施設で殺したオークが紫スキルポーションは魔族にとっても毒になるって話してたからな。さすがのノクスも少し驚いているようだ。
「牌谷さん今から約四分、アイツを引き付けてもらえますか?」
「ふふん、今のウチなら倒しちゃうかもよ」
「それが一番なんですけどね……、油断は禁物です」
「わかった、まだ何かあるんだよね?」
「はい、ではお願いします」
「まかせて! 一狩り行ってくる!」
牌谷さんが大剣を構えると同時に、爪牙を剥き出したノクスが彼女へと襲い掛かる。




