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玄関の扉に耳を当ててみると、向こう側ではズリズリ──と何かが地面を這うような音が微かに聴こえる。
声だけではない、動きの様子もどこかおかしい。
そもそもこの魔女の塒は遭難などしてしまう半端者がまぐれで辿り着けるような場所ではない。
かつて討伐稼業の端くれで奴隷をやっていただけのカオルにでもそのくらいは解る。
そこから考え出されるのは、玄関先いるのが人を騙そうとする魔獣や魔物であるということだ。
ダンジョンにはこのような手法で人間を欺く化物がいるらしいと聞いたことがあったから彼女もすぐに思い当たった。
「開けてください……、開けてください……」
相変わらず人を真似た口調と、気味悪く震える声で懇願してくるナニか。
こわっ……。
そのあまりの不気味さに、魔法杖を抱き締めたカオルの顔からサァッと血の気が引いていき、青かった顔色がさらに青ざめる。
ルサーリアが行商を始めた頃に「一人の時は、夜に鍵を、開けたら……ダメだよ」と念を押され、この家の仕組みをあれこれと説明されたから屋内にいれば安全なのは知っている。
それでも怖いものは怖い。まさかこんなホラー展開があるとは思いもしなかったカオル。
「こ、こんなことならルサーリアさんについていくんだった……」
街には行きたくないからとルサーリアの誘いを断って留守番を選んでいた彼女は、呟きながら白目になるが、後悔先に立たずだ。
いくら待ってみても居なくなる様子はない。
今日は灯りをつけたまま、外のナニかが居なくなるまで眠れぬ夜を過ごすしかないと諦めたその時だった。
「助けてください……、開けてください……。ぐぎゅっ……!」
化物から呻くような声が聴こえたのと同時に、扉を一枚隔てた先にあった不気味な気配が消え失せた。
カオルは恐る恐る玄関に近づき聞き耳を立てていると、聞こえてきてのは意外な声であった。
「やれやれ、妙な気配がしたので顔出してみればミミックの類いでしたか」
ノクス様……!?
それは恐怖のなかで誰よりも聞きたかった声、紛れもなくノクスのものだった。
どうやら異変を察したのか駆けつけてくれたらしい。
「さて、外は片付きました。カオル殿、もう安心していいですよ。私はこれで失礼します」
玄関先で別れを告げて去ろうとするノクスにカオルは焦る。
せめて一目だけでも会いたい。
できることならもう少しだけ一緒にいて欲しい。
心の内にそんな願望が湧き上がってしまったからだ。
「あ、待ってください……! せめてお礼を……!」
そう言って鍵を外して扉を開けようとしたその時。
──カオル、開けたらダメ……!
心に小さく響いたセツナの声にカオルはハッとする。そしてノクスの存在に安堵し思考停止していた頭を瞬時に絞る。
そうだ、夜にノクス様が来たことなんかない。
それに玄関口でわたしが聞き耳立てているのを解っているかのような不自然な口振り。
なにより、ノクス様はわたしを『カオル殿』とは呼ばない。呼ぶなら『娘』だ。
なんですぐに気がつかなかったんだろう……。ううん、そんなのは単純だ。ノクス様の声で名前を呼ばれて舞い上がってたからだ……。
恋心による一瞬の盲目から解き放たれたカオルであったが、それも少し遅かった。
「ノクスじゃなくて残念だったなぁ……」
「きゃっ……!
鍵を開けた時点で家の結界は解除されるからだ。
カオルは急いでもう一度鍵を閉め直そうとしたが、それより早く物凄い力で扉を抉じ開けられる。
次の瞬間にはヌッ──と入り込んできた筋張った細長い腕に服の胸ぐらを掴まれ、力任せに外に放り投げられてしまっていた。
「ぐぅっ……!」
彼女は魔法杖を握り締めたまま地面に叩きつけられると、そのまま数メートルほど転がった。
それでも気を失うまでには至らず、気丈に痛みを堪えながら杖を頼りに立ち上がると、何が起こったのか確認するために家の方へと目を凝らした。
視界の先に立っているのは人に似ているが決して人ではない何か。
その肌は灰色がかった見たことのない色であり、長い四本の腕をダランと垂らした前傾姿勢の二足歩行。頭には山羊のような二本の巻き角が生え、顔の作りは人間に近いが口は裂けたように大きい。
笑っているのだろうか、開いたその口腔からは鋭く尖った悍ましい乱杭歯を覗かせている。
背丈は二メートルほど。骨格が浮き出たような、一見してがりがりの矮躯にも感じる体つきだが、その腕力が人間の比ではない事はここまで投げ飛ばされたカオルが一番よく解っている。
それと同時に思う。今、確かに人間の言葉を喋ったと。
先程までの不自然な声真似とは違う自然な声。
魔獣や魔物は基本的に人間の言葉を話さない、こいつは喋る化物らしい。
聞いたことがある。この島が現れた当初、自衛隊が追い払ったとニュースで言っていた人間の言葉を話す人食いの怪物達。
そう、たしか『魔族』だ。
今や殆んどの魔族はダンジョンに追いやられ、その姿を地上で見ることは少なくなったようだが皆が皆そうではない。
魔王ルベルは人間の肉に興味を示さなかったが、危険を省みずダンジョンの外で活動する魔族の多くは真逆だ。
彼らはダンジョンの中で得られる食糧だけでは満足出来ない者達であるからだ。
残忍かつ狡猾で、生きた人間の血肉に強い執着をみせるが故にダンジョン内には留まれないのだ。
カオルはその悪魔にも近い魔族の様相に戦慄した。




